ゼカリヤ書 資料(14)

 

『ゼカリヤ書(14) メシアの受難と人々の救い』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、エルサレムの勝利

Ⅲ、神の民はダビデのようになる

Ⅳ、メシアの受難と霊のそそぎ

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

(左から、ジョット「死せるキリストへの哀悼」、ミケランジェロ「ヴァチカンのピエタ」、ファン・デル・ウェイデン「十字架降下」))

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十一章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、八章までにおいては八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と異邦人の救済が告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応える方であることが告げられた。第十一章では、メシアをも金銭で裏切ってしまう人間の罪と、偽りの牧者の批判を通じて真の牧者とは何かが示された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九~第十四章(※十二章)

□ 第十二章の構成 

 

第一部 エルサレムの勝利 (12:1~12:6)

第二部 神の民はダビデのようになる  (12:7~12:9)

第三部 メシアの受難と霊のそそぎ (12:10~12:14)

 

 ゼカリヤ書第十二章は、メシアが刺し貫かれるというメシアの受難が記されている。新約では、このゼカリヤ十二章の預言をキリストの受難の預言と受けとめた(ヨハネ19:37)。十二章全体の内容を見ると、エルサレムと異教の国々との闘い(神の国と地の国の戦い)と、メシアの受難を通した救いが示されている。

まず第一部では、エルサレムが国々よって包囲されるが、杯、石の重し、たいまつのたとえを通して、神がエルサレムを強め、守ることが預言される。

第二部では、ユダの民が救われ、神の民がダビデのようになることが告げられる。

第三部では、メシアの受難と、それをきっかけに神の霊が人々に注がれ、メシア受難の悲しみを自分のものとし、神に祈るようになることが預言される。

 

 

Ⅱ、エルサレムの勝利 (12:1~12:6) (旧約1469頁)

 

※ エルサレムと、エルサレムを包囲する諸国民との闘いが告げられる。新約の光に照らせば、エルサレムやユダの民とはメシアを信じる神の民と解釈することもできる箇所。

 

◇ 12:1

 

託宣:マッサ。関根訳「重荷の預言」。神の重荷のことば。この12章について言えば、エルサレムに敵対する者たちが滅びること、あるいはメシアの受難のことか。聖書は神の言葉。無限に深い。

 

※ 天地創造の神が、人間の霊を創造したことを冒頭に明記している。これは人間の霊を創ることが天地創造に匹敵する大きな出来事だったこと、およびアダムの第一の創造のみならず、12章10節以下のメシアの受難による聖霊のそそぎという第二の創造の業をこれから述べることの宣言と考えられる。

 

新改訳「宣告。/イスラエルについての主のことば。/天を張り、地の基を定め、/人の霊をそのうちに造られた方。/主の告げられたことば。」

 

バルバロ訳「お告げ。/イスラエルについて、主のみことば。/天を張りめぐらし、地の基を置き、人の中に息吹を与えられた主のお告げ。」

 

関根訳「重荷の預言。/イスラエルに対するヤハウェの言。天を張りめぐらし、地の基を築き、人の霊をそのうちにつくられたヤハウェは言われる。」

 

⇒ 天地創造アダムの創造および第二のアダムとしてのキリストの創造。

⇒ これらを成し遂げ、成し遂げていく神の言葉なので、以下に述べる第十二章の言葉も必ず成就するという宣言。

 

◇ 12:2

 

よろめかす杯:聖書では、神の怒りや裁きのこと、あるいは試練のことを「杯」と表現している。最後の一滴まで飲み干さなければならない歴史の過程、あるいは人生の試練のこと。

 

参照 エレミヤ25:15~16イスラエルの神、主は私にこう言われる。「私の手から憤りのぶどう酒の杯を取り、私があなたを遣わす先のすべての国民にこれを飲ませよ。/彼らは飲んで、よろめき、私が彼らの中に送る剣を前にして正気を失う。」

参照 イザヤ51:17~23、ハバクク2:16、エゼキエル23:31以下など。

ヨハネ18:11、マタイ20:22、ルカ22:42など。

 

 一方、新約では、イエスの受難の血により、罪が赦されることを、杯で象徴するようになった。(マタイ26:27-28、マルコ14:23-24)

 

※ この2節での「よろめかす杯」も、10節以下でのメシアの受難を合わせて考えれば、異教徒や諸国民に対する怒りの杯であるのと同時に、メシアへの信仰を得た人にとっては罪の赦しの杯になることを合わせて告げていると思われる。

 

エルサレムの包囲・ユダも同様に:首都のエルサレムの包囲の時に、周辺のユダの人々もよろめかす杯を飲むという意味か。新約の光に照らせば、メシアの受難の時に、神の民も同様に「よろめかす杯」を飲み、また「罪の赦しの杯」を飲むことになるという意味と考えられる。

 

◇ 12:3 エルサレム=石の重し

 

エルサレムを諸国民が攻撃しても、逆に諸国民の方が粉砕される、エルサレムは堅い石や岩のような鉄壁であり、そのように神が守るという意味。

 

・新約の光に照らせば、「隅の石」つまりメシアのことで、エルサレム=メシア=隅の石であり、これを粉砕しようとするサタンの試みは逆に粉砕されることを意味すると思われる。

 

ダニエル2:34 像を粉砕する「石」

「隅の石」(詩編118:22、イザヤ28:16、マタイ21:42、使徒4:11)

 

地上のすべての国民がエルサレムに集まる:エルサレムを諸国民が攻撃に集まるという意味にもとれるし、メシアを信仰するようになってエルサレム(神のもと)に全地の人が集まるという意味とも受け取れる。

 

◇ 12:4 

馬が打たれ、その目が見えなくなる:エルサレムに押し寄せる諸国民の軍隊が無力化されることを意味する。あるいは、神やメシアを倒そうとするサタンたちは、逆に無力化され、よろめかされることを意味するか。

 

ユダの家の上に目を開く:ユダ(神の民)は、目が開き、神が見える。あるいは、神がまどろむことなく神の民を見守ること(詩編121参照)。

⇒ 無信仰の人は霊的に盲目になり、信仰ある人は霊の目が開かれてこの世だけではない価値がわかるようになる。

 

◇ 12:5

 

ユダの首長たち:新共同訳では「ユダの諸族」。英訳の多くもNIVをはじめとして”clans”つまり「諸族」「氏族たち」の訳。原語のアルペー(al·lu·p̄ê)は、首長とも諸族とも訳せるが、ここでは「諸族」の方が良いと思われる。

そう受けとめれば、新約の光に照らした時に、ユダの諸族は、エルサレム(メシアを信じる人々、あるいはメシア)は、本当に力のある人で、自分たちに生きる力を与える存在と知り証言した、いう意味に受け取ることができる。

 

◇ 12:6

 

ユダの諸族が燃えるたいまつとなり、すべての民を焼き尽くす:

 

エルサレムに攻め込んだ異教の諸国の軍勢を、逆にイスラエルの人々が撃退し倒すことを指す。新約の光に照らせば、聖霊によって心が燃え立つ人々(ルカ24:32)が世の悪を清め神の愛を人々に灯し広げていくと解釈できる。

 

参照 

オバデヤ18節ヤコブの家は火となり/ヨセフの家は炎となり/エサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と/まことに、主は語られた。」

 

申命記4:24a「あなたの神、主は焼き尽くす火」

ヘブライ12:29「実に、私たちの神は、焼き尽くす火です。」

 

神は柴の燃え尽きない炎の中からモーセに語りかけた(出エジプト3:2~6)

 

参照:ロマン・ロランジャン・クリストフ』第九巻:「予は存在するすべてではない。予は虚無と戦う生である。予は虚無ではない。予は闇夜のうちに燃える火である。予は闇夜ではない。予は永遠の戦いである。そしてなんら永遠の宿命も戦いの上に臨んではいない。予は永遠に闘争する自由なる意志である。汝も予とともに戦い燃えるがよい。」

⇒ 個人的な思い出。高校時代に『ジャン・クリストフ』を読み、虚無と戦う「燃える火」が生であり真実であり神であるということは心に残り、しばしば世の中で見かける諦念や虚無思想には違和感。

 

エルサレムはその場所にとどまる: 諸国の攻撃は撃退され、エルサレムはずっと続く、という意味。実際はエルサレムは繰り返し異国に攻撃され占領されたが、にもかかわらず今も神の都として続いている。そのことを指すとも考えられる。あるいは、エルサレム=メシアorメシアを信じる人々で、永遠に人類の中心にメシアがとどまり続ける、という意味。

 

Ⅲ、神の民はダビデのようになる  (12:7~12:9)(1469頁)

 

◇ 12:7  

 

ユダ、ダビデの家、エルサレムの住民:

おそらく、都市以外の住民のことをユダと呼んでいる。

とすれば、王家と都市の住民よりも、まずは田舎に住む人々が先に救いが告げられるということ。

エルサレムだけでなくユダの民全体の救いを告げる箇所。

新約の光に照らせば、イエスの福音がまずはガリラヤなどの漁村や地方の人々に告げられ、エルサレムはその次だったことを指す。神は地方の名もない人々をこそ真っ先に救いの目当てとする。

 

◇ 12:8

 

新改訳「その日、主はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。」

 

・「その日」つまり、神が介入する日(主の日)、神がエルサレムの住民を守ってくださる。神が神の民を守る。

 

・弱い者・よろめき倒れるつまずいた者もダビデのようになる。(c.f.ミケランジェロダビデ像)。サムエル記が描く最強の王or詩編のような祈りの人。

 

⇒ 新約の光に照らせば、ダビデの家系に連なるイエスが神の姿を現し、その弟子たちが天使のような使徒となる、の意味。神の姿であるイエスと、イエスに従う弟子たちもまた神の似姿となっていくこと。

 

◇ 12:9

 

