ヨハネの手紙1の4章17節の翻訳について

ヨハネの手紙1の4章17節の翻訳について」

 

 

今朝ギリシャ語で新約聖書ヨハネの手紙Ⅰを読んでいて、はじめてわかった気がしたことがあった。

 

4章17節の「確信」と訳されている言葉が、原語では” παρρησίαν”(パッレーシアン)という言葉で、「大胆さ、自由さ」といった意味だということに、はじめて気づいたからである。

 

つまり、原文に沿って前後の文脈を見るならば、人が愛に生きる時、生きている間からその人にはあらゆる恐れがなくなり、自由にのびのび生きることができる、という意味だということが、原語を読んでいてはじめて鮮烈に伝わってきた。

 

ヨハネの4章は、神が愛であること、ゆえに人は愛し合うべきことを詳述している箇所であり、上記箇所はその流れの中にあって、すぐ後の箇所には愛は恐れをなくすということが述べられているのだけれど、「確信」という訳のせいか、どうもいまいち今までピンと来なかった。

 

たとえば、協会共同訳では、4章17節は以下のようになっている。

 

「このように、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に私たちは確信を持つことができます。イエスが天でそうであるように、この世で私たちも、愛の内にあるのです。」

 

この「確信」という言葉がパッレーシアンなのだけれど、「確信」と訳してしまうと、原語が持つ意味が一部しか伝わらないように思う。

「大胆さ、自由さ」と訳すと、たとえば親鸞が言う「平生業成」や「不体失往生」と響き合うような、死後の恐れが今ここから何もない、死後のみでなく今生においても恐れることは何もなくなる、自由な境地が歌われている箇所と明瞭にわかる。

 

いろんな英訳を参照してみたところ、わりと最近の訳は皆”confidence”と訳してあって日本語訳と同じだった。

しかし、古いジェームズ欽定訳では”boldness”と訳してあり、さすがと思った。昔の人の方が、魂できちんと文章を受けとり、訳において原語の魂をよく生かしていたのだろう。

日本語訳でも塚本虎二訳は「(喜びの)確信」と補足が入れてあって、さすがにきちんと原文の含みをとらえていると思われた。

 

付け加えると、17節の後半の部分の訳も、協会共同訳だとちょっとよく伝わらないように思われる。

協会共同訳は、引照欄にきちんと原文直訳も17節後半には記してあるので、その点はとても素晴らしいと思うのだけれど、そこで示されているように、原文はイエスがそうであるように、私たちもそうである、というだけの意味であり、「天でそうであるように」だとか「愛の内にある」に相当する言葉は原文にはない。

原文をそのままにして、イエスがこの世において自由に大胆に生きたような境地を、愛に生きる時には我々も生きることができる、という意味だと受けとめた方が良いように私には思われる。

 

やはり聖書は原文で読むといろいろ発見があるなぁとあらためて思った。

なかなかGWなどでないと、日ごろはいそがしくてゆっくりギリシャ語を読んだりする時間がないけれど、またそのうち少しずつ読んでいきたいと思う。