ゼカリヤ書 資料(12)

 

『ゼカリヤ書(12) 祈りに答える神』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、恵みの源である神

Ⅲ、祈りに答える神

Ⅳ、神による贖いと回復

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに    

   

(画像:イスラエルに咲く罌粟、カルメライト、シクラメン

 

前回までのまとめ:前回までに、ゼカリヤ書の第九章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、第一から八章までの前半においては、八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と、平和の種が蒔かれ将来において異邦人も神の民となることが告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章 ※十章

 

 

□ 第十章の構成 

 

第一部 恵みの源である神 (10:1~10:3)

第二部 祈りに答える神  (10:4~10:7)

第三部 神による贖いと回復 (10:8~10:12)

 

 ゼカリヤ書第二部は具体的なメシア預言を多く含むのが特徴であるが、第十章は一見そうした要素はないように見え、文章は平明で難解な文章はない。しかし、神が人間の祈りに答える神であることが明言され、その恵みが告げられている美しい箇所である。

 

まず第一部では、神が恵みの源であることと、その一方で人間の指導者たちは空しい偽りを語り、人々が羊飼いのいない羊のように迷い苦しむこと、それゆえ神が指導者たちを罰することが告げられる。その神に祈るべきことが告げられている。

第二部では、神が神に従う人々を強め、贖い、救う神であり、祈りに答える神であることが告げられる。

第三部では、神が神に従う人々を再び呼び集め、世俗の権力の横暴から解放し、救いが回復されることが告げられる。

 

Ⅱ、恵みの源である神(10:1~10:3) (旧約1466頁)

 

※ ゼカリヤ書九章ではろばに乗ってメシアがやって来ることが告げられた。十章では、その真実の神に祈るべきことが告げられ、神は祈りに答えることが告げられる。

 

◇ 10:1  

 

雨:イスラエルの乾燥地帯では雨は恵みであり、死活問題に関わる貴重なものだった。聖書においては、しばしば、神の恵みや祝福を象徴するものとされている(詩編147:8、ヤコブ5:7-18)。また、神の御言葉そのものを象徴する(イザヤ55:10-11)。

 

祝福の雨

エゼキエル34:26「私は彼らと私の丘の周囲に祝福を与え、季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる。」

 

申命記11:13-15「今日あなたがたに命じる私の戒めによく聞き従い、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、私はあなたがたの地に、秋の雨や春の雨など、必要な時期に雨を降らせよう。あなたは、穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油を収穫するだろう。私はまた、家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足するだろう。」

⇒ 雨は恵みの象徴。

 

ホセア6:3「我々は知ろう。/主を知ることを切に求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/雨のように我々を訪れる。/地を潤す春の雨のように。」

 

使徒言行録14:17「しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」

 

申命記32:2「私の教えは雨のように降り注ぎ/私の言葉は露のように滴る。/若草の上に降る小雨のように/青草の上に降る夕立のように。」

 

※ ゼカリヤ書10:1では、「主に雨を求めよ」と、真実の神である主に雨を祈り求めることが述べられている。つまり、主なる神に祝福・恵み・神の言葉・聖霊を積極的に祈り求めることが勧められ、そうすれば確かに主が答えてくださることが告げられている。

 

 

◇ 10:2

 

テラフィム:偶像の一種。家の守り神のような小さな偶像である場合もあれば(創世記31:17、ラケルが鞍の下に隠せる程度の大きさ)、等身大の場合もあった(サムエル記上19:13、ミカルがダビデを匿うために寝台にテラフィムを置いてダビデがいるように見せかけた)。バビロニアが占いの時に用いる偶像でもあった(エゼキエル21:26)。ヨシヤ王の改革の時に禁止された(列王記下23:24)が、ホセア(3:4)やゼカリヤなどがそのなくなることを願っているところを見ると、しばしば後代まで用いられたらしい。御利益信仰や護符や占いと結びついていた。

 

占い師の偽りの幻、空しい夢、無益な慰め:いつの世にも虚偽やデマが蔓延したということか。現代社会にも新興宗教やスピリチュアル系のそういったものは多い。フェイクニュースも今日大きな問題となっている。政治においても「空しい夢」「無益な慰め」の類は多い。何が真実かを見抜く、知性のレベルにおけるメディア・リテラシーの重要性とともに、真実の神と結びつく霊的な感覚を各自が錆びつかせないことの重要性。

 

※ 結局、偶像は「雨」を降らせることができない。

 

牧者:羊飼い、牧畜の世話をする人、牧畜の番人。ダビデは羊飼い出身であり、新約では羊飼いはイエスの象徴的なイメージとして語られる。この協会共同訳における「牧者」の語句を新改訳2017では「羊飼い」と訳している。

 