主の日・終末には、エルサレムを攻める異教の人々は滅ぼされる。新約の光に照らせば、真実の神を知らずさまよい罪に陥っていた人々が、神の民として奪還される。罪と死は滅ぼされ、神が勝つ。神の国と地の国のせめぎ合いは、一時的には後退のように見える時があっても、最終的には神の国の勝利に終わる。

 

Ⅳ、メシアの受難と霊のそそぎ (12:10~12:14)(旧約1469-1470頁)

 

◇ 12:10  メシアの受難を通じて神の霊がそそがれる

 

恵みと嘆願の霊:新共同訳「憐れみと祈りの霊」、関根訳「感動と願い求めの霊」

 

新共同訳「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

 

関根訳「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に感動と願い求めの霊を注ぐ。そして彼らはわたしを、自分たちが刺し殺したその者をつらつら見て、独り子を失って歎く者のように歎き、首子(ういご)を失って悲歎する者のように悲歎するであろう。」

 

関根訳訳注岩波文庫『十二小預言書 下』164-5頁)「神の霊が注がれ、人の神へのかたくなな心がとかれて(感動!)神に祈り求める心が与えられることをいう」「罪の悔い改めと赦しの祈り求めが主な内容として考えられる」

 

「ヘン」(ḥên):恵み、好意、喜び、魅力、喜ばせるもの、魅了するもの

「タハヌン」(tachanun):好意を求めて嘆願・哀願すること、恵みを求めて祈ること。

 

(ルーアハ、風、息吹)。

 

⇒ 神の恵みの霊とその恵みを祈る霊が人にそそがれる。神の恵みと祈りの息吹が人に吹き込まれる。

 

⇒ 第一のアダムが神から背いて、神から離れていたことを、キリストが第二のアダムとして神の恵みと祈りの霊をそそいで、神に立ち帰らせてくださった。

 

※ どのようにして霊をそそいだか?⇒ 受難を通して。十字架の受難。

 

自分たちが刺し貫いた者:人々がメシアを迫害し、殺害したこと。

 

※ ヨハネ19:34において、兵士が十字架のキリストの脇腹を槍で刺して、血と水が出たことについて、ゼカリヤのこの箇所が預言していたとヨハネ伝は記す。

ヨハネ19:37「また、聖書の別の箇所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。」

 

※ シメオンがマリアにイエスの誕生直後に預言したこと。

ルカ2:35「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」

 

c.f. カッチーニアヴェ・マリア(ウラディミール・ヴァヴィロフの作曲)

宮田大のチェロ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=1mWfkOa-r0M

 

独り子・初子(長子)の死のように悼み嘆く: 神や、母マリアの気持ち。また、イエスのことを嘆き悲しんだ当時の弟子たち。

後世の人も、本当に信仰を得た時に、この悲しみをいくばくか感じるし、この悲しみを共にする時にすでに信仰を得ていると言えるのではないか?

 己の罪のためにメシアを殺してしまったこと、人類の罪がメシアをすら銀貨三十枚程度の損得勘定の対象にし、死に追いやってしまったこと、そのような人類の罪・私の罪を背負って、イエスが死んでくださったこと。十字架の贖いを信じること=己の罪を知ること=神に祈る霊が与えられ神との交わりの中に入れられること=永遠のいのち・救い。

 

※ また、マリアの心が「刺し貫かれた」こと、つまりわが子を失った親の悲しみをつぶさに母マリアがなめたことが、多くの人にとって、自分と同じ悲しみを知っている人がこの世の中にはいると思い、慰めとなり、救いとなってきたのではないか。(聖母マリアについての民間の信仰や音楽・名曲の数々、名画の数々。)

 

・メシアの受難と、メシアの受難への嘆きをを通して、私たちは信仰を得、神との霊の交わり=祈りの霊を得る。

 

◇ 12:11

 

メギド平野:かつてヨシヤ王がエジプトの軍勢によって殺された地(列王記下23:29、歴代誌下35:22-24、エズラ記(ギリシア語)1:27-29)。黙示録16:16の「ハルマゲドン」は「メギドの丘」を意味するヘブライ語で、終末の日に悪霊と聖霊の最後の戦いがあるとされる。

 

ハダド・リモンの嘆き:メギド平野の近くの地名で、そこで人々がヨシヤ王の死を嘆いたことを指すという説と、もともとアラム人の神の名で、そこで死と再生を司る儀式が行われており、人々が儀式の中で嘆き悲しむ所作をしたことを指すという説がある。

 

⇒ メシアの受難の死に対して大きな歎きがあった(ある)、ということを意味する箇所。

 

◇ 12:12-14

 

ダビデの家の氏族:ダビデ王家の子孫のこと。あるいは政治的な有力者や権力の有る人々のことを指す。

ナタンの家の氏族:預言者ナタンの子孫のこと。あるいは預言や、神からの霊的な賜物に富んだ人々のこと。

レビの家の氏族:祭司の家系の人々。新約の光に照らせば、万人が祭司なので神の民すべてを指す。

シムイの氏族:レビの子のゲルションの子(民数記3:21)の氏族。レビの家の氏族の一つ。なぜわざわざシムイの氏族をここに明記しているのかは不明だが、ゼカリヤとシムイの氏族が何らかの関係があったのか。あるいは、レビもシムイも象徴的にとらえるならば、神の民から新しく別れ出た分派も神の民の一員であることを指すとも考えられる(カトリックからプロテスタントができたことなど)。

 

これらの氏族が、氏族ごとにそれぞれ嘆く。また、夫と妻に分かれて、それぞれ嘆く:

 

⇒ これは、それぞれの人各自が、メシアの受難の悲しみを自分自身のものとして受けとめることを指すと考えられる。

 

⇒ 信仰は誰に対しても普遍的に与えらえるものであるのと同時に、それぞれの個性や独自の人生の歩みを通した個別具体的なもので、キリストの受難の苦しみや悲しみにあずかる道のりも人それぞれ。

 

⇒ ゆえに、信仰の時期や道のりはそれぞれのペースやユニークさがあるはずだし、キリストが各自に関わる仕方にも、それぞれの個性に合わせてキリストが関わってくださる。

 

⇒ しかし、信仰を持つ人には等しく神の恵みと祈りの霊がそそがれる。

 

Ⅴ、おわりに ゼカリヤ書十二章から考えたこと

 

・ゼカリヤ12章が、ヨハネ19:39が記すとおり、メシアの受難を預言していたことへの驚き。また、ただ単に事実の預言というだけでなく、メシアの受難を通して恵みと祈りの霊が人に与えられるという、キリスト教信仰の不思議な理路が明確にゼカリヤ12章に記されていることへの驚嘆。

 

・メシアの受難や、そのことによりマリアの心が刺し貫かれた、その痛みや悲しみによって、私の苦しみや悲しみを抱えた人生も慰められ、支えられているのではないか。

 

・神は虚無と戦う炎であること。

 

・信仰を持つ人は弱い者でもダビデのような王者・祈りの人となるということは、とても勇気づけられることだと思われた。

 

神の国と地の国、神とサタンの戦いは、一時的に人の目には後者が優勢に見えたり希望がないように見えたとしても、最終的には必ず神の勝利に終わる。神の勝利は盤石(重い石)であり、神の目はいつもまどろむことなく開いており、敵の軍勢は盲目となり、神の聖なる愛の火は必ず燃え広がる。

 

・信仰やキリストとの関わりは、それぞれが各自のありかたで深めて良いということ。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年、他多数。

ドラセナとカポックから教えられたこと

「ドラセナとカポックから教えられたこと」 

 

 今年、二種類の植物から教えられたことがあった。

 ひとつは、七月に買った花束の中に、花はない緑の葉っぱがついているだけの茎が一本あった。おそらくドラセナの一種だと思う。

他の花が全て枯れてしまったあとも、この緑だけはずっと枯れずにいた。枯れるまではと思って毎日花瓶の水を変えてあげていたら、なんと茎の断面から白い根が生えてきた。

根の数は増え続けて、すごい生命力だと感心していたら、そのうちに新しいきれいな枝も生えてきた。もうすぐ十一月というのに、今も元気である。

もうひとつは、カポックである。私の実家の庭にあるカポックの、枝を剪定して切ったものが、空のプランターに斜めに突き刺さっていて、それがなんと生きていて葉っぱがつき、成長していた。

そのプランターの中のカポックを、いびつな形なのでかわいそうに思い、根の途中から切り取って、私の家に持って帰り、鉢植えにしてみた。しかし、もともと斜めに生えていたため、まっすぐに茎を立てて植えてみたところ、すべての葉っぱが下を向く形になってしまっていた。これは元気に育たず枯れてしまうかと、かえってかわいそうなことをしたと、半ばあきらめながらしばらく水を定期的にあげつづけた。

すると、驚くべきことに、一か月以上経ったある時に、ふと気づくと、すべての葉っぱがきちんと上に向き直り、日光を浴びることができる形にいつの間にか姿を変えていた。また、根もきちんと生えたようで、生き生きと元気になっていき、新しい葉っぱも生えてきた。

このドラセナとカポックから、私は三つのことを学んだ。

一つは、生きようとする逞しさである。コロナウイルスのために世界中が困難な時期にあり、そのうえ政治は国内外ともに愚劣な事柄が目立つので、私自身ともすれば生きることに対してあきらめや倦怠を感じそうになることもあるが、このように逞しく生きねばと襟を正される思いがした。

二つめは、太陽があたりさえすれば、カポックのように葉っぱの向きは変わり、ドラセナのように新しい根や茎が生え、再び新しく生き直し、成長していくということである。神の愛に触れる時に、人の魂や人生もまた、新たな生きる力を得、新しく向き直っていくことができるのだと思う。

三つめは、神の愛というのは、いかなるものも捨てず、水をやり続け、慈しむようなものだと、あらためて思い至ったことである。神は、余ったパンくずをすら捨てない方である(マタイ十四の二十)。神は、傷ついた葦を折らず、消えかかった灯すら消さず、大切にしてくださる(イザヤ四十二の三、マタイ十二の二十)。

