ゼカリヤ書 資料(14)

 

『ゼカリヤ書(14) メシアの受難と人々の救い』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、エルサレムの勝利

Ⅲ、神の民はダビデのようになる

Ⅳ、メシアの受難と霊のそそぎ

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

(左から、ジョット「死せるキリストへの哀悼」、ミケランジェロ「ヴァチカンのピエタ」、ファン・デル・ウェイデン「十字架降下」))

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十一章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、八章までにおいては八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と異邦人の救済が告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応える方であることが告げられた。第十一章では、メシアをも金銭で裏切ってしまう人間の罪と、偽りの牧者の批判を通じて真の牧者とは何かが示された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九~第十四章(※十二章)

□ 第十二章の構成 

 

第一部 エルサレムの勝利 (12:1~12:6)

第二部 神の民はダビデのようになる  (12:7~12:9)

第三部 メシアの受難と霊のそそぎ (12:10~12:14)

 

 ゼカリヤ書第十二章は、メシアが刺し貫かれるというメシアの受難が記されている。新約では、このゼカリヤ十二章の預言をキリストの受難の預言と受けとめた(ヨハネ19:37)。十二章全体の内容を見ると、エルサレムと異教の国々との闘い(神の国と地の国の戦い)と、メシアの受難を通した救いが示されている。

まず第一部では、エルサレムが国々よって包囲されるが、杯、石の重し、たいまつのたとえを通して、神がエルサレムを強め、守ることが預言される。

第二部では、ユダの民が救われ、神の民がダビデのようになることが告げられる。

第三部では、メシアの受難と、それをきっかけに神の霊が人々に注がれ、メシア受難の悲しみを自分のものとし、神に祈るようになることが預言される。

 

 

Ⅱ、エルサレムの勝利 (12:1~12:6) (旧約1469頁)

 

※ エルサレムと、エルサレムを包囲する諸国民との闘いが告げられる。新約の光に照らせば、エルサレムやユダの民とはメシアを信じる神の民と解釈することもできる箇所。

 

◇ 12:1

 

託宣:マッサ。関根訳「重荷の預言」。神の重荷のことば。この12章について言えば、エルサレムに敵対する者たちが滅びること、あるいはメシアの受難のことか。聖書は神の言葉。無限に深い。

 

※ 天地創造の神が、人間の霊を創造したことを冒頭に明記している。これは人間の霊を創ることが天地創造に匹敵する大きな出来事だったこと、およびアダムの第一の創造のみならず、12章10節以下のメシアの受難による聖霊のそそぎという第二の創造の業をこれから述べることの宣言と考えられる。

 

新改訳「宣告。/イスラエルについての主のことば。/天を張り、地の基を定め、/人の霊をそのうちに造られた方。/主の告げられたことば。」

 

バルバロ訳「お告げ。/イスラエルについて、主のみことば。/天を張りめぐらし、地の基を置き、人の中に息吹を与えられた主のお告げ。」

 

関根訳「重荷の預言。/イスラエルに対するヤハウェの言。天を張りめぐらし、地の基を築き、人の霊をそのうちにつくられたヤハウェは言われる。」

 

⇒ 天地創造アダムの創造および第二のアダムとしてのキリストの創造。

⇒ これらを成し遂げ、成し遂げていく神の言葉なので、以下に述べる第十二章の言葉も必ず成就するという宣言。

 

◇ 12:2

 

よろめかす杯:聖書では、神の怒りや裁きのこと、あるいは試練のことを「杯」と表現している。最後の一滴まで飲み干さなければならない歴史の過程、あるいは人生の試練のこと。

 

参照 エレミヤ25:15~16イスラエルの神、主は私にこう言われる。「私の手から憤りのぶどう酒の杯を取り、私があなたを遣わす先のすべての国民にこれを飲ませよ。/彼らは飲んで、よろめき、私が彼らの中に送る剣を前にして正気を失う。」

参照 イザヤ51:17~23、ハバクク2:16、エゼキエル23:31以下など。

ヨハネ18:11、マタイ20:22、ルカ22:42など。

 

 一方、新約では、イエスの受難の血により、罪が赦されることを、杯で象徴するようになった。(マタイ26:27-28、マルコ14:23-24)

 

※ この2節での「よろめかす杯」も、10節以下でのメシアの受難を合わせて考えれば、異教徒や諸国民に対する怒りの杯であるのと同時に、メシアへの信仰を得た人にとっては罪の赦しの杯になることを合わせて告げていると思われる。

