ゼカリヤ書 資料(16)

『ゼカリヤ書(16) 日常が聖なるものになる』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、主の日の到来

Ⅲ、救いと刑罰

Ⅳ、日常が聖なるものとなる

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

(左:ルオー「聖書の風景」、右:ミレー「晩鐘」)

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十三章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、八章までにおいては八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と異邦人の救済が告げられた。九章以降はおそらく前半から四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ったメシアが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応える方であることが告げられた。第十一章では、偽りの牧者の批判を通じて真の牧者のあり方が示された。第十二章では、メシアの受難を通して神の霊が人々にそそがれることが告げられた。十三章では、残りの者が精錬され救われることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九~第十四章(※十四章)

 

□ 第十四章の構成 

 

第一部 主の日の到来(14:1~14:5)

第二部 救いと刑罰(14:6~14:19)

第三部 日常が聖なるものとなる(14:20~14:21)

 

 ゼカリヤ書第十四章は、主の日の到来を告げ、主の日における救いと刑罰を告げる。さらに、最終的に日常と聖なるものとが統合され、宗教を商売とする者がいなくなり、聖職者なき平信徒の世界が実現することが告げられる。

まず第一部では、主の日つまり終末の時・再臨の時に、神がみずから神の民のために戦い、審判を実施することと、神の民と異邦人との垣根を取り去ることが告げられる。

第二部では、主の日において神が光であり、いのちの水の源となり、唯一の主となることが告げられる。その一方で、神に反抗する人々には疫病や腐敗が臨むことが告げられる。

第三部では、すべての人々が日常に使う鍋が神の聖なるものとなることが告げられ、神殿に宗教を商売とする者がいなくなり、完全なる宮清めが実現し、日常と宗教の垣根がなくなり、平信徒の日常生活がそのまま聖なるものとなることが実現することが告げられる。

 

 

Ⅱ、主の日の到来(14:1~14:5) (旧約1470~1471頁)

 

◇ 14:1  主の日: 神が歴史に介入する日。ゼカリヤ14章では、特に終末の日・キリスト再臨の最後の審判の日のこととも考えられるが、再臨のみならず初臨の時の預言も含まれているように思われる。

 

岩波訳「見よ、ヤハウェの日が来る。/〔その日には〕あなたの只中であなたから掠奪した物が分配される。」

 

※ 1節後半は、十字架上のキリストの衣服が奪われて分配されたことを預言しているとも思われる。

あるいは、2節と同様、歴史上の、あるいは未来における、イスラエルおよび神の民が略奪にあった出来事を指すと考えられる。

 

◇ 14:2  エルサレムと諸国民の戦いと残りの民

 

神の民と神の民に対して敵愾心を燃やす人々の戦い。その結果として、略奪や性暴力や捕囚など悲惨な出来事が生じること。戦争や侵略に伴う略奪や性暴力は過去の歴史においてもさまざまな地域や歴史において生じてきた(c.f. 日本における朝鮮半島の植民地化や従軍慰安婦の問題 etc.)。これらはごまかされることなく、主の目のもとにある。しかし、いかなる苦難があろうと残りの民は絶えることなく続き、神によって守られ保たれる。

 

◇ 14:3   

 

岩波訳「しかし戦いの日に、かつてご自身が戦いに出た日のように、ヤハウェは進み出て、これらの諸々の国民を攻撃する。」

 

 神御自身が神のために戦ってくださり、暴虐や不条理を正してくださる。

 

◇ 14:4  オリーブ山に主が立ち、オリーブ山が裂けること

 

オリーブ山:エルサレムの東側に位置する山。エルサレムの市街地より数十メートル高い程度なので、それほど格別に高い山というわけでもなく、古来よりオリーブ畑となってきた。マタイ24:3、ルカ21:37、同22:39には、最後の日々においてイエスがオリーブ山で過ごし、祈りを捧げたことが記されている。

 

 オリーブ山が裂けるとは?

