雅歌 資料(6)

『雅歌⑥ 唯一の存在としての愛』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、神と一つであること

Ⅲ、唯一の存在としての愛

Ⅳ、知らぬ間に信仰に導かれること

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

     

(左:エルサレム、中央:嘆きの壁、右:ティルツァ )

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の五章では、再臨を待つ中間の時代においても、神を愛し神を友として生きていくことができることを学んだ。

 

 

・ 雅歌六章の構成 

 

歌六章は、三つの部分に分けて読むことができる。第一部では、五章の内容を受け、おとめたち(さまざまな人々)が神はどこにいるのか?と尋ね、おとめ(信仰者・エクレシア)は若者(神・キリスト)は園で羊を飼っていると答え、その神と一つと述べる。第二部では、神がおとめを唯一無二の存在として愛していることが告げられる。第三部では、信仰者は、知らぬ間に、エクレシアという神の車に乗せられ、神の導きと支えに恵まれていることが告げられる。

 

  • 神と一つであること  (6:1~6:3)
  • 唯一の存在としての愛 (6:4~6:11) 
  • 知らぬ間に信仰に導かれること  (6:12)

 

 

Ⅱ、神と一つであること (6:1~6:3)  (旧約1041頁)

 

◇ 6:1 

 

・5章の内容を受けて、再臨の時まで神を待ち、神を愛するという「おとめ」(信仰者・エクレシア)に対して、その神はどこにいるのか?と「おとめたち」(他宗教の人たち、あるいは世俗的な人たち)が尋ねる。

→岩波旧約聖書翻訳委員会訳(以下、岩波訳と略称)の脚注では、からかいの調子と解釈している。

→必ずしもからかいとのみ受け取らなくても良いと思われる。むしろ、少し興味が出てきた人たち、といったところか。

 

◇ 6:2  園、香料:前回5章の資料参照。エクレシア・信仰者の魂と、キリストに薫ぜられた人生の香りのこと。

 

群れ:羊飼いである主(ヨハネ10:11「私は良い羊飼いである」)

百合:岩波訳では「睡蓮」。信仰を集める、救われた魂を集める、清らかな魂を集める、といった意味か。

 

◇ 6:3  「私は愛する人のもの。私の愛する人は私のもの。」

 

→ 信仰者は神のものであり、神は信仰者のもの。神との合一。

 

よく似た箇所、すでにあり。

 

雅歌2:16「愛するあの方は私のもの。私は、百合の中で群れを飼っているあの方のもの。」

 

→ 繰り返し、人は神に立ち返り神と一つになり、しばしばまた迷いや罪のゆえに離れてしまい、また立ち返って一つとなることを繰り返す。ゆえに雅歌は神と一つになることを繰り返し書いている。

 

Ⅰコリ3:23a「あなたがたはキリストのもの」

 

Ⅰコリ6:17「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」

 

ガラテヤ2:20a-b「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」

 

「あの方は百合の中で群れを飼っています」

→ 主キリストは信仰のある魂を集め、信仰者を導き率いる。

 

 

Ⅲ、唯一の存在としての愛 (6:4~6:11) (旧約1041~1042頁)

 

※ 神が信仰者・エクレシアを唯一無二の存在として愛する愛の言葉が告げられる。

 

◇ 6:4

 

ティルツァ:イスラエル王国の首都だった町(B.C.900-B.C.870)。北イスラエル王国は、シケム→ティルツァ→サマリアと遷都した。バシャ、エラ、ジムリ、オムリの治世の時代の首都(オムリ王の時に遷都)。

 

ティルツァに言及されるので、ティルツァ首都時代に雅歌の少なくとも一部は遡るのではないかとも推測される。

 

→ その美しさは、今日の遺跡からは想像が難しいが、バシャ朝あるいはオムリ朝における栄華により美しい都市だったと推測される。

 

→ 信仰者・エクレシアは、最も美しい都市のように美しいとされる(今日で言えば、パリやウィーンやヴェネツィアのように美しいといったところか。)

 

エルサレムダビデ王朝(統一王朝および南ユダ王国)の首都。バビロン捕囚中、および帰還後、さらにはディアスポラの後も、ずっとユダヤの民にとって精神的な都であり続けた。

 

→ 神の選民であるユダヤの民の都であり、神の特愛の都市エルサレム。そのように、神の目からは信仰者・エクレシアは愛しいかわいい存在だということ。

 

 

※ 若干の紹介エルサレムについて

 