神の御心というのは、実のならぬ木や、いびつな木や、パンくずのようなものも、すべてもったいないと思って、決して捨ててはおかず、生かそうとするものなのだと思う。

主イエスのたとえ話の中に、三年も実がならないいちじくを切り倒そうとする主人を、園丁が止める話がある。園丁は言った。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」(ルカ十三の八~九)。これは主イエスの人に対する御心そのものなのだと思う。

思えば、私自身が、なかなか実のならぬいちじくだった。花束の中の目立たぬドラセナや、いびつなカポックのようなものだった。余ったパンくずであり、くすぶる灯芯だった。しかし、神は根気強く、見捨てることなく、見守り、支え、導き、照らしてくださった。そのために、いまこうして、キリストを信じ、聖書を学ぶ身となっているのだと思う。そして、決して捨ててはおかぬ神の愛の御心に触れるうちに、いつの間にか、自分にも、植物を慈しむ気持ちがいくばくか、ほんの少し起こるようになったのだと思う。

 現代の社会は、ともすれば経済や効率優先で、落伍者や脱落者に冷たく、競争に勝ち残ることばかりを目指しがちである。しかし、神の御心は、あらゆる生命や人間に対し、その滅びることを決して望まず、「もったいない」と思い、なるべく生かそうとし、慈しみ大切に思うものである。そのような神の御心に触れる時に、私たちは自分自身も生きていけるし、他をも生かすことができるのだと思う。

 コロナウイルスは、社会の最も弱い部分を直撃した。女性の非正規雇用の失業者が他と比べて著しく多いなど、もともと日本社会が抱えていた構造的な不平等がコロナウイルスによって顕在化している。コロナウイルスで問われていることは、私たちのあり方の見直しなのだと思う。弱者切り捨ての社会のあり方は、神の御心に沿っていない。

逞しく生き抜くことと、神の愛に触れ続けることと、神の「もったいない」と思う御心に触れ、その御心に沿って生きること等、ドラセナとカポックを通して今年神が私に教えてくださったことに心から感謝したい。

 

ゼカリヤ書 資料(13)

 

『ゼカリヤ書(13) 真の牧者と偽りの牧者』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、審判の宣告

Ⅲ、羊をおろそかにする牧者と契約の破棄

Ⅳ、役に立たない牧者 

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

     

(左から、ジョット「ユダの裏切り」、レンブラント「銀貨三十枚を返すユダ」、モルドバに伝わる十八世紀のイコン(見失った羊のたとえ))

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、第一から八章までの前半においては、八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と、平和の種が蒔かれ将来において異邦人も神の民となることが告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応え、苦しみの海を渡る力を人に与える方であることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章(十一章)

 

□ 第十一章の構成 

 

第一部 審判の宣告 (11:1~11:3)

第二部 羊をおろそかにする牧者と契約の破棄  (11:4~11:14)

第三部 役に立たない牧者 (11:15~11:17)

 

 ゼカリヤ書第十一章は、銀三十シェケルという新約聖書と符号する預言がある点で注目に値する。しかし、十一章全体の内容は一見すると難解である。(個人的なことを言えば、私がかつて聖書を読んだ時に最も難解に感じたのは、ゼカリヤ書11章とロマ書5章だった)。しかし、丹念に読めば、決して難解ではなく、「羊」(=人々)を大切にせずおろそかにする「牧者」(=指導者)たちに対する神の審判と、偽りの牧者に対する批判を通じて真の牧者のありかたを問いかけ照射する内容となっている。

まず第一部では、「レバノン」が焼き尽くされることが預言される。

第二部では、羊を大切にしない牧者たちに対して、好意と一致の契約が破棄され、「私」の対価として銀三十シェケルが支払われることが告げられる。

第三部では、役に立たない愚かな牧者の様子が告げられる。

 

 

Ⅱ、審判の宣告 (11:1~11:3) (旧約1468頁)

※ 11章冒頭では、「レバノン」に対する審判が告げられる。

 

◇ 11:1~3

レバノンパレスチナ北部の山脈や丘陵一帯を指す地名。当時はスギなどの高級木材の名産地だった。

バシャンガリラヤ湖の東一体の肥沃な地域(巻末地図④参照)。

ヨルダン死海の北に流れるヨルダン川およびその一帯、広くとればパレスチナの地域全体(巻末地図④参照)。

 

⇒ ※ 「レバノンの杉」、「バシャンの樫の木」、「ヨルダンの誇り」(引照b参照)とは? 11章1~3節は何を指すのか?二つの解釈が考えられる。

 

① レバノンの地域一帯への審判の預言? 

⇒ だとすれば、9章2、3節にあったティルスとシドンへの審判とも考えられる。ただし、その場合は、バシャンやヨルダンというイスラエルの版図に言及されている理由がわからない。

 

② エルサレム神殿への審判の預言?

⇒ 「レバノンの杉」は神殿に使用された高級木材(歴代誌上22:4)。「バシャンの樫の木」もそうだと推測される。

⇒ 11章冒頭は、高級木材を使ったエルサレム神殿が破壊され、審判を受けると考えれば、矛盾なくレバノン・バシャン・ヨルダンへの言及を理解できる。

 

※ ゆえに、②説が妥当と考えられる。66年に始まったユダヤ戦争に敗北したイスラエルでは、70年にエルサレムが占領され、ゼカリヤたちが再建した第二神殿は破壊された。そのことをゼカリヤは預言していたと考えられる。

 

◇ 11:3 「牧者の泣き叫ぶ声」⇒ 11章4節以下の「偽りの牧者」の泣き叫ぶ声と解釈できる。神殿破壊により、それらの指導層の人々が審判を受けて嘆くことの預言。

 

参照:マタイ23:37-38エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」

マタイ24:2「イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」」

 

 

Ⅲ、羊をおろそかにする牧者と契約の破棄  (11:4~11:14)(1468頁)

 

◇ 11:4   「屠るための羊の群れ」: 犠牲に捧げられる、つまり神に捧げられる人々のことと考えられる。

① ユダヤ人を指すとも考えられる(歴史的に、ユダヤの民は多くの受難の歴史を経た。)

② ユダヤ人に限らず、神の民となった人々、クリスチャンや義人を指すか。(c.f. 永井隆の「浦上燔祭説」等)。

 

①の意味にゼカリヤの時代には受け取られたと思われるが、新約の光に照らせば②説も可。「神の民」を意味していると考えられる。広くとれば神の愛の対象である全人類とも考えられる(③)。

⇒ 羊(神の民、人々)を「育て」ることが牧者に命じられている。

 

◇ 11:5  羊の売買、牧者が羊を惜しまない

 

 神から大切に育て養うように命じられている神の民を、牧者つまり指導者たちが少しも大切にせず、虐げ抑圧しても罪とされないことを指すと考えられる。人を商品として扱い、奴隷として売買したり、搾取して裕福になっている様子の描写と解釈できる。指導者たちが神の民を大切にしない=「惜しまない」。

 

◇ 11:6   神がもはや惜しまないこと

 

 神の民を大切にしない社会・国家・指導者たちを、神が見捨てることが告げられている。神の民を惜しまず、大切にしない共同体に対して、神ももはや惜しまず、憐れまず、大切にしないことが宣言されている。

 

 隣人と王の手に渡す:隣国の手に渡すこと、つまりなんらかの敵国や権力者を通じた審判と考えられる(参照:イスラエルバビロニアローマ帝国によって滅ぼされた歴史等)。あるいは、「隣人」はそうだとして、「王」はキリストのことであり、世俗の権力や国家を通じて神の経綸が行われることを指すか。

⇒ もはや神が見捨て、打ち砕かれ、神の助けがないことの通知。

 

◇ 11:7  羊の商人のために:別訳「虐げられた羊の群れのために」(引照d参照)。別訳の方が原文であり、別訳の方が適切と思われる。つまり、虐げられている神の民のために神の御心はあり、そのような神の民をこそ愛し慈しみ神は育ててきたことを指す。

 

※ 二本の杖 「好意」と「一致」

 

「好意」ヘブライ語「ノーアム」(נֹעַם):美しさ、喜び、楽しさ、好意

「一致」ヘブライ語「ヘベル」(חֶבֶל)の変化した言葉(ホーベリーム):ひも、結ぶもの、結束、統一、調和、一致。

 

※ 神が、共同体(社会、国家、教会など)に、本来は美しさや好意や喜びという要素と、結束や調和や団結といった要素と、二つの要素を与えていること。つまり、本来の共同体であれば、お互いに好意や善意を持ち美しい麗しい人間関係が存在し、ゆえに仲良く団結しているということ。

 

◇ 11:8  三人の牧者:何を指しているか難解な箇所。以下の二つの解釈がありうると思われる。

 

① 捕囚帰還後のユダヤの指導者だったゼルバベル・ヨシュア・ハガイの三人が、正確な没年はそれぞれわからないが、ひょっとしたらほぼ同時期になんらかの事情で死んだことを指すと考えられる。しかも、その死に、他の有力者や人々の嫉妬や猜疑や裏切りが関わっていたとも考えられる。

 

② 特定の人物ではなく、王・大祭司・預言者という三つの神の民の指導者のことであり、この三つの要素を兼ね備えたイエスが殺害されることを、「三人の牧者を消す」と表現したとも考えられる。

 

⇒ 「三人の牧者」がいなくなった結果、神は人々(その共同体、社会)に我慢できなくなり、人々も神を嫌った、という意味か。

 

◇ 11:9  神がもはや養わず、滅ぶに任せることの宣告。  (参照:ヨセフス『ユダヤ戦記』、イエスを殺害したあとのユダヤ戦争の悲惨さ)

 

◇ 11:10-11   「好意」の杖の破棄 

 神が人々との間に結んだ「好意」の契約を破棄し、無効にしたことが告げられる。「羊の商人」の別訳「そのように虐げられた羊」の方が意味として適切。神が「好意」の契約を破棄し、虐げられた羊(=人々、あるいはイエス)は神との契約関係が破棄されたことを悟った。

⇒ 神への背きへの審判だと解釈されるが、そもそも神が「好意」の杖を折り、その人への「好意」の契約を破棄する前に、人が隣人や神への愛・好意を忘れ、すでに好意に基づかない生き方をしていたので、そうなったと考えられる。

 

※ 銀三十シェケル:贖い 

 

◇ 11:12-13  

「私」:ゼカリヤとも考えられるが、神のこと、あるいはイエスのことを指すか。契約の破棄をする権限がゼカリヤにあるとは考えにくい。また、銀貨三十枚ということを考えれば、「私」はメシアであり主であるイエスのことと考えるのが妥当と思われる(13節で主が「私」に言われた、という箇所は、マタイ22:42-45の箇所等を踏まえて読めば理解可能)。

 

「賃金」:神の対価、神に支払われるべき値段を払う、あるいは払わなくても良い(値がつけられないものとする)ことが述べられている。

⇒ 人々は神への賃金として「銀三十シェケル」を支払った。

 

※ シェケルは金属の重量の単位。時代によってしばしば変動したが、おおむね11.4グラム(3000シェケルが1タラント)。捕囚期以前は貨幣ではなく、銀や金はシェケルの重量で量っていた。捕囚帰還後に貨幣へと移行していった。

 

※ 銀三十シェケルは奴隷一人分の値段(出エジプト記21:32)。ちなみに、レビ記27章3、4節によれば、人が誓願を行う時あるいは満願の時に神に捧げる金額が、成人男性は銀五十シェケルで女性は銀三十シェケルとなっており、成人男性一人分の査定金額にも満たない。

 

◇ 11:13  主が「私」に銀三十シェケルを陶工に与えるように言い、陶工に投げ与えた。

 

※ メシア預言と考えられる。 ※ マタイ25:14-16、同27:3-10

 

 マタイ25、27章には、イスカリオテのユダが銀貨三十枚でイエスを裏切り、のちに悔いて神殿に銀貨三十枚を投げ入れて自殺し、祭司長たちはその金で「陶工の畑」を買い、無縁墓地としたことが記されている。また、それが旧約の預言の成就とされている。

 

※ ただし、マタイ27:9では、銀貨三十枚と陶工の畑の預言は「エレミヤ」の預言とされている。しかし、エレミヤ書には該当する箇所はない。

エレミヤ書に陶工への言及や畑を買う箇所はあるが(エレミヤ18:2、同32:9、10、25)、銀貨三十枚とは関係なく、イスカリオテのユダの記述と直接的な関係はない。なので、マタイ27章が言う「預言」はゼカリヤ十一章と考えられる。(なぜゼカリヤをエレミヤとしているのかについては、①単なるマタイの勘違い、②第二ゼカリヤの部分が当時エレミヤ書の一部として伝わっていた、③今日には伝わっていないエレミヤ書の別の部分が存在した、等が考えられる。)

 

※ 「陶工」は謎めいた言葉であり、なぜここに出てくるのか難解。一説には、陶工は「ハイヨーゼール」で、献金箱(賽銭箱)は「ハーオーザール」で、よく似ているので誤植があったのではないかという(塚本虎二著作集7巻314-315頁参照)。そう考えれば、ゼカリヤ書11章13節は、神殿の献金箱にその金を投じろという意味になり、唐突に陶工が出てくるような違和感はない。しかし、「陶工」と原文どおりに受け取った方が、新約における預言の成就とつながる。

 

◇ 11:14 「一致」の杖の破棄。「ユダ」と「イスラエル」の兄弟関係の破棄。

 

⇒ ユダとイスラエルは、それぞれ南北分裂王国時代の南王国と北王国のことと考えられるが、すでに捕囚期および捕囚帰還後の時代には両王国とも存在しない。ゆえに、この箇所の意味としては、いくつかの解釈が成り立つ。

 

① 南王国の子孫のユダヤ人の人々と、北王国と異民族の混血によって生じたサマリヤ人との兄弟関係が失われ、根深い対立や差別が生じたことを指す。

 

② 単純に、神の民の内部での分裂や対立を指す。(参照:宗教改革によるカトリックプロテスタントの対立等)。人類の間に友好関係や一致が失われ、対立や戦争状態に入ること。

 

⇒ 神と人との間に「好意」や「一致」が失われると、人間同士も際限なく対立し争うにようになることを指すということか。

 

※ 参照:マルコ3:21-22「国が内輪で争えば、その国は立ち行かない。また、家が内輪で争えば、その家は立ち行かない。」

 

※ 神から養い育てるように民(羊)を委託されている指導者たちは、神に対しても奴隷一人分と同じ銀三十シェケルの値をつけて粗末に扱った。人間の尊厳を無視し、搾取や商品や道具として、金銭で勘定できるものとして扱う指導者や有力者たちは、神をもそのように扱った。その結果、神との間の、また人々のお互い同士の、「好意」も「一致」も失われた。

 

※ しかし、イエスは、銀貨三十枚で裏切られた出来事を通して、人類の罪を十字架で贖った。罪の支配下にあった人間の魂を、自らの命を対価として罪から買い取り、贖い、救い出した。金銭ずくで裏切った人類に対し、命がけで贖った。

 

※ 何事も金銭に換算する人間の罪と、その人間の罪を自分の命によって贖い、金銭では買えない尊い霊魂として無償の愛をそそいだイエスの義との対照。(ユダは、結局自分の罪を自覚せず、イエスを死に追いやってしまったことへの後悔も、金銭を投げ返すという金銭で済ませようとする態度や発想しかできなかった(塚本虎二著作集七巻306-313頁参照))。

 

 

Ⅳ、役に立たない牧者 (11:15~11:17) (旧約1468-9頁)

 

◇ 11:15  愚かな牧者 ⇔ 賢い牧者、良い羊飼い

参照:エゼキエル34:2-10、同34:11-31

 

◇ 11:16 「彼は失われたものを訪ねず、迷ったものを捜し求めず、傷ついたものを癒やさず、飢えているものを養わず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを裂く。」 ← 愚かな牧者の様子。

この正反対を生きたのが「良い羊飼い」であるイエスだった。

 

※ 失われたものを訪ね、迷ったものを捜す。

ルカ15:4-6 見失った一匹の羊を捜し歩く。

ルカ15:8-10 なくした銀貨を探すように、罪人の悔い改めを求めて喜ぶ。

ルカ15:11-32 放蕩息子の帰還を待ちわび、帰還を大喜びする。

ルカ19:1-10 ザアカイのもとを訪れる。

 

※ 傷ついたものを癒す。 マルコ1:34等、多くの人を癒した。

※ 飢えているものを養う。 パンと魚の奇跡 マルコ6:34-44、マルコ8:1-10  霊魂の飢えを潤し満たす マタイ5:6、ルカ6:21、ヨハネ4:14

⇒ イエスは、失われたものを訪ね、迷ったものを捜し求め、傷ついたものを癒やし、飢えているものを養い、生涯質素に暮らした。

 

・「傷ついた葦を折ることもなく/くすぶる灯心の火を消すこともない」(マタイ12:20、イザヤ42:3)。

・イエスは良い羊飼い。 ヨハネ10:7-18

 

※ ゼカリヤの11:16は、愚かな役に立たない偽の牧者の姿を明示することで、その反対である賢い役に立つ真実の牧者の姿を鮮やかに示している。

 

◇ 11:17

羊を見捨てる牧者には呪い

⇒ 逆に言えば、羊を決して見捨てない、役に立つ牧者には祝福が与えられる。

 

腕と右の目を打つ。 ⇒ 偽の牧者の生き方は地獄に行くことにつながる。

参照:マタイ5:29-30「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」

参照:マタイ16:26「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」

 

・羊(民)を大切にしない愚かな牧者は、目(魂の目、霊的な感覚や識別力)も失われ、手(力)も失われる。一方、神を愛し隣人を愛する人には、澄んだ魂と強い力が与えられる(参照 マタイ6:22-23、5:13-16、イザヤ40:31)

・地獄に行くよりは、腕や右の目を失うことで悔い改めることが望まれている。

 

Ⅴ、おわりに ゼカリヤ書十一章から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第十一章は私にとって長年よくわからない箇所だった。今回丹念に読んで、はじめて明瞭に意味がわかり、素晴らしい箇所だと感動した。

・金銭に万事を換算し、人を大切にせず商品や道具のように扱い搾取することが罪であり、そのような生き方をする人々が「愚かな牧者」「役に立たない牧者」である。「銀貨三十枚」は万事を、神さえも金銭に換算してしまう人間の罪を象徴している。(資本主義は、その危険性と隣り合わせ)。

・偽りの牧者との対照の真実の牧者の生き方、イエスに倣うこと。

・神の驚くべき御経綸。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『塚本虎二著作集 第七巻』聖書知識社、1978年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年、他多数。

ゼカリヤ書 資料(12)

 

『ゼカリヤ書(12) 祈りに答える神』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、恵みの源である神

Ⅲ、祈りに答える神

Ⅳ、神による贖いと回復

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに    

   

(画像:イスラエルに咲く罌粟、カルメライト、シクラメン

 

前回までのまとめ:前回までに、ゼカリヤ書の第九章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、第一から八章までの前半においては、八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と、平和の種が蒔かれ将来において異邦人も神の民となることが告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章 ※十章

 

 

□ 第十章の構成 

 

第一部 恵みの源である神 (10:1~10:3)

第二部 祈りに答える神  (10:4~10:7)

第三部 神による贖いと回復 (10:8~10:12)

 

 ゼカリヤ書第二部は具体的なメシア預言を多く含むのが特徴であるが、第十章は一見そうした要素はないように見え、文章は平明で難解な文章はない。しかし、神が人間の祈りに答える神であることが明言され、その恵みが告げられている美しい箇所である。

 

まず第一部では、神が恵みの源であることと、その一方で人間の指導者たちは空しい偽りを語り、人々が羊飼いのいない羊のように迷い苦しむこと、それゆえ神が指導者たちを罰することが告げられる。その神に祈るべきことが告げられている。

第二部では、神が神に従う人々を強め、贖い、救う神であり、祈りに答える神であることが告げられる。

第三部では、神が神に従う人々を再び呼び集め、世俗の権力の横暴から解放し、救いが回復されることが告げられる。

 

Ⅱ、恵みの源である神(10:1~10:3) (旧約1466頁)

 

※ ゼカリヤ書九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。十章では、その真実の神に祈るべきことが告げられ、神は祈りに答えることが告げられる。

 

◇ 10:1  

 

雨:イスラエルの乾燥地帯では雨は恵みであり、死活問題に関わる貴重なものだった。聖書においては、しばしば、神の恵みや祝福を象徴するものとされている(詩編147:8、ヤコブ5:7-18)。また、神の御言葉そのものを象徴する(イザヤ55:10-11)。

 

祝福の雨

エゼキエル34:26「私は彼らと私の丘の周囲に祝福を与え、季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる。」

 

申命記11:13-15「今日あなたがたに命じる私の戒めによく聞き従い、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、私はあなたがたの地に、秋の雨や春の雨など、必要な時期に雨を降らせよう。あなたは、穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油を収穫するだろう。私はまた、家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足するだろう。」

⇒ 雨は恵みの象徴。

 

ホセア6:3「我々は知ろう。/主を知ることを切に求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/雨のように我々を訪れる。/地を潤す春の雨のように。」

 

使徒言行録14:17「しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」

 

申命記32:2「私の教えは雨のように降り注ぎ/私の言葉は露のように滴る。/若草の上に降る小雨のように/青草の上に降る夕立のように。」

 

※ ゼカリヤ書10:1では、「主に雨を求めよ」と、真実の神である主に雨を祈り求めることが述べられている。つまり、主なる神に祝福・恵み・神の言葉・聖霊を積極的に祈り求めることが勧められ、そうすれば確かに主が答えてくださることが告げられている。

 

 

◇ 10:2

 

テラフィム:偶像の一種。家の守り神のような小さな偶像である場合もあれば(創世記31:17、ラケルが鞍の下に隠せる程度の大きさ)、等身大の場合もあった(サムエル記上19:13、ミカルがダビデを匿うために寝台にテラフィムを置いてダビデがいるように見せかけた)。バビロニアが占いの時に用いる偶像でもあった(エゼキエル21:26)。ヨシヤ王の改革の時に禁止された(列王記下23:24)が、ホセア(3:4)やゼカリヤなどがそのなくなることを願っているところを見ると、しばしば後代まで用いられたらしい。御利益信仰や護符や占いと結びついていた。

 

占い師の偽りの幻、空しい夢、無益な慰め:いつの世にも虚偽やデマが蔓延したということか。現代社会にも新興宗教やスピリチュアル系のそういったものは多い。フェイクニュースも今日大きな問題となっている。政治においても「空しい夢」「無益な慰め」の類は多い。何が真実かを見抜く、知性のレベルにおけるメディア・リテラシーの重要性とともに、真実の神と結びつく霊的な感覚を各自が錆びつかせないことの重要性。

 

※ 結局、偶像は「雨」を降らせることができない。

 

牧者:羊飼い、牧畜の世話をする人、牧畜の番人。ダビデは羊飼い出身であり、新約では羊飼いはイエスの象徴的なイメージとして語られる。この協会共同訳における「牧者」の語句を新改訳2017では「羊飼い」と訳している。

 

⇒ 偽りにだまされ、正しい牧者・指導者がおらず、迷わされた人々が苦しむ(現代もまさにそういう状況が多いと思われる)。

 

 

◇ 10:3

 

「指導者」⇒別訳「雄山羊」(協会共同訳の欄外引照注a参照)

雄山羊:羊とともに山羊は主要な牧畜だったが、のちにしばしば従順な羊と対照的な、反抗的な者というイメージを象徴的に担わされた。中世ヨーロッパでは悪魔は山羊の頭を持っているイメージで描かれた。

マタイ25:32-33では、終末の日に羊と山羊を分けるように、善人と悪人を区別し審判することが告げられ、羊と対照的な象徴的意味をもたされている。

 

ここでは、「牧者=指導者=雄山羊」は、民を正しく導かず、迷わせる、悪しき指導者を指している。

それらに対し、主は怒り、罰する。そして、主は人々を顧み、勇気づけ力づける。現代においても、精神的な世界における指導者や、政治家、ジャーナリスト、教育者、各職場や地域で重要な役割を果たすなど、人々に与える影響の大きい職務にあたる人の責任は大きく、神から審判を受ける地位にある。

 

※ 10:1-2を通じて、真実のよりどころであり信頼できるのは主なる神であり、その主が祈りに答え、人々を顧み、偽りの指導者たちに審判を下すことが告げられている。

Ⅲ、祈りに答える神  (10:4~10:7) (旧1467頁)

 

◇ 10:4    この箇所はメシア預言であり、「隅の石」「杭」「弓」としてメシアが預言されている。

 

隅の石:壁の石積みの最初の石、礎石として、古代では重視された。

イザヤ28:16「それゆえ、主なる神はこう言われる。/「見よ、私はシオンに一つの石を据える。/これは試みを経た石/確かな基礎となる貴い隅の親石。/信じる者は、慌てることはない。」

詩編118:22-23「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。/これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。」

⇒この詩編の箇所をイエスは「ぶどう園と農夫のたとえ」で自らを指すこととして引用(マルコ12:10)、ペテロもイエスのことを預言した言葉だとして引用した(使徒4:10)。

 

杭:地中に打ち込んだ柱、棒。天幕を支える中心(イザヤ54:2)。ガラテヤ2:9では信者が柱と呼ばれ、Ⅰテモテ3:15ではエクレシアが柱と呼ばれている。ここではキリストの十字架のたとえとも読める(イザヤ22:23では主の僕が杭にたとえられている)。

 

弓:神の敵を征服する武器。新約では悪の諸霊と戦う「神の武具」(エフェソ6:13)は、神の御言葉を意味する。神の御言葉によって悪霊と戦うことか。

 

「彼らからすべての指揮者が共に出る」⇒ メシア=すべてのことについての指揮者。その指揮のもと、メシアを受け入れた神の民の中から、多くの使徒や牧者・指導者が現れること。

 

◇ 10:5  

 

勇士:勇気と活力に満ちた人のこと。神が共にいる時、人には勇気と活力が満ちる(ミカ3:8)。

 

「馬に乗る者たちを恥じ入らせる」⇒ 正規の軍隊の人々が恥じ入る。

 

※ 10:3-5の箇所は、新約の光に照らして考えれば、非暴力で勇気をもって戦う人々について述べており、そうした神と共に非暴力で闘う人々が、武装した暴力に頼る人々(馬に乗る者たち)を道徳の力で恥じ入らせるということを意味していると思われる。

歴史上、そうした事例は多い(ローマ帝国パウロらクリスチャンが平和裏に霊の力でひっくり返し征服したこと、マハトマ・ガンジー素手大英帝国を追い払い独立を達成したこと、キング牧師らの公民権運動、ベトナム反戦運動etc.)。

そうでなければ、つまりこちらも単に武力や暴力で闘うということならば、「馬に乗る者たち」が「恥じ入る」という一文は意味不明となってしまう。

 

 

◇ 10:6  

 

ユダ、ヨセフ:それぞれ南ユダ王国と北イスラエル王国を指す。ただし、ゼカリヤの時にはすでに両方ともかなり前に消滅(紀元前722年と紀元前587年)。

イスラエル王国は滅亡後、南ユダに亡命した人々も多かったが、その他には異民族と混血が進んだ場合も多かった。後者がサマリア人だが、ユダヤ人もサマリア人も救うということか。霊的に解釈すれば、神の民の多様な出自や宗派の人も救い出すということか。

 

「私は彼らを憐れむゆえに連れ戻す」⇒ 離散や捕囚から解放し回復すること。霊的に解釈すれば、罪から解放し、神の民として回復すること。

 

「退けなかった者のようになる」⇒ 罪から解放し、無垢な罪なき者となること。神から背くアダムの原罪から解放し、神と共に生きる状態になること。

 

「私は主、彼らの神であって、彼らに答えるからだ。」

答える:新共同訳ゼカリヤ10:6d「わたしは彼らの神なる主であり/彼らの祈りに答えるからだ。」

 

※ 神は祈りに答える。聖書は祈りに答える神であることが全篇を通じて記されている。特に詩編には、そのことが多く記されている。

 

①、答える神

 

詩編17:6「神よ、私はあなたに呼びかけます。/あなたが私に答えてくださるからです。/私に耳を傾け、この訴えを聞いてください。」

 

詩編20:7「今、私は知った/主が油注がれた者を救ったこと/聖なる天から彼に答えることを。/右の手による救いの力をもって。」

 

詩編30:2-4「主よ、あなたを崇めます/あなたは私をすくい上げ/私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。/わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒やしてくださいました。/主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ/墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。」

 

詩編34:5「私が主を尋ね求めると/主は私に答え/あらゆる恐怖から助け出してくださった。」

 

詩編38:16「主よ、私はあなたを待ち望んでいました。/わが主、わが神よ、あなたは答えてくださいます。」

 

詩編65:6「我らの救いの神よ/あなたは義によって/恐るべき業によって答えます。/遠い海、地の果てに至るすべてが信頼する方。」

 

詩編81:8「あなたが苦難の中で呼ぶと/私はあなたを助け出した。/雷雲の隠れ場からあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試みた。〔セラ〕

 

詩編86:7「苦難の日に私はあなたを呼び求めます。/あなたは必ず答えてくださいます。」

 

詩編91:15「彼が私を呼び求めるとき/私は答えよう。/苦難の時には彼と共にいる。/彼を助け出し、誉れを与えよう。」

 

詩編99:6-8「モーセとアロンは祭司の中に/サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。/彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。/主は雲の柱の内から彼らに語りかけ/彼らは主の定めと、主から賜った掟とを守った。/主、我らの神よ、あなたは答えられた。/あなたは彼らを赦す神。/しかし、彼らの悪行には報いる方。」

 

詩編118:5「苦難のただ中から私は主を呼んだ。/主は答えて、広い所に私を解き放った。」

118:21「あなたに感謝します。/あなたは私に答え/私の救いとなってくださった。」

 

詩編120:1「都に上る歌。/苦難の時に主に呼びかけると/主は私に答えてくださった。」

 

詩編138:3「私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。」

 

②、聞く神

 

詩編10:17「主よ、あなたは苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。/彼らの心を確かなものとし/耳を傾けてくださいます。」

 

詩編40:2「私は耐えて主に望みを置いた。/すると主は私に向かって身を乗り出し/私の叫びを聞いてくださった。」

 

詩編55:18「夕べも朝も、そして昼も/私は嘆き、呻きます。/神は私の声を聞いてくださる。」

 

詩編65:3「祈りを聞いてくださる方よ/すべての肉なる者はあなたのもとに来ます。」

 

詩編102:20-22「主はその聖なる高き所から目を注ぎ/天から地を見ました。/これは、主が捕らわれ人の呻きを聞いて/死に定められた子らを解き放ち/人々がシオンで主の名を/エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。」

 

詩編145:19「主を畏れる人たちの望みをかなえ/彼らの叫びを聞いて救ってくださいます。」

 

出エジプト記2:23-25「それから長い年月がたち、エジプトの王は死んだが、イスラエルの人々は重い苦役にあえぎ、叫んでいた。重い苦役から助けを求める彼らの叫び声は神のもとに届いた。/神はその呻きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」

 

※ 主は聴いて、答えてくださる神。聖書は、神の呼びかけに応える人間と、人間の呼びかけに神が答えたことが記された書物(例:アブラハム、イサク、ヤコブモーセ、士師、ダビデ預言者たち、イエス使徒たち)。

神は単なる第一原因や機械的な法則ではなく(つまりnotアリストテレス、not理神論)、聖書の神である主は人間と応答する人格神である。

ゆえに祈ることが重要である。(祈りは神の意志を変えることはなくても、神の意向を変えることができる(参照:フォーサイス『祈りの精神』)。

 

◇ 10:7  ぶどう酒:いのちの喜びや、聖霊に満たされる喜びをしばしば聖書では象徴。キリストと結びつくこと、キリストと一つになること、およびそのことによる喜びの象徴的表現。

「救い=至福」 救いとは至福、喜びに満ちた状態。

(参照:宮田咲子 2019年無教会全国集会講話「私は福音を恥としない」 ( https://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2019a/c/bc20ec05cc4211a6124dba01448c9092 ) 

聖書における「平和」(シャローム)とは、生き生きとしたいのちに満ちた状態(市村昭三先生のロマ書講話)。

 

※ 主なる神はメシアとして来臨し、祈る者に答え、贖い、救いと至福に導く。

 

 

Ⅳ、神による贖いと回復 (10:8~10:12) (旧約1467頁)

 

◇ 10:8  口笛:新改訳2017では「合図」と翻訳。口笛は合図の意味で使われている用例が聖書にはある(イザヤ5:26、イザヤ7:18)。ここでも、羊飼いが口笛で羊を集める様子を背景としている。

 

※ ただし、マタイ11:17には、『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』(ルカ7:32も)とあり、実際はキリストの初臨の時には人々は合図に気づかずなかなか集まらず。 

⇒ 少しずつ、一歩ずつ、気長に集めてくださる神。二千年かかり、聖書の神を信じる人は多くなったし、なりつつある。

 

◇ 10:9

「思い起こし」:人が神を思い出せば、神は即座に答える。(ヨナ2:8)

 

◇ 10:10  

 

アッシリア、エジプトユダヤ人を苦しめてきた二大大国。しかし、この時代はすでにペルシア帝国によって両地域とも征服されていた。ペルシア帝国を暗に指しているか。あるいは、霊的に解釈すれば、神の民を抑圧する世俗の権力や大国を指すか。もっと言えば、その奥にあるサタンの権力のことか。

 

ギルアド:巻末地図4参照、ヨルダン川より東の肥沃な地域。北イスラエル王国の滅亡までその版図だった。一方、レバノンダビデ・ソロモンの王国最盛期にその支配下になっていた。固有の領土とその最大版図まで回復されても、なお十分でないほど多くの人々が帰還し、繁栄するという意味か。霊的に解釈すれば、従来の教会や集会を上回る多くの人々が神の民となるということ。

 

◇ 10:11

 

「彼ら」:原文は「彼」、単数。モーセのイメージの投影か。キリストのことか。

 

「苦しみの海」モーセたちが葦の海を渡った故事を想起させる。

 

仏教においては、この世界を「苦海」と呼ぶ表現がある。(c.f. 石牟礼道子苦海浄土』)。人生や世界そのものを「苦しみの海」は指していると受けとめることもできる。

親鸞正像末和讃」46「往相・還相の回向に/まうあはぬ身となりにせば/流転輪廻もきはもなし/苦海の沈淪いかがせん」

親鸞高僧和讃」7「生死の苦海ほとりなし/ひさしくしづめるわれらをば/弥陀弘誓のふねのみぞ/のせてかならずわたしける」

⇒ 絶対者の慈悲に出会う時に「苦しみの海」を人は渡ることができる。

 

「波を打ち」⇒「波を打ち破り」(新改訳2017)

 

※ 神と共に歩む人々は、「苦しみの海」を信仰によって渡り、苦難の波を打ち破り越えていく。アッシリアやエジプト、ペルシア、ローマ、ナチスソビエトといった世俗の権力に負けることなく、神により最終的には世俗の邪悪な権力から解放される。サタンの支配から解放される。

 

◇ 10:12 彼ら:この末尾の箇所における「彼ら」は、エジプトやアッシリアの人々も含むと読むことも可能と思われる。ゼカリヤ書9章の内容を踏まえれば、むしろそう読むべきとも考えられる。最終的にはすべての人々が、異邦人だった人々も、主なる神によって救われ、主なる神を信じるようになる。

 

 

Ⅴ、おわりに 

ゼカリヤ書十章から考えたこと

 

・聖書の神、主は祈りに答える神であること。また、そうであればこそ、人が祈ることを待っていること。恵みの雨、祝福の雨、聖霊の雨を、祈る人に与えること。

 

・真実の神以外の偽りの空しい夢や無益な慰めを見ても、そこに救いはないこと。現代にも多い偽りの牧者や雄山羊ではなく、真実の神と共に歩むことの大切さ。また、そのような、真実の意味における指導者・勇士が数多く現れることが願われる。

 

・「私が彼らを贖ったので、口笛を吹いて集める」(10:8)。すでにキリストが十字架で罪を贖っており、神の方で救いのために必要なすべてのことを成し遂げて下さっていること。そののちに神が呼んで招いてくださっているのだから、素直に応じ、救われて、喜び賛美して生きていけばいいこと。神恩無限であり、救いのために付け加えることはない(参照:塚本虎二「信仰するということ」著作集続7巻)。

 

・聖書における救いは喜びにつながっており、単なる平静やトラブルがない消極的な無事を意味しないこと。むしろ、勇士のように勇気と活力に満ち、生き生きとしたいのちの喜びとともに、苦しみの海を渡っていくことができるようになることが、聖書における贖いであり救いであり平和であること。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『塚本虎二著作集続 第七巻』

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年、他多数。

加納貞彦『「創世記」に学ぶ(上):21世紀の共生』を読んでの感想

本書は、著者が五十年に渡り丹念に読み、いわば人生を通して読んできた創世記の深い味わいを、惜しげもなく公開してある。

 

この本を読んで、まずとても印象的なのは、文献学の成果が創世記の深い味わいにつながっていることである。

ヤハウェ資料・エロヒム資料・祭司資料という文献学の成果について記している本は他にあっても、学問上はそうなのだろうと思うぐらいで、とっつきにくい精緻な学問上の話だと今まで感じてきた。

それが、この本では、複数の異なるテキストが共存することにより、一つの見解に人を押し込めず、さまざまな読みや解釈が可能となる開かれた自由な世界が創世記に開かれているということが明らかにされ、実際にそのような観点から深い創世記の味わいがなされている。

文献学上の成果が、人生とは無縁の単なる机上の学問ではなく、聖書の深い読み方や発見を可能にするということに、瞠目させられた。

 

また、多くの感銘深い、印象的な、創世記の深い読みから紡ぎ出された、信仰や人生についての言葉の数々が、この本の魅力である。

 

善悪の木関する箇所では、「人生は、本当の善悪を知るための旅である」(75頁)と記されてあり、そのとおりだと思った。

 

また、カインとアベルの話からは、「主は私たちひとりひとりを心から大切に思っています。自分は主に大切に思われているのだと自信をもって、自分に与えられた道を、顔をあげて進むように心がけましょう」(106頁)と記されてあり、感銘深かった。

人と比較せず、神の公正であたたかなまなざしを思い出して、生きていきたいと読みながら思わされた。

 

ノアとアブラハムに関連するコラムの中では、「神は生きておられて、ご自分の姿に、ご自分を似せて造られた人間を愛をもって注意深く見守っておられて、どのように人間を導くかをこれまでも考えてくださっていたし、今でも考えてくださっているのだと思います。」(154頁)という箇所があり、感銘深かった。

 

バベルの塔に関連しては、この本では「神は多様性を好まれる」という指摘をしている。

「神は一人一人が自分の仕方や言葉で神を賛美しつつ、自分たちの個性や能力を伸ばしていきいきと生きていくことを望まれている」(166頁)という一文には、そのとおりと思われた。

唯一の神を信じる人はおのずと謙虚になり、自分のみが正しいという独善性を排し、中央集権的な画一化ではなく、多様性や分権・自治をこそ重んじる。

それが聖書のメッセージだと、たしかに思われた。

 

また、アブラハムについての「山あり谷ありの人生経験を経て、神が信頼するに値する方であることを知るようになりました」(169頁)ということや、「私たち一人一人も、どんなに弱く、才能がなくても、神が選んでくださり、選民にしてくださる」(170頁)という指摘の箇所も深く心に響いた。

「神の約束の成就は、一歩ずつ」(313頁)であるということも心に残る。

 

さらに、アブラムの父テラがすでに出発していたこと(179頁)は、今まであまり気に留めずぜんぜん創世記を読んでも印象に残っておらず、てっきりアブラハムが出発を始めたと思っていたので、とても印象的だった。

 

また、ユダヤ教のラビのサックス氏のイサク奉献に関する文章が紹介してあり、その中に、「人生は、子供が与えられることを含めて、すべてを当たり前のこととして受け取らないための継続的な教育・訓練の場である」(335頁)という言葉は、とても心に響いた。

 

また、この本を読んでいて、はじめて気づかされたのは、アブラハムがとりなしの祈りの人だったということである。

今までこの点には全然気づいていなかった。

あらためてとりなしの祈りの大切さについて考えさせられた。

アブラハムが異なる民族の人々とも平和に共存し、神の名についても柔軟な態度で接しており、また異なる民族の人々についてもとりなしの祈りをしていたというのは、本当に素晴らしいことと思われた。

 

この他にも多くの気づきを与えてくれる本だった。

創世記の最良の解説書として、他の多くの人にも勧めたい。

下巻は来年初めに刊行の予定だそうである。

 

www.amazon.co.jp

ゼカリヤ書 資料(11)

 

『ゼカリヤ書(11) ろばに乗ってやって来るメシア』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、異邦人への裁きと異邦人も神の民となること

Ⅲ、ろばに乗ってやって来るメシア

Ⅳ、救いと平和の到来

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

 

前回までのまとめ:前回までに、ゼカリヤ書の第一部(八章まで)を学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言で、前半の第一部においては、第六章までに八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、そのうえで祭司(ヨシュア。新約から見れば万人祭司の予表)の戴冠が告げられた。さらに、断食を神のために行っているかが問われ、かつてユダヤの民が神から離れ社会正義を行わず神の裁きの対象となったことが告げられた。さらに八章では、神の一方的な救済と、平和の種が蒔かれ、将来において異邦人も神の民となることを願うことが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章 ※九章

 

・第二部(第九~第十四章)の特徴 

 

ゼカリヤ書の第九章からの後半箇所は、それまでの前半箇所と異なりアラム語由来の言葉を含み内容も異なるので、別人による預言という説がある(「第二ゼカリヤ」説)。ゼカリヤ自身の預言だと考えるならば、第一部が紀元前520年から紀元前518年になされた預言であるのに対し、第九章以降は日付が存在しないが、おそらく紀元前480年頃、四十年ほど経ってからなされた預言と推測されている。

ゼカリヤ書第二部の特徴としては、非常に具体的なメシア預言が含まれていることである。たとえば、

 

・ろばに乗ったメシア(9:9)→ マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章、ヨハネ12章。 四福音書すべてが記すエピソード。

・契約の血(9:11) → マルコ14:24 キリストの贖いの血=契約の血

・銀30シェケル(銀貨30枚) (11:12) → マタイ26:15、27:9(実はエレミヤにはない)

・受難のメシア(12:10)

・命の水(14:8) → 黙示録7:17、21:6、22:1、22:17

 

が、それらである。福音書はこれらのゼカリヤ書の預言がイエスにおいて成就したということを記している。

 

 

□ 第九章の構成 

 

第一部 異邦人への裁きと異邦人も神の民となること (9:1~9:8)

第二部 ろばに乗ってやって来るメシア   (9:9~9:10)

第三部 救いと平和の到来 (9:11~9:17)

 

 第九章では、メシアの到来を中心に、異邦人への裁きと彼らも神の民となること、および神の民への救いの到来が告げられる。

まず第一部では、異邦人への審判と、異邦人が滅ぼし尽くされるのではなく、彼らもまた神の民となることが告げられる。

第二部では、メシアがろばに乗ってやって来ることと、平和の到来が告げられる。

第三部では、契約の血によって人々が救われ、人々が神の民となり、宝の民となることが告げられる。

 

Ⅱ、異邦人への裁きと異邦人も神の民となること (9:1~9:8) (旧約1465頁)

 

◇ 9:1  

託宣:マッサ。関根訳「重荷の預言」。神の重荷のことば(この9章について言えばメシアが人々の重荷を担ってくれる意か)。聖書は神の言葉。無限に深い。

ハドラク:シリアの一地方。意味は「回帰」。ザクルの古碑文にも登場する地名だが、今も正確な場所は不明。

ダマスコダビデの時代にイスラエルが占領するが、その後独立したシリア王国の首都。のちにアッシリアが占領。

 

協会共同訳「人々とイスラエルのすべての部族の目は主に向けられる」⇒岩波訳「エン・アダムもイスラエルの全部族も、ヤハウェのもの」、関根訳「エン・アラム」、バルバロ訳「アラムの目」

※ 「エン・アダム」(エン・アラム)を地名ととる説もあるが、70人訳等に従う協会共同訳の訳が、この後の文章を見ると良いと思われる。

 

◇ 9:2

ハマト:ダマスコの北約190㎞。ソロモンやヤラベアム2世の時に占領。イスラエルの北の国境の最大版図として列王記などにしばしば記される。

ティルスフェニキアの首都。当時は海上の島。地中海屈指の商業都市カルタゴティルスがつくったフェニキア人の植民都市。アッシリアバビロニアの攻撃を退けて独立を保つも、のちにアレクサンドロス大王に征服された。

シドン:フェニキアの主要都市のひとつ。現在もレバノン第三の都市(サイダ)。ペルシア帝国に征服され、のちにアレクサンドロスに属した。ティルス・シドンのフェニキア人はバアルを信仰していた。

 

※ ティルスやシドンという当時最も繁栄した都市の「知恵」や富もむなしい。人の知恵は神の前には愚かしい。富もつかの間で簡単に消え失せる。

(日本もまた、ティルスやシドンのように偶像崇拝多神教の国であり、経済大国としての富や知恵を誇っているが、むなしいものではないか?)

 

◇ 9:5-6

アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドド:ペリシテの都市の名前。ガテと合せて、ペリシテの五都市(ペンタポリス)と呼ばれていた(ヨシュア13:3)。ペリシテはこの五つの都市の同盟連合で、一つ一つの都市には一人の君主がいた。ここでガテが挙げられていないのは、アシュドドにすでに久しく従属していたため(関根訳・註四、131頁)である(ゼファニヤ書2:4も同様)。アシュドドはダゴン信仰の中心地。アシュケロンはのちのヘロデ大王の出身地。

ペリシテ人クレタ島から来た民族で、鉄製の武器を持ち、士師記やサムエル記においてイスラエルの宿敵として描かれる。ダゴンを崇拝していた。

 

※ ティルスやシドンの破滅を見て、ペリシテ人たちも恐れおののき、衰退し、誇りが絶たれる。人が自らの力に頼るところの誇りはむなしい。

 

◇ 9:7 

エブス人:エルサレム先住民族、カナン系。ダビデによるエルサレム占領後もイスラエル人と共に住み、その信仰や文化を受け入れたようである。ソロモン王の時代に奴隷化される。ダビデが人口調査をした後に預言者ガテが預言した、主の祭壇を築くべき麦打ち場の持ち主だったアラウナはエブス人だった。

 

※ フェニキア人もペリシテ人も、間違った宗教(バアル信仰は子どもの人身御供などが伴っていたことが遺跡発掘で確認)が取り除かれ、ユダの一部族のようになり、エブス人のように神の民に帰属するものとなる。

⇒ 神が直接、見張り、見守り、平和な世の中となる。

 

※ 他の預言書における異民族への審判の預言と異なり、異民族は滅ぼされ尽くすわけではなく、ヤハウェを信仰する神の民となることがはっきり記されているところがゼカリヤ書の特徴。

※ フェニキア(バアル崇拝)とペリシテ(ダゴン崇拝)は事例であり、多神教を信仰する人々が唯一の神を信仰するようになることの預言と考えられる。未来においてキリストをすべての人が受け入れることの預言とも考えられる。

 

Ⅲ、ろばに乗ってやって来るメシア  (9:9~9:10) (旧約1465-1466頁)

 

※ メシアがろばに乗ってやってくること、戦車や軍馬が絶たれて全き平和が来ること、メシアの支配が地の果てまで及ぶことが預言される。

・一般的な王やメシアは馬や戦車に乗ることがイメージされていた(エレミヤ22:4)。

⇒ のちに、イエスがろばに乗ってエレサレムに入場。

 

※ ろばに乗ってエルサレムに入場するイエス

・マタイ21:1-9

・マルコ11:1-10

・ルカ19:28-38

ヨハネ12:12-19

 

※ ろばに乗ってエルサレムにイエスが入場したことは、メシアだと名乗ることであり、最後の一週間の始まりだった。

 

※ キリストの最後週間:都入り、宮清め、宗教家との論戦、ある女が香油を注ぐ、過ぎ越しの食事準備、最後の晩餐―十字架、墓中-復活

 

「ホーマーの『イリヤッド』は七週間の出来事を歌ったものであると言われ、またダンテの『神曲』は一週間、ドストエフスキーの『罪と罰』も一週間の出来事であったと記憶する。しかしイエスエルサレムにおける一週間は世界の歴史のどの部分における一週間よりも重大であった。世界歴史、宇宙歴史に及ぼした影響から見るならば、それは正に七十年に当り、七世紀にも七十世紀にも当るであろう。世界宇宙の歴史はこの一週間をもって全然その方向を転換したからである。

 然り、このエルサレムの一週間は、神が開闢の初めに宇宙人類を創造された七日にも比すべきものである。あるいはこの第二の創造の方がより鮮やかなる神の業であったとすらいうことが出来るであろう。第一の創造は神の大能による業であったけれども、第二の創造は愛の業であったからである。」

(『塚本虎二著作集 第六巻』12頁)

 

「イエスの都入りは晴れの凱旋であった。父なる神より託された使命を果たして父の家に帰らんとされたのであった。否、再び神の子たる位に戻らんがために最後の大使命なる十字架の死を死ぬるための都入りであった。それは人の目には敗北、神の目には凱旋たる入場であった。そしてかく見る時に、彼が軍馬に乗らず見る影もなき驢馬に乗られたことが、何と彼の都入りに相応しいことであろう。

 「帝王喜劇」と学者は罵る。この世の凱旋将軍が戦車に乗り軍馬に跨り、ラッパの声勇ましく意気揚々と入城するに対し、これは確かに大なる喜劇である。しかし神の前に果たしていずれがより喜劇であろうか。

 わたし達は驢馬に乗るイエスに彼の福音を見る。それは「ああ幸いだ、じっと我慢している人たち、地を相続するのはその人たちだから」と言い、ああ幸いだ、平和を作る人たち、神の子にしていただくのはその人たちだから」と言い、また、「剣を鞘におさめよ」、「あなた達の間では、えらくなりたい者は召使になれ」と言われた彼に相応しい。それは神による屈従と敗北の勝利である。かくして人と神が和らぎ、天に平和が成り、かくてまた地上に真の平和が花咲く。

 人の子として「大いなる権力と栄光とをもって、天の雲に乗って来る。」(二四30)べきイエスが驢馬の子に乗って神の都に入られた。これがキリスト教である。然り、驢馬の子に乗るイエスにわたし達の誇りがあり、希望があり、感謝と忍耐がある。」

(『塚本虎二著作集 第六巻』25-26頁)

 

※ ろばに乗ってやって来るメシアは、「へりくだって(アニ)」(ゼカリヤ9:9)とあり、へりくだり・謙遜・柔和・受難と関連付けられている。ろばは、戦争に用いる軍馬や戦車とは対照的な、戦争に役に立たないおとなしい動物として平和の象徴として描かれている。創世記では「彼は雄ろばをぶどうの木につなぎ/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。」(創世記49:11)とあり、イエスが自らの象徴として述べたぶどうの木(ヨハネ15:1)と関連付けられている。

※ この箇所は、メシア預言であり、またそのメシアが暴力を用いない非暴力・非戦の平和の存在であることが明確に告げられている。

※ 9章9節は初臨の、10節は再臨の時の預言か。

 

 

Ⅳ、救いと平和の到来 (9:11~9:17) (旧約1466頁)

 

◇ 9:11 契約の血:マルコ14:24、ヘブライ13:20。キリストの十字架の贖いの犠牲により、罪の捕われ人だった人類が解放される。「水のない穴」つまり「命の水」を持たない暗い奈落の底にいた人類が、解き放たれる。

 

◇ 9:12 砦:「主はわが命の砦」(詩編27:1)

参照:ヨブ記42:10「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を回復した。そして、主はヨブの財産すべてを二倍に増やした。」

※ 神に立ち帰れば、恵みが苦難の二倍以上になって返ってくる。

 

◇ 9:13 ヤワン:ギリシャのこと。エジプト軍のギリシャ傭兵か。

※ この箇所により、第二ゼカリヤをヘレニズム時代と考える説もある。

※ 西洋文明の根底はヘブライズムとヘレニズムと言われるが、この節は、メシア到来によりイスラエル一神教ギリシャ・ローマのヘレニズム文明に立ち向かい、ローマ帝国をついにキリスト教化することの預言とも読める。

 

◇ 9:14 南からの暴風:ヘブライ語では風と霊が同じ言葉であり、しばしば聖霊は風にたとえられる。聖霊の激しい働きの比喩か。あるいは、聖書においては自然現象も神の支配下にあると考えており、台風などもなんらかの神の意志の表れと見るべきか。

 

◇ 9:15 

・稲妻や暴風があったとしても、神が神の民を守ってくださる。

 

・「血をぶどう酒のように飲み」⇒ 「イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」(ヨハネ6:53)

※ キリストの御言葉を血肉化するほど読み、聞き、聖霊に満たされること。

聖霊は聖書の学びを通してより豊かに内住してくださる)

 

◇ 9:16 救い、民=羊の群れ、王冠の宝石

参照:イザヤ書62:3「あなたは主の手の中で誉れある冠となり/神の手のひらの上で王冠となる。」

Ⅰテサロニケ2:19「私たちの主イエスが来られるとき、その御前であなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、また誇りの冠となるでしょうか。」

⇒ エクレシアはキリストの冠。

(c.f.詩編132:18「しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」⇒エルサレム(エクレシア)の上に神の王冠が花開く。)

 

◇ 9:17 穀物・ぶどう酒聖書の言葉とキリストのいのちのたとえ。

若者・おとめ:年齢に限らず、聖書を学ぶ人はいつまでも若い。キリストに従う羊は、宝石のように美しい。

バルバロ訳「その恵みは、何だろうか。/その美しさは、何だろうか。彼は、若者たちを、小麦のように伸ばし、/乙女たちを、甘いぶどう酒のように栄えさせる。」

 

Ⅴ、おわりに 

ゼカリヤ書九章から考えたこと

 

・メシアが非戦・平和の存在としてはっきり預言され、かつろばに乗ってやって来るという預言がゼカリヤの五百年後のイエスにおいて的中し成就したことはあらためて驚くべきことだと思われる。イエスの精神の継承としての、無教会の非戦論の重要性についてあらためて考えさせられた。

 

・メシアの方から私たちに歩んできてくれることのありがたさ。私たちが気づかない時にも、キリストの働きや天使が形を変えて歩み寄ってきてくださっているかもしれないこと(c.f.:『アンクルトムの小屋』のトムや、映画『グリーンマイル』のジョン etc.)。

 

・ゼカリヤ書においては、異邦人への審判が滅亡ではなく、神に帰依し帰属するようになることに主眼があること。

 

ティルスやシドンやペリシテのように、人間の知恵や富や誇りは何にもならず、むなしいものであることと、神という「砦」に帰るべきことをあらためて考えさせられた。

 

キリスト者が「羊の群れ」であると同時に「王冠の宝石」と記されていることは、とても美しい比喩であり、象徴的表現に思えた。

 

・台風(「南からの暴風」)やさまざまな困難も、神の守りがあれば心配する必要はなく、一時的に苦しんだとしても二倍になって繁栄が返されると約束されており、すでに十字架の贖い(「契約の血」)によって「水のない穴」から解放され、いのちの水を飲むことができることのありがたさ。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017など。

・『塚本虎二著作集 第六巻』

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数  

石坂和という人のこと

どのような人かは全然知らなくて、そしてその人生を詳しく調べる術も今となってはないのかもしれないけれど、ある短い文章を通じて、とてもその人から深い感動を与えられることが、しばしば人生にはあると思う。

 

「石坂和」という人について、最近、そんなことがあった。

塚本虎二の著作集の続第五巻に所収の「病床の聖書研究」というごく短い文章によって、その人のことをはじめて知った。

そもそも、ふりがなが打っていないので、名前の読み方もわからない。

 

同文章によれば、1959年に三十歳で亡くなられたとのことだから、推定すると1929年頃、昭和五年頃の生まれだろうか。

だとすれば、とても長命であれば、今でも生きておられる可能性があったと思う。

早くに世を去られたので、今はこの世に記憶する人ももうほとんどいないのかもしれない。

長野の屋代町というから現在の千曲市東部の人だったそうである。

 

塚本の短い文章によれば、石坂和という人は、十二歳ぐらいから病気のために床に臥し、学校は小学校だけしか行けなかったそうだ。

しかし、塚本虎二の本を愛読し、その影響で聖書研究を志すようになり、独学でラテン語ギリシャ語、ヘブライ語、さらにはアラビア語の本まで買い求めて勉強し、「勉強だけがたのしみ」の様子だったのことだった。

丹念に塚本虎二の雑誌『聖書知識』を読み、抜粋のノートをたくさんつくっていたという。

 

三十歳で天に召されたので、その聖書研究は、何か形となって世に本などの形で出されることは何もなかった。

 

しかし、何か、その話を読んだ時に、私は深い感動を覚えざるを得なかった。

 

塚本虎二が「神の前ではそれが、君の信仰と共に光り輝いていることであろう。」と文章を結んでいたけれど、そのとおりだと思う。

 

詩人の水野源三や、松本清張が『「或る小倉日記」伝』で描いた田上耕作と、その人生は相通じるものがあるように思える。

しかし、彼ら以上に何も世の中に目に見える形では何も残さず、ほとんど誰も知ることがなかった生涯だったろう。

塚本虎二が短い一文を書き残さなければ、私もぜんぜん知らずに終わっただろうと思う。

 

だが、山本周五郎の「人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という言葉を、これほど証している人も、珍しいように思える。

人の目にはわからなくても、神の目にはどれほど尊い一生だったかわからない。

 

また、御本人が思う存分聖書を研究できるように本を買って環境を整えた御両親や御家族の愛に深く胸を打たれる。

 

もし、ご近所の方などで知っておられる方がいれば、お墓の場所など教えて欲しいと思うが、時の経った今はそれももはや知る人もいないのかもしれない。

しかし、天には今もそのいのちは輝いているように思える。