マラキ書 資料(2)


『マラキ書(2) 父なる神との命と平和の契約』 

 

Ⅰ、はじめに
Ⅱ、祭司への警告
Ⅲ、離婚への批判
Ⅳ、主を煩わせる不信の言葉
Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに             
    

 
・前回のまとめ:マラキの詳しい生涯については全く不明。おそらく紀元前六~五世紀頃、捕囚帰還後やや経った時代の人物。第一章では、イスラエルエドムを対照的に論じながら、神がイスラエルを選び愛していることと、にもかかわらず人々が神を敬わず神に対して不誠実であることへの批判が告げられる。全世界の人々は本当は真実の神をそうとは知らずに礼拝しており、その中には清らかで誠実なものもあるというのに、選ばれたイスラエルの民が神に対して嫌々ながら傷のある捧げものしか捧げないことに対する神の怒りが告げられた。

 

□ 第二章の構成 

第一部 祭司への警告(2:1~2:9)
第二部 離婚への批判 (2:10~2:16)
第三部 主を煩わせる不信の言葉(2:17)

 

◇ マラキ書第二章は、大きく三つの部分に分かれる。
まず第一部では、レビと結んだ契約が「命と平和」だったのに、祭司たちが神の命令に違反し人々をつまずかせ、命と平和につながらない方向に律法を偏って用いたことへの神の怒りが示されている。
第二部では、父なる神から造られたはずの人々が互いに愛し合わないこと、特に妻を裏切り異教に走る人々に対する神の怒りが告げられ、自分の霊に気を付けるべきことが示される。
第三部では、善悪の区別を無効と主張したり、神の裁きはないと主張する人々が、神を煩わせていることが示される。


Ⅱ、祭司への警告(2:1~2:9) (旧約1474~1475頁)

 

◇ 2:1  

祭司:旧約の時代では、レビの子孫の人々が祭司や祭司長に就任していた。新約の時代では、キリストに救われた人は皆祭司(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。ルターが万人祭司説をもう一度明確に取り上げ、無教会はこれを継承。

 

◇ 2:2 

神に栄光を帰す:聖書においては、神を神として認めて、自分の罪を悔い改め、神に感謝し畏敬の思いを持って生きること。一方、神に栄光を帰さないことは、傲慢や神への反逆につながる(サムエル上6:5、使徒12:23、黙示録14:7など)。

協会共同訳「祝福を呪いに変える」 ⇒ 岩波訳「あなたがたの至福を呪う」
※ 岩波訳脚注「至福(祝福)を呪う行為とは、祝福を呪いに変えるという意味であるが、人が祝福と思っている至福の事実が実は神の前においては呪われた事態であるということを暗示する。」 ⇒ 表面的な繁栄や安逸がしばしば滅びへの道であること。

※ 祝福と呪い:聖書は神の祝福(命)と呪い(死)のどちらを選択するかを人に促す。
申命記11:26「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。」
同30:19「私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。」
→ キリストにつながれば命が与えられ、神から離れれば罪の報いとしての死が定められているということが、聖書の告げること。

※ 神を神と認め、命の源としてつながることをどれだけ大切にするか。心に留めるかどうか。


◇ 2:3   協会共同訳「子孫を責める」 ⇒ 「腕を切り落とす」(七十人訳。関根訳やフランシスコ会訳はこちらを採用。)

※ エゼキエル書18章の「父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということは絶対にないという明言を考えれば、この箇所は「子孫を責める」ではなく「腕を切り落とす」と読む方が正しいと考えられる。

※ 「腕を切り落とす」とは、祭司として人を祝福する権能を果たせなくなることであり、要するにその職務権限を取り上げるということ。

汚物=糞尿のこと。
投げ捨てられる:神殿や聖なる場所の外に捨てられるという意味か。


◇ 2:4  協会共同訳「契約を保つため」 ⇒ 岩波文庫・関根正雄訳「契約が終わる」

※ 岩波文庫の関根訳の註釈では、契約を保つという肯定的な意味で多くの場合受け取っているが、否定的に受け取らないと前後の文脈が通じないとしている。

※ ただし、なんとかして命と平和を人々に与えたいと神が熱望し、そのために厳しい裁きも行うという意味に受け取れば、契約を保つために裁きの命令を下すということも意味が通るとも考えられる。

