雅歌 資料(7)

『雅歌⑦ 私を求める神』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、信仰者に対する世の引き止め

Ⅲ、信仰者に対する神からの愛の言葉

Ⅳ、神に対する信仰者の愛

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

 

     

 (左:ヘシュボンの遺跡、中央:ダマスカスのウマイヤ・モスクのミナレット、右:カルメル山)

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の六章では、神は唯一無二の存在として、信仰者各自を一人子のように愛し、私たち一人一人を、驚嘆するほど感動する存在として愛してくださっていることや、人は神に立ち帰り神と一つになることを人生の中で繰り返していくことや、人は各自知らぬ間に神に導かれていることを学んだ。

 

・ 雅歌七章の構成 

 

雅歌七章は、三つの部分に分けて読むことができる。第一部では、六章の内容を受け、おとめたち(さまざまな人々)がシュラムの女(信仰者・エクレシア)を引き止めようとする。第二部では、若者(神)からシュラムの女(信仰者・エクレシア)への愛の言葉が語られる。第三部では、信仰者の神に対する愛が語られる。

 

  • 信仰者に対する世の引き止め  (7:1)
  • 信仰者に対する神からの愛の言葉 (7:2~7:10) 
  • 神に対する信仰者の愛  (7:11~7:14)

 

 

Ⅱ、信仰者に対する世の引き止め  (7:1)  (旧約1042頁)

 

◇ 7:1 

 

・ 6章の内容を受けて、魂が神のものとなった(高貴なエクレシアの車に乗った)おとめに対し、おとめたち(世俗の人々)が引き戻そうとするかけ声。

 

戻れ:岩波旧約聖書翻訳委員会訳(以下岩波訳と略称)「振り返れ」。

 

シュラムの女ヘブライ語原文ではショロミートשׁוּלַמִּית。

  • シュラムあるいはシュネムという土地の女性という説。
  • ソロモンの女性形の名詞、つまり「ソロモンの女」「ソロモンの配偶者」という意味だという説。

雅歌におけるソロモン王を、王である神の象徴と受け取るのであれば、2説が妥当で、神と結婚したエクレシア・信者の象徴として受けとめることができる。

 

・世俗の人々は、神への愛に生きるようになった人に対し、とかく世俗的な喜びに引き戻したり、誘惑して神以外のものに心を向けさせようとする(ルカ四章の荒野の誘惑など)。イエスのみならず、それぞれの人の人生において、さまざまな誘惑や試みがありうる。

 

⇒ 信仰者の歩みは、各自、世の誘惑や試みに打ち克ち、神に立ち帰り、神とともに歩んでいく。これは自力では無理であり、そのつど聖書を読み、神に聞きながら、神の導きや御加護を仰いで歩む。

 

※ 世の人々も「あなたの姿が見たい」⇒ なぜ? 

⇒ おそらくは、神を愛し、神と共に生きる人の、光や幸せに、世の人々も心惹かれたり、興味を持ったり、妬んだりするから。ただ単に興味や憧れを持つことであれば、必ずしも悪いことではなく、世の光である信仰者の姿を見て、世の人々が信仰に入るきっかけとなれば大変素晴らしいことと思われる。

 

マハナイム:ヤボク川の近く、ヤベシュ・ギルアドの地。ヤコブが天使を見た地(創世記32:2―3)。「神の陣営」という意味でヤコブが名付けた。直訳すると「二つの陣営」という意味の言葉。

 

⇒ マハナイムの舞とは、ヤコブが天使を見た地で、そのことを記念するための何か神楽のような舞だった?

⇒ 美しい舞踊は、天国や天使の似姿のようで、人々の心に喜びや幸せを与える場合もあると思われる。

⇒ その一方で、ヘロデの娘の踊りが洗礼者ヨハネの死をもたらしたように、悪しき誘惑の舞踊もありうる(マタイ14:6)。

⇒ 「マハナイムの舞」は上記創世記箇所を踏まえれば、神の陣営の舞と思われるので、信仰者の生き生きとした様子やいのちに満ちた姿の喩えと思われる。良い美しい舞踊のように、生き生きと美しく世の光として生きていると、おのずと世の人々もその姿を見たいと思うようになる。

 

⇒ ただし、世の人々の評価や誘惑に引っ張られると、往々にして神から離れてしまいがちだと思われる。特に今の世の中は、SNSの評価や書き込みに一喜一憂し、自殺者まで出る世相である。人の引き止めや誘惑に左右されず、神をこそ仰ぎよりどころとして生きていきたい。

 

 

Ⅲ、信仰者に対する神からの愛の言葉 (7:2~7:10) (旧約1042~1043頁)

 

 

 

◇ 7:2  

 

ナディブの娘:高貴な娘、の意味。前回6章に出てきたアミナディブ(高貴な私の民の車)=エクレシアにすでに乗っている信仰者のこと。

 

:象徴的に受けとめるならば、地面と接する箇所、つまり世俗との接触。信仰者は、世の塵に塗れていても、そのつど十字架の贖いにより清くされ、清いものとして神がみなしてくださる(洗足のエピソード(ヨハネ13章))。

 

:すねとももの総称。人が歩んでいく時に体を支える箇所。象徴的に受けとめるのであれば、その人が人生を歩んでいくその力や歩みを、神が喜び強めて、匠の手つまり神の作品としてくださること(エフェソ2:10)。

 

 

◇ 7:3  

 

へそ、丸い杯、ぶどう酒:母親と赤子がへその緒でつながっているように、神と信仰者も信仰によってつながる。杯になみなみとそそがれるように、私達信仰者も神の祝福や愛が注がれている(詩編23:5b「私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる」)。ぶどう酒は聖霊や神の恵みの象徴。

 

腹、百合、小麦の山:神の恵みや霊が溢れるようにそそがれ、なみなみとそそがれた杯のようにその神の愛を受けとめた人には、神の言葉や命がその腹に、心と体に満ち満ちている。百合(睡蓮)は羊飼いである神が羊を養う糧(雅歌2:16、同4:5、同6:3)つまり神の御言葉、聖書の言葉。麦は神の命、真の命のこと(ヨハネ12:24)。

 

 

◇ 7:4

 

乳房、ガゼル:胸つまり信仰者の心、エクレシアの人々の心が、ガゼルのように飛び跳ねるほど元気の良い生命や活力に溢れていること。

 

◇ 75  

 

首、象牙、塔:雅歌4:4、雅歌四章資料参照首は、脳と心臓、思考と心をつなぐ場所。天から降りてくる神の言葉とその人の心がしっかりと結びつく場所。それがしっかりとして、美しいものであるという意味。

 

:魂の象徴(マタイ6:22)。

 

バト・ラビムの門:ヘシュボンの町にあった門。

 

ヘシュボンヨルダン川よりも東、現在のヨルダンの中にあった町。アモリ人の王シホンの町だった(民数記21:26)。モーセが征服し、ダビデやソロモンの頃まではユダヤが支配していたが、南北王国時代にモアブやアンモンの領土となった。のちにマカバイ時代やヘロデ大王の時代は再びユダヤが支配した。巨大な貯水池があったことが遺跡の発掘調査でわかっている。

 

⇒ おそらく、バト・ラビムの門も、ヘシュボンの貯水池も、とても美しいものだったのだと思われる。信仰者の魂がそのように美しい澄んだものであること。また、キリストの十字架の贖いにより、そのように清いものとみなされ、また一生をかけて清くされていくこと。

 

鼻、ダマスコ、レバノンの塔:ダマスカスにあった塔のことか。現在のダマスカスではウマイヤ・モスクのミナレットが有名(冒頭の画像)。ウマイヤ・モスクはモスクとなる前はキリスト教の教会で、洗礼者ヨハネの首が眠る場所だという伝説がある。あるいは、レバノンの塔は、レバノン山脈のことか。

⇒ 鼻は、呼吸する場所。象徴的に受けとめるならば、どのような空気を吸うか、世俗の空気ではなく、神に通じる空気をエクレシアや聖書で吸うこと。

⇒ ダマスカスという大都会においても、世俗の塵に染まらず、高く抜きん出て、神の生命に触れて呼吸する生き方。聖書を日々に読む生き方。

 

◇ 7:6  

 

