雅歌 資料(1)

『雅歌① 神と人との愛』 

 

Ⅰ、はじめに 雅歌の背景・解釈について

Ⅱ、愛の願い

Ⅲ、愛は美を褒める

Ⅳ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに 雅歌の背景・解釈について   

          

   

(雅歌についての絵画。左:モロー 中央:アルバート・ムーア 右:エゴン・チューリッヒ

 

雅歌とは旧約聖書に含まれる文書の一つ。

原文のタイトルはシール・ハッシリームで「歌の中の歌」(song of songs)。雅歌という訳語は漢訳聖書に由来する。

雅歌は、文章をそのまま読めば、世俗的な恋愛詩のように読める。

雅歌は、明治期には日本の近代文学に影響を与えたと言われており、島崎藤村の『若菜集』に林檎や狐が登場するのは雅歌の影響と言われる。また、北原白秋は聖書の詩編を愛読していたと伝わっているが、『邪宗門』に収録されている「天草雅歌」のタイトルからもうかがわれるように雅歌にも強い影響を受けていたことがうかがわれる。

 

雅歌の成立年代

 

①ソロモンの時代(紀元前10世紀頃)、

②南北分裂王国時代(紀元前10~6世紀)、

③ヘレニズム時代(紀元前3世紀頃)

の三つの説が有力。

 

①説の根拠は、雅歌の冒頭に「ソロモンの雅歌」とあること。②説の根拠は、雅歌6:4にエルサレムと並んでティルツァの地名が現れること。ティルツァは北イスラエル王国のバシャ・エラ・ジムリ・オムリの四代の王の時代に首都だったこと(列王記上15:33、同16:8,15,23)。③説の根拠は、文章中にギリシャ語やペルシャ語との関連をうかがわせる語彙が混ざっていることだとされる。(私見では、ヘレニズム期は他国の支配や独立戦争等で困難な時期でその時期の文書の多くが黙示的・終末的様相が色濃いことを考えれば、②の時代から徐々に形成されてバビロン捕囚後に成立したもので、伝えられるうちに後代の語彙が混ざったのではないかと思われる。)

 

雅歌はなぜ聖書に含まれたのか?

 

雅歌の文中には、特に神についての言及がなく、また箴言のような知恵についての言及もない。字面だけ読めば世俗的な恋愛の詩のように見える。そのため、当初から聖書の正典に含めるかどうかの議論があり、ユダヤ戦争後にユダヤ教のラビたちが開いたヤムニア会議においても正典に含めるかで議論になった。

 その時に、ラビ・アキバが、

「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。異論があるとすれば、それはコヘレトの言葉に関することだけである。」(『ミシュナー』ヤダイム3:5 https://www.sefaria.org/Mishnah_Yadayim.3.5?lang=bi )

と発言し、聖書に含まれることが決定したと伝えられる。

 

雅歌の解釈について

 

雅歌は古来より多くの論争の対象となり、さまざまな解釈がなされてきた。大別すれば、以下の四つの解釈がある。

 

A、寓喩的・象徴的解釈

B、戯曲

C、世俗的恋愛の詩集

D、婚礼儀式の際に用いられた歌謡

 

 A説は、長い伝統を持つものであり、2~9世紀に形成されたユダヤ教の『タルグム』(アラム語旧約聖書)においては、雅歌は神とイスラエルの歴史を象徴的に描いたものだと解釈された。

また、オリゲネス、ニュッサのグレゴリオス、ベルナールなどは雅歌を寓喩的に解釈し、神と教会・信仰者の関係を描いものだと受けとめた。トマス・アクィナスも最晩年は『神学大全』の執筆を放棄し、雅歌に傾倒したと伝わる。

キリスト教の寓喩的解釈の根拠とされるのは、エフェソ5:21~33の夫と妻の結婚をキリストの教会の関係の譬喩としてパウロが述べている箇所である。他にも、聖書中、ホセア書のように、神とイスラエル(教会、信仰者)の関係を夫と妻の婚姻関係にたとえる表現は存在する。

 