 

エルサレムの包囲・ユダも同様に:首都のエルサレムの包囲の時に、周辺のユダの人々もよろめかす杯を飲むという意味か。新約の光に照らせば、メシアの受難の時に、神の民も同様に「よろめかす杯」を飲み、また「罪の赦しの杯」を飲むことになるという意味と考えられる。

 

◇ 12:3 エルサレム=石の重し

 

エルサレムを諸国民が攻撃しても、逆に諸国民の方が粉砕される、エルサレムは堅い石や岩のような鉄壁であり、そのように神が守るという意味。

 

・新約の光に照らせば、「隅の石」つまりメシアのことで、エルサレム=メシア=隅の石であり、これを粉砕しようとするサタンの試みは逆に粉砕されることを意味すると思われる。

 

ダニエル2:34 像を粉砕する「石」

「隅の石」(詩編118:22、イザヤ28:16、マタイ21:42、使徒4:11)

 

地上のすべての国民がエルサレムに集まる:エルサレムを諸国民が攻撃に集まるという意味にもとれるし、メシアを信仰するようになってエルサレム(神のもと)に全地の人が集まるという意味とも受け取れる。

 

◇ 12:4 

馬が打たれ、その目が見えなくなる:エルサレムに押し寄せる諸国民の軍隊が無力化されることを意味する。あるいは、神やメシアを倒そうとするサタンたちは、逆に無力化され、よろめかされることを意味するか。

 

ユダの家の上に目を開く:ユダ(神の民)は、目が開き、神が見える。あるいは、神がまどろむことなく神の民を見守ること(詩編121参照)。

⇒ 無信仰の人は霊的に盲目になり、信仰ある人は霊の目が開かれてこの世だけではない価値がわかるようになる。

 

◇ 12:5

 

ユダの首長たち:新共同訳では「ユダの諸族」。英訳の多くもNIVをはじめとして”clans”つまり「諸族」「氏族たち」の訳。原語のアルペー(al·lu·p̄ê)は、首長とも諸族とも訳せるが、ここでは「諸族」の方が良いと思われる。

そう受けとめれば、新約の光に照らした時に、ユダの諸族は、エルサレム(メシアを信じる人々、あるいはメシア)は、本当に力のある人で、自分たちに生きる力を与える存在と知り証言した、いう意味に受け取ることができる。

 

◇ 12:6

 

ユダの諸族が燃えるたいまつとなり、すべての民を焼き尽くす:

 

エルサレムに攻め込んだ異教の諸国の軍勢を、逆にイスラエルの人々が撃退し倒すことを指す。新約の光に照らせば、聖霊によって心が燃え立つ人々(ルカ24:32)が世の悪を清め神の愛を人々に灯し広げていくと解釈できる。

 

参照 

オバデヤ18節ヤコブの家は火となり/ヨセフの家は炎となり/エサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と/まことに、主は語られた。」

 

申命記4:24a「あなたの神、主は焼き尽くす火」

ヘブライ12:29「実に、私たちの神は、焼き尽くす火です。」

 

神は柴の燃え尽きない炎の中からモーセに語りかけた(出エジプト3:2~6)

 

参照:ロマン・ロランジャン・クリストフ』第九巻:「予は存在するすべてではない。予は虚無と戦う生である。予は虚無ではない。予は闇夜のうちに燃える火である。予は闇夜ではない。予は永遠の戦いである。そしてなんら永遠の宿命も戦いの上に臨んではいない。予は永遠に闘争する自由なる意志である。汝も予とともに戦い燃えるがよい。」

⇒ 個人的な思い出。高校時代に『ジャン・クリストフ』を読み、虚無と戦う「燃える火」が生であり真実であり神であるということは心に残り、しばしば世の中で見かける諦念や虚無思想には違和感。

 

エルサレムはその場所にとどまる: 諸国の攻撃は撃退され、エルサレムはずっと続く、という意味。実際はエルサレムは繰り返し異国に攻撃され占領されたが、にもかかわらず今も神の都として続いている。そのことを指すとも考えられる。あるいは、エルサレム=メシアorメシアを信じる人々で、永遠に人類の中心にメシアがとどまり続ける、という意味。

 

Ⅲ、神の民はダビデのようになる  (12:7~12:9)(1469頁)

 

◇ 12:7  

 

ユダ、ダビデの家、エルサレムの住民:

おそらく、都市以外の住民のことをユダと呼んでいる。

とすれば、王家と都市の住民よりも、まずは田舎に住む人々が先に救いが告げられるということ。

エルサレムだけでなくユダの民全体の救いを告げる箇所。

新約の光に照らせば、イエスの福音がまずはガリラヤなどの漁村や地方の人々に告げられ、エルサレムはその次だったことを指す。神は地方の名もない人々をこそ真っ先に救いの目当てとする。

 

◇ 12:8

 

新改訳「その日、主はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。」

 

・「その日」つまり、神が介入する日(主の日)、神がエルサレムの住民を守ってくださる。神が神の民を守る。

 

・弱い者・よろめき倒れるつまずいた者もダビデのようになる。(c.f.ミケランジェロダビデ像)。サムエル記が描く最強の王or詩編のような祈りの人。

 

⇒ 新約の光に照らせば、ダビデの家系に連なるイエスが神の姿を現し、その弟子たちが天使のような使徒となる、の意味。神の姿であるイエスと、イエスに従う弟子たちもまた神の似姿となっていくこと。

 

◇ 12:9

 

主の日・終末には、エルサレムを攻める異教の人々は滅ぼされる。新約の光に照らせば、真実の神を知らずさまよい罪に陥っていた人々が、神の民として奪還される。罪と死は滅ぼされ、神が勝つ。神の国と地の国のせめぎ合いは、一時的には後退のように見える時があっても、最終的には神の国の勝利に終わる。

 

Ⅳ、メシアの受難と霊のそそぎ (12:10~12:14)(旧約1469-1470頁)

 

◇ 12:10  メシアの受難を通じて神の霊がそそがれる

 

恵みと嘆願の霊:新共同訳「憐れみと祈りの霊」、関根訳「感動と願い求めの霊」

 

新共同訳「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

 

関根訳「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に感動と願い求めの霊を注ぐ。そして彼らはわたしを、自分たちが刺し殺したその者をつらつら見て、独り子を失って歎く者のように歎き、首子(ういご)を失って悲歎する者のように悲歎するであろう。」

 

関根訳訳注岩波文庫『十二小預言書 下』164-5頁)「神の霊が注がれ、人の神へのかたくなな心がとかれて(感動!)神に祈り求める心が与えられることをいう」「罪の悔い改めと赦しの祈り求めが主な内容として考えられる」

 

「ヘン」(ḥên):恵み、好意、喜び、魅力、喜ばせるもの、魅了するもの

「タハヌン」(tachanun):好意を求めて嘆願・哀願すること、恵みを求めて祈ること。

 

(ルーアハ、風、息吹)。

 

⇒ 神の恵みの霊とその恵みを祈る霊が人にそそがれる。神の恵みと祈りの息吹が人に吹き込まれる。

 

⇒ 第一のアダムが神から背いて、神から離れていたことを、キリストが第二のアダムとして神の恵みと祈りの霊をそそいで、神に立ち帰らせてくださった。

 

※ どのようにして霊をそそいだか?⇒ 受難を通して。十字架の受難。

 

自分たちが刺し貫いた者:人々がメシアを迫害し、殺害したこと。

 

※ ヨハネ19:34において、兵士が十字架のキリストの脇腹を槍で刺して、血と水が出たことについて、ゼカリヤのこの箇所が預言していたとヨハネ伝は記す。

ヨハネ19:37「また、聖書の別の箇所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。」

 

※ シメオンがマリアにイエスの誕生直後に預言したこと。

ルカ2:35「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」

 

c.f. カッチーニアヴェ・マリア(ウラディミール・ヴァヴィロフの作曲)

宮田大のチェロ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=1mWfkOa-r0M

 

独り子・初子(長子)の死のように悼み嘆く: 神や、母マリアの気持ち。また、イエスのことを嘆き悲しんだ当時の弟子たち。

後世の人も、本当に信仰を得た時に、この悲しみをいくばくか感じるし、この悲しみを共にする時にすでに信仰を得ていると言えるのではないか?

 己の罪のためにメシアを殺してしまったこと、人類の罪がメシアをすら銀貨三十枚程度の損得勘定の対象にし、死に追いやってしまったこと、そのような人類の罪・私の罪を背負って、イエスが死んでくださったこと。十字架の贖いを信じること=己の罪を知ること=神に祈る霊が与えられ神との交わりの中に入れられること=永遠のいのち・救い。

 

※ また、マリアの心が「刺し貫かれた」こと、つまりわが子を失った親の悲しみをつぶさに母マリアがなめたことが、多くの人にとって、自分と同じ悲しみを知っている人がこの世の中にはいると思い、慰めとなり、救いとなってきたのではないか。(聖母マリアについての民間の信仰や音楽・名曲の数々、名画の数々。)

 

・メシアの受難と、メシアの受難への嘆きをを通して、私たちは信仰を得、神との霊の交わり=祈りの霊を得る。

 

◇ 12:11

 

メギド平野:かつてヨシヤ王がエジプトの軍勢によって殺された地(列王記下23:29、歴代誌下35:22-24、エズラ記(ギリシア語)1:27-29)。黙示録16:16の「ハルマゲドン」は「メギドの丘」を意味するヘブライ語で、終末の日に悪霊と聖霊の最後の戦いがあるとされる。

 

ハダド・リモンの嘆き:メギド平野の近くの地名で、そこで人々がヨシヤ王の死を嘆いたことを指すという説と、もともとアラム人の神の名で、そこで死と再生を司る儀式が行われており、人々が儀式の中で嘆き悲しむ所作をしたことを指すという説がある。

 

⇒ メシアの受難の死に対して大きな歎きがあった(ある)、ということを意味する箇所。

 

◇ 12:12-14

 

ダビデの家の氏族:ダビデ王家の子孫のこと。あるいは政治的な有力者や権力の有る人々のことを指す。

ナタンの家の氏族:預言者ナタンの子孫のこと。あるいは預言や、神からの霊的な賜物に富んだ人々のこと。

レビの家の氏族:祭司の家系の人々。新約の光に照らせば、万人が祭司なので神の民すべてを指す。

シムイの氏族:レビの子のゲルションの子(民数記3:21)の氏族。レビの家の氏族の一つ。なぜわざわざシムイの氏族をここに明記しているのかは不明だが、ゼカリヤとシムイの氏族が何らかの関係があったのか。あるいは、レビもシムイも象徴的にとらえるならば、神の民から新しく別れ出た分派も神の民の一員であることを指すとも考えられる(カトリックからプロテスタントができたことなど)。

 

これらの氏族が、氏族ごとにそれぞれ嘆く。また、夫と妻に分かれて、それぞれ嘆く:

 

⇒ これは、それぞれの人各自が、メシアの受難の悲しみを自分自身のものとして受けとめることを指すと考えられる。

 

⇒ 信仰は誰に対しても普遍的に与えらえるものであるのと同時に、それぞれの個性や独自の人生の歩みを通した個別具体的なもので、キリストの受難の苦しみや悲しみにあずかる道のりも人それぞれ。

 

⇒ ゆえに、信仰の時期や道のりはそれぞれのペースやユニークさがあるはずだし、キリストが各自に関わる仕方にも、それぞれの個性に合わせてキリストが関わってくださる。

 

⇒ しかし、信仰を持つ人には等しく神の恵みと祈りの霊がそそがれる。

 

Ⅴ、おわりに ゼカリヤ書十二章から考えたこと

 

・ゼカリヤ12章が、ヨハネ19:39が記すとおり、メシアの受難を預言していたことへの驚き。また、ただ単に事実の預言というだけでなく、メシアの受難を通して恵みと祈りの霊が人に与えられるという、キリスト教信仰の不思議な理路が明確にゼカリヤ12章に記されていることへの驚嘆。

 

・メシアの受難や、そのことによりマリアの心が刺し貫かれた、その痛みや悲しみによって、私の苦しみや悲しみを抱えた人生も慰められ、支えられているのではないか。

 

・神は虚無と戦う炎であること。

 

・信仰を持つ人は弱い者でもダビデのような王者・祈りの人となるということは、とても勇気づけられることだと思われた。

 

神の国と地の国、神とサタンの戦いは、一時的に人の目には後者が優勢に見えたり希望がないように見えたとしても、最終的には必ず神の勝利に終わる。神の勝利は盤石(重い石)であり、神の目はいつもまどろむことなく開いており、敵の軍勢は盲目となり、神の聖なる愛の火は必ず燃え広がる。

 

・信仰やキリストとの関わりは、それぞれが各自のありかたで深めて良いということ。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年、他多数。