 

 地震による大規模な地殻変動が起こることを預言しているとも考えられるが、象徴的に受けとめるのであれば、エルサレムと周辺の地域とを隔てる垣根、つまり神の民と異邦人を隔てる垣根が取り去られてなくなることを指すと考えられる。(c.f.神殿の至聖所の幕がキリストの十字架の贖いによって裂かれ、神と人とを隔てるものがなくなったこと(マタイ27:51))。

 

◇ 14:5  地震と主の到来と聖者

 

ウジヤ王の時の地震ウジヤ(アザルヤ)は南ユダ第十代国王で在位は紀元前783年から742年頃。その時代の大地震は、アモス書1:5にも言及されている。現代の地質学者の研究によれば、おそらく少なくともマグニチュード7.8、あるいはマグニチュード8.2ほどの地震が当時あったとのことである。("Amos's Earthquake: An Extraordinary Middle East Seismic Event of 750 B.C." International Geology Review 42 (2000) 657–671. wikipedia英語版より孫引き)。

 

岩波訳「わが山々の谷は塞がれる。/山々の谷が中腹にまで届くからである。/ユダの王ウジヤの時代の地震によって塞がれたように、/塞がれるであろう。/わが神ヤハウェが来られる。/すべての聖なる者たちがあなたと共にいるであろう。」

 

※ 協会共同訳のように受けとめれば、主に人々が逃れるという意味に、岩波訳のように受けとめるならば、人々を隔てる谷も塞がれて自由に人が行き来することができるようになる、という意味と受けとめることができる。

 

※ そのうえで、主がやって来てくださり、聖なる者たち、つまり天使や、神に従って歩んだ過去や同時代の聖なる人々も、神とともにやって来る、自分と一緒にいてくれるようになる。

 

 

Ⅲ、救いと刑罰(14:6~14:19) (旧約1471~1472頁)

 

◇ 14:6~7  夕暮れ時になっても、光がある。

 

岩波訳「その日には、/光がなく、/寒さと氷があり、/それはたった一日であるのに、/―その日はヤハウェに〔のみ〕知られている―/昼も夜もなく、/夕方の時になっても、光がある。」

 

 主の日を初臨と受けとめればキリストの十字架の時のこと。再臨と受けとめれば、終末の日には光もなく凍るように寒い、黄昏の時代となることが預言されている。

しかし、そのような黄昏(東洋で言えば末法、澆季)の時においても、「義の太陽」(マラキ3:20)であり、「光」(ヨハネ1:3-5)であるキリストを仰げば、光を見失うことはなく、光に照らされて生きていくことができる。

 

◇ 14:8  命の水

 

 ヨハネ4:5-26、ゼカリヤ13:1、黙示録7:17、同21:6、同22:1、同22:17、エゼキエル47:1-12など。

 キリストのいのちの水は、全世界に、いかなる時にも、そそがれ続ける。

 

◇ 14:9  主が王となり、唯一の神の名となる。

 

 エフェソ4:6「すべてのものの父なる神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられます。」

 

 エフェソ1:8-10「神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。」

 

 万物は霊的な仕方でキリストの御支配のもとにあるが、それが全面的に顕現するのが終末の日。キリストの御支配が宇宙にあまねく行き渡るというのが聖書の世界観・歴史観

 

◇  14:10-11  すべての地が平地となり、その中でエルサレムが高くそびえ、二度と悲惨な滅ぼし合いがなくなり、エルサレムは安らかに宿る。安住の地となる。  ⇒ 平和と神の民・神の国

 

 14:12~13 腐敗と混乱

 

 神に敵対する人々には足・目・舌が腐る疫病がもたらされる。つまり、自らの立つ基盤と、ものの見方と、言葉が腐敗していくことそれ自体が神の罰であり、神に敵対する結果であることが示されている。また、そのような人々は内部で対立し、混乱することが指摘されている。

 

 14:14-15  宗教の腐敗とそれに対する審判

 

フランシスコ会訳「ユダもエルサレムに対して戦い」(岩波訳脚注も参照)。

この意味に受け取った場合、エルサレム神の国・神の民)に対し、敵対し戦う者がユダ(神の民)の中にも生じるという意味かと思われる(c.f.イエスを処刑した大祭司や律法学者たち)。

腐敗した宗教は、しばしば巨万の富を自らに集め蓄積する(中世のローマ教会など)。これらは疫病により、刑罰を受ける。

 

 14:16-19 すべての民が仮庵祭を祝うようになる。

 

 エルサレムと敵対し、エルサレムを攻撃した人々のうち、生き残った者は皆、主に礼拝し、仮庵祭を祝うようになる。

 ⇒ 神に敵対した人々も、神の民となり、神の恵みに感謝するようになる。神はいかなるものも滅びることを欲さず、なるべく生かし、命を与えようとする。そのうえで、神の恵みに感謝できるように導く。

 

仮庵祭ユダヤ三大祭の一つ(他は過越祭と七週祭)。収穫祭、神の恵みへの感謝の祭りとしての性格を持つ。

 

主に礼拝しない者には、雨(神の恵み)が降り注がなくなり、疫病や刑罰が臨む。  

⇒ これは、神による一方的な罰というより、神から離れたことによりその人の霊が枯渇し、自ら苦しむようになることを意味していると思われる。

 

※ 神を信じる者には光といのちの水が、神から離れる者にには腐敗と霊的な枯渇と苦しみがもたらされることを告げている。最終的には、生き残るすべての人々が主を礼拝するようになるという預言。

 

 

Ⅳ、日常が聖なるものとなる(14:20~14:21)(旧約1472頁)

 

◇ 14:19-20 馬の鈴、鍋が聖なるものとなる。

 

馬の鈴:馬は当時戦争の主要な手段で、騎兵や戦車に欠かせないものだった。ゆえに、馬の鈴が聖なるものとなるということは、軍や兵器にではなく、馬が神の御心にかなった平和な用途に使われるという意味。

 

※ 神殿の鍋と祭壇の鉢も、馬の鈴と同様に「主の聖なるもの」と刻まれる。

つまり、宗教の礼拝も、真実の宗教と礼拝に基づくものとなり、単なる形骸化や形式化が退けられる。

 

※ エルサレムとユダの鍋がすべて聖なるものとなる。 ⇒ 神殿以外の、すべての人が日ごろ日常の食生活に用いている鍋が、すべて主の聖なるものとなる。日常と宗教が断絶し、聖なるものと俗なるものが分離し、聖職者と世俗の人とが分離してきた宗教の歴史に終止符が打たれて、平信徒の日常生活がそのまま聖なるものとなる。

(c.f. ボンヘッファーの「聖書のこの世的・非宗教的解釈」、宗教的人間として生きるのではなく、ただの人間として生き、罪や死のみでなく生の只中で神を必要とし神と共に生きる。)

 

※ 神殿に商人はいなくなる。⇒ イエスの宮清め(ヨハネ2:13-22、ルカ19:45-46)。宗教を金儲けや商売の道具とする人がいなくなり、宗教を金儲けの手段とする聖職者がいなくなる。日常の中で宗教の真実に生きる平信徒だけになる。

 

☆ 参照:内村鑑三「聖俗差別の撤廃」(聖書之研究340号、昭和三年)

 

「聖俗差別の撤廃である。そのことは階級差別の撤廃の場合において往々見るが如き、貴族が下落して平民となることがあってはならない。平民が向上してすべて貴族となることでなくてはならぬ。聖が俗化することではない、俗が聖化することである。聖ならざる者なきに至ることである。人生そのものが伝道事業となることである。聖職と称して神に仕うるための特別の階級が撤廃せられて、すべての信者が聖職となることである。すべての職業が聖業となることである。我らはこの理想に向って進むのである。」

 

 

Ⅴ、おわりに 

 

ゼカリヤ書十四章から考えたこと

 

・日常が聖なるものとなること、俗の聖化、聖俗差別の撤廃、聖書の非宗教的解釈ということが、ゼカリヤ書14章の末尾、ゼカリヤ書全体の結論であることに深い感銘を受けた。聖職者を持たず平信徒によって続いて来た無教会は、まさに聖俗差別撤廃の神の御経綸の中にあることにあらためて思い至った。

 

・神を信じていれば、夕暮れ時でも光があり、いのちの水が湧き、雨が降り注ぐ。何も恐れることはなく、神の御経綸に安心し、聖書を学び、歩んでいけば良いということ。

 

 

ゼカリヤ書全体を読み通して

 

・少しずつゼカリヤ書を学んできたが、これは到底私一人ではできなかったことであり、集会があってこそであり、また遠方より励ましてくださった大阪のMさんや徳島のNさん等々、多くの方々のおかげであり、心より感謝。

 

・ゼカリヤ書はメシア預言の書であり、イエスにおいて的中し成就しているさまざまな預言を記していることには、あらためて驚いた。罪の赦しとメシアの受難による救いを明確に預言しており、イザヤ書とともに旧約中の新約とでも言うべき内容。旧約でありながら、行いではなく信仰のみの書である。

 

・また、そうしたメシアによる救いが、神の壮大な計画の中に位置づけられており、歴史を通して神の経綸が実現し、いかなる暗い時代や困難な時にも必ず神の恵みと救いがあることをさまざまな形で告げ知らせているのがゼカリヤ書の内容であることが、今回学んでいてよくわかった。

 

・そのようなメシアと神の経綸への信仰(信頼)の上で、人間が真実と平和に努めるべきことと、日常が聖なるものとなるよう歩むべきことをゼカリヤ書は示している。そのことに、今回学んでいて深く感銘を受けた。

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。