 B説は、19世紀・20世紀に流行した説であり、雅歌の中に①ソロモンとシュラムの女の愛の物語、あるいは、②羊飼いとシュラムの女とソロモンの三角関係の物語を読みこむ説である。矢内原忠雄の雅歌解釈もこの影響を強く受けている。この解釈の難点は、本当にそうした物語を雅歌に読みこむことができるのかという問題であり、かなり強引にストーリーを読みこんでいるのではないかという疑問が呈される。そのため、今日ではB説は一般的には採られない。

 

 C説は、今日では最も有力な学説であり、解釈傾向である。多くの解説書も今日ではこの線上にある。古代エジプトの恋愛詩集の考古学的な復元・解明が進んだ結果、その表現や内容と多くの共通性が雅歌に存在することが指摘されている。また、雅歌をテキストそのままに読めば、特に脈絡もなく、多くのそれぞれは無関係な恋愛についての詩が集められているだけのように受けとめられる。ただし、この場合も、雅歌において当時一般的であった家父長制が存在せず、男女が対等平等の自由な恋愛関係にあること高く評価されている。

 

 D説は、19世紀にシリア駐在のドイツ人外交官のヴェッシュタインらが唱えた説で、中東地域の婚礼儀式においてワスフと呼ばれる長時間かけて花婿や花婿が相互の身体的美点を褒める歌を歌う習慣があり、雅歌もこの中東地域の伝統上にあるという説である。

また、実際に雅歌はメロディをつけてユダヤ人の間でも読まれた。(参照:雅歌の一章の音声: https://mechon-mamre.org/mp3/t3001.mp3 )

 

 上記の説を踏まえた上で、小友聡は知恵文学の一つとして雅歌を読み解くことを提唱している(小友聡『謎解きの知恵文学 旧約聖書・「雅歌」に学ぶ』(ヨベル新書、2021年)。

小友聡は、C説やD説の普及の結果、雅歌は現在ではほとんど教会の説教で取り上げられることもなくなってしまっているが、箴言・コヘレトの言葉とともにソロモンの名前を冠する文章として聖書に収録されており、Aの長い歴史と伝統を有する上に、バルト、ゴルヴィツァー、ローゼンツヴァイク、トリブル、ラコックなどの近年の神学者・哲学者らも雅歌について創世記との関連などから神学的に考察していることを指摘した上で、雅歌は本文テキスト上も聖書の創世記・サムエル記・ホセア書・エレミヤ書などのさまざまな箇所を踏まえた上での極めて高度な謎解きの知恵文学となっていることを指摘している。

 

私見では、小友の議論は説得的であり、単なる世俗的な恋愛の歌としてよりも、聖書に雅歌が含まれているということの意味を受けとめるならば、霊的な愛の書として解釈されるべきであり、その際は知恵文学や寓喩的解釈として説き明かされるべきと思われる(つまりC説からA説への回帰)。

実際、内村鑑三は雅歌について多くは語っていないが(『聖書之研究』では総目録にも雅歌の項目は存在しない)、日記の中に以下の言葉を残している。

 

「『雅歌』は旧約聖書中意味の最も深い書であると思う。その点においてはたぶんヨブ記以上であろう。信仰の奥殿に入った者にあらざればこの書はわからないであろう。そして少しなりともこの書を解し得るは、毛利または島津、三井または岩崎の家に生れたよりも遥かに以上の幸福 である。」

(『内村鑑三全集』第35巻191頁、岩波書店、1983年)

 

この言葉から察すれば、内村鑑三も雅歌を信仰の奥義の書として見ていたと思われる。矢内原忠雄も、上記B説の影響を強く受けながらも、随所にキリストと信仰者個人の霊的な愛の書として受けとめる言及が見られる。

ゆえに、A説の立場に立ったうえで、雅歌を読み解いていきたいと思う。

 

(念のために言うならば、聖書の解釈は自由であるというのが無教会の立場であり、私個人はA説の立場に立つが、他の立場を全く否定するものではない。

むしろ、さまざまな解釈があってこそ、より豊かに聖書を理解できると思われる。)

(参考:ユダヤ教のタルムードは通常四つ以上の複数の解釈を並記していたこと(マゴネット先生)、また塚本虎二の講演(内村は弟子にこれといったことを押し付けず、いつも自由にさせてくれたこと、無教会精神は自由であること等の内容 参照: http://ej2ttkhs.web.fc2.com/denshou/1808242.htm )

