マラキ書 資料(3)

『マラキ書(3) 義の太陽と十分の一の捧げもの』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、使者とメシアの到来

Ⅲ、十分の一の献げ物について

Ⅳ、神を蔑ろにする者と神を畏れる者

Ⅴ、義の太陽

Ⅵ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに             

   

 ・前回のまとめ:マラキの生涯は不明。おそらく紀元前六~五世紀頃、捕囚帰還後やや経った時代の人物。第一章では、イスラエルエドムを対照的に論じ、神がイスラエルを選び愛していることと、にもかかわらず人々が神を敬わず神に対して不誠実であることへの批判が告げられる。第二章では、レビと結ばれた命と平和の契約がないがしろにされていることへの批判と、離婚への批判が述べられ、さらに不信の言葉(善悪無用論と神無用論)が神の心を煩わせているということが告げられた。

 

□ 第三章の構成 

 

第一部 使者とメシアの到来(3:1~3:5)

第二部 十分の一の献げ物について (3:6~3:12)

第三部 神を蔑ろにする者と神を畏れる者(3:13~3:18)

第四部 義の太陽(3:19~3:24)

 

 マラキ書第三章は、大きく四つの部分に分かれる。

 

まず第一部では、道を整える使者とメシアの到来が告げられる。第二部では、十分の一の献げ物をすることが勧められ、そうすれば祝福がもたらされることが告げられる。第三部では、神を蔑ろにする者と神を畏れる者の区別が付けられ、後者は神の記憶の書に記されることが告げられる。第四部では、主の日つまり最後の審判の日と、義の太陽つまりメシアの到来が告げられ、その前に預言者エリヤが遣わされ、神と人の心の仲介をすることが告げられる。

 

 

Ⅱ、使者とメシアの到来(3:1~3:5) (旧約1476~1477頁)

 

◇ 3:1  

道を整える使者:新約聖書では、洗礼者ヨハネのことを予言している箇所と受けとめた(マルコ1:2。マルコにはイザヤ書と書いているが、実はマラキ書のこの箇所)。

 

キリスト教では、イエスのことと受けとめる。突然、やって来られる。

契約の使者:使者と主のどちらを指すか。主の新しい契約の前触れの使者ととれば前者、新たな契約を神から伝えるものととれば後者。

 

※ キリストの時代が来ようとしていることをマラキは明確に預言。神はどこにいるのか?という2章での問いに対し、使者とメシアを遣わし神は応えた。

 

◇ 3:2 

精錬:金属の純化、清めること。聖化のこと。人生はいったん信仰を得た(義認)ののちは、一生を通じて聖化の過程。神のかたちを少しずつ回復し、神の子としてふさわしい者に変えられていく道のり。(参照:ゼカリヤ13:9、神と応答する関係に入っていくこと。)

灰汁:原語のウーカボーリットは、英訳だとsoap、つまり石鹸と訳される。岩波訳脚注によれば、植物を焼いた灰には炭酸カリウムが含まれ、それにオリーブ油を加えたもので、洗剤として使われた。

 

※ キリストは、火で精錬するように、石鹸で洗うように、罪から私たちを清めて下さる。

◇ 3:3   新改訳2017:「この方は、銀を精錬する者。/きよめる者として座に着き、/レビの子らをきよめて、/金や銀にするように、彼らを純粋にする。/彼らは主にとって、/義によるささげ物を献げる者となる。」

 

協会共同訳「供え物を正しく献げる」⇒新改訳2017「義によるささげ物を献げる」 

原文ビスダカーは「義において」の意味。義において捧げる、義によって捧げる、と考えれば、神の義によって義認された人々が、みずからを生きた捧げものとして、つまり霊による礼拝や生き方によって神に捧げるということにも解釈できる。義認と聖化および義認の先行性を示すこととなる。

 

◇ 3:4  

ユダとエルサレム都市とそれ以外の人両方をすべて含むということ。東京と東京のみではない日本全体、というようなもの。

 

昔の日々にそうであったようにそれらの人々が主に喜ばれるアブラハムヤコブモーセらのように、義人として神から認められ喜ばれる存在となる。キリストを信じる私たちもまたかくの如し。

 

◇ 3:5  フランシスコ会:「裁きのために、わたしはお前たちに近づく。/ためらうことなく証人となる。/魔術を行う者、姦淫する者、偽りの誓いを立てる者、また、不正な賃金で、他国の者とやもめと孤児を虐げ、わたしを恐れない者に対して、/「わたしはためらうことなく証人となる」

