雅歌 資料(8)

『雅歌⑧ 何よりも強い愛』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、受肉した神への愛と信頼

Ⅲ、何よりも強い愛

Ⅳ、再臨の希望とそれまでの生き方

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

    

   

 (左:クリムト「りんごの木」、中央:クリムト「生命の木」、右:ゴッホ「ぶどう園」

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。(※ 象徴とは、ことばに表わしにくい事象、心象などに対して、それを想起、連想させるような具体的な事物や感覚的なことばで置きかえて表わすこと(日本国語大辞典))

前回の七章では、神が信仰者をこよなく尊い存在として愛してくださっているということと、信仰者は、神のものであり、神に求められているという自覚のもとに歩む時に、広々とした野原を歩む自由と逞しさを得られるということを学んだ。

 

・ 雅歌八章の構成 

 

雅歌八章は、便宜的に三つの部分に分けて読むことができる。第一部では、受肉した神への自発的な愛と信頼が語られる。第二部では、愛が何よりも強いものであることが語られる。第三部では、愛によって自発的に神や人から求められる以上に働く生き方と、再臨の希望が語られる。

 

  • 受肉した神への愛と信頼  (8:1~8:4)
  • 何よりも強い愛 (8:5~8:10) 
  • 再臨の希望とそれまでの生き方 (8:11~8:14)

 

 

Ⅱ、受肉した神への愛と信頼  (8:1~8:4)  (旧約1043―1044頁)

 

◇ 8:1  兄弟であったなら…

 

・ 文章をそのまま受けとめるのであれば、兄弟ならば人前でも堂々と仲良く振る舞えるのに、そうではない異性同士は当時の文化規範からすればあまり人前で親しくできない、という内容。

 

※ 神と信仰者との関係の象徴的表現と受けとめるのであれば…

 

⇒ 神が受肉した人間であれば、人から蔑まれることもなく、堂々とその信仰を人前で表現できるし、神と親しく交わることができる、という意味に受けとめることができる。

 

⇒ キリストは、完全な人間として受肉した。完全な神であり、完全な人間。

 

⇒ 目に見えず、いるかいかないかわからない神ではなく、人間にはっきり見えて、触れることができた神だった。

 

コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。」

 

ヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。――」

 

ローマ1:16「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」

 

⇒ 私たちはこの受肉したキリストを通じて、神がいかなる方か、その御心やあり方をはっきり知ることができるし、人々に恥じることなく臆することなく神の御心(福音)を宣べ伝えることができる。神と交わり(コイノニア)を持って生きていくことができる。

 

 

◇ 8:2  

 

母の家:信仰者が神を、心の内奥、自らの民族の文化に受け入れ、血肉化すること(雅歌資料③参照)。日本的キリスト教の必要。

 

香料の入ったぶどう酒:キリストの香りと聖霊に信仰者が満たされること

 

ざくろの飲み物:復活の生命をキリストからいただき、生命力に満ち溢れること。また、その香りや生き生きとした様子を周囲に伝えること。

 

 

◇ 8:3  神は私たちをしっかりと支え、抱いてくださるということ。

(雅歌2:6も同じ表現。雅歌資料②参照。)

 

申命記32:10「主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ/彼を抱き、いたわり/ご自分の瞳のように守られた。」

 

イザヤ40:11「主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く。」

 

イザヤ46:3-4「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」

 

 

◇ 8:4 愛は自発的であるべきこと

(雅歌2:7、同3:5に同じ表現。ここで三回目。雅歌資料②③参照)

 

キリストは、自分への愛や信仰を決して強制せず、あくまで説得や勧告を通じた、その人自身の自発的な愛や決断に委ねる。その人自身の自由意志を尊重し、辛抱強く神への愛をその人自身が気づき自発的に起こすことを待つ。

 

 

Ⅲ、何よりも強い愛 (8:5~8:10) (旧約1044)

 

◇ 8:5  

 

愛する人に寄りかかり:キリスト者は、キリストに寄りかかり、神に寄りかかって、生きていくことができる。

 

マタイ11:29-30「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

 

・荒れ野から上って来る出エジプトにより奴隷の身から自由なカナンの地へと移ったように、信仰者は死から生へ、罪から自由へ移っている。

 

・それは誰か? ⇒ キリストを信じる者。

 

りんごの木:善悪の知識の木のことか?(後世の図像ではりんごの木として描かれることが多い)あるいは、命の木のことか?(どちらの木も創世記2:9に登場)

 

⇒ ここでは、キリストが受肉して生まれた、人類の歴史のことを「りんごの木」は指しているようにも思われる。この地球の長い生命の歴史(進化系統樹)、その命の木の中に、神は受肉して人間として生まれてくださった。

 

 

◇ 8:6  

 

・印章のように:ハガイ2:23を踏まえれば、神の選びのこと。

 

ハガイ2:23b 「私はあなたを私の印章とする。私があなたを選んだからだ ―万軍の主の仰せ。」

 

⇒ さらに言えば、神の真実の愛の印が心に押されて映ったものが信仰。ギリシャ語のpistis(πίστις)は、「真実」と「信仰」の両方の意味がある。これらは決して別のものではなく、神の真実の愛を疑いなく受け入れた心が、そのまま信仰であり、先に存在するのは神の真実の愛であり、それを受け入れるのが信仰。

 

⇒ 雅歌8:6のこの箇所では、信仰者(おとめ)のほうが、自分の愛や存在を忘れないで欲しいという意味で、印章のたとえを用いている。これは信仰的に言えば、本当は逆であり、上記のとおり、神の真実の愛の印章が信仰者の心に刻印された、そのままのことを信仰というと受けとめるべきだと思われる。

ただし、自分を印章として神の心や腕に記して欲しいとまで願う信仰者の心は、神は聞く前からすでにご存知であり、私が願う前から神の心には信仰者ひとりひとりの存在が刻みつけられていると思われる。

(あるいは、命の書にその名を記されたいという願いと解釈すれば、大切な願いとも思われる(イザヤ4:3、フィリピ4:3、黙示録3:5))

 

イザヤ49:16「見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。/あなたの城壁は常に私の前にある。」

 

愛は死のように強い:死は誰にとっても最強のものであり、正しい人にも悪人にも、富者も貧者も、権力者も庶民も、皆最後は死に向かう(参照:コヘレト9:2-3)。始皇帝のように不老長寿を求めても、どんな権力者にも死には勝てない。しかし、愛は、この死と同じく強く、さらに言えば、唯一死に打ち克つことができる力である。その証拠が、キリストの十字架と復活。

 

Ⅱテモテ1:10b 「キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。」

 

熱情は陰府のように激しい:熱情を意味するヘブライ語のキナーは、「ねたみ」とも訳される。陰府を意味するヘブライ語はシェオル、黄泉の国、地下の死者の世界のこと。死が激しく人をとらえ連れ去るのと同じように、神の熱情や嫉妬は激しい。それほどに神の愛は熱烈で、時には人を打ち砕くほど大変な目に遭わせて、その過程を通じて真実の神の愛への信仰に目覚めさせる。

 

愛の炎は熱く燃える炎:神は燃える炎のような愛と熱情の持ち主。冷え切った心や無関心や冷淡や虚無と闘い、それらに抵抗し、愛と情熱をもって何かを成し遂げるのが、神の御心であり、その御心を実現しようとして生きる人。

 

出エジプト3:2「すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。」

 

 

◇ 8:7  

 

・愛は大水や洪水にもびくともしない:キリストの愛を土台としている者は、世の荒波や自分の心の中の欲望の大水にも打ち克ち、しっかりと生き抜いていくことができる。これは自分の力ではなく、神の支えのおかげである。

神の愛はすべてに打ち克ち、全てから守り、信仰者を導く。

 

マタイ7:24-25「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」

 

愛は金では買えない:愛を金で買おうとする者は軽蔑を得るだけ。どれだけ金があっても、愛は買えない。金持ちでも家族や配偶者や周囲との関係が冷え冷えしていれば、人は幸せにはなれないと思われる。人生の満足や充足感や幸せを与えるのは愛であるが、愛は金銭や物質では得られないしはかれない。金銭的な富よりも、神の前で豊かであることの大切さ(ルカ12:21)。豊かさとは、神や隣人との愛の交わり(コイノニア)の豊かさ。

 

◇ 8:8  

 

私たちの妹は…:自分より後の世代の信仰者のこと。神との愛の交わりに入るために、後の世の人々のために何ができるか。

 

◇ 8:9

 

銀の胸壁:胸壁は屋上などにめぐらす欄干状の壁、あるいは弾や矢を避けるための城壁の上部の部分。銀は象徴的に受けとめるならば、罪から清められた状態。つまり、後世の信仰者一人一人各自が自分の信仰や人生という城壁を築いていく時に、その助けとなり指針となるような、清められた信仰や生き方や聖書の解説・解釈を遺し伝えること。

 

レバノン杉の扉:神に心を開く時に、最も良い扉となるような、美しい清められた言葉や生き方や指針を後世に遺すこと、伝えること。

 

内村鑑三『後世への最大遺物』=「勇ましき高尚なる生涯」(勇気を持った気高い生き方の人生)

 

 

◇ 8:10  

 

・私は城壁、乳房は塔:自分自身の人生は、ひとつひとつの思いや行いというブロック煉瓦を積み重ねてつくる。聖書を学び、信仰に生きた時間や思いや日々の積み重ねは、美しい城壁となる。その城壁の監督者・設計者は神。また、そのような信仰者の胸や心は、神に向かい、天に向かう高い塔のように、時流を抜きん出て、俗世を高く抜け出たものとなる。

 

・神の目に平和を見出す:信仰者はキリストのまなざしやキリストの魂に平和を見出す。キリストが人々の心に本当に平和・平安をもたらす。キリストによって平安を与えられている人が集まって、はじめて真の平和となる。

 

ヨハネ14:27「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

 

ヨハネ20:19、21、26「あなたがたに平和があるように」

 

詩編122:7「あなたの城壁の内に平和があるように。/あなたの城郭の内に平安があるように。」

 

 

Ⅳ、再臨の希望とそれまでの生き方(8:11~8:14)(旧約1044―1045頁)

 

◇ 8:11

 

ソロモン:雅歌におけるソロモンと羊飼いの若者は、象徴説に立てばどちらも神・キリストの象徴で同一人物であり、戯曲説に立てば別人。ここでは、ソロモンと羊飼いの若者は別人のようであるが、父なる神と子なるキリストと受けとめれば、象徴説でも意味は通じると思われる。王である神、主権者である父なる神の象徴。

 

バアル・ハモン: 岩波旧約聖書翻訳委員会の脚注によれば、聖書中このような地名は存在せず、ヘブライ語の意味は「多くの(富の)所有者」という意味。

 

ぶどう園:エクレシア(集会、教会)の象徴。番人は、それぞれの牧者。万人祭司説に立てば、すべての信仰者がなんらかの意味で、それぞれの立場における番人であり、牧者。すべての人が本当はそれぞれ自分の隣人の番人(創世記4:9)。

⇒ ノルマとして、銀一千枚

 

 

◇ 8:12

 

私の前には私のぶどう園:人は各々、自分の目の前にある役割を果たし、自分に与えられている場やエクレシア(集会)を大切にすれば良い。その地道な日々の積み重ねや、そこでの神からの養いやお育てが一番大事なことで、必要があれば神から必要な時に用いられる。派手な役割を果たす人も、地味な目立たない役割を果たす人も、神の前では優劣はない。モーセダビデも、エッセイやヨセフも、同様に神からの大切な使命を果たした重要な人。

 

ソロモンには銀一千、収穫物の番人には銀二百:前節ではノルマは銀一千枚だったが、「私のぶどう園」の番人であるこの若者は、合計で銀千二百枚をソロモンと他の番人に与えている。これは、定められているルールや期待されている以上に、より多くを与える生き方を指していると思われる。神の真実の愛に触れた人は、おのずと自発的に自由な愛から、より多くを与え、より多く無償で愛する人になる。

 

※ タラントンのたとえ(マタイ25:14―30)、ムナのたとえ(ルカ19:11-27)。人は神から与えられた力や愛や能力をできる限り人のために使い、自分に与えられている賜物を活かすことが神から期待されている。

 

マタイ10:8b 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

 

 

◇ 8:13

 

あなたの声を聞かせてください:神は、他ならぬ信仰者その人、他ならぬ私の言葉や声を聞きたがっている。各自一人一人についてそうである。ゆえに、自分自身の信仰や証や感想・感話、信仰告白を、恥ずかしがることなく、エクレシアにおいて機会があれば語ることを、エクレシアも神も喜ぶ。

 

◇ 8:14

 

私の愛する人よ、急いでください:象徴的に受けとめるならば、再臨への待望。再臨の主が生命に満ち満ちてやって来ることへの期待と願い。

 

⇒ K.K先生の再臨についてのお話(2024 3/5):再臨信仰は特定の危機的状況だけに関わるのではなく、人は誰しもが日常という終末を生きている。老いや病や死という、各自が日常という終末を生きている。その中で、先立った人に再び会えるという希望や、この世界や人生や歴史が無意味ではなくて完成に向かっているという希望や意味を与えてくれるのが、キリストの再臨という信仰。

 

 

Ⅴ、おわりに 

雅歌八章から考えたこと

 

・愛は死という最もこの世で強いものと同等に強く、もっと言えば死を滅ぼし死に打ち克ち永遠の生命をもたらす最強のものであること。この福音のメッセージと同じことが旧約聖書である雅歌の中にはっきり書かれていて、感銘深かった。

 

・また、神の愛は炎であり、熱情であり、刻印であり、自発的にこの神の愛を知り、受け入れ、信頼する人は、神によりかかり、神の愛を土台とし、安心して何ものにも押し流されず生きていけること。これは自分の力ではなく、神の愛に心を暖められ、神の炎によって自分の心が燃えて、はじめてできること。

 

・このような神の愛に触れた者は、自発的に、期待されている以上に、与えられている以上に、自ら人々に愛を与える者となること。後世の人に、より良いものを、気高い生き方や聖書の学びの道筋を、渡し遺す者となること。

 

 

※ 雅歌全体を通して考えたこと・学んだこと。

 

・神に立ち帰り、神と一つになることを、人は繰り返し繰り返し生涯の中で繰り返していけば良いこと。すぐに神からは離れ見失っても、また立ち返れば良い。

 

・神はあるがままの自分を、尊い美しい存在として愛し讃えてくださること(罪人をキリストの十字架の贖いを通して)。

 

・神と信仰者の交わり(コイノニア)は、かくも生き生きとしたみずみずしいものであること。春の花々が咲くようなものであること。もし、そうではない、硬直した冷え切ったひからびたものであるなら、それは雅歌が示す聖書の信仰とは程遠いものと思われる。

 

・愛は死よりも強いものあるので、私たちは何も恐れず、キリストの再臨を信じ、安心と希望をもって、日々の眼の前の役割を果たし、自分のぶどう畑を大切にし、神や隣人との豊かな愛の交わり(コイノニア)に生きれば、それが一番素晴らしいこととであること。

 

「参考文献」 

聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳、他。 

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』日本福音書房、1999年 他。