 

個人的な思い出

雅歌については、中学生の時に山本七平『禁忌の聖書学』(新潮社、1992年)を読んだことが、大きな印象として残っている。

この本の中で、山本七平は上記のD説を紹介した上で、みずからギリシャ語とヘブライ語から雅歌をかなり官能的な砕けた表現で翻訳している。

のちに山本七平が鶴田雅二や里見安吉などの無教会の人脈に連なっていたことを知り驚いた(山本七平の父は終生鶴田雅二の集会に参加していたとのこと)。

また、島崎藤村北原白秋の詩を愛好してきたので、それらの源泉に雅歌があるということも、最近知って驚きだった。

 

 

・ 雅歌1章の構成 

 

雅歌は全体の構造については諸説あるが、定論はないので、本講話では一章ずつ見ていきたい。雅歌一章は大きく分ければ、二つの部分に分けられる。

 

1、愛の願い  (1:1~1:8)

2、愛は美を褒める (1:9~1:17) 

 

第一章の前半は、乙女が王の愛を願う。象徴的に受けとめれば、神の愛を人が求めることであり、口づけを願い、手をとられ共に走り、愛を通わす。その居場所を知りたいと思い、跡を辿っていく。

後半では、王が乙女の愛に応え、乙女の美しさを褒めたたえる。これは神が私たちの美点や長所を見て、愛してくださることと象徴的に受けとめるならば解すことができる。

 

Ⅱ、愛の願い(1:1~1:8) (旧約1035頁)

 

◇ 1:1 題辞

 

直訳すると、ソロモンの歌の中の歌。ソロモンはダビデの息子で、栄華を極めたと伝えられる最盛期の王。知恵に優れたため、箴言やコヘレトの言葉などの知恵文学の作者とされた。雅歌にソロモンの名前がなぜ冠せられるかの理由として、実際の作者と見る説と、雅歌の文中にソロモンの名前が出てくるからという説と、雅歌が知恵文学であることを示す説とがある。

 

◇ 1:2―3

 

口づけ:直訳すると「彼の口のキス(複数)でキスをしてくれますように」。

 

永井晋は、レヴィナスの哲学やユダヤ教のミドラシュを参照しながら、真の生命が欠けている人間が、もう一度神によって生命を吹き込まれることを願うことを、雅歌のこの箇所は現わしていると解釈している。つまり、創世記2:7の人間の創造において神が生命の息を人間に吹き込んだことと、にもかかわらず真の生命を欠いた存在になってしまったことに対応して、人間の側が神の生命を再び恋い願うことを現わしている解釈している(永井晋「「雅歌」の形而上学/生命の現象学」『現代思想』3月臨時増刊号、2012年、青土社、第40巻3号、300~303頁)

 

「よりも心地良く」:原文はトービームで、トーヴの複数形。トーヴは、創世記において創造したものを神が見て「良しとされた」「極めて良かった」においても使われている言葉である(創世記1:28,31)。

 

ぶどう酒新約聖書ではキリストの血や聖霊の象徴。ここでは、単にたとえとして神の愛が飲み物としてのぶどう酒にまさるとも受けとめられるが、罪の贖いや聖霊というものも、神との愛の交流に寄与してこそ意味があるもので、愛がすべてに優るという意味とも受けとめられると思われる。

 

「一度神の妙なる愛を味い知った者にとっては、この世のいかなる快楽よりも優りて神の愛が慕わしきものである。アガペー(愛)はベスト(至上)なり。」

伊藤祐之「雅歌」黒崎幸吉編『舊約聖書略註 中』1435頁、明和書院、1943年)

 

香油、名ヘブライ語では名=シェムで、香り=シェメンで、かけ言葉になっている。 ニュッサのグレゴリオスは、香油は徳を象徴しており、人間が自分で努力して得られる徳も香りがあるが、神によってそそがれる徳の香りこそが最上であると述べている。

 聖書においては、油は聖霊の象徴としてしばしば現れる。

 神の名・神の霊こそが、最も香り高く、人にそそがれた時に最も香り高いということ(参照:キリストの香り Ⅱコリ2:14~16)

 

 1:4 

 

文語訳「われを引きたまへ。われら汝にしたがひて走らん。」

 

矢内原忠雄「雅歌余香」はこの箇所を引き、以下を述べている。「讃美歌(旧二七四)に、「御手にひかれつつ、天にのぼりゆかん。」という句があるが、肉体を離れて天にのぼりゆく時だけでなく、この世の荒野においてもイエスにしっかり手をとって頂いて、右にも左にも曲がらず、真直ぐに突っ走ることの楽しさよ。たといつまずいて倒れても、イエスは直に手をとって引き起してくださる。」(『矢内原忠雄全集 第十一巻』739頁、岩波書店、1964年)

 

:新約においてはイエスを示す。旧約においても、予表的に象徴的に受けとめるならば、そう受けとめられる。

 

・神に手を引かれ、神と共に人生を走り、神と愛を通わし、生命を交わすこと。

 

「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9) 「とどまる」の原語のメノーは「住む」という意味。

 

「私たちはキリストの体の一部なのです。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。」(エフェソ5:30~32)

 

・神と愛を通わせ、生命を通わすことこそ、旧新約聖書を通して聖書が最も重要なこととしていること。

 

 

 1:5-7

 

協会共同訳「黒くて愛らしい」=フランシスコ会訳「黒いけれども美しい」

 

そのまま本文を読めば、ぶどう畑の見張りや農作業で日焼けした女の子が、日焼けして色が黒いけれどもかわいく美しいと主張している。

12世紀のクレルヴォーのベルナールは、黒は人間の罪を象徴しており、罪人である人類が、キリストの十字架の贖いによって罪から解放され、キリストの義の衣を着ることで神の前に美しい存在として立つことができることを現わしているしている。

 ベルナールのような象徴的解釈をとらないとしても、白人による黒人差別の歴史を考えれば、肌の色にこだわらない雅歌のおおらかさは印象的と思われる。(雅歌は、仮に世俗的恋愛の詩集と受け取った場合も、家父長制や人種差別が全く存在せず、自由で対等平等な男女による恋愛をうたっており、あたかもエデンの園が再び実現したような内容であるとは言えると思われる。)

 

兄弟たちのぶどう畑、自分のぶどう畑:象徴的に受けとめるならば、世の中の雑事に煩わされて、神と自分との関係や自分の魂への配慮を十分にできていなかったこと。

 

教えてください:羊飼いのいる場所を尋ね、求める。神への愛に目覚めると、キリストを探し求め、尋ねるようになる。

 

 1:8

 

羊の群れの足跡を辿る:神は目に見えないのでなかなか人にはわからない。また、イエスも遠い時代なので、直接的にはわかりにくい場合もある。そのように神・キリストが見つからないように感じられた場合は、神によって育まれ、神と共に歩んだ人々の生涯を見ると良い。長いキリスト教の歴史、無教会の歴史、本会の歴史(『祈りの花輪』)。

 そうした教会や集会に加わり、接点を持った上で、自分の生活をし、仕事をし、家族などと暮らすこと(「あなたの子山羊を飼いなさい」)。

 

 

Ⅲ、愛は美を褒める (1:9~1:17)(旧約1035~10366頁)

 

 1:9~12 

 

ファラオの戦車隊の雌馬:紀元前1450年頃のガデシュの戦いにおいて、トトメス三世率いるエジプト戦車隊の中に、敵軍の将が一頭の雌馬を送り込み撹乱を図ったという故事にもとづくという説がある(勝村弘也訳「雅歌」旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書XⅢ』26頁、岩波書店、1998年(以下岩波訳と略す)。

 

金の頬飾り、銀:ニュッサのグレゴリオスは、首飾りの玉が一つだけでなく複数からなることは、徳は一つだけでなく複数の徳を満遍なく身に着けることの大切さを意味しているという(邦訳75頁)。ウォッチマン・ニーは金の網紐は神の義・命・栄光を身に着けること、銀は贖いを意味すると解釈する(ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』日本福音書房、1999年、34頁)

 

 1:12~14

 

