ゼカリヤ書 資料(11)

 

『ゼカリヤ書(11) ろばに乗ってやって来るメシア』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、異邦人への裁きと異邦人も神の民となること

Ⅲ、ろばに乗ってやって来るメシア

Ⅳ、救いと平和の到来

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

 

前回までのまとめ:前回までに、ゼカリヤ書の第一部(八章まで)を学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言で、前半の第一部においては、第六章までに八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、そのうえで祭司(ヨシュア。新約から見れば万人祭司の予表)の戴冠が告げられた。さらに、断食を神のために行っているかが問われ、かつてユダヤの民が神から離れ社会正義を行わず神の裁きの対象となったことが告げられた。さらに八章では、神の一方的な救済と、平和の種が蒔かれ、将来において異邦人も神の民となることを願うことが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章 ※九章

 

・第二部(第九~第十四章)の特徴 

 

ゼカリヤ書の第九章からの後半箇所は、それまでの前半箇所と異なりアラム語由来の言葉を含み内容も異なるので、別人による預言という説がある(「第二ゼカリヤ」説)。ゼカリヤ自身の預言だと考えるならば、第一部が紀元前520年から紀元前518年になされた預言であるのに対し、第九章以降は日付が存在しないが、おそらく紀元前480年頃、四十年ほど経ってからなされた預言と推測されている。

ゼカリヤ書第二部の特徴としては、非常に具体的なメシア預言が含まれていることである。たとえば、

 

・ろばに乗ったメシア(9:9)→ マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章、ヨハネ12章。 四福音書すべてが記すエピソード。

・契約の血(9:11) → マルコ14:24 キリストの贖いの血=契約の血

・銀30シェケル(銀貨30枚) (11:12) → マタイ26:15、27:9(実はエレミヤにはない)

・受難のメシア(12:10)

・命の水(14:8) → 黙示録7:17、21:6、22:1、22:17

 

が、それらである。福音書はこれらのゼカリヤ書の預言がイエスにおいて成就したということを記している。

 

 

□ 第九章の構成 

 

第一部 異邦人への裁きと異邦人も神の民となること (9:1~9:8)

第二部 ろばに乗ってやって来るメシア   (9:9~9:10)

第三部 救いと平和の到来 (9:11~9:17)

 

 第九章では、メシアの到来を中心に、異邦人への裁きと彼らも神の民となること、および神の民への救いの到来が告げられる。

まず第一部では、異邦人への審判と、異邦人が滅ぼし尽くされるのではなく、彼らもまた神の民となることが告げられる。

第二部では、メシアがろばに乗ってやって来ることと、平和の到来が告げられる。

第三部では、契約の血によって人々が救われ、人々が神の民となり、宝の民となることが告げられる。

 

Ⅱ、異邦人への裁きと異邦人も神の民となること (9:1~9:8) (旧約1465頁)

 

◇ 9:1  

託宣:マッサ。関根訳「重荷の預言」。神の重荷のことば(この9章について言えばメシアが人々の重荷を担ってくれる意か)。聖書は神の言葉。無限に深い。

ハドラク:シリアの一地方。意味は「回帰」。ザクルの古碑文にも登場する地名だが、今も正確な場所は不明。

ダマスコダビデの時代にイスラエルが占領するが、その後独立したシリア王国の首都。のちにアッシリアが占領。

 

協会共同訳「人々とイスラエルのすべての部族の目は主に向けられる」⇒岩波訳「エン・アダムもイスラエルの全部族も、ヤハウェのもの」、関根訳「エン・アラム」、バルバロ訳「アラムの目」

※ 「エン・アダム」(エン・アラム)を地名ととる説もあるが、70人訳等に従う協会共同訳の訳が、この後の文章を見ると良いと思われる。

 

◇ 9:2

ハマト:ダマスコの北約190㎞。ソロモンやヤラベアム2世の時に占領。イスラエルの北の国境の最大版図として列王記などにしばしば記される。

ティルスフェニキアの首都。当時は海上の島。地中海屈指の商業都市カルタゴティルスがつくったフェニキア人の植民都市。アッシリアバビロニアの攻撃を退けて独立を保つも、のちにアレクサンドロス大王に征服された。

シドン:フェニキアの主要都市のひとつ。現在もレバノン第三の都市(サイダ)。ペルシア帝国に征服され、のちにアレクサンドロスに属した。ティルス・シドンのフェニキア人はバアルを信仰していた。

 

※ ティルスやシドンという当時最も繁栄した都市の「知恵」や富もむなしい。人の知恵は神の前には愚かしい。富もつかの間で簡単に消え失せる。

(日本もまた、ティルスやシドンのように偶像崇拝多神教の国であり、経済大国としての富や知恵を誇っているが、むなしいものではないか?)

 

◇ 9:5-6

アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドド:ペリシテの都市の名前。ガテと合せて、ペリシテの五都市(ペンタポリス)と呼ばれていた(ヨシュア13:3)。ペリシテはこの五つの都市の同盟連合で、一つ一つの都市には一人の君主がいた。ここでガテが挙げられていないのは、アシュドドにすでに久しく従属していたため(関根訳・註四、131頁)である(ゼファニヤ書2:4も同様)。アシュドドはダゴン信仰の中心地。アシュケロンはのちのヘロデ大王の出身地。

ペリシテ人クレタ島から来た民族で、鉄製の武器を持ち、士師記やサムエル記においてイスラエルの宿敵として描かれる。ダゴンを崇拝していた。

 

※ ティルスやシドンの破滅を見て、ペリシテ人たちも恐れおののき、衰退し、誇りが絶たれる。人が自らの力に頼るところの誇りはむなしい。

 

◇ 9:7 

エブス人:エルサレム先住民族、カナン系。ダビデによるエルサレム占領後もイスラエル人と共に住み、その信仰や文化を受け入れたようである。ソロモン王の時代に奴隷化される。ダビデが人口調査をした後に預言者ガテが預言した、主の祭壇を築くべき麦打ち場の持ち主だったアラウナはエブス人だった。

 

※ フェニキア人もペリシテ人も、間違った宗教(バアル信仰は子どもの人身御供などが伴っていたことが遺跡発掘で確認)が取り除かれ、ユダの一部族のようになり、エブス人のように神の民に帰属するものとなる。

⇒ 神が直接、見張り、見守り、平和な世の中となる。

 

※ 他の預言書における異民族への審判の預言と異なり、異民族は滅ぼされ尽くすわけではなく、ヤハウェを信仰する神の民となることがはっきり記されているところがゼカリヤ書の特徴。

※ フェニキア(バアル崇拝)とペリシテ(ダゴン崇拝)は事例であり、多神教を信仰する人々が唯一の神を信仰するようになることの預言と考えられる。未来においてキリストをすべての人が受け入れることの預言とも考えられる。

 

Ⅲ、ろばに乗ってやって来るメシア  (9:9~9:10) (旧約1465-1466頁)

 

※ メシアがろばに乗ってやってくること、戦車や軍馬が絶たれて全き平和が来ること、メシアの支配が地の果てまで及ぶことが預言される。

・一般的な王やメシアは馬や戦車に乗ることがイメージされていた(エレミヤ22:4)。

⇒ のちに、イエスがろばに乗ってエレサレムに入場。

 

※ ろばに乗ってエルサレムに入場するイエス

・マタイ21:1-9

・マルコ11:1-10

・ルカ19:28-38

ヨハネ12:12-19

 

※ ろばに乗ってエルサレムにイエスが入場したことは、メシアだと名乗ることであり、最後の一週間の始まりだった。

 

※ キリストの最後週間:都入り、宮清め、宗教家との論戦、ある女が香油を注ぐ、過ぎ越しの食事準備、最後の晩餐―十字架、墓中-復活

 

「ホーマーの『イリヤッド』は七週間の出来事を歌ったものであると言われ、またダンテの『神曲』は一週間、ドストエフスキーの『罪と罰』も一週間の出来事であったと記憶する。しかしイエスエルサレムにおける一週間は世界の歴史のどの部分における一週間よりも重大であった。世界歴史、宇宙歴史に及ぼした影響から見るならば、それは正に七十年に当り、七世紀にも七十世紀にも当るであろう。世界宇宙の歴史はこの一週間をもって全然その方向を転換したからである。

 然り、このエルサレムの一週間は、神が開闢の初めに宇宙人類を創造された七日にも比すべきものである。あるいはこの第二の創造の方がより鮮やかなる神の業であったとすらいうことが出来るであろう。第一の創造は神の大能による業であったけれども、第二の創造は愛の業であったからである。」

(『塚本虎二著作集 第六巻』12頁)

 

「イエスの都入りは晴れの凱旋であった。父なる神より託された使命を果たして父の家に帰らんとされたのであった。否、再び神の子たる位に戻らんがために最後の大使命なる十字架の死を死ぬるための都入りであった。それは人の目には敗北、神の目には凱旋たる入場であった。そしてかく見る時に、彼が軍馬に乗らず見る影もなき驢馬に乗られたことが、何と彼の都入りに相応しいことであろう。

 「帝王喜劇」と学者は罵る。この世の凱旋将軍が戦車に乗り軍馬に跨り、ラッパの声勇ましく意気揚々と入城するに対し、これは確かに大なる喜劇である。しかし神の前に果たしていずれがより喜劇であろうか。

 わたし達は驢馬に乗るイエスに彼の福音を見る。それは「ああ幸いだ、じっと我慢している人たち、地を相続するのはその人たちだから」と言い、ああ幸いだ、平和を作る人たち、神の子にしていただくのはその人たちだから」と言い、また、「剣を鞘におさめよ」、「あなた達の間では、えらくなりたい者は召使になれ」と言われた彼に相応しい。それは神による屈従と敗北の勝利である。かくして人と神が和らぎ、天に平和が成り、かくてまた地上に真の平和が花咲く。

 人の子として「大いなる権力と栄光とをもって、天の雲に乗って来る。」(二四30)べきイエスが驢馬の子に乗って神の都に入られた。これがキリスト教である。然り、驢馬の子に乗るイエスにわたし達の誇りがあり、希望があり、感謝と忍耐がある。」

(『塚本虎二著作集 第六巻』25-26頁)

 

※ ろばに乗ってやって来るメシアは、「へりくだって(アニ)」(ゼカリヤ9:9)とあり、へりくだり・謙遜・柔和・受難と関連付けられている。ろばは、戦争に用いる軍馬や戦車とは対照的な、戦争に役に立たないおとなしい動物として平和の象徴として描かれている。創世記では「彼は雄ろばをぶどうの木につなぎ/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。」(創世記49:11)とあり、イエスが自らの象徴として述べたぶどうの木(ヨハネ15:1)と関連付けられている。

※ この箇所は、メシア預言であり、またそのメシアが暴力を用いない非暴力・非戦の平和の存在であることが明確に告げられている。

※ 9章9節は初臨の、10節は再臨の時の預言か。

 

 

Ⅳ、救いと平和の到来 (9:11~9:17) (旧約1466頁)

 

◇ 9:11 契約の血:マルコ14:24、ヘブライ13:20。キリストの十字架の贖いの犠牲により、罪の捕われ人だった人類が解放される。「水のない穴」つまり「命の水」を持たない暗い奈落の底にいた人類が、解き放たれる。

 

◇ 9:12 砦:「主はわが命の砦」(詩編27:1)

参照:ヨブ記42:10「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を回復した。そして、主はヨブの財産すべてを二倍に増やした。」

※ 神に立ち帰れば、恵みが苦難の二倍以上になって返ってくる。

 

◇ 9:13 ヤワン:ギリシャのこと。エジプト軍のギリシャ傭兵か。

※ この箇所により、第二ゼカリヤをヘレニズム時代と考える説もある。

※ 西洋文明の根底はヘブライズムとヘレニズムと言われるが、この節は、メシア到来によりイスラエル一神教ギリシャ・ローマのヘレニズム文明に立ち向かい、ローマ帝国をついにキリスト教化することの預言とも読める。

 

◇ 9:14 南からの暴風:ヘブライ語では風と霊が同じ言葉であり、しばしば聖霊は風にたとえられる。聖霊の激しい働きの比喩か。あるいは、聖書においては自然現象も神の支配下にあると考えており、台風などもなんらかの神の意志の表れと見るべきか。

 

◇ 9:15 

・稲妻や暴風があったとしても、神が神の民を守ってくださる。

 

・「血をぶどう酒のように飲み」⇒ 「イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」(ヨハネ6:53)

※ キリストの御言葉を血肉化するほど読み、聞き、聖霊に満たされること。

聖霊は聖書の学びを通してより豊かに内住してくださる)

 

◇ 9:16 救い、民=羊の群れ、王冠の宝石

参照:イザヤ書62:3「あなたは主の手の中で誉れある冠となり/神の手のひらの上で王冠となる。」

Ⅰテサロニケ2:19「私たちの主イエスが来られるとき、その御前であなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、また誇りの冠となるでしょうか。」

⇒ エクレシアはキリストの冠。

(c.f.詩編132:18「しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」⇒エルサレム(エクレシア)の上に神の王冠が花開く。)

 

◇ 9:17 穀物・ぶどう酒聖書の言葉とキリストのいのちのたとえ。

若者・おとめ:年齢に限らず、聖書を学ぶ人はいつまでも若い。キリストに従う羊は、宝石のように美しい。

バルバロ訳「その恵みは、何だろうか。/その美しさは、何だろうか。彼は、若者たちを、小麦のように伸ばし、/乙女たちを、甘いぶどう酒のように栄えさせる。」

 

Ⅴ、おわりに 

ゼカリヤ書九章から考えたこと

 

・メシアが非戦・平和の存在としてはっきり預言され、かつろばに乗ってやって来るという預言がゼカリヤの五百年後のイエスにおいて的中し成就したことはあらためて驚くべきことだと思われる。イエスの精神の継承としての、無教会の非戦論の重要性についてあらためて考えさせられた。

 

・メシアの方から私たちに歩んできてくれることのありがたさ。私たちが気づかない時にも、キリストの働きや天使が形を変えて歩み寄ってきてくださっているかもしれないこと(c.f.:『アンクルトムの小屋』のトムや、映画『グリーンマイル』のジョン etc.)。

 

・ゼカリヤ書においては、異邦人への審判が滅亡ではなく、神に帰依し帰属するようになることに主眼があること。

 

ティルスやシドンやペリシテのように、人間の知恵や富や誇りは何にもならず、むなしいものであることと、神という「砦」に帰るべきことをあらためて考えさせられた。

 

キリスト者が「羊の群れ」であると同時に「王冠の宝石」と記されていることは、とても美しい比喩であり、象徴的表現に思えた。

 

・台風(「南からの暴風」)やさまざまな困難も、神の守りがあれば心配する必要はなく、一時的に苦しんだとしても二倍になって繁栄が返されると約束されており、すでに十字架の贖い(「契約の血」)によって「水のない穴」から解放され、いのちの水を飲むことができることのありがたさ。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017など。

・『塚本虎二著作集 第六巻』

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数