◇ 2:5  「命と平和」

レビ:ヤコブの子の一人、レビの子孫。祭司の家系。
→ レビ記:儀式や犠牲の捧げ方を主に規定しているが、16章ではアザゼルの羊による贖いについて記している(キリストの予表)。また、19章では、「聖なる者となりなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」などの旧約全体、さらには聖書全体の精神を示している。

※ レビの子孫が神の祭司となるという契約、あるいはレビ記の内容は、「命と平和」を与えるものだったとこの箇所ではまとめられている。

※ 当初はレビびとたちは神への心からの畏敬をもって祭司のつとめを果たし、レビ記の規定を守っていた。

◇ 日本の歴史において、「命と平和」を求めたはずの決まりごとには何があり、どうなったか?
・十七条憲法 → 和が必ずしも現実には貴ばれないことが多く、源平合戦南北朝や戦国時代などが長く続く。
五箇条の御誓文 → 「天地ノ公道ニ基ク」ことも「万機公論ニ決ス」ることも、昭和初期になると無視され、軍部の暴走により破滅的な戦争へ。
日本国憲法 → 平和主義・基本的人権の尊重・民主主義は本当に大切にされているのか?

 

◇ 2:6-7  真実の言葉、平和と正しさ、多くの人々を過ちから立ち帰らせる。知識を守り、人々に真実を伝える。

⇒ 祭司のあるべきありかた。と同時に、万人祭司の立場に立てば、キリスト者すべてのあるべきありかた。

※ 市民、知識人もそのようにあるべきか。

 

◇ 2:8  道を踏み外し、人々をつまずかせ、神に背く。

※ このような者とならないようにすることが、最も注意を要すること。

※ 残念ながら、現代日本にもこのような種類の知識人やマスコミや政治家がしばしばいるのでは。
 ⇒ 歴史的に見た場合、昭和初期の日本やドイツにもこの類が多く存在。


◇ 2:9  道を守らず、偏って律法を教える罪
 
※ 新約の時代、多くの律法学者やファリサイ派の人々が、非常に些末な偏った律法の使い方をして、多くの人々を差別し苦しめ、イエスはそのことを叱り対立した。そのうえ、彼らは偏った律法の観点からイエスを十字架に架けた。

⇒ 律法全体の精神を忘れ、些末で煩瑣な細部にこだわる時に、人間はかえって道から外れてしまう(律法全体の根幹は、神を愛し、人を愛すること)。
⇒ この「偏り」を正そうと努めたのがイエスだった。

※ 我々の時代もまた、さまざまな偏り(利潤第一主義や効率や過剰な自己防衛やゆがんだ愛国心など)によって道から外れることがしばしば起こっていないか。

□ 第一部を通して:神を神と認めて神に栄光を帰し、命と平和につながる神の御言葉を守ることの大切さ。

 


Ⅲ、離婚への批判(2:10~2:16) (旧約1475~1476頁)

 

◇  2:10  父なる神

 

・人間は皆唯一の父なる神から造られた兄弟であるのに、なぜ互いに裏切るのか、ということ。 
・一般的には、イエスが神を父(אבא)と呼び、神と親しく交わる道を開いたと言われるが、マラキには神を父と呼ぶ姿勢がすでに現れている(マラキ1:6も参照)。
→ 現代においても、父なる神から造られた存在とお互いを思って助け合って生きることがどれだけ実現できているか。むしろ、その逆も多いのではないか。

 

◇ 2:11-12  異教の信者との婚姻の問題

 

・バビロン捕囚から帰還したのち、ユダヤの民の間で、自分の妻を離婚し、周辺の他民族(カナン人、アンモン人、モアブ人、エジプト人など)の異教の信者の女性と再婚し、異教やその習俗を取り入れる人々が一定数いたと推測され、そのことに対する批判をしている箇所と考えられる(参照:エズラ9章、ネヘミヤ13章)。エズラ記やネヘミヤ記では、それらの他民族との結婚が批判され、厳重に戒められ、外国人の追放が行われたことが記されている。

・現代から見れば、極めて偏狭な自民族中心主義のようにも見えるが、当時においては男性優位の社会であり、女性が夫に死に別れたり離婚されることは生活上大変な困難がその女性に降りかかることであった(ルツ記や新約聖書など参考)。また、民族が違うことは宗教の違いを意味しており、他民族との婚姻は宗教の混乱や偶像崇拝多神教の混入を意味していた。さらに言えば、当時のカナンの周辺の宗教においては、バアルやモレクなどの神への人身御供の儀式が行われるなど、他宗教が極めて残酷で、人間の欲望のために人間を犠牲にして憚らない種類のものもあったことは注意を要する。
⇒ マラキのこの批判は、ユダヤ人の女性の保護のためと、偶像崇拝多神教の混入を防ぐことの、二つの目的を同時に含んでいたと思われる。