ナルド:最上級の香油。福音書では、イエスが受難の前に女性からそそがれた故事が有名。

 

没薬:香料の一種だが、葬式の際に用いられることが多かった。防腐作用があるためミイラづくりにおいても使用された(ミルラ⇒ミイラ)。

新約聖書においてもイエスの遺体の埋葬に用いられた(ヨハネ19:39-40)。十字架上では没薬を混ぜたぶどう酒を兵士たちがイエスに飲ませようとした(マルコ15:23)。東方の三博士がイエスの生誕において黄金・乳香・没薬を贈ったことは(マタイ2:11)、それぞれ王であること・神性を持つこと・受難の死を迎えることを予言していたとも言われる。

 

⇒ したがって、新約の光に照らして解釈するならば、ナルドは心から神を神と認め讃えることを、没薬を乳房の間に置くとはキリストの十字架の死を胸の中に刻んでいつも生きていくことを意味していると受けとめることができる。

 

エン・ゲディ死海西岸にあるオアシス。ナツメヤシバルサム樹の産地として有名。よく灌漑されていたという。「子山羊の泉」という意味もある。

 

ヘンナ:和名は指甲花。パレスチナ地域に自生する灌木で、白い花房からはばらのような香りが匂う。葉からはオレンジ色の染料がとれる。当時、化粧品として広く用いられ、クレオパトラもマニキュアとして用いた。

 

左:ヘンナの花の絵 右:エン・ゲディ

 

⇒ 愛する人は、オアシスのようにみずみずしい生命に満ちており、ヘンナの花のように香り高く美しいということ。

 

⇒ ぶどう園に咲いたヘンナの花ということを、ヨハネ15章のキリスト=ぶどうの木ということを踏まえて受けとめるならば、キリストとつながりキリストの香りを放つようになった人と神が認めて褒めて愛してくださるということ。

 

 1:15  鳩:新約聖書では、聖霊の象徴であり、また純真無垢であることの象徴。

「イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。」(マタイ3:16)

 

「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。」(マタイ10:16)

 

⇒ 神は私のことを愛し、良いところや長所や美点を見て褒めてくださるし、聖霊をそそぎ、純真無垢な汚れなき存在であると、キリストの十字架の贖いを通してみなしてくださる。

 

・前回学んだトビト記にも見られるように、神は私たちの良いところを見て、なるべく生かし、育もうとし、愛し、滅びることがないように配慮してくださっている。

 

 1:16-17

愛する人よ、あなたは美しく、麗しい。」  ルター訳:“Siehe, mein Freund, du bist schön und lieblich.” 

 

ヘブライ語のラーナーン。ホセア書14:9の「緑豊かな糸杉」の「緑豊かな」に該当する言葉。新共同訳では同箇所を「命に満ちた糸杉」と訳出。)

 

寝床が緑の茂みとは?:レバノン杉や糸杉が梁や垂木は、高級木材を屋敷の建築に用いていることとも受けとめられる。その場合、寝床が緑の茂みというのは矛盾し、緑色のタイルや装飾を使ったことの譬喩とも思われる。

 しかし、むしろ、この地球の自然そのものが神と愛を交わす場所であり、緑や樹々こそ神が造った大自然という神殿であり、人間はその中に住んでいることを指しているとも思われる。

 

Ⅳ、おわりに 

雅歌一章から考えたこと

 

・雅歌を知恵文学・寓喩として解釈した時には、新約聖書と響き合う内容であることに改めて驚いた。恋愛詩としての解釈も良いが、神と恋愛、霊的な愛の書として読んだ時に、最も深い感銘と喜びを味わえるように思われる。

 

・しばしば、ギリシャ哲学における愛はエロスで、キリスト教における愛はアガペーだとされる。前者は魂の向上を求め相手の美点や長所を愛し相互的な愛であるのに対し、後者は無差別平等の一方的な愛だとされる。しかし、雅歌においてはエロスとアガペーのどちらかではなく、エロスとアガペーがむしろ一体となった愛を描いているように思われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、ホルマン英訳など。

・大森正樹ほか訳『ニュッサのグレゴリオス 雅歌講話』新世社、1991年

・その他の参考文献は資料の文章中に記載。