雅歌 資料(3)

『雅歌③ 夜に神を求めること』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、夜に神を求めること

Ⅲ、神の到来

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに    

 

(左:レンブラント「夜警」 右:古代の神輿or 王の輿)

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「愛する人」=神・キリストとして読む。

前回の二章では明るい美しい神との愛の応答を見た。

 

 

・ 雅歌三章の構成 

 

雅歌三章は、大きく二つの部分に分かれる。前半はおとめが夜に愛する人を探し求めることが描かれる。後半はソロモンの輿が描かれる。

それぞれ象徴的に読むならば、夜に神を求めることと、神の到来が描かれていると読むことができる。

 

1、夜に神を求めること  (3:1~3:5)

2、神の到来 (3:6~3:11) 

 

 

Ⅱ、夜に神を求めること  (3:1~3:5) (旧約1037-1038頁)

 

□ 3:1 ~ 3:4

 

あらすじ:おとめが、夜に「魂の愛する人」を探すが見つからず、町中を歩いて探す。夜警に出会い、愛する人の行方を尋ねる。その後、愛する人を見つけ、抱きしめる。

 

・当時の女性が、夜中に一人で町をうろついて歩き回ることはありえなかったということから、この箇所をおとめの空想上の話とする解釈もある。

 

→ ただし、雅歌そのものを象徴的な内容だと受けとめるならば、この箇所も実際の話か空想かという問い自体があまり意味はなく、何を象徴しているかを読み解くことが重要と思われる。

 

「夜」とは?

 

→ ルルカー『聖書象徴事典』によれば、夜は「恐怖と災厄と死の象徴」(たとえば、エジプトで初子が撃たれたのも夜(出エジプト12;29))である。

 聖書においては、しばしば昼と夜は「光と闇」を象徴する。光は神がいる時、闇は神が見えない時、神が姿を隠した時である(ヨハネ9:4など)。

 

 神を見出だせない時、絶望や死の縁にいる時、いわば「夜」の時にこそ、人はしばしば真剣に神を求める。

 

イザヤ26:9「私の魂は夜にあなたを慕い/私の中で霊があなたを捜し求めます。/あなたの裁きが地上で行われるとき/世界に住む人々は義を学びます。」

 

◇ 3:2a 起きて、町・通り・広場に愛する人(=神)を探す

 

箴言1:20「知恵は巷で喜び歌い/広場で声を上げる」

 

→ 神は巷・町中で人を通して語りかけてくださる。孤独にひとり閉じこもっていても、必ずしも神を見いだせるとは限らない。神は人を通して働く(預言者、士師など。風と麦畑のたとえ)。人に会いに行き、人の言葉に耳を傾けることが大切。

(現在(2022年度推計)ひきこもりの数:日本全国で146万人)

 

ただし…。

 

◇ 3:2b 「愛する人」(神)は見つからなかった。

 

おとめは夜の町中を神を求めてさまよったが、神は見つからなかった。

 

人は往々にして、救いを求め、神を求めても、見つからない時がある。

 

 

◇ 3:3a 夜警に「愛する人」の居場所を尋ねる

 

夜警とは、夜の町の警備をする人々。防犯パトロール&外敵の襲来に備えていた。

ここでは、夜警は何を象徴しているのか?二つの説がありうると思われる。

 

  • 世俗的な価値・秩序・知識の象徴。
  • 宗教的な知恵や知識に富んだ精神的な人々、霊的な指導者。 

参照:マルコ13:33「気をつけて、目を覚ましていなさい。」など。

 

→ 4節の解釈に関わる。

 

  • 説:協会共同訳3:4a「彼らに別れを告げるとすぐ」愛する人は見つかった。

→ 世俗的な価値観や知識の人々にいったんは神について尋ねるが、彼らからは聞けないとあきらめ、世俗的な価値観や知識を捨てて、神そのものを尋ねた時に、すぐに神が見つかった、という意味に読み取れる。

 

  • 説:岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳)3:4a「私は彼らの所から行き過ぎるとすぐに」愛する人を見つけた。

→ 「別れる」「行き過ぎる」と訳されているヘブライ語原文の言葉の原形の “abar” は「行き過ぎる」「通り過ぎる」といった意味。

→ この場合は、夜警を「精神的な指導者・先達」として神について尋ね、その導きのおかげで、「愛する人」つまり神が見つかったということ。

 

※ 人は巷・町に出て、霊的に優れた人や先達に神を見たかどうか、神はどこに見いだせるのか尋ねるほうが、速やかに神を見いだせる。(ex.徒然草の先達の話)

 

→ 内村鑑三、塚本虎二、矢内原忠雄など。今生きている無教会の伝道者の方々。その他、教会や他宗教の優れた人々の言葉も、参考になりうる。(NHK『こころの時代』など)。

 

 

 3:4a-b 「愛する人」を見つけた

 

・「愛する人」を見つけ、抱きしめ、もう離さない。

 

→ 人はしばしば、しばしの別離のあとの方が、また乗り越える障害がある方が、その人の大切さがよくわかり、もう二度と離れまいと決意する。

(数多くの恋愛もののドラマや映画など。ex.『君の名は』、『冬のソナタ』、『はいからさんが通る』、『愛の不時着』etc.)。

 

・神も、一度見失い、一生懸命探した体験は、真の神を知ることにつながり、そのかけがえのなさやありがたさの認識につながると思われる。

 

・人はあまりにも簡単に与えられたものだと、ありがたみがわからず、感謝の心を知らない。かけがえのなさがわかりにくい。

→ 本当にそのかけがえのなさやありがたみがわかれば、二度と見失わず、手放すことがないように、大事にする。拳拳服膺する。

 

 3:4c 母の家に迎える

 

・「母の家」に迎えるとは?

 

→ 母国、母国語、という言葉があるように、自分の国の文化にキリスト教をしっかり迎え入れるという意味に受けとめることができると思われる。

また、そのことと結びつくが、自分の生まれたときからの、もっともくつろげるしっくりした場所が母の家とすれば、自分の心や身体の生活の内奥に神を心から迎え入れることと思われる。

 

・無教会の内村鑑三や塚本虎二らは、日本人の精神文化にキリストを接ぎ木し、受け入れることをめざした。

また、戦後の日本においては、カトリック遠藤周作や井上洋治らも、日本人に合った、日本文化に本当に受けいれられるキリスト教をめざした。

 

→ 各自の民族・各自の文化が、キリストを深く受けとめて、真に自分のものとして受けとめる。

→ また、個人においても、各自の人生において、自分の人生の物語において、キリストを真に生きた神として受けとめ、受け入れる。

 

 

 3:5 雅歌 2:7 と同じ。愛は自発的なものであるべきこと。

 

→ 愛は自発的である。愛は各人の自発性や各自の自由を尊重する。強制はしない。

→ イエス・キリストは、決して武器や暴力で自分の意志を人に強制せず、恐怖で縛ることも、強圧的に命令することもなかった。生涯を通じて、勧告と訓戒を愛によって行っただけだった。常に人の自由と自発性を尊重した。

(c.x. H.MさんがT.Mさんから聞いたという話に感動したこと。真実の宗教とは何か?)。

 

 

Ⅲ、神の到来 (3:6~3:11) (旧約1038頁)

 

□ 3:6~11 あらすじ:ソロモン王が輿に乗ってやってくること。

王の輿=神の到来、喜びの冠。

 

 3:6a 煙の柱とは?

 

ヨエル書3章1~5節:「その後/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。私は、天と地にしるしを示す。/血と火と煙の柱が、それだ。主の大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。/主が言われたように/シオンの山、エルサレムに/また、主が呼ばれる生き残りの者のうちに/逃れる者がある。」

 

→ ヨエル書上記の箇所は、新約の光に照らせば、キリストの十字架の贖いによりすべての人に聖霊がそそがれる預言と読める箇所。

→ とすれば、雅歌のこの箇所の「煙の柱」も、ヨエル書と同様に、十字架の預言であり、神の聖霊が行き来する場所である十字架、さらには十字架の贖いを通して聖霊が降るようになった人を象徴していると読むことができる。

 

 3:6b 没薬、乳香、あらゆる香料

 

→ 雅歌1:13 1章資料参照 没薬

没薬:香料の一種だが、葬式の際に用いられることが多かった。防腐作用があるためミイラづくりにおいても使用された。

乳香:樹脂からつくられる香料。古代エジプトユダヤにおいて神に捧げる香とされた。(出エジプト30:34、レビ記2:2など)。

東方の三博士がイエスの生誕において黄金・乳香・没薬を贈った(マタイ2:11)、それぞれ王であること・神性を持つこと・受難の死を象徴する。

 

あらゆる香料:没薬や乳香以外のさまざまな香り、香料。

→ キリスト者は「キリストのかぐわしい香り」(第二コリント2:15)。キリスト者の存在そのものが香りとなって多くの人に良い影響を与える。存在そのものが贈り物となる。(Y.Mさんのこと。M.Tさん、T.Mさん、等々)。

それぞれの人生や経験や生き方により、さまざまな香りや香り方がある。キリストの香りは、キリスト者を通じて香る。

 

 3:7a  ソロモンの輿、イスラエルの勇士、六十人

 

・雅歌はソロモンの書とされる。箴言、伝道の書もソロモンの書とされる。ゆえに、知恵文学の一つと考えられる。

・ここでは、ソロモンは王の象徴であり、王である神、王であるキリストの象徴と受けとめる。

 

輿:7節の輿と訳される言葉の原語はミッター。通常は寝台と訳される。

 

六十人とは何を意味するのか?

 

1,エジプト脱出の時の男性の数がおよそ六十万人(出エジプト12:37)

2,幕屋に捧げるいけにえの動物の数が、十二と六十。

 

民数記7:87~88「焼き尽くすいけにえの動物の総数は、雄牛十二頭、雄羊十二匹、一歳の雄の小羊十二匹、そのほかに穀物の供え物。清めのいけにえの総数は、雄山羊十二匹。会食のいけにえの動物の総数は、雄牛二十四頭、雄羊六十匹、雄山羊六十匹、一歳の雄の小羊六十匹。以上が、祭壇に油が注がれた後に、祭壇奉献のために献げられた献げ物である。」

 

・1説に立てば、神に従う民のすべてを象徴する。(のちの時代のキリスト者等々

すべてを含めて考えることができる。)

 

・2説に立てば、神の前に捧げられた人、あるいは神の命により犠牲となる覚悟のできている伝道者・信仰者と見ることができる。

エスは七十二人の弟子を任命して派遣した(ルカ10:1)。これは十二と六十を意味していたと考えられる。とすれば、民数記上記箇所は十二弟子と、十二弟子を除くキリストの主要な弟子を予表すると考えることができる。雅歌のこの箇所では、後者を意味し、かつ十二弟子に続くのちの時代のすべてのキリスト者を象徴しているとも考えられる。

 

◇ 3:8  剣

 

エフェソ6:17「また、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

 

→ キリスト者にとっては、神の言葉が「霊の剣」。現実の武器は捨てて非暴力と愛をめざすが、霊の剣は常に磨き、装着する。いつも目覚めていて、サタンの攻撃に備える。

 

◇ 3:9 レバノンの木材の輿

 

・9節の輿と訳される言葉は、7節と異なり、「アッピルヨーン」という言葉で、旧約聖書中この箇所一箇所に出てくるので、正確な意味は不明。四方輿のことだとすれば、日本のお神輿のような、王や神像を載せる道具。

 

レバノンの木材:レバノン杉、香柏。マツ科。高さは40メートルほど。丈夫で腐りにくく、永遠の象徴。最高級の木材。

 

 

◇ 3:10a 銀、金、紫の布

 

銀:贖罪の象徴。月の象徴。

金:王権の象徴。太陽の象徴。

 

→ 夜にも照らし、昼にも照らすこと。神は闇の時も、光の時も、祈り求める者を照らす。

 

ゼカリヤ14:7「それはただ一日であり、主に知られている。/昼もなければ、夜もない。/夕暮れ時になっても、光がある。」

 

→ 神を見出した人には、昼も夜もなく、黄昏の時代にも、燦々とそそぐ神の愛の光が見える。

 

玉座は紫の布:紫色は皇帝の色、貴人の色だった。シリアツブリガイという貝から微量にとれる染料を用いた。

 

エスは受難の時に、紫の衣を着せられた(マルコ15:17)。

 

ソロモンの輿の玉座が紫色だというのは、上記のことを考えれば、十字架の受難と贖いそのものを象徴しているとも考えられる。

 

◇ 3:10b 輿の内側はエルサレムの娘たちの手で愛をこめて仕上げられている

 

・ エクレシア(集会、教会)は、多くの女性の方々の愛によって仕上げられている。もちろん、男性もであるが、歴史上にあまり記録に残らない多くの清らかなあたたかい優しい女性たちが、神の家であるエクレシア・集会を愛をこめて仕上げてきたことを指していると私には思われる。

 

◇ 3:11a シオンの娘たちよ、王を見よ。

 

エクレシアは、キリストをこそ見る。キリストの十字架をこそまっすぐ見よということ。

内村鑑三の若き日、シーリー総長に教えられたこと。自分の心の中や内部を見るのではなく、救いは神を見ること、外なる神を仰ぐこと。我と汝。)

 

 

◇ 3:11b 婚礼の日、母がかぶせる喜びの冠

 

ウォッチマン・ニーは、この箇所を以下のように解釈する。:

「母」は人類を象徴する(イエスは父なる神と母なる人との子だった)。婚礼の日とは、神と信仰者である人とが一つになること。肉なる人類が、神と結合し、神のものとなること、そのことを、神はこの上なく喜ぶ。冠は、聖書においては栄光を象徴する場合と、喜びを象徴する場合と二つあるが、雅歌のこの箇所では後者を意味する。

 

第一テサロニケ2:19「私たちの主イエスが来られるとき、その御前であなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、また誇りの冠となるでしょうか。」

 

→ 神は一人一人を、その愛がめざめるまで待ち、自由と自発性をあくまで尊重して働きかける。一人一人がそれぞれの仕方で神を受け入れ、神を愛する時、そのことを神は何よりも喜び、喜びの冠とする。それは一人一人ごとに行われる。

 

第一コリント6:17「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」

 

☆ 聖書を学び、神の言葉を常に得て、神の霊と交わることで、人は神の霊と一つになっていく。 → 神にとっての喜び、喜びの日、喜びの冠。

Ⅳ、おわりに 

 

雅歌三章から考えたこと

 

・夜の時、闇の時、人は神を切実に求める。それはしばしば、個人の人生にとっては、誰か愛する人を亡くした時、愛する人の死に直面したときである。しかし、その時こそ、最も切実に神を求める時であり、その時に本当に神を見出すのではないか。

(ex. イエスの十字架の死ののちに、弟子たちが本当に復活のイエスに出会ったこと。ダンテとベアトリーチェ内村鑑三、塚本虎二、藤井武『羔の婚姻』 etc.)

 

・夜の時、闇の時。ロシア・ウクライナ戦争や、イスラエルパレスチナの戦争などを見ていると、また日本の長引く不況や政治の低迷を見ると、私たちの心が暗くなることはありうると思われる。しかし、そのような時も、私たちは「魂の愛する人」つまりイエスを仰ぎ、その言葉を愛して受けとめて、生きていきたい。そこに必ず喜びや感謝の人生の歩みがあり、光がそれぞれにある。

 

・イエスを尋ね求め、神の言葉をより深く味わおうとする道において、「夜警」つまり精神的・霊的な先達や目覚めている人は、道中の参考になりうる。内村鑑三や塚本虎二や矢内原忠雄などを、個人崇拝ではなく、きちんと言葉を受けとめて継承していくことは、神を見つけ、神への道をたどる上において、とても参考になる有益なことと思われる。もちろん、それらによらずに聖書だけでも救いはあるし、神は見つかりうると思うが、「すぐ」つまり速さが違うのではないかと思われる。

 

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳)など。

・ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』日本福音書房、1999年

・マンフレート・ルルカー、池田紘一訳『聖書象徴事典』人文書院、1988年

・Bible Hub (http://biblehub.com/