悲しむ人々は、幸いである

「悲しむ人々は、幸いである」 

 

マタイによる福音書の第五章四節の「悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。」という言葉は、私にとって以前から疑問が生じる文章だった。
当たり前のことではないか?という思いとともに、あとで慰められるぐらいであれば、最初から悲しい思いなどしないに越したことはないのではないか?という思いが長い間ぬぐえなかった。
それが、今年になってから、ギリシャ語を少しずつ独学し、ギリシャ語の原文を読むようになって、長年の疑問が氷解した。
原文は以下のとおりである。

“μακάριοι οἱ πενθοῦντες, ὅτι αὐτοὶ παρακληθήσονται.”
(マカリオイ・ホイ・ペンスーンテス、ホーティ・アフトイ・パラクレーセーソンタイ)

「マカリオイ」は「幸いなるかな」、「祝福される」、という意味で、「ホイ・ペンスーンテス」は「悲しんでいる者」である。「ホーティ」は英語の”for”と同じで、なぜならば、ぐらいの意味である。「アフトイ」は「その人たちは」という意味である。

問題は「パラクレーセーソンタイ」(παρακληθήσονται)という単語である。この言葉は、「パラカレオー」(παρακαλέω)という言葉の未来直説法受動相の三人称複数である。要するに「~されるだろう」という未来形の受動態である。
では、「パラカレオー」という言葉の意味は何であろうか?通常の訳に用いられるように「慰める」という意味もあるが、「求める、懇願する、勧める」といった意味がある(今岡稔ほか『新約聖書ギリシヤ語辞典』)。英語のサイト“Bible Hub”には、” to call to or for, to exhort, to encourage”と訳してあり、つまり「呼ぶ、求めて呼ぶ、熱心に勧める、勇気づける」と訳してある(https://biblehub.com/greek/3870.htm)。

これらのことを考えれば、「パラクレーセーソンタイ」は、「(悲しんでいる者は、神によって)慰められ、求められ、呼ばれ、求められて呼ばれ、熱心に勧められ、勇気づけられるだろう」という意味を一言で表していると言える。

悲しんでいる者は、その悲しみを通じて、神の近くに呼ばれ、慰められる。神に求められ、神を求めるようになり、神の道を熱心に勧められ、その道を進むことを勇気づけられる。そのことをこの箇所が一語で意味しているということが、ギリシャ語原文を味わう中ではじめてわかり、長年の疑問が氷解し、そのとおりだと、アーメン、アーメン、と心から思えた。

人生においては、人それぞれ悲しみがあるが、私の人生においても、抱えきれないと思えるような深い悲しみがあった。特に、私が二十代の時に妹が長期の闘病生活ののちに病気で亡くなったことは、当時においても腸を断つ思いがしたし、今なおそうである。

しかし、この悲しみがなければ、おそらく私はキリストを信じ、聖書を読む身とはならなかったと思う。人は残念ながら、悲しみを通じてしか、神になかなか立ち帰らない。悲しみなどない方がどれだけ人生は良いかと思っていたが、悲しみによってこそ神の近くに呼ばれ、神の言葉を聞き学ぶ身となるのだと思う。

そして、悲しみを通じて神の近くに呼ばれ、聖書を学び讃美歌を歌い、キリストを信じて歩むようになった人生のことを、「マカリオイ」、「幸いだ!祝福されている!」とこの箇所は告げているのだと思う。

神の言葉の無限の深さの一端に、ギリシャ語原文を読むことでやっと触れることができた。これも私の力ではなく、もう五年も前から、研究会のMさんの召天後にその御蔵書を御家族からいただき、その中にギリシャ語の聖書やギリシャ語の辞書があったことのおかげである。また、片山徹著『新約聖書ギリシヤ語入門』(キリスト教図書出版社)をNさんから以前いただいていたことや、Y先生が折に触れて原文に触れることの大切さを説いてくださっていたことのおかげである。思えば、無教会の集会を通じて、多くの良きご縁に恵まれ、多くの良き本にめぐりあえたことも、「マカリオイ」そのものであったと思う。これも悲しみを通じて得られた慰めであり、励ましの一つだったと思う。
悲しみは、キリストと出会うきっかけとなるのであれば、人生においてたしかに祝福や幸いのきっかけにもつながるのだと思う。「悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。」という御言葉を、今は心からアーメン!と思う。