頭、カルメル山、髪、紫:カルメル山は、イスラエルの北西部のハイファにある山。預言者エリヤがバアルの預言者たちを打ち破った場所(列王記上18章)。頭は思考の象徴なので、エリヤのように神に忠実で悪しき考えを打ち破ることができる強い思考力や信念のことか。髪は生命力の象徴、紫は帝王の象徴であり受難のイエスの象徴(ヨハネ19:2)。考えも生命もキリストの十字架の贖いの信仰に満ちていること。人の思考も生命も神に忠実で神の生命に満ちている様子を、神はとても喜び愛してくださる。

 

 

◇ 7:7  

 

喜びに溢れた愛、美しく麗しい:キリスト者は愛に満ち溢れた人生。それは喜びに満ち溢れた人生。暗い陰鬱な辛気臭いものは、聖書本来のキリスト教ではない。

 

◇ 7:8  

 

なつめやし、乳房:メソポタミアやエジプトで紀元前6000年には栽培されていた。 その実(デーツ)は栄養価が高く、図像が古代メソポタミアの壁画に頻出し生命の象徴とされており、聖書の「生命の木」のモデルとも言われる。乳房、つまり胸に、神の生命が満ち満ちていることの象徴。

 

◇ 7:9

 

なつめやしの木に登る:前節を受けて、神が信仰者ひとりひとりの魂の中に入り、その生命を登って、その心をつかむ様子の象徴か。

 

ぶどうの房:ぶどうはキリストの象徴(ヨハネ15:1)。 私たち一人一人の心が自発的にキリストとつながり、キリストというぶどうの木につながることをキリストは望んでいる。

 

息がりんごの香り:息は生命の象徴。生命が十字架の贖いにより清められ、キリストの香りに香る人生となることを、息がりんごの息となったと象徴的に表現。

 ⇒ 島崎藤村ではりんごは初恋の象徴。信仰者と神は、常に生き生きとした初恋のような恋愛状態にあるとも受けとめることができるか。

 

◇ 7:10  

 

口、ぶどう酒、眠っている唇:口や唇は言葉およびその奥にある心の象徴。ぶどう酒は聖霊や神の言葉の象徴。

 

⇒ 信仰者が神の言葉や聖霊に満たされ、その言葉も神の言葉や聖霊に満たされた言葉を語るようになること。それが表層の意識のみでなく、無意識にまでなっていること。

⇒ それが、他の人々にも流れ出すということか。

 

※ 神の信仰者に対する讃辞。これらは、信仰者をキリストの義を通して見てくださるから。創造は愛にもとづいて行われており、各自は神の作品であり、キリストの義を通して、神はこのように各自をかけがえのない存在として愛してくださる。

 

 

Ⅳ、神に対する信仰者の愛  (7:11~7:14) (旧約1043頁)

 

◇ 7:11

 

「私は愛する人のもの/あの方は私を求めています」:神の所有であることの自覚。神と一つになること。

 そのうえで、神が私を求めていることの自覚。

 

⇒ 聖書の神は、信仰者一人一人を求める神であること。

 

「神は絶対者でいられるので、すべての人を絶対者としておとりあつかいになる。つまり、その人だけを取り出してその人の現在になくてならぬことをしていらっしゃる。それで神の賜物は人の立場から比較を許されない。人に対しても、また自分の過去に対しても、一瞬間一瞬間神はそのようにわたし達に対される。それが分かると、どんな時も神から与えられたかけがえのない時として受けることを学ばされる。苦難の時には特別な神の恩恵がある。それが啓示を与えられる時でここで神との交わりに入ることができる。」

(白井きく「ヨハネ黙示録」『第50回塚本虎二先生記念文集』107頁)

 

⇒ 信仰者は、人とは比較できない、その人にとって固有の道のりによって、神へと導かれ、神を愛する信仰を賜る。神は世俗的な価値である肩書や金銭や能力や成功は求めない。ただ、神を信じ愛することを求める。神と正しい関係に入ることを人に対して求める。

 

⇒ しかし、人の側からは神と正しい関係に入ることが不可能なので、神の一方的な恵みであるキリストの十字架の贖いを信じると、罪が贖われ、神と正しい関係に入る。神がまず求めることは、ただこのことである。そのうえで、各自特有の仕方で神と共に歩みながら、神の経綸・統宰・計画の中でなんらかの役割を果たす。それは、エッサイやイエスの育ての親のヨセフのようにほとんど伝わる事績の残らぬ地味な場合もあるが、それもまた非常に重要な役割である。

 

⇒ 信仰者は、ただ十字架の贖いを信じ、神を愛し神を信頼し、聖書に聞いて生きていけば良い。神のものであり、神に求められている自覚を持って生きていけばいい。

 

◇ 7:12

 

野原、ヘンナ:前節を受けて、人は神とともに歩めば、どのようなところにも自由に歩んでいくことができる。広々とした自由な人生が広がる。ヘンナはバラに似た香りの花(雅歌1:14、雅歌一章資料参照)。神の見えない、あるいは神がどこにいるのか見えづらい試練の時(夜の時)も、キリストの香り・聖書の言葉・歴代のキリスト者の香りに包まれて生きていくことができる。

 

◇ 7:13

 

ぶどう畑、つぼみ、ざくろの花、愛をささげる:ぶどうはキリストの象徴。ぶどう畑はエクレシア。つぼみは、それぞれの人の信仰の芽生えで、それらを見守ること。エクレシアが花盛りとは、人が多いことや建築や宣伝が華やかなことではなくて、一人でも真実の信仰を持った人がいることだと思われる。ざくろの花が咲くとは、キリストの死と復活の象徴で、キリストの復活の生命と希望が信仰者に満ちていること。

⇒ このようなエクレシアで、神に愛を捧げること。無教会はそうした場所であり、そうした歴史を持つエクレシアと思われる。大事なことは、神を愛し、神を知り、神を讃えること。社会活動や社会事業や布教や権力ではなく、「私の愛」を神に差し上げることが一番と思われるし、神がそう思っておられるということを雅歌のこの箇所は示していると思われる。

 

◇ 7:14

 

恋なすび:マンドレイク(マンドラゴラ)。ヘブライ語のドゥダイームは、女性からの愛を意味する「ドード」と関連して愛や性愛や多産の象徴ともされ、芳香があり媚薬にも使われた。幻覚作用や毒性がある。

 

⇒ ここでは、神と信仰者との愛や愛の陶酔を象徴していると思われる。

 

戸口:神の愛に、心の扉を開いて戸口で待っている神にすでに心を開いている状態であること。良き信仰の実を結んでいること。

 

新しい実と古い実:新約聖書旧約聖書のこと。どちらも神の言葉であり、神の御心を知り、神のメッセージを聞くために重要。

 

⇒ また、各民族には、各民族にとっての旧約とも言うべき、それぞれの各民族固有の歴史がある。日本における古典や歴史という「古い実」も、キリストの福音という「新しい実」とともに大切にし、日本的キリスト教の糧とすること(武士道に接ぎ木されたキリスト教)。

 

 

Ⅴ、おわりに 

雅歌七章から考えたこと

 

・世俗的な誘惑や試みがしばしば信仰者を引き戻したり妨げようとすることが

あるが、神を信じ聖書を学んでそれらを各自が乗り越えていくことの大切さ。あまり肩ひじをはらず、「マハナイムの舞」(神の陣営の舞)のように、かろやかにあまり争わず、自分が自分としてしっかりと聖書を読み祈っていけば、神の導きや御加護によって歩み通していけるのではないかとも思われる。

 

・神は十字架の贖いを信じて義とされたものを、こよなく尊い愛すべき存在として讃えて愛してくださる。神の生命に満ちた信仰者やエクレシアを喜び、愛してくださる。このような愛が先にあるから、人はまた立ち上がって、人生やこの世が良いものであると、良いものでありうると信じて、生きていくことができる。

 

・信仰者は、神のものであり、神に求められているという自覚のもとに歩む時に、広々とした野原を歩む自由と逞しさを得られると思われる。神に求められ、神へと至るまでの道のりを、神のものであり神とともに歩むゆえに神に導かれて歩むことができる。新しい実と古い実の両方がその糧となる。

 

「参考文献」 聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳。