マラキ書 資料(1)

 

『マラキ書(1) 神の選びと人の供え物』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、イスラエルエド

Ⅲ、正しい礼拝

Ⅳ、供え物について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

             

 

マラキとは:マラキ書は十二小預言書の一つ。マラキという名前は「主の使者」という意味なので、個人名ではなく無名の預言者の預言という説もある。個人名だとした場合も、マラキの詳しい生涯については全く不明。預言の内容から、おそらく第二神殿完成後の時代で、エズラやネヘミヤと同時代、もしくはややその前の時代と考えられる。したがって紀元前515年以降、紀元前458年よりも前頃の預言者と考えられる。全三章で、内容は祭司の捧げる犠牲のありかたや民の婚姻や献金のありかたが律法に違反していることを批判し、終末の日に義の太陽が昇ることや、預言者エリヤが再び遣わされることを預言している。福音書では、マラキ書のエリヤの預言がバプテスマのヨハネによって成就されたとしている(マタイ11:14、同17:11-12)。

 

□ 第一章の構成 

 

題辞  (1:1)

第一部 イスラエルエドム(1:2~1:5)

第二部 正しい礼拝(1:6~1:14)

 

 マラキ書第一章は、大きく二つの部分に分かれる。

まず第一部では、イスラエルエドムを比較し、神がイスラエルを選び愛したことが告げられる。

第二部では、祭司たちが神を心から大切に思わず、汚れたパン・傷などのある動物を犠牲に捧げていることが批判され、神はそのような供え物は受け取らないことが告げられる。また、主が全地の神であり、諸国民に敬意をもって礼拝されていることが告げられる。

 

 

Ⅱ、イスラエルエドム(1:1~1:5) (旧約1473頁)

 

◇ 1:1  題辞

 

託宣:原語はマッサ。重荷の意味。イスラエルの人々にとって重荷ともなりうる真実の言葉。

 

マラキ:主の使者、という意味。七十人訳では個人名ではなく、主の使者全般を指す意味に受けとめている。ユダヤ教の伝承やキリスト教では一般的に個人名として受けとめられてきた。詳しいことは一切不明。

 

◇ 1:2 

 

新改訳2017 1:2a「わたしはあなたがたを愛している」 原語は特に時制はないので、現在形に訳すことが可能。(ただし英訳の多くは現在完了形で訳している)。

 

 「どのように愛してくださったのか?」という民の質問。

⇒ 神の愛への疑い。背景としては、神殿再建後もイスラエルの経済的困難や格差や祭司の堕落などがあったことによると考えられる。人々が目に見える成功や経済的繁栄に固執したことに起因するとも考えられる。

 

※ ヤコブを愛し、エサウを憎んだ。

関根訳文末脚注では、愛したというのは「選んだ」こと、憎んだというのは「選ばなかった」という意味を非神学的に表現したものと解説している。

創世記において、イサクの二人の息子のうち、長子のエサウではなく、次男のヤコブが神の祝福を受け、イスラエルの先祖となったという故事にもとづく。また、イスラエルが神によって選ばれ、エサウの子孫のエドムは選ばれなかったことを告げている。

 

エドユダ王国の南東に位置していた国。死海の南からアカバ湾(エツヨン・ゲベルまで。聖書巻末地図4および5を参照)を領域とし、東西南北の交易ルートにあたり、経済的に繁栄した。ヤコブの兄・エサウの子孫とされる。首都はセラ(のちのペトラ)。ボズラやテマンが重要な都市・地域。

聖書にはエドム人は兄弟であり「忌み嫌ってはならない」とも記されているが(申命記23:8)、出エジプトの際モーセたちの通行を邪魔したことも記録される(民数記20:18)。ダビデによって征服されたが、のちに独立した。バビロニアエルサレムを占領した時に、傍観し、さらにはバビロニアに加担したことが聖書に記載されている(詩編137:7、エゼキエル25:12)。新約聖書に登場するヘロデ大王エドム(イドマヤ)出身。

 内村鑑三は、エドムの神名が聖書に一切伝わらないことを指摘し、無神論的・物質主義的で、宗教への関心が乏しかったであろうことを指摘し、イスラエルとの対照性を論じている(「オバデヤ書の研究」全集31巻)。

 

 

◇ 1:3   エサウ(の子孫のエドム)の国土の荒廃

 

 関根訳巻末脚注によれば、ナバテヤ王国がエドムを攻撃し、エドムが衰退したことを指すとも考えられるとしている(紀元前3~2世紀頃のこと)。ただし、もしそう考えればマラキ書の時点では必ずしも実現していない。のちの時代を予言したものか。あるいは、紀元前5世紀のマラキの時代に、なんらかの理由によるエドムの衰退があったと考えられる。

 

◇ 1:4  エドムの再建の努力は水泡に帰すこと

 

 神の真実や愛にもとづかない努力は、水泡に帰す。

エサウは神の祝福を受ける長子の権利よりもパンとレンズ豆の煮ものを優先した(創世記25:27-34)。その子孫のエドムも、物質主義的で無信仰的だったと考えられる。

金銭欲や世俗的な利益に駆られ、自己中心的に生きて努力しても、それらは必ずしも成功せず、成功したとしても長続きせず、神の祝福を受けられない。神を愛し、隣人を愛してこそ、長期的な成功も神からの祝福もある。

 

◇ 1:5 神はイスラエルの境を越えて偉大

 

 主(ヤハウェ)は、単なるユダヤ人だけの神ではなく、天地を創造し全世界を支配する神であること。したがって、当然イスラエルエドムも含めて、あらゆる民族が神の御支配のもとにあり、神に心が向かず神をおろそかにする民族は衰退する。

 

 

※ 神の一方的な選びの愛を、マラキ書第一章の第一部(1~5節)は告げている。これは、選ばれなかった人々に対して、一見酷にも思える。しかし、これは神の不正ではなく、神の側の自由な意志による愛であり、神の憐みであることが新約では告げられている(ロマ9:10-18)。

 

⇒ むしろ、キリストを信じる者は、自分が神の側の一方的な選びと愛の対象であることをこそ思い、感謝すべきか。

 

※ 現代において、エドムは歴史上の記述と若干の考古学的遺物を残すのみで消滅しているのに対し、ユダヤの民は現在も存続し、イスラエル国家は再建され、聖書は世界中に多大な影響を与え続けている。

 

※ 個人の人生においても、神に選ばれて信仰を得た私たちは、喜びと感謝を持って永遠の命・神の国に連なる人生を生きていくことができるが、それに対し、心が闇に閉ざされてしまった多くの人々が荒んだ人生を送ったり、自死に陥ったりすることを考えると、神の選びの不思議に粛然とならざるを得ない。

 

※ 本来的に言えば、すべての人は神の愛の対象であるが、本人のかたくなな心が神の愛を拒絶すると考えるべきか。しかし、同様にかたくなで拒絶していた自分が神に導かれ信仰を得たことを考えれば、選びの不思議さとしか言いようがない。

 

※ 神を素直に信じるまでの道のりにおいて苦難や困難を人はしばしば経るものであることを考えれば、エドムのように今現在において苦難を味わう人も、それらをきっかけとして神を求めるようになれば、神の選びに与ると思われる。

 

 

Ⅲ、正しい礼拝(1:6~1:14) (旧約1473~1474頁)

 

◇ 1:6  父や主君に対するような尊敬を神に向けているかどうか

 

・父なる神、主なる神と言いつつ、本当に父のように大切に思い、主君のように仕えているのか?という問い。

 

・神は私の生命を創造してくださった存在であり、生みの親とも言える。また、神はその命令に従うべき存在であり、そういった意味では仕えるべき主君に該当する。生命を創造した根源として敬い、その命令には従順に従うべき。

 

・東洋においては、父母に対しては「孝」が、主君に対しては「忠」が古来より大切にされた。かつての日本人の孝や忠ほどの思いを、私たちは神に対して日ごろ持っているか。

(c.f. 吉田松陰「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」、「吾今 国の為に死す、死して君親に背かず、悠悠たり天地の事、鑑照 明神に在り」)。

(c.f. 玉木文之進旧宅で聞いた「志」と「孝」の話)。

 

◇ 1:7-8 汚れたパン、傷などのある動物

 

主の食卓:マラキにおける主の祭壇を指す言葉。

 

レビ記22:19-20「受け入れられるためには、牛や羊や山羊は欠陥のない雄でなければならない。欠陥のあるものを決して献げてはならない。そのようなものは受け入れられない。」

 

申命記15:21「また、もし初子が足や目にひどい傷を負っている場合は、あなたの神、主にいけにえとして献げてはならない。」

 

申命記17:1「あなたは、いかなる欠点であれ、欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主に、いけにえとして献げてはならない。それはあなたの神、主が忌み嫌われることである。」

 

⇒ 律法では欠陥や欠点のあるものは神へのいけにえの供え物としてはならないと定められている。

 

「総督に献上してみよ」⇒ 皮肉。当時のイスラエルはペルシア帝国の支配下にあり、ペルシア帝国から派遣された総督が統治していた。

⇒ ペルシアから来た総督や、ローマから来た総督に献上できないようなものを、神に献上していいのかという問い。近現代の日本で言えば、GHQの元帥やアメリカの駐日大使にプレゼントしても喜ばれないようなものを神に捧げていいのかという問い(c.f. 五円玉や十円玉の賽銭etc.)

 

 

◇ 1:9  神の憐みを求めることと自業自得の道理

 

 神が受け入れてくださらなくなるのは、自分自身が招くこと。しかし、神の憐みを求めれば、神は赦してくださる。

 

◇  1:10  祭壇は虚偽の礼拝しかないならば閉じた方が良い

 

 神への敬意の伴わぬ形骸だけの儀式を行うぐらいであれば、神殿の戸を閉じて誰も来ない方が良いということ。

 形骸化した儀式ではなく、霊と真実をもって礼拝が行われる時に(ヨハネ4:24)、神はその人々のことを喜びとしてくださる。

 

 

 1:11  神は全地で敬われている

 

 「至るところでわが名のために香がたかれ、清い供え物が献げられている」

 

⇒ マラキが預言をしていた当時は、ヤハウェを信仰していたのはイスラエルユダヤ人たちぐらいで、全世界のほとんどは多神教だった。

 ゆえに、この箇所が意味するのは、①キリスト教が全世界に広がることの予言、②キリスト教のみならずイスラム教などによる一神教の普及の予言、とも受けとめることができる。

 しかし、③全世界のあらゆる民族やあらゆる宗教は、それと知らず、ヤハウェを信じ敬っている場合があり、そのことをヤハウェも認めている、という意味に解釈できる。 (c.f. 古代中国における「天」。儒教の影響により、広瀬淡窓の「敬天」思想などが江戸期の日本にも見られた。また、仏教の中にも浄土教阿弥陀仏信仰は一神教的要素も見られる。素朴なアニミズム神道のようなものにも、それと知らずに神を敬う気持ちにつながるものがこめられている場合もありうるか。一方、それらは単なる偶像崇拝にも堕しやすい。(ロマ1:20-23)。

 

 ③の意味に受けとめるならば、仮に主を信じる宗教に属していたとしても、それが単なる形式に堕し、霊と真実による礼拝でないものであれば、神から拒絶され、各地の異教の中の純粋で心からの熱意や敬意を伴ったものの方が神の目から見た時に受け入れられているという意味に解釈できる。

 

 1:12-13 祭司たちの愚痴

 

 祭司たちが、民に対して主を軽んじているとののしるが、祭司たち自身が主を軽んじていると主は怒っているという意味か。

 また、主を礼拝することを、「わずらわしい」と感じることは、主をながいしろにすること(毎日曜日の主日礼拝や日々の信仰をわずらわしいとして、ないがしろにしているかいないか)。

 

 1:14 偽りに対する呪いと、主が諸国民の間で畏れられていること

 

 欠陥のないものを捧げると誓いながら、偽るものは呪いの対象となるべきことが述べられている。

 その理由として、主は王であり、諸国民の間で恐れられていること、つまりこの世界を支配している存在であり、敬意を持って接すべきことが述べられている。

 

 

Ⅳ、供え物について

 

 レビ記などでは、たしかに動物の犠牲を捧げることが極めて重視されており、マラキ書も一見するとその律法の遵守を強調しているように受けとめられる。

 

 しかし、以下に見るとおりマラキに先行する旧約の諸預言書において、すでに動物の犠牲は重視されていない。

 

ホセア6:6「私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。/神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない。」

 

アモス5:22「たとえ、焼き尽くすいけにえを献げても/穀物の供え物を献げても/私は受け入れず/肥えた家畜の会食のいけにえも顧みない。」⇒公正と正義の重要性

 

イザヤ1:11「主は言われる。/あなたがたのいけにえが多くても/それが私にとって何なのか。/私は、雄羊の焼き尽くすいけにえと/肥えた家畜の脂肪に飽きた。/私は、雄牛や小羊や雄山羊の血を喜ばない。」

 

エレミヤ7:21-23、いけにえより神の声に聞き従えと説いている。

ミカ6:6-8、いけにえは喜ばず、公正を行い慈しみを愛し神と共に歩むことを主は求めているとしている。

 

ゆえに、マラキ書は、表面的に字義通りに読めば律法通り欠陥の無い犠牲を捧げるように説いているように読めるが、先行するいけにえを重視しない神の言葉を考えると、より奥深い比喩的な意味に解釈することもできる。

 

⇒ 実際、 新約聖書では、供え物、犠牲について、単なる動物の犠牲ではなく、信仰を持つその人自身の人生や霊こそが真実のいけにえであり供え物であることが明記されている。

 

ロマ12:1「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」

 

ロマ6:13「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」

 

ロマ6:19「あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。」

 

 つまり、欠陥や傷のある霊や人生としてではなく、霊と真実をもって神を礼拝し、神の前に神の御心にかなうように努め、自分の身と人生を神に捧げることこそ、真の供え物であるということである。

 

 とはいえ、罪にまみれた私たちは、欠陥のない、傷の全く無い供え物を捧げることは困難である。しかし、キリストの十字架の贖いを信じれば、全きキリストの義の衣を私たちは着せていただくことができる(ロマ13:14、ガラテヤ3:27)。すでにキリストが永遠の贖いをなしとげたので(ヘブライ9:12)、もはや私たちはすでに贖われ、神の目から見た時に、全き義の存在とみなし、キリストを通して、キリストと同様に全き義を認めていただくことができる。

 ゆえに、私達は安心してこの身このままで神に身をゆだね、この身を捧げ、自分のできる範囲で、力いっぱい神を愛し、隣人を愛し、この人生を神に捧げれば良い。

 

 

Ⅴ、おわりに 

 

マラキ書一章から考えたこと

 

・神からすでに選ばれ愛されているのに、そのことに気づかず、ろくに誠意をこめて神を礼拝もせず、自らの人生を神に捧げる意識も乏しく、適当に生きていることの多かったわが身のこれまでのありかたを反省させられた。

 

・と同時に、神からすでに選ばれ、信仰が与えられていることの選びの不思議をあらためて思った。神の選びの不思議を思えば、あれこれ不満に思うこともなく、素直に感謝して安心して、あるがままの自分で、できる範囲でできる限りを心いっぱい力いっぱいに生きれば良いとあらためて教えられた。

 

・全世界の全民族が主に清い供え物をしているという預言の壮大さと美しさ。

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。