たとえ彼が主に供え物をしたとしても:他民族との混血や異教の混入が進んだからと言って、ユダヤの人々がヤハウェを完全に捨てたわけではなく、ヤハウェと周辺諸民族の多神教の神々を両方とも崇拝する折衷的なものになることが多かったと推測される。そのような混淆主義的状態で、都合良くヤハウェにも供え物を捧げて祈ったとしても、ヤハウェは唯一の真実の神である以上、応じないということ。唯一の神は誠実な信仰を求め給う(これは婚姻にもたとえられる。参照:雅歌、ホセア書、エフェソ5:21~33)。

 

◇ 2:13 誠実な信仰の伴わない儀式や祈りは空しい

 

※ ただし、困った時の神頼みが必ずしもいけないというわけではないと思われる。唯一の真実の神に立ち帰るのであれば、困った時の神頼みであっても、むしろ神を依りたのむことを、神は良しとされる(詩編、サムエル記等々参照)。ただし、唯一の真実の神に立ち帰らず、偶像崇拝多神教との混淆の中で、己の欲望をかなえるためにだけ都合の良い祈祷をし、しかも品行が改まらず離婚や姦淫を行う場合は、そのような祈りを神が受け取ることはないということ。

 

◇ 2:14 前節の理由:若い時の妻を裏切ったから 

 

参照:「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、寝床を汚してはなりません。神は、淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです。」(ヘブライ13:4)

※ ここは字義通り、結婚の神聖と離婚の罪を説いているとも思われる。ただし、雅歌やホセア書やエフェソ5:21~33を踏まえて考えれば、神と人間との関係、神とエクレシアとの関係を言っていると読むこともできると思われる。

◇ 日本の離婚件数:20万9000件(2019年)、およそ三組に一組が離婚。


◇ 2:15  

 

岩波訳「ヤハウェは一つのものとして創造し、肉と霊を与えたではないか。その一つのものとは何か。子孫が神を求めること〔ではないか〕。あなたがたは自分の霊に気をつけるがよい。―あなたの若いときからの妻を裏切ってはならない―」

※ 非常に難解な箇所。岩波訳脚注によれば、「肉」の原語は「残りの者」であり、「残りの者と霊を彼のものとした」が原文の直訳。

※ 「一つのものとして創造」とは何を意味するのか。おそらく、「神のかたち」のことではないか。

創世記1:27「神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。」

→ 人間は本来、神の「かたち」(ツェレム)として創造され、かつ夫婦として互いに助け手となり一つとなるように創造された。
→ しかし、罪により、神から離れて、神の「かたち」が歪んでしまい、一夫多妻制や正式な婚姻によらない放縦な関係や離婚がはびこるようになり、神を愛さず隣人を愛さず、利己的な欲望によって他人を虐げたり神に反逆する傲慢な存在になってしまった。

⇒ しかし、神のかたちを見失い、歪めて喪失してしまっていた人類のもとに、「神のかたち」であるキリスト(コロサイ1:15)がやって来て、受肉し、十字架の贖いによって人類を救う道を開いた。
⇒ キリストという神のかたちを見て、キリストが本当に正しいと信じていれば、神のかたちを回復する道をすでに歩み始めている。
⇒ キリストを神のかたちと認識できるのは、すでに信仰があるため。キリストの側で十字架の贖いによってすでに私たちの罪を贖ってくださっているので、そのことを信じれば、神に近づくことができ、神のかたちの回復への道を歩み始めることができる。

※ 聖書全体を通して言われることは、人間が神のかたちとして創られ、しかし罪によって神のかたちがゆがめられ失われてしまったことと、キリストによって神のかたちが示され、信じる者は神のかたちを回復していくということ。

⇒ 神の子孫とは、神のかたちを求めるアダムの子孫、キリストによって神の子となったもの、という意味か。

あなたがたは自分の霊に気をつけるがよい:神のかたちの回復の道を歩んでいるか、喪失の道を歩んでいるか、祝福か呪いか、命か死か、どちらの道を選択しているかに自覚的であること。

