どのような人かは全然知らなくて、そしてその人生を詳しく調べる術も今となってはないのかもしれないけれど、ある短い文章を通じて、とてもその人から深い感動を与えられることが、しばしば人生にはあると思う。
「石坂和」という人について、最近、そんなことがあった。
塚本虎二の著作集の続第五巻に所収の「病床の聖書研究」というごく短い文章によって、その人のことをはじめて知った。
そもそも、ふりがなが打っていないので、名前の読み方もわからない。
同文章によれば、1959年に三十歳で亡くなられたとのことだから、推定すると1929年頃、昭和五年頃の生まれだろうか。
だとすれば、とても長命であれば、今でも生きておられる可能性があったと思う。
早くに世を去られたので、今はこの世に記憶する人ももうほとんどいないのかもしれない。
長野の屋代町というから現在の千曲市東部の人だったそうである。
塚本の短い文章によれば、石坂和という人は、十二歳ぐらいから病気のために床に臥し、学校は小学校だけしか行けなかったそうだ。
しかし、塚本虎二の本を愛読し、その影響で聖書研究を志すようになり、独学でラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、さらにはアラビア語の本まで買い求めて勉強し、「勉強だけがたのしみ」の様子だったのことだった。
丹念に塚本虎二の雑誌『聖書知識』を読み、抜粋のノートをたくさんつくっていたという。
三十歳で天に召されたので、その聖書研究は、何か形となって世に本などの形で出されることは何もなかった。
しかし、何か、その話を読んだ時に、私は深い感動を覚えざるを得なかった。
塚本虎二が「神の前ではそれが、君の信仰と共に光り輝いていることであろう。」と文章を結んでいたけれど、そのとおりだと思う。
詩人の水野源三や、松本清張が『「或る小倉日記」伝』で描いた田上耕作と、その人生は相通じるものがあるように思える。
しかし、彼ら以上に何も世の中に目に見える形では何も残さず、ほとんど誰も知ることがなかった生涯だったろう。
塚本虎二が短い一文を書き残さなければ、私もぜんぜん知らずに終わっただろうと思う。
だが、山本周五郎の「人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という言葉を、これほど証している人も、珍しいように思える。
人の目にはわからなくても、神の目にはどれほど尊い一生だったかわからない。
また、御本人が思う存分聖書を研究できるように本を買って環境を整えた御両親や御家族の愛に深く胸を打たれる。
もし、ご近所の方などで知っておられる方がいれば、お墓の場所など教えて欲しいと思うが、時の経った今はそれももはや知る人もいないのかもしれない。
しかし、天には今もそのいのちは輝いているように思える。