 

協会共同訳「告発する」⇒フランシスコ会訳「証人となる」

 

呪術・魔術:他人を呪ったり操作しようとしたり、迷信に走り、自己中心的な欲望をラクしてかなえようとする態度に生じる罪の問題。悪霊との交わり。

 

姦淫:参照・ホセア書、マラキ2章など。聖書では結婚の神聖が重視され、また神と人間の関係を結婚にたとえ、相互に忠実で誠実で愛のある全人格をあげた関係であることを求めている。それに反する行為の問題。

 

偽りの誓い:偽証や虚偽。現代社会でも虚言虚偽や詐欺の横行。

 

寡婦・孤児・寄留者:中東地域では古代より、王が寡婦・孤児の守護者とされてきた。さらに寄留者への保護を重視しているのが旧約聖書の特徴。ヘブライ人の出エジプトの伝承がなんらかの実体験であったことが背景にあると考えられる。現代日本でも外国人就労者に対する人権侵害や劣悪な環境の問題がしばしば発生している。

 

※ 上記の罪は、聖書ではいわば神に対する罪とされ、神をないがしろにすることとされるが、これらの罪を犯しながら、にもかかわらず人々が神を恐れないということがこの節では指摘される。 ⇒ 現代日本も似たように神への恐れの欠けがちな社会ではないか。

 

 

Ⅲ、十分の一の献げ物について (3:6~3:12) (旧約1477頁)

 

◇ 3:6  神は永遠の存在であり、神を信じる人々も神によって永遠のいのちが与えられる存在であり、また神の永遠の配慮や愛の対象であること。

 

◇ 3:7  神に立ち帰れ、そうすれば神も人に立ち帰ってくださる。

参照:ゼカリヤ1:3。神は人が立ち帰れば、ただちに応答してくださる(ヨナ)。

 

◇ 3:8-10  どう神に立ち帰れば良いか? ⇒ 十分の一税の献納

 

十分の一税とは?:収穫・収入の十分の一を、レビ人・祭司に献げること。十二支族の中でレビ人だけ祭司の一族として嗣業の土地を持たず、この十分の一の捧げもので生計を立てることとなっていた。申命記民数記に規定される。新約の時代では、この十分の一税の他に、ローマ帝国人頭税や通行税を納めねばならず、庶民は重税に苦しんだ。また、中世ヨーロッパではローマ教皇庁が律法の十分の一税を根拠に十分の一税を徴収し莫大な収入を得た。

 

※ ただし、もともとの申命記の記載では、十分の一税は、レビ人や祭司などの宗教者に対する捧げものだけを意味しておらず、寄留者・孤児・寡婦に対して分配すべきものだった。つまり、同じ社会に生きる社会的弱者に対する再分配の拠出を意味していた。

 

申命記14:28-29「あなたは、三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置かなければならない。あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい。そうすれば、あなたの神、主はあなたの行った手の業すべてを祝福されるであろう。」

 

申命記26:12-15「十分の一を納める三年目に、すべての収穫の十分の一を納め終わって、レビ人、寄留者、孤児、寡婦にこれを施し、彼らが町の中で食べて満足したとき、(―中略―)あなたの聖なる住まいである天から見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが私たちの先祖に誓われたとおりに、私たちに与えてくださった土地、乳と蜜の流れる地を祝福してください。」

 

⇒ ※ ゆえに、マラキ書の十分の一の献げ物の規定も、レビ人や神殿に対するものに限られず、申命記に規定するように社会的弱者への再分配を意味していたと考えられる(両方十分の一の献げ物が祝福と関連付けて述べられている)。

 

※ 収入の十分の一を神のために奉仕している人々や社会的弱者のために献げ、再分配を行う時に、その人や社会に対して神が天の窓を開き祝福をそそぐことが約束されている。

 

※ 人は神から祝福されたいのであれば、まずは人に与えること。(参照・ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

◇  3:11-12

 

ばった:原文は「食い荒らすもの」であり、特にばったとは言及なし。ただし、ばったと受けとめるならば、参照・ヨエル1:4。

作物を食い荒らすイナゴなどを指すとも考えられるが、象徴的に受けとめるならば、人の心や魂を食い物にしたり荒廃させるさまざまな有害な情報や心ない人の態度を指すとも受けとめられる。魂に有害無益なそれらからきちんと自分の心を守っていくことの大切さ。ただし、人が自分の力で自分の心を守ることには限界がある。

 

⇒ 神はそのようなばった/食い荒らすものを𠮟りつけ、守ってくださる。

 

※ 幸せな者・喜びの地となる。

Ⅳ、神を蔑ろにする者と神を畏れる者(3:13~3:18)(1477~1478頁)

 

 3:13 参照・マラキ2:17。神を煩わせ、神にとって激しいと思われる言葉に、人間はしばしば全く無頓着で、無自覚であること。

 

 3:14-15 神への奉仕を無意味と考え、神は人間に無関心で無関係だと考える態度。また、悪人が栄え罰をまぬがれると考えること。

 神の心を最も痛める態度。

⇔ 神は人間の嘆きをきちんと目にとめ救う(出エジプト2:24-25など)。

 

□ 正直なことを言えば、マラキ3:14-15は私自身がしばしば思っていたことであり、今でも時折思うこと。ただし、14節の部分に関しては、神は人の嘆きに目をとめる慈しみ深い存在と以前に比べればはるかに感じているし思うようになった。しかし、15節の部分に関しては、世の中の権力者などを見ると、しばしばそう思うことなどもある。

 

⇒ ただし、歴史を見れば、悪や悪人は、最終的には審判を下される。

  1. ナチスドイツ、ヒトラーetc. スターリンの場合は、ヒトラーのように戦争に負けたり滅ぼされることはなかったが、臨終の時にいったん死んだと思われたのが、また起き上がり、恐怖に満ちた目で周囲を見回してから本当に死んだという逸話を考えれば、霊的には審判があったと思われる。

 

 3:16  新改訳2017「主の前で記憶の書が記された。」

 

 記録の書・記憶の書:参照・黙示録20:12「また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。」

 

□ コーランにも人々の生前の行為が記された巻物が出てき、それにもとづいて最後の審判がなされることが述べられる。仏教においても無量寿経には「神明記識」という表現で生前の行為はすべて記録され記憶され、死後はその行い(業)に従って善いところや悪いところに生まれ変わっていくと記されている。

 

◇ マラキ書のこの箇所では、主を畏れる人々が語り合えば、神が耳を傾け、記憶してくださることを告げている。

⇒ 神を畏れるとは、単に恐れるということより、心から尊敬し、愛情の誠を尽すこと(参照・マラキ1:6、父や主人よりも神を尊んでいるかどうか)。

 

⇒ 主を畏れる・愛する者たちが互いに語り合うとは、エクレシア(集会・教会)のこと。信仰は孤立したものではなく、エクレシアにおけるコイノニア(交わり)が重要。エクレシアにおいて神の霊は働くし、神は覚えて記憶してくださる。

 

 3:17  

神の宝となる:「宝の民」(申命記7:6、同14:2、同26:18)。

母親がたとえ赤ん坊を忘れることがあったとしても神は忘れず、その名を手のひらに刻み愛してくださる(イザヤ49:15-16)。

 

子を憐れむように神は憐れんでくださる:神の子となり、神がわが子と同様に慈しんでくださること。参照・Ⅰヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。」

 

 3:18  正しき者/悪しき者、神に仕える者/仕えない者、神を畏れる者/畏れない者、の区別をきちんと知ること。

 

 前者には祝福が、後者には滅びが、それぞれ訪れることを知ること。(参照・マタイ5:3~12「幸いなるかな」(Μακάριοι)

 

 

Ⅴ、義の太陽(3:19~3:24)(旧約1478頁)

(マラキ3章の19節以下は、新改訳2017やNIVでは第4章とされている。)

 3:19  主の日=最後の審判の日。 

 

 3:20  義の太陽

 

バルバロ訳「だが、私の名を恐れるものには、正義の太陽が昇り、その翼には、救いがある。おまえたちは、小屋にいる小牛のようにとびだして跳ねまわるだろう。」

 

フランシスコ会「しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、/正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。/お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳び踊る。」

 

※ 太陽は、人の心をあたため、生かすことのたとえと思われる。また、神の慈愛が誰にでも等しくそそがれること、および闇の中でも輝く命の光を現していると思われる。義の太陽=人々に義を与えるキリストの十字架の愛。

 

マタイ5:45b「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

 

ヨハネ1:3-5「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」

 

その翼には癒し・救いがある:親鳥が卵やひなを翼であたためるように、神は人を愛し、守り、育む(参照・マタイ23:37)。

 

牛舎の子牛のように踊り出て跳ねまわる:喜びのたとえ。参照・ハバクク3:18-19。

聖書には800回以上喜べや楽しめなどの喜びの言葉が書かれている(『愛少女ポリアンナ物語』)。

「喜びなさい。大いに喜びなさい(χαίρετε καὶ  ἀγαλλιᾶσθε)」(マタイ5:12)

 

 3:21 主の日には裁きがあり、悪は踏みつけられる。

 

 3:22 律法の想起。律法の精神であるところの、神を愛し隣人を愛し、神のかたち・似姿として、聖なる者となり生きること。

参照・マタイ5:18「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。」

  

 3:23 主の日が来る前に預言者エリヤが再び来る:新約聖書では、洗礼者ヨハネがこの主の日の到来の前にやってくる再来のエリヤだと受けとめている(マルコ9:12-13)。

  

 3:24 預言者エリヤは、神(父)の心を人(子ら)に向け、人の心を神に向ける、仲立ち・仲介を行う存在。人類の滅亡を避け・防ぐために活動する。

 

 神と人との間をつなぎ、キリストのことばや教えを人々に伝え、人々の罪を神にとりなし、祈る人は、いわばエリヤのような存在。

 

⇒ 日本にも、多くのそのような人々が現れたのではないか。内村鑑三、塚本虎二、矢内原忠雄、三谷隆正、高橋三郎、吉村孝雄、その他・・・。

そのありかたはさまざまなで、働き方は千差万別でも、人々の心を神に向けさせ、神と人との間をとりなそうとして生きた・生きる人々に対しては、エリヤに対するように敬意を払って大切にすべき。

 

 

Ⅵ、おわりに 

 

マラキ書三章から考えたこと

 

・神が私たちを洗い清め精錬してくださる。義認ののちの聖化にあずかることのありがたさ。

 

・十分の一の献げものは、レビ人に対する再分配であるのと同時に、寄留者・孤児・寡婦など社会的に弱い立場にある人への再分配であったこと。また、そうした人に与える行為が、祝福の雨を降らすきっかけとなること。

 

・人の人生は神の目の前にあり、記憶の書にとどめられること。義人と悪人の区別とそれぞれの最終的な結果の区別と認識の重要性。

 

・主が義の太陽であり、命の光で、照らしあたためてくださることのありがたさ。そのありがたさや感謝に、おのずと十分の一の捧げものなどをすること。

 

十二小預言書全体の学びを通して

 

・六年ほどかけて、十二小預言書をすべて読み通す。集会の皆様と神に感謝。

 

・北イスラエル滅亡の前から、南ユダのバビロン捕囚や捕囚帰還後までの、紀元前八世紀から紀元前四世紀頃の、おそらくは少なくとも三百年ぐらいの間に、十二人の預言者がそれぞれに異なる立場や時代から行った預言。それぞれの時代背景の面白さ。列王記・歴代誌・エズラ記・ネヘミヤ記との関連。

 

・と同時に、それぞれの時代背景や預言者たちの個性の違いとともに、明らかに一つの神聖な霊の発動を感じさせる、密接な関連性と一貫性。

 

・聖書は一つの有機体であり、どの箇所でも深く読めば聖書全体とつながり、聖書全体を読むことにつながる。聖書には一つも無駄なところはなく、どの箇所も深い神の御心をうかがうための貴重な箇所となりうる。

 

・聖書の他の箇所と比較した時、十二小預言書は、社会正義の重視(アモス、ミカ)が顕著に見られるところが特徴と思われる。

・また、絶望的な状況においても決して絶望せず喜んで生きていく姿(ハバクク、ヨエル)、再建への意志(ハガイ)、受難のキリストについての明確な預言(ゼカリヤ)、悪への怒り(オバデヤ、ナホム)、最後の審判への明確な意識(マラキ、ゼファニヤ)、神との愛(ホセア)、神がイスラエルを超えてあらゆる民族や動物を愛していることへの明確な告知(ヨナ)も印象深い。

・これらは、社会的な正義感を持たず、己れ一人だけの安心や安逸を求める態度とは異なり、また時代に絶望して無気力に陥る態度とも異なる。神の御心がいかなるものであるか、聖書全体を正確に読み、読み誤ったりすることがないようにするためには、十二小預言書は極めて重要な内容と思われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。