⇒ 若い時の妻を裏切らない。神を裏切らない。


◇ 2:16  神は離婚を憎む

 

・自分の霊に気をつける。配偶者を裏切らない。神を裏切らない。

c.f. 四書の『大学』:「修身斉家治国平天下」 

・自分の霊に気を付け、家庭をきちんと愛し整えてこそ、その先に社会の平和もあるし、神との誠実な交わりもある。

※ ただし、女性の地位が古代と現代では異なり、離婚が即座に生活の困窮に直結するとは必ずしも限らない時代となった。また、異教の混入が問題となった古代イスラエル現代社会ではかなり背景の文脈が異なる。離婚が必ずしも一概に否定されるべきかどうかは、必ずしも一般化はできない場合もあるかもしれない(DVの問題など)。ただし、現代においても、個別具体的な例外は除くとして、一般的には結婚は尊重されるべきであるし、ゆえによく熟慮して行われるべき事柄と思われる。しかし、究極的には、結婚は神の配慮と計画によるものとも思われる。

 


Ⅳ、主を煩わせる不信の言葉(2:17)(旧約1476頁)

 

主を煩わせる言葉と、それに無自覚な人々。

① 悪はすべて神から認められており、悪人も神から喜びとされている、という主張。善悪無用論。
② 神は裁きを行わず、この世の問題や歴史の進行に神は関わらないという主張。神無用論。

 

※ ①は、日本においては平安時代の天台本覚思想など、わりとよく現れる思惟形態。また、本来の法然親鸞の教えは違うとしても、その教えを誤解した人々(一念義)にも見られる。善悪の区別をつけず、善悪の区別をつけることを嫌がる。『老子』そのものの正確な読解ではないとしても、俗流老荘思想にもこの傾向は見られると思われる。

⇒ 聖書の神は、悪を罰し、善を愛する。(「善を求めよ、悪を求めるな」(アモス5:14)。罪や悪は、それ自体として認められることはない。
⇒ ただし、人間が悔い改めて神に立ち帰り、なんらかの贖いがなされる場合は、罪が帳消しになる。
⇒ 新約においては、キリストの十字架によって罪が贖われたことを信じれば、信じた者は義とされる。しかし、これは格別の恩恵であり、罪を悔い改めず神への立ち帰りもなく、善悪の区別や罪への心の痛みを持たない者は、罪や悪の中に沈む危険性が極めて高い。罪の結果は苦と死であることが聖書には示されている。
⇒ 罪を罪と認識し、悔い改めるところに、恵みがあり、命の道がある。ただし、通常の人間は罪を認識できず、悔い改めることができない。救いが先行して、はじめて少しずつ人間は罪を認識し、悔い改めることができるようになる。
⇒ キリストの生涯を見て、その教えや生き方に倣うときに、それとの隔たりにおいて、人間は罪というものを少しずつ認識でき、悔い改め、神のかたちを回復していくことができるのではないか。

 

※ ②の神は世界に関わらず、無用だという考え方は、理神論や無神論に顕著に見られ、科学万能の近現代には多く見られる思惟形態。唯物論や現実主義をもって自任する人はこの類が多いと思われる。しかし、その場合は、神の審判を信じないので、道徳や良心を喪失してしまう場合がある(c.f.スターリンヒトラーなど)。また、人生やこの世界の前途に絶望してしまう場合もあると思われる。
⇒ 神の計画や裁きがあると信じる時に、人は最終的には正義が執行され、この世界は良くなるという楽観論と根源的希望を持ちうると思われる(ロマ8:28)。

☆ キリストという全き善・神のかたちを見ることにより、善悪が何かを私たちは本当に知ることができ、また、キリストを信じることにより、神の愛と計画と裁きを信じて、楽観的に希望を持って生きることができる。これに対し、善悪無用論や神無用論は、神の御心を痛め、かつ自分自身の人生を荒廃させてしまう危険性が高い。


Ⅴ、おわりに 


マラキ書二章から考えたこと

・神の御言葉は「命と平和」を人に与える。これにつながること。
・祭司は「多くの人々を過ちから立ち帰らせ」てこそということ。つまりキリスト者にとっては、自分一人の信仰や満足だけではなく、この社会において他の人々の歩む道に心を配り、過ちから命と平和に立ち帰らせることが務めであり、求めるべきことということ。
・父なる神のもと、すべての人は助け合い慈しみ合うべき存在であること。

 


「参考文献」
・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。
ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。
・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。