ゼカリヤ書 資料(15)

 

『ゼカリヤ書(15) 残りの者の精錬』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、開かれた泉

Ⅲ、偶像と偽りの預言者の除去

Ⅳ、牧者の受難と残りの者の精錬

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

  

(左:パオロ・ヴェロネーゼ「イエスとサマリヤの女」、右:ヨルダン川の源流にあるバニアスの滝)

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十二章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、八章までにおいては八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と異邦人の救済が告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ったメシアが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応える方であることが告げられた。第十一章では、偽りの牧者の批判を通じて真の牧者のあり方が示された。第十二章では、メシアの受難を通して神の霊が人々にそそがれることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九~第十四章(※十三章)

 

□ 第十三章の構成 

 

第一部 開かれた泉(13:1)

第二部 偶像と偽りの預言者の除去 (13:2~13:6)

第三部 牧者の受難と残りの者の精錬(13:7~13:9)

 

 ゼカリヤ書第十三章は、泉(=いのちの水)が人々に開かれ、偽りが取り除かれ、苦難を通して精錬された残りの者が、神の民となることを告げている。

まず第一部では、前の十二章の内容を受けて、人々の罪と汚れを清めるための泉(=キリスト)が開かれたことが告げられる。

第二部では、偶像と偽りの預言者たちが取り除かれることが告げられる。

第三部では、神の牧者の受難と、それをきっかけに残りの者たちが神の手に支えられ、精錬され、真実の神を神とする神の民となることが告げられる。

 

 

Ⅱ、開かれた泉(13:1) (旧約1470頁)

 

岩波訳「その日には、ダビデの家とエルサレムの住民たちのために、一つの泉が、罪と不浄のための泉が、開かれる」

 

※ ゼカリヤ書十三章一節は、前の十二章の内容(メシアの受難を通じて神の霊が人々にそそがれること)を受け、罪と汚れを清めるいのちの水が人々に開かれることを告げている。したがって、前の十二章と内容的には連続したもので、本来は十二章とつなげて読むべきだとする訳や解説書もある。しかし、十三章全体の内容(=人々が神の民となること)を的確に冒頭にまとめた内容とも言える。

 

◇ 13:1

 

その日: 神が歴史に介入する「主の日」。福音が告げられた日や終末の日とも考えられる。あるいは、ひとりひとりの人が自分自身としてイエスと出会った時、信仰を得た時、またそれからのその時その時の人生とも受けとめることができる。

 

ダビデの家とエルサレムの住民: 旧約の意味で考えれば、ダビデ王家と一般のエルサレムに住民ということ。政府と一般国民といった意味。あるいは、新約の立場からすれば、メシアを信じる人々の集いであるエクレシアとその構成員という意味に受けとめることができる。

 

罪と汚れ: 罪はヘブライ語で「ハッター」で、ギリシャ語のハマルティアと同様に的外れ、道を踏み外すという意味。汚れは「ニッダー」で、避けるべきもの、不浄のもの、といった意味(道徳的なものだけでなく、女性の月経などに対しても用いられている)。

 新約を踏まえて考えれば、神に背き神から逃れようとする人間が持つ傾向(=原罪)が根本的に取り除かれると同時に、道徳的な個々の行為における悪や罪も徐々に取り除かれ神の似姿に変えられていくこと。さらには、社会における慣習や因習において浄/不浄とされている根拠のない差別が取り除かれ、それらが気にならずに人を愛せるようになることも含むか。

 

清める: 原文にはなし。協会共同訳の脚注aを参照。直訳は「罪と汚れのための一つの泉が開かれる。」 意訳すれば、罪と汚れを清めるためと考えて間違いない。罪と汚れの中にいる私たち人類のために、キリストが十字架にかかり罪の贖いを成し遂げ、清めてくださったこと。キリストにより罪から洗われる(Ⅰヨハ1:7)。

 

: いのちの水が湧き出ること。

 

 参照 エゼキエル36:25-26「私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める。あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

 

・エゼキエル47:1-12 神殿から湧きだし、癒し、命の木を育む泉。

・ヨエル4:18 「主の家から泉が湧き出て」

・エレミヤ2:13(神は)「命の水の泉」

・「命の水」ゼカリヤ14:8、黙示録7:17、同21:6、同22:1、同22:17

 

サマリアの女と井戸 ヨハネ4:5-26

「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ4:14)

ヨハネ6:35「イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」

 

※ キリストは「命の水」の湧きだす泉である。キリストの受難・十字架の贖いを通して、人は神と再び親しく交わることができるようになり、神のいのちと通い、永遠のいのちを恵まれることとなった。このことを、ゼカリヤ書13章1節は明確に預言している。この泉は、身分の貴賤は関係なく、社会的に有力かどうかは関係なく、誰に対しても開かれている。罪や汚れを清めるための泉はすでに開かれ、各自がキリストに立ち帰り、日々に命の水を飲み、命のパンを食べ、聖書の言葉に触れて生きていく道が開かれている。(ただし、そのような人は少数であることが13章の後半には記されている。)

 

 

Ⅲ、偶像と偽りの預言者の除去 (13:2~13:6)(旧約1470頁)

 

◇ 13:2   偶像・偽りの預言者・汚れた霊を取り除くこと

 

その日になると:主の日、あるいは各自が信仰を得た日。神が介入する日、神に立ち帰る日。

 

偶像: 旧約の時代においては、異教のなんらかの彫刻や形態を伴う像のことだが、神以外のものを神とすることが偶像崇拝であり、必ずしも彫像とは限らないと思われる。現代社会においては、金銭、国家、学歴などのなんらかの権威、特定の権力者やなんらかの指導者などの個人などがしばしば偶像化され、偶像崇拝の対象となっている。近代日本における過度の天皇崇拝も一種の偶像崇拝と言える。⇒ そうした誤って神以外のものを神とする態度が取り除かれることの重要性。

 

預言者: ここでは、真実の預言者ではない、偽りの預言者のことを指す。信実の神の言葉ではないものを、神のことばとして告げること。(参照、:エレミヤの時の偽預言者ハナンヤ(エレミヤ28:15)、アモスを弾圧した祭司アマツヤアモス7:10~17)。他にもエレミヤ23:16-17、エゼキエル13:8など。)

 

 今の時代においても、虚偽を告げる新興宗教の指導者や精神世界系の著作家は多い。また、現代社会においては、偽りの情報や予測を告げる知識人や政治家を含めて考えて良いとも思われる(参照:2006年12月22日、安倍首相(第一次内閣)は、吉井英勝議員の原発事故の可能性に対する質問主意書ヘの答弁の中で全電源喪失はいかなる場合もありえないと答え、対策を講じなかった。その結果、2011年3.11の全電源喪失による福島第一原発事故を防げなかった。)

 

汚れた霊: 新約聖書では、イエスが汚れた霊にとりつかれた人々を癒し、解放したことが記され、弟子にもその権能を与えたことが記されている(マタイ10:1)。今日でも、精神的な悩みや疾患に苦しむ人は多い。その理由はさまざまとは思われるが、罪に起因するものや、心の傷に起因するもの、正しい考えを知らず神との関係や交わりが欠如していることによる霊の枯渇などがありうる。これらを癒し、正し、神との関係を回復すること。

 

◇ 13:3 父母が偽りの預言者咎め

 

バルバロ訳「だれかが、ふたたび預言しようとすると、その人を生んだ父と母が、その人に向かっていうだろう、「おまえはこれ以上生きてはならぬ。主のみ名をつかって、偽りをいったのだから」と。そして、生みの父と母は、預言したという理由で彼を刺すだろう。」

 

通常、他のすべての人が見捨てても、最後まで見捨てず愛するのが親。その親ですら、恥じて、罰する。

⇒ これはむしろ、肉親というよりも、親の心である神の苦悩と痛みを比喩的にあらわしている箇所とも受けとめられる。

 

※ 律法では、偽の預言や占いは禁じられている。

 

申命記13:4「あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。」

 

申命記13:6預言者や夢占いをする者は、死ななければならない。そのような者は、あなたがたをエジプトの地から導き出したあなたがたの神、主に背くように語り、あなたを奴隷の家から贖い出したあなたの神、主が歩むように命じられた道から外れるようにあなたを仕向けるからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。」

 

申命記13:10-11「あなたはその者を必ず殺さなければならない。殺すには、まずあなたが手を下し、それから他のすべての民が手を下しなさい。その者を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出したあなたの神、主から、あなたを引き離そうとしたからである。」

 

申命記18:20「ただし、預言者が傲慢にも、私の命じていないことを私の名によって語ったり、他の神々の名によって語ったりするならば、その預言者は死ななければならない。」

 

⇒ 現代の指導者や知識人やマスコミは、真実を語ることの大切さと、偽りを語った場合の罪の重さを、これほど重く受けとめているだろうか?

 

 

◇ 13:4

 

前節で父母に刺されるとは書いてあったものの、4節以下では偽預言者は死んでおらず。親の心で接してくれる神や実際の親が、心を貫くほどに叱ってくれた、という意味か。

にもかかわらず、反省していなかった偽預言者は、自分の預言が外れたことにより恥をかく。(c.f. 1999年の世界滅亡、2012年の世界滅亡、等々。)

 

毛皮の外套預言者の服装だった。(参照:列王記下1:8)

⇒ 着なくなる。⇒ ①偽預言者だったことを恥じて、もう偽りの預言者であることをやめる。 ②世間の指弾を恐れて、預言者とわかる服装をせずに、わかりにくい服装や恰好に偽装する(現代であれば背広を着て、似非科学の装いをするなど)。 おそらく②か。

 

◇ 13:5 偽預言者の言いわけ①

 

バルバロ訳「むしろ、彼らは、おのおのこういうだろう、「私は、預言者ではない、私は、地を耕すものである。幼い時から地で働いてきたのだから」。」

 

⇒ 自分の言葉に責任を負わない姿勢は、現代社会の政治家や知識人にもしばしば存在する。自分の言葉に責任を持てず、人々の指導者たる責任が持てない者は、口舌を糧とせず地道に働くべきで、社会や他人を騙すべきではない。

 

 13:6 偽預言者の言いわけ②

 

バルバロ訳「もしだれかが、「あなたの体にある傷は、なんですか」と言ったとしたら、彼は、こう答えるだろう、「これは、私を愛している人人の家で加えられた傷である」と。」

 

□ バアルの信者たちには恍惚状態でお互いの体を傷つけあう習慣が存在していた。それを踏まえての記述か。

列王記上18:28「彼らは大声を張り上げ、自分たちの習わしに従って、剣や槍で身を傷つけ、血を流すまでに至った。」

 

あるいは、自分の責任だとあくまで認めず、神や親による罰だということも認めず、自分以外の誰か他の人に責任を転化しようとする姿勢を指していると思われる。

 

※ 現代社会にも偽りの指導者・偽りの預言者は多い。容易にだまされないように、自分自身の頭で考え、判断することが重要。(参照:フィリピ1:9「知る力と見抜く力」(新共同訳))

 

 

Ⅳ、牧者の受難と残りの者の精錬(13:7~13:9)(旧約1470頁)

 

◇ 13:7  牧者は打たれ、羊は散らされる

 

☆ この箇所は、イエスが自らの受難と弟子のつまずきを預言する時に引用している。(マルコ14:27、マタイ26:31)

 

関根訳「剣よ、覚めてわが牧者に立ち向かえ、わが分身なるその人に、と万軍のヤハウェは言われる。私は牧者を打ちに打ち/その羊を散らす、それからわが手を/小さき者に向ける。」

 

ここは「私の牧者」なので、ゼカリヤ11章の偽りの牧者ではなく、真実の牧者、つまりメシアと受けとめるのが妥当。メシアの受難と、弟子のつまずきの預言。

 

※ 協会共同訳「怒りの手」の「怒りの」は原文にはない(脚注eを参照)。「小さき者」をことのほか愛する主の御心を考えれば、メシアの受難とその後の弟子たちのつまずきを通して、なお人々を愛し、神の子としようとする「愛の手」が差し伸べられたと受けとめるべき。

 

◇ 13:8 残りの者

 

バルバロ訳「全地は、こうなる―主のお告げ―、そこにいる三分の二は、まったく滅ぼされ、三分の一は、残りのものとして残される。」

 

参照:エゼキエル5:12、黙示録8:7-12、同9:15

 

※ 三分の一は、実際の割合というよりは、過半数の多数派ではなくて少数派という意味か。エリヤの時は神に忠実な者としては七千人が残された(列王記上19:18)。真実の信仰の人は常に少数派。無教会は常に少数派。

 

キリスト教は常に少数者の宗教であって、それが多数となったときには、既に真のキリスト教でなくなっているからである。」

「無教会主義は永遠の少数党である。しかし、ここにその純真さがあり、戦闘力があり、真剣さがある。」

(「無教会主義の将来」『塚本虎二著作集続 第七巻』449、450頁。)

 

※ 日本では、憲法改正は三分の二以上の議員の賛成によって発議可能となっており、言い換えれば三分の一以上の人々が反対すれば憲法は改正できない。 戦後、55年体制下においては、おおむね自民党が三分の二弱、社会党が三分の一強程度の議席保有し、憲法改正を防いできた。政治や社会において、三分の一強の人々が平和や格差是正をしっかり願っていれば、かなりの程度自由や平和が実現できるとも思われる。

 

⇒ なぜキリスト者は少数派なのか。これは現実が示していることであって、あまり理由はないとも思われる。世の中の価値基準や誘惑になびきやすいのが人間の常なので、多数派はある程度は世に流されるのは仕方がないのだと思われる。一方、福音が救う対象が全ての人であることは忘れてはならない。(「すべての福音」『塚本虎二著作集続 第七巻』195-197頁。)

 

※ 少数の「残りの者」が、義人となり、神に救われる。(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 13:9 残りの者が精錬され神の民となる

 

精錬:聖書には、苦難を経て、罪や汚れが取り除かれ、神の御心にかなう信仰と生き方に変えられることを、しばしば金属の精錬にたとえている。

 

箴言17:3「銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。」

 

箴言27:21「銀の精錬にはるつぼ、金には炉。/人は賛美する口によって精錬される。」

 

イザヤ48:10「見よ、私はあなたを精錬したが/銀としてではない。/私はあなたを苦難の炉の中で試みた。」

 

ダニエル12:10「多くの人々が清められ、純白にされ、精錬される。悪人は悪をなすが、悪人は誰も理解しない。しかし、悟りある者たちは理解する。」

 

エズラ記(ラテン語)16:74「その時、金が火によって精錬されるように、私に選ばれた人々が、試練の中であらわになってくるだろう。」

 

⇒ 苦しみは人間にとって嫌なことだが、人生の苦難は、神に立ち帰るためにある。試練は、精錬され、信仰を得、キリストに倣った生き方になるためにある。(私の個人的なことを言えば、苦しみや悲しみがなければ聖書を読むようになり、神に立ち帰ることはなかったと思われる)。

 

彼は私の名を呼び、私は答える: 主は呼べば答える神(詩編91:15)。聖書全篇を通して、神に呼びかけ、祈れば、神が応えることが示されている。聖書の神は人格神であり、人と対話する神であり、単なる法則や理念や原理ではない(参照:マルティン・ブーバー『我と汝』)。

 

彼はわが民、主はわが神: 参照:ホセア2:25。キリストの十字架の贖いを信じる者は神の子となり、神の民となる。そうした人は、主に「わが神」と呼びかけることができる。これはしばしば、人生の苦難を通して、精錬されることによって、神に立ち帰り、可能となる(c.f. 放蕩息子の帰還、ペテロの慟哭と主への立ち帰り)。

Ⅴ、おわりに 

 

ゼカリヤ書十三章から考えたこと

 

・主が命の水の湧き出る泉であることが、新約のみでなく、ゼカリヤ書13章に明確に示されていることにあらためて感銘。キリストが命の水の湧き出る泉であることは、不思議と実感として各自がわかることだと思う。

 

・ゼカリヤ13:7をイエス自身が引用していたことと、イエスがゼカリヤ書を深く読み込み、暗唱していたことにあらためて思い至った。

 

・聖書における偽りの預言に対する厳しさにあらためて思い至った。現代人は真実を重んじ、偽りの言葉を避けようとする責任感や良心がこれほどにあるのか省みさせられた。

 

・主は小さき者を愛し、手を伸ばして守り支えてくださる。(参照:「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32))。

 

キリスト者は少数派であり、少数で良い。少数でも地の塩・世の光がいれば、世の中の腐敗はある程度防がれる。

 

・人生の苦しみや試練は、それらを通して精錬され、真実の信仰を得、キリストの生き方に近づくためにある。苦難は信仰を得た時、また信仰に生きる時に、無意味な苦しみではなく、意味のある精錬となる。

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『塚本虎二著作集続 第七巻』聖書知識社、1984年。

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年。

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年。

他多数。