雅歌 資料(4)

『雅歌④ 神の愛の言葉』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、神の人に対する愛のことば

Ⅲ、神に愛された人の生き方

Ⅳ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

    

(左:レオナルド・ダヴィンチ「受胎告知」、右:上ライン地方の画家「楽園としての庭に座すマリア」 )

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の三章では、夜(神の見えない時)に神を求めることと、神が人の自発的な愛を喜ぶことを見た。

 

・ 雅歌四章の構成 

雅歌四章は、二つの部分に分かれる。ほとんどの部分を占める前半は、若者がおとめの美しさをさまざまな譬えによって誉め讃える。後半は、おとめが自分という園を風が吹くことを受け入れ、神を呼ぶ言葉が記される。

それぞれ象徴的に読むならば、神が人をあるがままに美しい存在として愛してくださっていることと、人が自らの人生の順境も逆境も受け入れ、神を自分の心に迎え入れることだと受けとめることができる。

 

  • 神の人への愛のことば  (4:1~4:15)
  • 神に愛された人の生き方 (4:16) 

 

 

Ⅱ、神の人に対する愛のことば  (4:1~4:15)  (旧約1038-1039頁)

 

あらすじ:若者(象徴的に受けとめるなら神・キリスト)がおとめ(信仰者、エクレシア)に対し、その美点を誉め、愛の言葉を語る。

 

→ 神が人の美しさをあるがままに褒めたたえる言葉が続く箇所。これらは、創造の本来の姿、つまりアダムとイブの堕罪と失楽園の前の、エデンにおける人への神の愛の言葉と受けとめることもできる。キリスト者にとっては今現在、キリストの十字架の贖い(ロマ3:21-24)の後にはこのような愛が神からそそがれ、神の目からこのように自分は慈しまれていると受けとめることができる。

 

◇ 4:1 恋人の美しさ、目、髪

 

「なんと美しい」:美しさへの感嘆、讃嘆。神は万物を善きものとして本来創造した。その根底には神の愛がある。

参照・創世記1:31「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。」

 

「ベールの奥の目は鳩のよう」:目は魂のこと、精神のこと(マタイ6:22-23)。つまり、外見や肩書や役割などの奥底にある魂を神は見ること。また、その魂が鳩のように素直で純粋であると見てくださること(マタイ10:16)。

あるいは、イエスに降りそそいだ霊が「鳩のよう」と記されていることを考えれば(マタイ3:16)、魂に神の霊が宿っていることを神は見てくださるという意味。

 

:生命力の象徴。(サムソンの逸話(士師記16章))。生命力が流れていること。

ギルアドの山ヨルダン川東の山地。荒々しい岩山。

 

→ つまり、その人の生命力が生き生きと流れていることを、神が美しく愛しいと思ってくださっているということ。

 

 

◇ 4:2 歯が羊のよう、清い=心、言葉が清められていること

 

=口にあり、言葉の出るところ。つまり、人の言葉、心のこと。

参照・創世記49:12「目はぶどう酒よりも赤く/歯は乳よりも白い。」

 

洗い場から上って来る:罪を洗い清められた。(霊による)洗礼を受けた、の意味か。

 

毛を刈られる羊の群れのよう:主という羊飼いに素直に付き従う信仰者、エクレシア。ぶどうの枝のようにきれいに刈り込まれる(ヨハネ15章)。

 

皆、双子を産み、子を産む:人生において、霊の実を結ぶということ。

 

参照:ガラテヤ5:22-23「これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。」

 

→ 人生において、神への愛、人への愛の実践という実を結ぶこと(ヨハネ15:2、ルカ13:6-9)

 

◇ 4:3 紅の糸、ざくろ

 

唇は紅の糸、口元は愛らしい:生気に満ちて美しいこと、その様子が神から見て愛の対象であること。

あるいは、その人の口から出る言葉が神の言葉としっかりつながっていること(=糸、結ばれている)、キリストの命としっかり結びつき、愛の言葉に満ちていること。

 

ざくろキリスト教においては、キリストの苦難と復活の象徴(ボッティチェリのザクロの聖母など)。心臓の象徴。

    

「ザクロの聖母」、左:ボッティチェリ、右:フラ・アンジェリコ

 

→ その顔、魂にしっかりと、キリストの命をいただいていること。

 

 

 4:4  首は塔、盾

 

首:脳と心臓をつなぐ場所、思考と心・命をつなぐ場所。あるいは、天から降りてくる神の言葉と、その人の心がしっかりと結びつく場所。

 

→ 首が「何層にも重なったダビデの塔のよう」とは、考えと心が、神の言葉とその人の心が、堅固にしっかりと結びついていて、鉄壁ということ。

 

千の盾、勇士の盾:この世には多くの誘惑や、神の存在や正義や愛を疑わせるものがあるが、上記のとおり、神の言葉と人の心をつなぐ場所が、しっかりと守られているということ。多くの信仰における先人・義人の言葉や事績を知っていて、それらの知恵や勇気や愛に力づけられていること。あるいは、聖書の言葉でしっかりとサタンの誘惑に対して備えられていること。

 

 4:5 乳房は小鹿、百合の間で草を食むガゼル

 

乳房:胸、つまり信仰者の心、エクレシアの人々の心

 

小鹿、ガゼル:飛び跳ねるほど元気の良い生命、活力に溢れた命。

 

百合の間で草を食む:参照・雅歌2:16、岩波旧約聖書翻訳委員会訳では「睡蓮」。神の霊的な言葉によって養われること。

 

二匹、双子:エクレシアには、必ず男女がいることの意味か。あるいは、雅歌4:2を踏まえれば、実を結ぶ生き方をしている人々のこと。もしくは、旧約聖書新約聖書の両方をしっかり心に受けとめて大切にしていること。

 

→ 神は、生き生きとした神の生命に満ちたエクレシアの信仰者たちを愛し、神の言葉という霊的な食べ物で養ってくださっている。

 

 

 4:6  生きている間にキリストの愛に生きること

 

日が息をつき、影が逃げ去るまで:日が暮れるまで、人生の命のある間に。人の一生は過ぎやすく、儚いので、命のある間が重要。

 

没薬の山、乳香の丘

没薬と乳香は、キリストの神性と受難の死の象徴。前回資料の雅歌3:6解説参照。

→ つまり、生きているうちに、キリストの福音に赴き、キリストのもとで生きること。生きているうちに、神を愛し、人を愛する、キリストの愛に生きること。

 

 

 4:7  神は信仰者のあるがままを愛する。

 

「私の恋人よ、あなたのすべては美しく/あなたには何の傷もない。」

 

→ 神は、人のすべてを美しいものとして本来創造した。

 

→ ただし、堕罪により、原罪を抱え、実際は罪と傷の多き者。

 

→ キリストの十字架の贖いにより、再び人は神の愛に抱きとられている。義とされている。包容されている。

ロマ3:21‐24「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」

 

→ このキリストの福音を、なかなか人は信じることができない。また、この世の中には条件つきの愛や条件つきの承認、人をけなしたり傷つける言葉が溢れている。しかし、繰り返し、この神の愛を聞き、すでに神によって義とされていることを聞くことにより、人は救われ、解放されていく。そして、愛の実を結ぶ人生になっていく。神は、キリストの十字架を信じた者を義とし、全き人とみなし、神の子とし、神の国に入れてくださる。その愛に生かされていく。

 

 

◇ 4:8  花嫁、レバノン、アマナ、セニルとヘルモン

 

花嫁よ:信仰者、エクレシア。(エフェソ5章)

 

レバノン:原語の意味は白。雪を常にいただく山脈で、パレスチナ北部にそびえ、やや低い丘陵が各方面に向かって走っている。低地帯はぶどうの木、山岳はレバノン杉に覆われている。アマナもヘルモンも、レバノン山脈の一つの峰。

 

アマナ:原語の意味は、信頼、信仰、確かさ。レバノン山中の峰。

 

セニルヘルモン山のこと。アモリ人がヘルモン山をそう呼んだ。

 

ヘルモン:海抜2814メートル。たえず雪をいただき、山頂からの眺めは壮麗。イエスの変容の地と言われる。聖なる山。

 

獅子の隠れ家、豹の山:人里離れた山奥という意味か。あるいは、エレミヤ50:17では獅子はアッシリアバビロニアを指すので、異教の強い勢力。Ⅰペトロ5:8では、獅子は悪魔のたとえ。

   

レバノン山脈ヘルモン山の画像)

 

→ 悪魔の誘惑や異教の世俗的な価値観などから離れ、キリストとともに歩むこと。人里離れたところではなく、人々の中で暮らし、隣人を愛し、エクレシアの中で生きること。

→ 単純に、レバノンの山々の雄大な自然の中で、神と人との愛の呼び交わしが行われている様子を想像することも良いと思われる。

 

 

◇ 4:9 ときめかせる

 

→ 神は、人のことを、自らの心をときめかせる存在だとはっきり言っている。

 

→ この広大な宇宙の中で、格別な存在として、ひとりひとりを特別に愛している。 (参照・イザヤ49:5、49:15-16)

 

一瞬のまなざし:日頃神を忘れている人間が、一瞬でも神に向き直って神を愛することを、神はこの上なく喜んでくださる。

 

首飾りの玉の一つ:私たちが持っている徳の一つであっても、神は喜ぶ。愛や忍耐や寛大さや親切や知恵や穏和さなどの、何か一つでも徳を発揮した人生を、神は喜ぶ。

 

 

◇ 4:10  ぶどう酒、香油

 

再び、「なんと美しいことか」と神による愛の言葉。神は愛の言葉を繰り返してくださる。

 

ぶどう酒:聖餐のぶどう酒とすれば、儀式よりも愛が神にとって喜ばしいという意味。

 

あなたの香油:ナルドの香油(ヨハネ12:3)。神は、それぞれの人が真心から神に捧げたものを、何よりも喜んでくださる。決して他と比べたり、金銭に換算したりせず、そのまま最も素晴らしい捧げ物だと喜んでくださる。

 

 

◇ 4:11 蜂蜜、蜜、ミルク、レバノンの香り

 

→ これらは、神の愛や豊かさの象徴であり、神の愛によって香り高い生涯となっていることを指すと思われる。愛の言葉の人となること。

 

→ なお、箴言においては、蜜は知恵の象徴(箴言24:13-14)なので、神の言葉を学び、神の知恵と愛に満ちている人は、香り高い生涯となるということ。

 

 

◇ 4:12~15 聖別されたエクレシア、信仰者

 

閉じたれた園、池、封じられた泉:ヨーロッパの中世の絵画では、この箇所から、聖母マリアの背後に園が描かれた(本資料冒頭の参照絵画)。

 

→ エクレシアおよびそれぞれの信仰者は、神が特別に世の中とは分けて、聖別して、大事に育てる。

 

ざくろ、ヘンナ、ナルドざくろについては本資料4:3参照。キリストの受難の死と再生の象徴、神の心臓の象徴。ヘンナは香りと色が愛された植物。ナルドは植物の根からとれる最高級の香油。

→ キリストにより、良い実をたくさん結ぶ、香り高い人だと、エクレシアと信仰者を神が誉めてくださっている。

 

ナルド、サフラン、菖蒲、シナモン、乳香、没薬、沈香:いずれも最高の香りのこと。

→ キリストを知る知識の香り、キリストのかぐわしい香り(Ⅱコリ2:14~16)。信仰者はそれぞれの個性ある、香り高い人生を歩むことができる。また、その香りを、神はとても喜び、愛してくださる。  (※個人的な余談:菖蒲のこと)

 

園の泉、命の水の井戸、レバノンから流れ出る川

ヨハネ4:14「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

 

→ キリストといういのちの水の泉につながった人は、常にキリストから流れ出す命の水にうるおい、自ら自身もいのちの水の湧き出る泉となる。

 

→ そのような人が、地の塩・世の光、ぶどうの枝、世を潤す。

 

Ⅲ、神に愛された人の生き方 (4:16) (旧約1039頁)

北風、南風:風は聖書においては霊を意味する(ヨハネ3:8)。ゆえに、神からいろんな方向から送られてくる霊、神のメッセージとも受けとめることができる。 → あるいは、人生の逆境と順境(イソップ童話『北風と太陽』)。神は、厳しい人生の逆境と、あたたかい人生の順境の恵みの、両方をもって人を導き、義化と聖化を成し遂げていく。 → それを受け入れる。それによって目覚める。

 

園を吹き抜け、香りを振りまく:エクレシアや信仰者は、聖別されて大事に育てられるが、と同時に、神の霊に吹かれ、動かされて、その香りを世の中に広げるように促されているし、信仰者は自らそう願って生きるべきこと。

キリストの香りを世にもたらすこと。キリストから世への手紙となること。

 

愛する人が園に来て、実を食べる:信仰者は、キリストを自らの心の園に迎え入れ、自らの人生が愛の実を結ぶものとなり、それらを神に捧げることを願って生きること。

 

Ⅳ、おわりに 

 

雅歌四章から考えたこと

 

・神は、あるがままの人を愛し、慈しんでくださっている。雅歌四章は、神の愛を率直に示す言葉が綴られている。現代社会は、条件付きの承認や条件付きの愛ばかりであり、自分は愛されていないと思い自己肯定感の乏しい人が大勢いる。競争社会の中、あるがままに人を愛することが乏しい。しかし、神はそれぞれの人を、あるがままに「なんと美しい」と讃嘆し、格別の愛をそそいでいる。

・戦争や悲惨さが溢れている世界においては、雅歌のような美しいみやびな愛の言葉は、一見のどかすぎるものに見えるかもしれない。しかし、このような愛と

みやびさこそが、人間にとって最も貴重なものではないかと思われる。

・繰り返し、神の愛の言葉を聞き生きていきたい。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳)など。

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年。

・マンフレート・ルルカー、池田紘一訳『聖書象徴事典』人文書院、1988年

・Bible Hub (http://biblehub.com/