ゼカリヤ書 資料(13)

 

『ゼカリヤ書(13) 真の牧者と偽りの牧者』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、審判の宣告

Ⅲ、羊をおろそかにする牧者と契約の破棄

Ⅳ、役に立たない牧者 

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

     

(左から、ジョット「ユダの裏切り」、レンブラント「銀貨三十枚を返すユダ」、モルドバに伝わる十八世紀のイコン(見失った羊のたとえ))

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、第一から八章までの前半においては、八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と、平和の種が蒔かれ将来において異邦人も神の民となることが告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応え、苦しみの海を渡る力を人に与える方であることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章(十一章)

 

□ 第十一章の構成 

 

第一部 審判の宣告 (11:1~11:3)

第二部 羊をおろそかにする牧者と契約の破棄  (11:4~11:14)

第三部 役に立たない牧者 (11:15~11:17)

 

 ゼカリヤ書第十一章は、銀三十シェケルという新約聖書と符号する預言がある点で注目に値する。しかし、十一章全体の内容は一見すると難解である。(個人的なことを言えば、私がかつて聖書を読んだ時に最も難解に感じたのは、ゼカリヤ書11章とロマ書5章だった)。しかし、丹念に読めば、決して難解ではなく、「羊」(=人々)を大切にせずおろそかにする「牧者」(=指導者)たちに対する神の審判と、偽りの牧者に対する批判を通じて真の牧者のありかたを問いかけ照射する内容となっている。

まず第一部では、「レバノン」が焼き尽くされることが預言される。

第二部では、羊を大切にしない牧者たちに対して、好意と一致の契約が破棄され、「私」の対価として銀三十シェケルが支払われることが告げられる。

第三部では、役に立たない愚かな牧者の様子が告げられる。

 

 

Ⅱ、審判の宣告 (11:1~11:3) (旧約1468頁)

※ 11章冒頭では、「レバノン」に対する審判が告げられる。

 

◇ 11:1~3

レバノンパレスチナ北部の山脈や丘陵一帯を指す地名。当時はスギなどの高級木材の名産地だった。

バシャンガリラヤ湖の東一体の肥沃な地域(巻末地図④参照)。

ヨルダン死海の北に流れるヨルダン川およびその一帯、広くとればパレスチナの地域全体(巻末地図④参照)。

 

⇒ ※ 「レバノンの杉」、「バシャンの樫の木」、「ヨルダンの誇り」(引照b参照)とは? 11章1~3節は何を指すのか?二つの解釈が考えられる。

 

① レバノンの地域一帯への審判の預言? 

⇒ だとすれば、9章2、3節にあったティルスとシドンへの審判とも考えられる。ただし、その場合は、バシャンやヨルダンというイスラエルの版図に言及されている理由がわからない。

 

② エルサレム神殿への審判の預言?

⇒ 「レバノンの杉」は神殿に使用された高級木材(歴代誌上22:4)。「バシャンの樫の木」もそうだと推測される。

⇒ 11章冒頭は、高級木材を使ったエルサレム神殿が破壊され、審判を受けると考えれば、矛盾なくレバノン・バシャン・ヨルダンへの言及を理解できる。

 

※ ゆえに、②説が妥当と考えられる。66年に始まったユダヤ戦争に敗北したイスラエルでは、70年にエルサレムが占領され、ゼカリヤたちが再建した第二神殿は破壊された。そのことをゼカリヤは預言していたと考えられる。

 

◇ 11:3 「牧者の泣き叫ぶ声」⇒ 11章4節以下の「偽りの牧者」の泣き叫ぶ声と解釈できる。神殿破壊により、それらの指導層の人々が審判を受けて嘆くことの預言。

 

参照:マタイ23:37-38エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」

マタイ24:2「イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」」

 

 

Ⅲ、羊をおろそかにする牧者と契約の破棄  (11:4~11:14)(1468頁)

 

◇ 11:4   「屠るための羊の群れ」: 犠牲に捧げられる、つまり神に捧げられる人々のことと考えられる。

① ユダヤ人を指すとも考えられる(歴史的に、ユダヤの民は多くの受難の歴史を経た。)

② ユダヤ人に限らず、神の民となった人々、クリスチャンや義人を指すか。(c.f. 永井隆の「浦上燔祭説」等)。

 

①の意味にゼカリヤの時代には受け取られたと思われるが、新約の光に照らせば②説も可。「神の民」を意味していると考えられる。広くとれば神の愛の対象である全人類とも考えられる(③)。

⇒ 羊(神の民、人々)を「育て」ることが牧者に命じられている。

 

◇ 11:5  羊の売買、牧者が羊を惜しまない

 

 神から大切に育て養うように命じられている神の民を、牧者つまり指導者たちが少しも大切にせず、虐げ抑圧しても罪とされないことを指すと考えられる。人を商品として扱い、奴隷として売買したり、搾取して裕福になっている様子の描写と解釈できる。指導者たちが神の民を大切にしない=「惜しまない」。

 

◇ 11:6   神がもはや惜しまないこと

 

 神の民を大切にしない社会・国家・指導者たちを、神が見捨てることが告げられている。神の民を惜しまず、大切にしない共同体に対して、神ももはや惜しまず、憐れまず、大切にしないことが宣言されている。

 

 隣人と王の手に渡す:隣国の手に渡すこと、つまりなんらかの敵国や権力者を通じた審判と考えられる(参照:イスラエルバビロニアローマ帝国によって滅ぼされた歴史等)。あるいは、「隣人」はそうだとして、「王」はキリストのことであり、世俗の権力や国家を通じて神の経綸が行われることを指すか。

⇒ もはや神が見捨て、打ち砕かれ、神の助けがないことの通知。

 

◇ 11:7  羊の商人のために:別訳「虐げられた羊の群れのために」(引照d参照)。別訳の方が原文であり、別訳の方が適切と思われる。つまり、虐げられている神の民のために神の御心はあり、そのような神の民をこそ愛し慈しみ神は育ててきたことを指す。

 

※ 二本の杖 「好意」と「一致」

 

「好意」ヘブライ語「ノーアム」(נֹעַם):美しさ、喜び、楽しさ、好意

「一致」ヘブライ語「ヘベル」(חֶבֶל)の変化した言葉(ホーベリーム):ひも、結ぶもの、結束、統一、調和、一致。

 

※ 神が、共同体(社会、国家、教会など)に、本来は美しさや好意や喜びという要素と、結束や調和や団結といった要素と、二つの要素を与えていること。つまり、本来の共同体であれば、お互いに好意や善意を持ち美しい麗しい人間関係が存在し、ゆえに仲良く団結しているということ。

 

◇ 11:8  三人の牧者:何を指しているか難解な箇所。以下の二つの解釈がありうると思われる。

 

① 捕囚帰還後のユダヤの指導者だったゼルバベル・ヨシュア・ハガイの三人が、正確な没年はそれぞれわからないが、ひょっとしたらほぼ同時期になんらかの事情で死んだことを指すと考えられる。しかも、その死に、他の有力者や人々の嫉妬や猜疑や裏切りが関わっていたとも考えられる。

 

② 特定の人物ではなく、王・大祭司・預言者という三つの神の民の指導者のことであり、この三つの要素を兼ね備えたイエスが殺害されることを、「三人の牧者を消す」と表現したとも考えられる。

 

⇒ 「三人の牧者」がいなくなった結果、神は人々(その共同体、社会)に我慢できなくなり、人々も神を嫌った、という意味か。

 

◇ 11:9  神がもはや養わず、滅ぶに任せることの宣告。  (参照:ヨセフス『ユダヤ戦記』、イエスを殺害したあとのユダヤ戦争の悲惨さ)

 

◇ 11:10-11   「好意」の杖の破棄 

 神が人々との間に結んだ「好意」の契約を破棄し、無効にしたことが告げられる。「羊の商人」の別訳「そのように虐げられた羊」の方が意味として適切。神が「好意」の契約を破棄し、虐げられた羊(=人々、あるいはイエス)は神との契約関係が破棄されたことを悟った。

⇒ 神への背きへの審判だと解釈されるが、そもそも神が「好意」の杖を折り、その人への「好意」の契約を破棄する前に、人が隣人や神への愛・好意を忘れ、すでに好意に基づかない生き方をしていたので、そうなったと考えられる。

 

※ 銀三十シェケル:贖い 

 

◇ 11:12-13  

「私」:ゼカリヤとも考えられるが、神のこと、あるいはイエスのことを指すか。契約の破棄をする権限がゼカリヤにあるとは考えにくい。また、銀貨三十枚ということを考えれば、「私」はメシアであり主であるイエスのことと考えるのが妥当と思われる(13節で主が「私」に言われた、という箇所は、マタイ22:42-45の箇所等を踏まえて読めば理解可能)。

 

「賃金」:神の対価、神に支払われるべき値段を払う、あるいは払わなくても良い(値がつけられないものとする)ことが述べられている。

⇒ 人々は神への賃金として「銀三十シェケル」を支払った。

 

※ シェケルは金属の重量の単位。時代によってしばしば変動したが、おおむね11.4グラム(3000シェケルが1タラント)。捕囚期以前は貨幣ではなく、銀や金はシェケルの重量で量っていた。捕囚帰還後に貨幣へと移行していった。

 

※ 銀三十シェケルは奴隷一人分の値段(出エジプト記21:32)。ちなみに、レビ記27章3、4節によれば、人が誓願を行う時あるいは満願の時に神に捧げる金額が、成人男性は銀五十シェケルで女性は銀三十シェケルとなっており、成人男性一人分の査定金額にも満たない。

 

◇ 11:13  主が「私」に銀三十シェケルを陶工に与えるように言い、陶工に投げ与えた。

 

※ メシア預言と考えられる。 ※ マタイ25:14-16、同27:3-10

 

 マタイ25、27章には、イスカリオテのユダが銀貨三十枚でイエスを裏切り、のちに悔いて神殿に銀貨三十枚を投げ入れて自殺し、祭司長たちはその金で「陶工の畑」を買い、無縁墓地としたことが記されている。また、それが旧約の預言の成就とされている。

 

※ ただし、マタイ27:9では、銀貨三十枚と陶工の畑の預言は「エレミヤ」の預言とされている。しかし、エレミヤ書には該当する箇所はない。

エレミヤ書に陶工への言及や畑を買う箇所はあるが(エレミヤ18:2、同32:9、10、25)、銀貨三十枚とは関係なく、イスカリオテのユダの記述と直接的な関係はない。なので、マタイ27章が言う「預言」はゼカリヤ十一章と考えられる。(なぜゼカリヤをエレミヤとしているのかについては、①単なるマタイの勘違い、②第二ゼカリヤの部分が当時エレミヤ書の一部として伝わっていた、③今日には伝わっていないエレミヤ書の別の部分が存在した、等が考えられる。)

 

※ 「陶工」は謎めいた言葉であり、なぜここに出てくるのか難解。一説には、陶工は「ハイヨーゼール」で、献金箱(賽銭箱)は「ハーオーザール」で、よく似ているので誤植があったのではないかという(塚本虎二著作集7巻314-315頁参照)。そう考えれば、ゼカリヤ書11章13節は、神殿の献金箱にその金を投じろという意味になり、唐突に陶工が出てくるような違和感はない。しかし、「陶工」と原文どおりに受け取った方が、新約における預言の成就とつながる。

 

◇ 11:14 「一致」の杖の破棄。「ユダ」と「イスラエル」の兄弟関係の破棄。

 

⇒ ユダとイスラエルは、それぞれ南北分裂王国時代の南王国と北王国のことと考えられるが、すでに捕囚期および捕囚帰還後の時代には両王国とも存在しない。ゆえに、この箇所の意味としては、いくつかの解釈が成り立つ。

 

① 南王国の子孫のユダヤ人の人々と、北王国と異民族の混血によって生じたサマリヤ人との兄弟関係が失われ、根深い対立や差別が生じたことを指す。

 

② 単純に、神の民の内部での分裂や対立を指す。(参照:宗教改革によるカトリックプロテスタントの対立等)。人類の間に友好関係や一致が失われ、対立や戦争状態に入ること。

 

⇒ 神と人との間に「好意」や「一致」が失われると、人間同士も際限なく対立し争うにようになることを指すということか。

 

※ 参照:マルコ3:21-22「国が内輪で争えば、その国は立ち行かない。また、家が内輪で争えば、その家は立ち行かない。」

 

※ 神から養い育てるように民(羊)を委託されている指導者たちは、神に対しても奴隷一人分と同じ銀三十シェケルの値をつけて粗末に扱った。人間の尊厳を無視し、搾取や商品や道具として、金銭で勘定できるものとして扱う指導者や有力者たちは、神をもそのように扱った。その結果、神との間の、また人々のお互い同士の、「好意」も「一致」も失われた。

 

※ しかし、イエスは、銀貨三十枚で裏切られた出来事を通して、人類の罪を十字架で贖った。罪の支配下にあった人間の魂を、自らの命を対価として罪から買い取り、贖い、救い出した。金銭ずくで裏切った人類に対し、命がけで贖った。

 

※ 何事も金銭に換算する人間の罪と、その人間の罪を自分の命によって贖い、金銭では買えない尊い霊魂として無償の愛をそそいだイエスの義との対照。(ユダは、結局自分の罪を自覚せず、イエスを死に追いやってしまったことへの後悔も、金銭を投げ返すという金銭で済ませようとする態度や発想しかできなかった(塚本虎二著作集七巻306-313頁参照))。

 

 

Ⅳ、役に立たない牧者 (11:15~11:17) (旧約1468-9頁)

 

◇ 11:15  愚かな牧者 ⇔ 賢い牧者、良い羊飼い

参照:エゼキエル34:2-10、同34:11-31

 

◇ 11:16 「彼は失われたものを訪ねず、迷ったものを捜し求めず、傷ついたものを癒やさず、飢えているものを養わず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを裂く。」 ← 愚かな牧者の様子。

この正反対を生きたのが「良い羊飼い」であるイエスだった。

 

※ 失われたものを訪ね、迷ったものを捜す。

ルカ15:4-6 見失った一匹の羊を捜し歩く。

ルカ15:8-10 なくした銀貨を探すように、罪人の悔い改めを求めて喜ぶ。

ルカ15:11-32 放蕩息子の帰還を待ちわび、帰還を大喜びする。

ルカ19:1-10 ザアカイのもとを訪れる。

 

※ 傷ついたものを癒す。 マルコ1:34等、多くの人を癒した。

※ 飢えているものを養う。 パンと魚の奇跡 マルコ6:34-44、マルコ8:1-10  霊魂の飢えを潤し満たす マタイ5:6、ルカ6:21、ヨハネ4:14

⇒ イエスは、失われたものを訪ね、迷ったものを捜し求め、傷ついたものを癒やし、飢えているものを養い、生涯質素に暮らした。

 

・「傷ついた葦を折ることもなく/くすぶる灯心の火を消すこともない」(マタイ12:20、イザヤ42:3)。

・イエスは良い羊飼い。 ヨハネ10:7-18

 

※ ゼカリヤの11:16は、愚かな役に立たない偽の牧者の姿を明示することで、その反対である賢い役に立つ真実の牧者の姿を鮮やかに示している。

 

◇ 11:17

羊を見捨てる牧者には呪い

⇒ 逆に言えば、羊を決して見捨てない、役に立つ牧者には祝福が与えられる。

 

腕と右の目を打つ。 ⇒ 偽の牧者の生き方は地獄に行くことにつながる。

参照:マタイ5:29-30「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」

参照:マタイ16:26「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」

 

・羊(民)を大切にしない愚かな牧者は、目(魂の目、霊的な感覚や識別力)も失われ、手(力)も失われる。一方、神を愛し隣人を愛する人には、澄んだ魂と強い力が与えられる(参照 マタイ6:22-23、5:13-16、イザヤ40:31)

・地獄に行くよりは、腕や右の目を失うことで悔い改めることが望まれている。

 

Ⅴ、おわりに ゼカリヤ書十一章から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第十一章は私にとって長年よくわからない箇所だった。今回丹念に読んで、はじめて明瞭に意味がわかり、素晴らしい箇所だと感動した。

・金銭に万事を換算し、人を大切にせず商品や道具のように扱い搾取することが罪であり、そのような生き方をする人々が「愚かな牧者」「役に立たない牧者」である。「銀貨三十枚」は万事を、神さえも金銭に換算してしまう人間の罪を象徴している。(資本主義は、その危険性と隣り合わせ)。

・偽りの牧者との対照の真実の牧者の生き方、イエスに倣うこと。

・神の驚くべき御経綸。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『塚本虎二著作集 第七巻』聖書知識社、1978年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年、他多数。