⇒ 偽りにだまされ、正しい牧者・指導者がおらず、迷わされた人々が苦しむ(現代もまさにそういう状況が多いと思われる)。

 

 

◇ 10:3

 

「指導者」⇒別訳「雄山羊」(協会共同訳の欄外引照注a参照)

雄山羊:羊とともに山羊は主要な牧畜だったが、のちにしばしば従順な羊と対照的な、反抗的な者というイメージを象徴的に担わされた。中世ヨーロッパでは悪魔は山羊の頭を持っているイメージで描かれた。

マタイ25:32-33では、終末の日に羊と山羊を分けるように、善人と悪人を区別し審判することが告げられ、羊と対照的な象徴的意味をもたされている。

 

ここでは、「牧者=指導者=雄山羊」は、民を正しく導かず、迷わせる、悪しき指導者を指している。

それらに対し、主は怒り、罰する。そして、主は人々を顧み、勇気づけ力づける。現代においても、精神的な世界における指導者や、政治家、ジャーナリスト、教育者、各職場や地域で重要な役割を果たすなど、人々に与える影響の大きい職務にあたる人の責任は大きく、神から審判を受ける地位にある。

 

※ 10:1-2を通じて、真実のよりどころであり信頼できるのは主なる神であり、その主が祈りに答え、人々を顧み、偽りの指導者たちに審判を下すことが告げられている。

Ⅲ、祈りに答える神  (10:4~10:7) (旧1467頁)

 

◇ 10:4    この箇所はメシア預言であり、「隅の石」「杭」「弓」としてメシアが預言されている。

 

隅の石:壁の石積みの最初の石、礎石として、古代では重視された。

イザヤ28:16「それゆえ、主なる神はこう言われる。/「見よ、私はシオンに一つの石を据える。/これは試みを経た石/確かな基礎となる貴い隅の親石。/信じる者は、慌てることはない。」

詩編118:22-23「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。/これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。」

⇒この詩編の箇所をイエスは「ぶどう園と農夫のたとえ」で自らを指すこととして引用(マルコ12:10)、ペテロもイエスのことを預言した言葉だとして引用した(使徒4:10)。

 

杭:地中に打ち込んだ柱、棒。天幕を支える中心(イザヤ54:2)。ガラテヤ2:9では信者が柱と呼ばれ、Ⅰテモテ3:15ではエクレシアが柱と呼ばれている。ここではキリストの十字架のたとえとも読める(イザヤ22:23では主の僕が杭にたとえられている)。

 

弓:神の敵を征服する武器。新約では悪の諸霊と戦う「神の武具」(エフェソ6:13)は、神の御言葉を意味する。神の御言葉によって悪霊と戦うことか。

 

「彼らからすべての指揮者が共に出る」⇒ メシア=すべてのことについての指揮者。その指揮のもと、メシアを受け入れた神の民の中から、多くの使徒や牧者・指導者が現れること。

 

◇ 10:5  

 

勇士:勇気と活力に満ちた人のこと。神が共にいる時、人には勇気と活力が満ちる(ミカ3:8)。

 

「馬に乗る者たちを恥じ入らせる」⇒ 正規の軍隊の人々が恥じ入る。

 

※ 10:3-5の箇所は、新約の光に照らして考えれば、非暴力で勇気をもって戦う人々について述べており、そうした神と共に非暴力で闘う人々が、武装した暴力に頼る人々(馬に乗る者たち)を道徳の力で恥じ入らせるということを意味していると思われる。

歴史上、そうした事例は多い(ローマ帝国パウロらクリスチャンが平和裏に霊の力でひっくり返し征服したこと、マハトマ・ガンジー素手大英帝国を追い払い独立を達成したこと、キング牧師らの公民権運動、ベトナム反戦運動etc.)。

そうでなければ、つまりこちらも単に武力や暴力で闘うということならば、「馬に乗る者たち」が「恥じ入る」という一文は意味不明となってしまう。

 

 

◇ 10:6  

 

ユダ、ヨセフ:それぞれ南ユダ王国と北イスラエル王国を指す。ただし、ゼカリヤの時にはすでに両方ともかなり前に消滅(紀元前722年と紀元前587年)。

イスラエル王国は滅亡後、南ユダに亡命した人々も多かったが、その他には異民族と混血が進んだ場合も多かった。後者がサマリア人だが、ユダヤ人もサマリア人も救うということか。霊的に解釈すれば、神の民の多様な出自や宗派の人も救い出すということか。

 

「私は彼らを憐れむゆえに連れ戻す」⇒ 離散や捕囚から解放し回復すること。霊的に解釈すれば、罪から解放し、神の民として回復すること。

 

「退けなかった者のようになる」⇒ 罪から解放し、無垢な罪なき者となること。神から背くアダムの原罪から解放し、神と共に生きる状態になること。

 

「私は主、彼らの神であって、彼らに答えるからだ。」

答える:新共同訳ゼカリヤ10:6d「わたしは彼らの神なる主であり/彼らの祈りに答えるからだ。」

 

※ 神は祈りに答える。聖書は祈りに答える神であることが全篇を通じて記されている。特に詩編には、そのことが多く記されている。

 

①、答える神

 

詩編17:6「神よ、私はあなたに呼びかけます。/あなたが私に答えてくださるからです。/私に耳を傾け、この訴えを聞いてください。」

 

詩編20:7「今、私は知った/主が油注がれた者を救ったこと/聖なる天から彼に答えることを。/右の手による救いの力をもって。」

 

詩編30:2-4「主よ、あなたを崇めます/あなたは私をすくい上げ/私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。/わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒やしてくださいました。/主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ/墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。」

 

詩編34:5「私が主を尋ね求めると/主は私に答え/あらゆる恐怖から助け出してくださった。」

 

詩編38:16「主よ、私はあなたを待ち望んでいました。/わが主、わが神よ、あなたは答えてくださいます。」

 

詩編65:6「我らの救いの神よ/あなたは義によって/恐るべき業によって答えます。/遠い海、地の果てに至るすべてが信頼する方。」

 

詩編81:8「あなたが苦難の中で呼ぶと/私はあなたを助け出した。/雷雲の隠れ場からあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試みた。〔セラ〕

 

詩編86:7「苦難の日に私はあなたを呼び求めます。/あなたは必ず答えてくださいます。」

 

詩編91:15「彼が私を呼び求めるとき/私は答えよう。/苦難の時には彼と共にいる。/彼を助け出し、誉れを与えよう。」

 

詩編99:6-8「モーセとアロンは祭司の中に/サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。/彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。/主は雲の柱の内から彼らに語りかけ/彼らは主の定めと、主から賜った掟とを守った。/主、我らの神よ、あなたは答えられた。/あなたは彼らを赦す神。/しかし、彼らの悪行には報いる方。」

 

詩編118:5「苦難のただ中から私は主を呼んだ。/主は答えて、広い所に私を解き放った。」

118:21「あなたに感謝します。/あなたは私に答え/私の救いとなってくださった。」

 

詩編120:1「都に上る歌。/苦難の時に主に呼びかけると/主は私に答えてくださった。」

 

詩編138:3「私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。」

 

②、聞く神

 

詩編10:17「主よ、あなたは苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。/彼らの心を確かなものとし/耳を傾けてくださいます。」

 

詩編40:2「私は耐えて主に望みを置いた。/すると主は私に向かって身を乗り出し/私の叫びを聞いてくださった。」

 

詩編55:18「夕べも朝も、そして昼も/私は嘆き、呻きます。/神は私の声を聞いてくださる。」

 

詩編65:3「祈りを聞いてくださる方よ/すべての肉なる者はあなたのもとに来ます。」

 

詩編102:20-22「主はその聖なる高き所から目を注ぎ/天から地を見ました。/これは、主が捕らわれ人の呻きを聞いて/死に定められた子らを解き放ち/人々がシオンで主の名を/エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。」

 

詩編145:19「主を畏れる人たちの望みをかなえ/彼らの叫びを聞いて救ってくださいます。」

 

出エジプト記2:23-25「それから長い年月がたち、エジプトの王は死んだが、イスラエルの人々は重い苦役にあえぎ、叫んでいた。重い苦役から助けを求める彼らの叫び声は神のもとに届いた。/神はその呻きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」

 

※ 主は聴いて、答えてくださる神。聖書は、神の呼びかけに応える人間と、人間の呼びかけに神が答えたことが記された書物(例:アブラハム、イサク、ヤコブモーセ、士師、ダビデ預言者たち、イエス使徒たち)。

神は単なる第一原因や機械的な法則ではなく(つまりnotアリストテレス、not理神論)、聖書の神である主は人間と応答する人格神である。

ゆえに祈ることが重要である。(祈りは神の意志を変えることはなくても、神の意向を変えることができる(参照:フォーサイス『祈りの精神』)。

 

◇ 10:7  ぶどう酒:いのちの喜びや、聖霊に満たされる喜びをしばしば聖書では象徴。キリストと結びつくこと、キリストと一つになること、およびそのことによる喜びの象徴的表現。

「救い=至福」 救いとは至福、喜びに満ちた状態。

(参照:宮田咲子 2019年無教会全国集会講話「私は福音を恥としない」 ( https://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2019a/c/bc20ec05cc4211a6124dba01448c9092 ) 

聖書における「平和」(シャローム)とは、生き生きとしたいのちに満ちた状態(市村昭三先生のロマ書講話)。

 

※ 主なる神はメシアとして来臨し、祈る者に答え、贖い、救いと至福に導く。

 

 

Ⅳ、神による贖いと回復 (10:8~10:12) (旧約1467頁)

 

◇ 10:8  口笛:新改訳2017では「合図」と翻訳。口笛は合図の意味で使われている用例が聖書にはある(イザヤ5:26、イザヤ7:18)。ここでも、羊飼いが口笛で羊を集める様子を背景としている。

 

※ ただし、マタイ11:17には、『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』(ルカ7:32も)とあり、実際はキリストの初臨の時には人々は合図に気づかずなかなか集まらず。 

⇒ 少しずつ、一歩ずつ、気長に集めてくださる神。二千年かかり、聖書の神を信じる人は多くなったし、なりつつある。

 

◇ 10:9

「思い起こし」:人が神を思い出せば、神は即座に答える。(ヨナ2:8)

 

◇ 10:10  

 

アッシリア、エジプトユダヤ人を苦しめてきた二大大国。しかし、この時代はすでにペルシア帝国によって両地域とも征服されていた。ペルシア帝国を暗に指しているか。あるいは、霊的に解釈すれば、神の民を抑圧する世俗の権力や大国を指すか。もっと言えば、その奥にあるサタンの権力のことか。

 

ギルアド:巻末地図4参照、ヨルダン川より東の肥沃な地域。北イスラエル王国の滅亡までその版図だった。一方、レバノンダビデ・ソロモンの王国最盛期にその支配下になっていた。固有の領土とその最大版図まで回復されても、なお十分でないほど多くの人々が帰還し、繁栄するという意味か。霊的に解釈すれば、従来の教会や集会を上回る多くの人々が神の民となるということ。

 

◇ 10:11

 

「彼ら」:原文は「彼」、単数。モーセのイメージの投影か。キリストのことか。

 

「苦しみの海」モーセたちが葦の海を渡った故事を想起させる。

 

仏教においては、この世界を「苦海」と呼ぶ表現がある。(c.f. 石牟礼道子苦海浄土』)。人生や世界そのものを「苦しみの海」は指していると受けとめることもできる。

親鸞正像末和讃」46「往相・還相の回向に/まうあはぬ身となりにせば/流転輪廻もきはもなし/苦海の沈淪いかがせん」

親鸞高僧和讃」7「生死の苦海ほとりなし/ひさしくしづめるわれらをば/弥陀弘誓のふねのみぞ/のせてかならずわたしける」

⇒ 絶対者の慈悲に出会う時に「苦しみの海」を人は渡ることができる。

 

「波を打ち」⇒「波を打ち破り」(新改訳2017)

 

※ 神と共に歩む人々は、「苦しみの海」を信仰によって渡り、苦難の波を打ち破り越えていく。アッシリアやエジプト、ペルシア、ローマ、ナチスソビエトといった世俗の権力に負けることなく、神により最終的には世俗の邪悪な権力から解放される。サタンの支配から解放される。

 

◇ 10:12 彼ら:この末尾の箇所における「彼ら」は、エジプトやアッシリアの人々も含むと読むことも可能と思われる。ゼカリヤ書9章の内容を踏まえれば、むしろそう読むべきとも考えられる。最終的にはすべての人々が、異邦人だった人々も、主なる神によって救われ、主なる神を信じるようになる。

 

 

Ⅴ、おわりに 

ゼカリヤ書十章から考えたこと

 

・聖書の神、主は祈りに答える神であること。また、そうであればこそ、人が祈ることを待っていること。恵みの雨、祝福の雨、聖霊の雨を、祈る人に与えること。

 

・真実の神以外の偽りの空しい夢や無益な慰めを見ても、そこに救いはないこと。現代にも多い偽りの牧者や雄山羊ではなく、真実の神と共に歩むことの大切さ。また、そのような、真実の意味における指導者・勇士が数多く現れることが願われる。

 

・「私が彼らを贖ったので、口笛を吹いて集める」(10:8)。すでにキリストが十字架で罪を贖っており、神の方で救いのために必要なすべてのことを成し遂げて下さっていること。そののちに神が呼んで招いてくださっているのだから、素直に応じ、救われて、喜び賛美して生きていけばいいこと。神恩無限であり、救いのために付け加えることはない(参照:塚本虎二「信仰するということ」著作集続7巻)。

 

・聖書における救いは喜びにつながっており、単なる平静やトラブルがない消極的な無事を意味しないこと。むしろ、勇士のように勇気と活力に満ち、生き生きとしたいのちの喜びとともに、苦しみの海を渡っていくことができるようになることが、聖書における贖いであり救いであり平和であること。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『塚本虎二著作集続 第七巻』

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年、他多数。