エルサレムの詩―イェフダ・アミハイ詩集』(思潮社、2004年)

 

現代のエルサレムを風刺やユーモアを散りばめながら謳った詩集。

その中の一節:

 

「ぼくの心のなかに平和がないから

外には戦争。

ぼくの内なる戦争を 心のなかにとどめておけなかった。」

 

→ 重要な言葉と思われる。自らの心を見つめること。

c.f.「平安から平和が生まれる。その反対ではない。」(塚本虎二)

 

イスラエルパレスチナのどうしようもない確執。

(参照・Netflix動画『シモン・ペレス 生涯の軌跡 -夢を信じて-』、同ドラマ『ファウダ ―報復の連鎖』)

 

エルサレムもガザも、聖書に登場する都市。

2023年10月7日以来のイスラエル・ガザ戦争も、かつてない事態。

 

10.7のテロでは、イスラエル人1200人が殺害され、240人以上が人質になった。

今も136人が人質になっている。ガザの市民の死者数は2万4000人以上とされている。

 

人質の解放を願うイスラエルの家族や支援者たちの愛:

 

1000 Israeli musicians sing with one voice, BRING THEM HOME! - Homeland concert (カイザリア円形劇場、2023年12月29日)

https://www.youtube.com/watch?v=1aIyZnFbOu0&list=RD1aIyZnFbOu0&start_radio=1

 

→ 今日、最も重大な問題を抱えているイスラエルエルサレムだが、神は格別の愛をそそぎ、問題を抱えたエルサレムをそれらごと愛し、悲しみ、その痛みを痛みとされていることと思われる。

 

BFPという団体の話:ガザ地区のクリスチャン二百人が避難先で、キリストが現れる同じ夢を見たとの証言。

 

ヒズボラ戦闘員キリストと出会う「憎しみから赦しへ」

https://www.youtube.com/watch?v=psRvkxOYnjQ&list=WL&index=5

 

モサブ・ハッサン・ユーセフ、青木偉作訳『ハマスの息子』(幻冬舎、2011年)

→ ハマス幹部の息子の著者が、キリスト教に改宗した実話。

 

⇒ ティルツァやエルサレムのような、都市のように人を美しいと思い、愛すること。神の目には、一人の命と大都市の多くの命は等価である(ルカ15章、見失った一匹の羊、無くした一枚のドラクメ銀貨、放蕩息子の帰還)。

 

そうであれば、そのように大切な一人一人の命の集まった都市もまた、神の哀れみや慈愛の対象。

 

ヨナ書4:11「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」

 

マタイ23:37「「エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

 

⇒ エルサレムとガザの平和を祈る。キリストのみどうにかできる事柄。

⇒ 私たち自身が平安の人となること。

 

軍旗:ニドガロート。岩波訳「蜃気楼」。

 

雅歌2:4b「私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。」

→ キリストの愛の旗印のもとにいる人。

(蜃気楼だとすれば、神の栄光を反射した存在で、かつ儚い存在ということか。)

 

恐ろしい:アヨーム。聖書の中で、雅歌の他にハバクク1:7以外に用例なし。ハバクク1:7では「身の毛もよだつ」と訳されている。

→ 今で言えば、「鳥肌が立つ」といった意味か。

 

キリストの愛の旗のもとにある、十字架の信仰を持つ人は、神にとって鳥肌が立つほど感動し、重要な存在だということ。

 

詩編139:13-14「まことにあなたは私のはらわたを造り/母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。/私は畏れ多いほどに/驚くべきものに造り上げられた。/あなたの業は不思議。/私の魂はそれをよく知っている。」

 

◇ 6:5  目をそらしてください:照れる恋人は、相手の視線を恥ずかしがる。それほどに、神は初々しい生き生きとした愛や恋心を信仰者に抱くということか。あるいは、そんなに必死に神を向いて祈らなくても、いつもちゃんと愛して見守っているので安心しろということか。

 

髪は山羊の群れのよう:生命力に満ちている様子。(雅歌4章資料参照)

 

◇ 6:6  歯は洗い場からの羊の群れ:白い歯。罪から清められた言葉。

 

それらが双子を産む:神によって清められた言葉が、実を結ぶこと。

 

※ 参照:

箴言12:14「人は口の言葉が結ぶ実によって/良いもので満たされる。/人の手の働きはその人自身に戻る。」

箴言18:21「死も生も舌の力によっており/舌を愛する者はその実りを食べる。」

 

エフェソ4:29「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」

 

◇ 6:7  ざくろ血色の良いたとえ。あるいは、復活の生命力。

 

◇ 6:8  王妃は六十人、側女が八十人云々:多くの人がこの世にはいること。多くの存在があること。

 

◇ 6:9

 

私の鳩、私の汚れなき人:神は信仰者の魂を無垢なもの、純真なものとして愛してくださる(十字架の罪の贖いにより)。

 

ただ一人:神は信仰者一人一人、その人を、かけがえのない唯一の存在として愛してくださること。

 

母の一人娘、輝いている娘:神は、信仰者一人一人を、母が一人子を愛するように慈しんでいる。また、そのように大切な存在であることを認識している。

 

⇒ どのような人も、その親にとっては大切な子どもだと思うと、大切に思えてくる。 (c.f. 遠藤周作の話)

また、エクレシアでは、父・母・兄弟・姉妹と思うことが聖書では勧められている。これも、神の愛に触れて、その感化を受けたらそうなるということだと思われる。

 

Ⅰテモテ5:1-2「年長の男性を叱ってはなりません。むしろ、父親と思って諭しなさい。若い男性は兄弟と思い、年長の女性は母親と思い、若い女性には常に純潔な思いで姉妹と思って諭しなさい。」

 

※ 神が一人子のように慈しんでくださるので、唯一の神を愛する。

申命記6:4-5「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」

 

幸せな人:信仰を持ち、神との愛の交わり(コイノニア)に入る人は、幸せな喜びに満ちた人生を送ることができる。

 

ルカ11:28「しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」」

 

◇ 6:10  暁の光:朝の明け方の日の出の光のように、荘厳で美しい生き生きとした生命力に満ちた存在として、信仰者を神は見てくださる。キリストの生命とつながり、キリストの生命に満ちているから。

 

:レバーナー。白というのがもともとの意味。罪の清められた存在であること。義の太陽であるキリストの光を反射する存在であること。

 

太陽のように輝き:義の太陽(マラキ3:20)であるキリストの光を受けて世の光となること。キリストの生き方を学び、キリストのように歩むこと。

 

軍旗のように恐ろしい:雅歌6:4参照。キリストの愛の旗のもとにある信仰者を、感動するほど尊いものとして神は愛してくださる。

 

◇ 6:11  くるみの園:くるみ(egoz)は、聖書中雅歌のこの箇所だけ登場する。実りのある人生、実りのある魂、そのような信仰者の魂ということか。

 

川辺の新芽:信仰者・エクレシアの信仰の、芽が出て、育つことを、神は待ち、見守ってくださる。

詩編1:3「その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び,葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。」

 

ぶどうの木のつぼみ:キリストというぶどうの木につながれば、つぼみとなり、花となり、実を結ぶ人生となる。

ヨハネ15:1「私はまことのぶどうの木」

 

ざくろの花:ざくろは死と復活の生命の象徴(雅歌4章資料参照)。信仰者が、

信仰により永遠の生命を生きること。

 

Ⅳ、知らぬ間に信仰に導かれること  (6:12) (旧約1042頁)

◇ 6:12  アミナディブ:「高貴な私の民の車」という意味。

 

→ 信仰者は、知らぬ間に、エクレシアという高貴な神の車に乗せられていること。

 各自の魂が、神を意識・無意識に愛して、神を求めているので。また、神が、各人を愛し、それぞれに合わせて導くので。

 人は、いつの間にか、神へと導かれ、神の車に乗る、エクレシアに加えられる。

 

映画『バラバ』:神に逆らった道のりのすべても神へと至る道のりだったこと。

遠藤周作『深い河』:人の人生は神の河へと至る。

 

私自身、さまざまな、気づかぬうちの神のはからいにより、いつの間にかキリストへの信仰に導かれたと思われる。神が、私を一人子のように愛し、守り、育み、導いてくださったから。

 

ロマ11:36a「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」

 

イザヤ46:3-4「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」

 

Ⅴ、おわりに 

歌六章から考えたこと

・神は唯一無二の存在として、信仰者各自を一人子のように愛していること。私たち一人一人を、驚くべきものとして、驚嘆するほど感動する存在として愛してくださっていること。

・人は神に立ち帰り、神と一つになることを、再三再四、人生の中で繰り返していく。迷いや罪のゆえに神と離れてしまっても、また立ち帰れば良い。

・人は各自、知らぬ間に神に導かれている。神の高貴な車=エクレシアに、気づかぬうちに導かれ、乗っている。

 

「参考文献」 聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳。