『雅歌⑤ 中間の時代における神への愛』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、神が来たこと
Ⅲ、中間の時代
Ⅳ、神の姿
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
(左:ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」、中央:ラファエロ「キリストの変容」、右:ティツィアーノ「キリストの変容」 )
・前回までのまとめ:
雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。
解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。
前回の四章では、神が(信仰を持つ)人の美しさをあるがままに愛して褒め讃え、人もまた神を心に受け入れて人生の順境も逆境も受け入れて生きていくことを学んだ。
・ 雅歌五章の構成
雅歌五章は、三つの部分に分かれる。若者とおとめを神とエクレシア・信仰を持つ人の比喩ととらえるならば、第一の部分は、その直前の四章を受けて、神が人の魂を愛し楽しむことを記している。第二の部分は、人が神を心に受け入れたことと、しかし神が去ってしまい、再臨を待つ中間の時代において迫害が起こることが記される。第三の部分では、真の神がいかに神々しく美しい愛の対象であるかが歌われる。
- 神が来たこと (5:1)
- 中間の時代 (5:2~5:8)
- 神の姿 (5:9~5:16)
Ⅱ、神が来たこと (5:1) (旧約1040頁)
◇ 5:1
園:心の園、魂のこと。神が、信仰者の魂に来たり至ったこと。
没薬と香料:十字架の信仰を持ち、キリストの香りに染まった信仰者の香り。
蜜のしたたる蜂の巣:信仰者が聖書や神に学んで得て蓄積してきた知恵。
ぶどう酒とミルク:聖霊や神の恵み、清め。
→ これらの、神の愛や恵みにより人がその魂において得たものを、神は「私の」香りや蜜として、愛して享受してくださる。人の一生は神への捧げ物、神はその捧げを喜んで愛して受け取ってくださる。
「友人たちよ、食べなさい。恋人たちよ、飲んで酔いなさい。」
→ 神の到来を共に喜び、祝うこと。エクレシアは喜びの交わりであること。苦行ではなく、イエスは、イエスとともに人々が喜び楽しむことを喜びとされた。
Ⅲ、中間の時代 (5:2~5:8) (旧約1040~1041頁)
あらすじ:神が心の扉を叩く。信仰者は開けるが、神は姿を消してしまう。信仰者は迫害を受ける。神が再びやって来るまでの間、信仰者は神を待つ。
◇ 5:2
協会共同訳「私は眠っていたが、心は覚めていました。」
岩波旧約聖書翻訳委員会訳「私は眠っているのに、心は覚めている」
→ かつては霊的に鈍くなって眠った状態だったが、神の呼びかけや働きかけに気付くようになった。
「愛する人が戸を叩いている」:神が人の心の扉を叩くこと。
ヨハネの黙示録3:20
「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」
→ 神は常に、はるか昔から、人の心の扉を叩き、人が扉をあけて神を迎え入れることを待っている。
※ パトリシア・セントジョン『雪のたから』(世界名作劇場のアニメ『わたしのアンネット』の原作)。作者は、第二次大戦の直後に、ベルゲンの強制収容所の写真を見てショックを受け、また大戦の後の人々の相互の憎悪を見て、「許し」をテーマにした作品を書きたいと思いこの作品を描いた。誰かを憎むことは神に対して心を閉ざすことであり、心の扉を開いてキリストを迎え入れる時に愛と光が差す。愛は恐れを締め出す。
※ 私の人生を振り返っても、なかなか気づかず、随分遠回りをしたように思うが、常にキリストは心の扉を叩き続け、働きかけてくださっていたと今にして思う。
鳩:魂が純真なこと。神はそのように信仰者をみなしてくださること(十字架の贖いを通じて)。
夜露:神が長い時間、外で寒い中に待たされたことのたとえ。私たちは、どれほど長い間、扉の外で神を待たせてきたことか。
◇ 5:3
衣を脱ぐ:ゼカリヤ3:3-5「ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分の前に立っている者たちに言った。「彼の汚れた衣を脱がせなさい。」そして御使いはヨシュアに言った。「見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。」また、御使いは言った。「彼の頭に清いターバンを巻きなさい。」そこで彼らは、ヨシュアの頭に清いターバンを巻き、衣を着せた。主の使いは傍らに控えていた。」
→ 神は罪の衣を脱がせ、キリストという義の衣を着せてくださる。
イザヤ61:10「私は主にあって大いに喜び/私の魂は私の神にあって喜び躍る。/主が救いの衣を私に着せ/正義の上着をまとわせてくださる。/花婿が頭飾りをかぶり/花嫁が装飾品で飾るように。」
→ 罪の衣を脱いだら、再び着たいとは思わないはずということ。
足を洗った:神は罪を清めてくださる。ヨハネ13章洗足のエピソード。そしてまた、互いに足を洗い合うべき(ヨハネ13:14)。互いに許し合い、罪を悔い改めて正しく導き合う。
→ 罪から足を洗ったならば、再び罪を犯したいと思わないはずということ。
◇ 5:4
隙間から手を差し伸べる:神は人が固く閉ざした心の扉を、わずかな隙間から光を差し入れ、ときほぐしていく。ほんの少しのきっかけや縁を通じて、人は神に導かれていく。
胸が高鳴る:神の愛に触れることが、人の魂に最上の喜びをもたらす。
◇ 5:5
戸を開けようと起き上がる:神は人が神を求める時に、即座に応えてくださる。扉を開けるとただちに光が差しこむ。(ゼカリヤ1:3、ヨナ2:3)
没薬:葬式やミイラに用いた香料。十字架のキリストの贖いが溢れるばかりに恵みとなって信仰者に与えられたこと。
◇ 5:6
神が去り、捜し求める:受肉したキリストは、十字架による死を迎えた。それは罪の贖いとして定められたことではあったが、キリストは死んで、復活した後に昇天し、この地上に肉体を持った存在としてはいなくなってしまった。
→ ずっと一緒にいると思っていた時には、弟子たちはキリストの本当の心がわからなかった。
→ 死んで、去ってしまったあとに、はじめて本当のキリストの心に出会い、キリストを求めた。
※ 初臨・十字架・高挙 → 中間の時代 → 再臨・終末
中間の時代においては「神の国」と「地の国」がせめぎ合う(アウグスティヌス)。
◇ 5:7 神は信仰者のあるがままを愛する。が、世間はそうではなく迫害をする。
夜警・城壁の見張りが打ち、剥ぎ取る:キリストに従う者は、この世において迫害を受ける。
西暦64年のネロの迫害から303年のディオクレティアヌスによる迫害までの間に、推定で80万人以上のキリスト教徒が殉教。
日本の江戸幕府による迫害にでも、推定20万人が殉教と言われる。
その他、世界中でキリスト者はしばしば迫害に遭ってきた。
また、しばしば、教会や精神的な指導者たちから、キリスト者は迫害を受けて弾圧された。異端審問。ルターの宗教改革に対するカトリックの圧迫。その前史としてのフスの焚殺。内村鑑三に対する教会の白眼視etc.
キリスト者は、世俗権力からも、先行する教会や精神的指導者たちからも、しばしば迫害を受けてきた。
◇ 5:8
再臨のキリストを待ち望み、恋い焦がれていること。
Ⅳ、神に愛された人の生き方 (5:9~5:16) (旧約1041頁)
◇ 5:9
おとめたち:諸々の他の宗教という意味。あるいは、エクレシアの中の他の人々から、信仰者に対し、キリストのどこが他に優っているかと尋ねられている。
※ キリストをなぜ他に優って愛するのか?
→ 私の場合、一言では言いにくいが、やはり格別に優れているので愛する。何が優れているかというと、その愛のあたたかさと麗しさにおいて。
ポリュカルポス(2世紀前半)「私は86年間キリストに仕えてきましたが、彼は決して私に対して悪いことをしませんでした。どうして、私を救ってくださった私の主を冒涜することができましょうか」
□ 5:10~16 あらすじ:主の姿、キリストの姿
参照 黙示録1:12~16
「私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の間には人の子のような方がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
→ キリストは「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)なので、キリストを見れば神の姿がわかる。
◇ 5:10
神は輝いている:「義の太陽」(マラキ3:20)
赤銅色:岩波旧約聖書翻訳委員会訳「赤く輝き」
→ 大工だったので、健康的に日焼けしていた?
万人に抜きんでている:人類の歴史上、イエスは卓越している(セントヘレナ島のナポレオンが、余に従う者はほとんどもはやいないが、キリストは死後千数百年経っても未だにキリストのために命を捨てる人が何千何万といると羨ましがったという)。
◇ 5:11
頭は金:太陽のように輝いているという意味か。思いや考えが純粋で永遠の愛であること。
髪は波打ち:生命力が豊か、いのちに満ちていること。「波打ち」の原語タルタリームは他に用例がなく意味不明の語。岩波旧約聖書翻訳委員会訳では「なつめ椰子の房」。
烏のように黒い:ルカ12:24「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりもどれほど優れた者であることか。」
→ いのちを神に委ねきっている。
◇ 5:12
目が鳩のよう:純真であること。
谷川のほとり:詩編42:2「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」 → 神を慕い求めること。
→ 神を純真にまっすぐに慕い求める。
ミルクで洗われ:神の恵みで洗い清められ、恵みに満たされている。
豊かな水辺に止まっている:神の恵みにいつもとどまっている(詩編23)。
◇ 5:13
香料の頬、百合の唇、没薬の滴:神の香り、キリストの香りに満ちた言葉。純潔の言葉、清らかな言葉。十字架の罪の贖いが滴る。
◇ 5:14
かんらん石:オリーブ色、緑色の美しい宝石。祭司の胸当ての十二の宝石の一つ(出エジプト記28:20)。十二の宝石は十二部族を象徴している。また、神の幻における車輪がかんらん石でできている(エゼキエル1:16)。
「手はかんらん石をはめた金の円筒」→ 手のひらにいつも神の民を刻んで神の民のことを思っている。あるいは、神のことを刻んで、いつも神を思っている。純粋に、永遠に。
ラピスラズリ:祭司の胸当ての十二の宝石の一つ(出エジプト記12:18)。
また、神の足の下はラピスラズリ。
出エジプト24:10「イスラエルの神を仰ぎ見た。その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。」
→ 胸にラピスラズリを散りばめるとは、いつも神のことを思い、また神の民のことを思うこと。神を愛し、隣人を愛する(マルコ12:29-31)。
◇ 5:15
脚が大理石、純金の台座:固くゆるぎない信仰、神の言葉をそのとおりに実践するので確かな土台がある(マタイ7:24-25)。
姿はレバノン山、杉の木:日本で言えば、姿が富士山と言うようなものか。いつも真白い美しいゆるぎない姿。杉はまっすぐな様子。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」
(山岡鉄舟)
→ キリストは常に変わらず、まっすぐで誠実である。
ヘブライ13:8「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」
Ⅱテモテ2:13「私たちが真実でなくても/この方は常に真実であられる。/この方にはご自身を/否むことはできないからである。」
◇ 5:16
神の言葉はすべて甘美で慕わしい
「これが私の愛する人、私の友人」:信仰者にとって主イエスは愛する人であり、友である。
ヨハネ15:14-15「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
出エジプト33:11a「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」
ヨブ記16:19-21「今も天に私の証人がいる。/私のために証言してくれる方が高い所にいる。私の友は私を嘲るが/私の目は神に向かって涙を流す。この方が神に向かって人のために/人の子とその友の間に立って/弁護してくれるように。」
神の友となること。神との交わり、コイノニアに生きること。
イエスは、そのように人が神を愛し、神と語らい生きることを求め、喜ぶ。
→ 初臨と再臨の間の中間の時代においても、私たちは神を愛し、神を友として生きることができる。そのことを、神もまた喜んでくださる。
Ⅴ、おわりに
雅歌五章から考えたこと
・神は常に人の心の扉を叩き、隙間から手を差し伸べ、人の心に迎え入れられるのを長い間待ってくださっていること。
・中間の時代において、多くの先人たちが迫害や試練に遭い、それでも福音を信じ、生きのびて伝え続けてきたこと。
・イエスのように神を愛し、人を愛することの大切さ。
・中間の時代においても、キリストを友として生きていくことができること。キリスト教は神を友として生きることができる稀有な道。
「参考文献」
・聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳。