オバデヤ書 資料
「オバデヤ書 ―『エドム』への審判と隣人への倫理」 資料
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、第一部 「エドムに対する審判とその理由」 1~16節
Ⅲ、第二部 「イスラエルの勝利」 17~21節
Ⅳ、おわりに
Ⅰ、はじめに
オバデヤ書:十二小預言書のひとつ。成立年代は不明。旧約聖書中、わずか一章だけから成る唯一の書。エドムに対する審判とイスラエルの勝利が描かれる。
・オバデヤとは誰か?:オバデヤ書以外の聖書記述中情報がなく、詳しいことは一切不明。オバデヤという名前の意味は、「ヤハウェの僕」という意味。同名の人物は、聖書にしばしば登場するが(列王記上18:3-4など)、預言者オバデヤと同一人物とは同定できない。
・オバデヤの時代背景:オバデヤが生きた時代は不明である。全く王の名が出てこない。エルサレムが異国に侵略された時に、エドムが傍観したことへの批判が本文中にあるため、以下の時代の可能性が指摘されている。
① ユダの王ヨラムの時代(BC849‐842)
② エミレヤとほぼ同時代かそれ以前(BC627‐586)
③ バビロン捕囚直後(BC586後)
①説の根拠:ペリシテ人とアラブ人が王宮を略奪した出来事(歴代誌下21:16‐17)をオバデヤ書中のエルサレム略奪の出来事だと考える。その場合、オバデヤ書は十二小預言書中最古、記述預言書中最古のものとなる。
②説の根拠:エレミヤ49:14-16にオバデヤ書と酷似の箇所があり、もしエレミヤがオバデヤ書を引用したとすれば、エレミヤより前に成立していると考えられる。
③説の根拠:バビロニアによるエルサレム占領をオバデヤ書中のエルサレム略奪の出来事と考え、同書をその時のエドムの態度への批判と考える。
ただし、エルサレム略奪の出来事を未来の預言と考えれば、必ずしもオバデヤと同時代の出来事と考える必要はなく、どの時代に書かれたかは不明である。前2世紀の作品・旧約聖書続編の「シラ書」に十二人の小預言者の言及があるので、この時期にまでは遅くとも成立。(シラ書49:10)
十二小預言書はもともとは一巻の巻物におさめられ、一まとまりの内容として意識されていたという説がある。この説に立てば、アモス書の次、ヨナ書の前にオバデヤ書は配列され、十二小預言書中四番目に記載されてきたことは、オバデヤが比較的早い時代の預言者と意識されていたものだとも推測される。十二小預言書の中でも前半六つはアッシリアの時代、後半六つがそれ以後のバビロン捕囚や捕囚後の時代のものという配列を考えれば、アッシリアの時代のものと受けとめられてきたと考えられる。オバデヤ書の想定する出来事がアモス1:11と同様のことを記述していると考えれば、アモスとほぼ同時代とも考えられる。
ただし、アモス書の次に配列されたのは、アモス書の末尾がエドムについての預言であったため、同じくエドムへの審判預言であるオバデヤ書が配置されたとも考えられる。
オバデヤ書の特徴と読み解くためのポイント
① ただ一章からなる旧約聖書中最短の書。
ただ一章からなり、十二小預言書の中ではもちろん、旧約聖書中最少の分量。内村鑑三は「書の長短はその書の価値に何の関係なきこと」と述べ、むしろ短い書の方が真理をよく理解し自家薬籠中にするために良いことを指摘している。
② 「エドム」は何を意味するのか?
オバデヤ書は「エドム」に対する審判の預言である。「エドム」をどう受けとめるかで、後世の我々にとって重大な示唆に富むものとなる。
矢内原忠雄は、「オバデヤ書のエドムに対する生気溌剌たる敵愾心は、これを『世俗精神』に対する敵愾心として読むとき、我らにとりて不滅の光輝を発揮する。」(全集13巻659頁)と指摘し、「エドム」を単に歴史上の一民族としてではなく、無神論や物質至上主義を指したものとして受けとめている。
③ 隣人の苦境を傍観することの問題
オバデヤ書が「エドム」を批判し、神の審判があるとする理由は、11-14説に述べられるとおり、隣人の苦境を傍観するエドムの態度である。単に民族的憎悪を述べているのではなく、隣人への倫理の問題として読む時、新約と大きく関わる内容となる。
※ 「オバデヤ書の構成」
第一部 「エドムに対する審判とその理由」 1節~16節
第二部 「イスラエルの勝利」 17~21節
・オバデヤ書は、審判と希望という預言書に通底するテーマが短い文章の中に集約されている。その文章は緊迫し痛切である。矢内原忠雄は「短刀の鋭さと珠玉の閃きが認められる」とオバデヤ書について述べている。
Ⅱ、第一部 「エドムに対する審判とその理由」 1節~16節
※ 1節 「題辞」
オバデヤ:「ヤハウェの僕」「主を礼拝する者」「主に仕える者」を意味する。
幻:ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。 「オバデヤへの啓示。」(関根訳)
使者:天使のことか?エドムに対する闘いを諸国民に呼びかける。
エドム:
ユダ王国の南東に位置していた国。死海の南からアカバ湾(エツヨン・ゲベルまで。聖書巻末地図2を参照)を領域とし、東西南北の交易ルートにあたり、経済的に繁栄した。ヤコブの兄・エサウの子孫とされる。首都はセラ(のちのペトラ)。ボズラやテマンが重要な都市・地域。
聖書にはエドム人は兄弟であり「いとってはならない」とも記されているが(申命記23:8)、出エジプトの際モーセたちの通行を邪魔したことも記録される(民数記20:18)。ダビデによって征服されたが、のちに独立。バビロニアがエルサレムを占領した時に、傍観、さらにはバビロニアに加担したことが聖書に記述される(詩編137:7、エゼキエル25:12)。新約聖書に登場するヘロデ大王はエドム(イドマヤ)出身。
左図:分裂王国時代の周辺地図 右図:ペトラの遺跡
内村鑑三は、エドムの神名が聖書に一切伝わらないことを指摘し、無神論的・物質主義的で、宗教への関心が乏しかったであろうことを指摘し、イスラエルとの対照性を論じている。
(参考・異教の神々:バアル(フェニキア、カナン一円)、モロク(フェニキア、アンモン)、アシュトレト(フェニキア、ペリシテ)、アシェラ(アッシリア、中東一円)、ダゴン(ペリシテ)、ケモシュ(モアブ)、ミルコム(アンモン))
創世記25章にも、エサウがパンとレンズ豆の煮物を得るために、弟のヤコブに長子として神から祝福される権利を譲ってしまうことが描かれており、神の祝福を求めるヤコブと物質主義的なエサウの性格が対照的に描かれている。
古くから経済や文化は発達し、イスラエルよりも早くに王政を確立し、エドムの東部であるテマンは知恵者を輩出する地域として誉れ高かった。ヨブ記に登場するヨブの友人のエリファズはテマン人であり、因果応報の道理を主張した。
エドムは、バビロニアに征服されローマの支配下に加わったのち、歴史から消滅した。
※ 3-4節 傲慢
エドムの「傲慢」さが問題とされている。神を無視し、神を無関係と思って生き、それでも自らを安全と思い、隣人に冷淡に生きていることが問題とされている。
内村鑑三は、貧者が助け合うのに対し、経済的に豊かである金持ちは、しばしば感覚が鈍くなり、愛情がなくなり、冷淡な人間となってしまうことを指摘している。
岩の裂け目:ペトラの遺跡に見られるように、エドムは堅固な岩の中に要塞都市を築いていた。
星の間の巣からも引き降ろす:イザヤ14:12-15では、明けの明星が天空から落とされたことが記され、サタン・堕天使のことを記している。オバデヤ書のこの箇所の表現はイザヤ書を連想させ、エドムの傲慢さが、サタンと相通じるものだったことが述べられている。
なお、エレミヤ49:16は、オバデヤ書のこの箇所に酷似。エレミヤ49:18ではソドムとゴモラのようにエドムが滅亡すると述べられる。
※ 5-6節 エドムに対する哀歌
5-6節の「いかに~だろうか」という形式、およびヘブライ語の3+2の型の韻律は、哀歌の形式だと注釈書は指摘する(ティンデル聖書注解34頁)。つまり、オバデヤはエドムの滅亡を喜んでいるわけではなく、むしろ悲しんでいる。
ぶどうの取り残しの実:寄留者・孤児・寡婦のためにぶどうをつみ尽くしてはならないことが律法の規定にある(申命記24:21)。エドム人が寄留者のようにみじめな境遇になること、あるいは取り残しの実すら残らない悲惨な境遇になることの指摘。
6節では、根こそぎに略奪されることが述べられている。
※ 7節 同盟国や盟友の裏切り
参照・同盟国・盟友の裏切り:第二次大戦末期のソビエト、関ケ原の小早川秀秋、カエサルにおけるブルータス、本能寺の明智光秀。
「お前のパンを食べていた者」:原文は「パン」のみ。「パン」を言葉・教えと理解すれば、偽りの教えや言葉が罠となったという意味に理解できる。
新共同訳「それでも、お前は悟らない。」:岩波訳「本人はそれに気づかずにいる」(脚注・原文「彼には理解力がない、英知がない」)⇒ 理解力や英知が消えてなくなってしまう。
※ 8-9節 知恵や軍事力が滅ぼされる
テマンは知者を輩出する土地と当時されていたようである(エレミヤ49:7)。しかし、その「知恵」はエドムの滅亡をなんら食い止めることができず、むしろその滅亡の原因となった。世俗的な知恵はかえって神から離れる原因となり、神から離れた知恵は滅亡の原因となることを内村鑑三は指摘している。エドムが頼みとする世俗的な知恵や軍事力はなんら滅亡を防ぐ助けとならなかった。
参照:ヤコブ3:13-18「神から出た知恵」と「地上の・この世の・悪魔から出た知恵」
⇒ 日本は前者を軽んじ、後者ばかり追い求めていないか?(受験偏重や利潤第一主義)
※ 10-11節 不法への傍観・加担への審判
不法:岩波訳「暴虐」、関根訳「暴逆」、フランシスコ訳「暴力」。
エルサレムが占領・略奪されるときに、その行為に加担したこと、あるいは積極的に加担しなくても「離れて立って」傍観していたことが、審判の対象となる原因とされている。
⇒ いじめ・難民の問題における傍観者の問題
「くじ引き」:マルコ15:24
※ 12-14節 隣人の苦境を傍観してはならない
隣人の「悩み」「災い」を傍観することを禁じる神の誡命。
参照・申命記22:1-4 同胞の牛また羊が迷っているのを見たら、見てみない振りをしてはならない。
創世記4:9 人はすべて兄弟・隣人の「番人」であるべき。責任をもって配慮するべき。
ゼカリヤ7:9「互いにいたわり合い」 ヤコブ2:15-16 アモス5:11
参照・傍観しなかった事例:エルトゥールル号の遭難救助(1890年(明治23年))と、イラン・イラク戦争における日本人の海外脱出をトルコの航空機が行ったこと。
マリア・ルス号の苦力の救助(1872年(明治5年))。
日本も、311では、平成23年3月22日時点で約130カ国、その後平成28年11月までに163カ国から支援を受けた。
難民・難民申請・国内避難民の総計は国連難民高等弁務官事務所の推計で6530万人(2016年6月時点)。世界の113人に1人以上。難民の半数以上がシリア、アフガニスタン、ソマリアの3カ国だけで占められている。
参照・ナチスの時代におけるユダヤ難民: 各国はユダヤ難民の入国をしぶり、イギリスはパレスチナへの移住の制限を厳しく設定し、海外に脱出できないユダヤ難民が続出した。
デンマークは国王や政府がユダヤ人をかばい、中立国スウェーデンに無事に逃した。オランダでは、ユダヤ人迫害政策に市民が反対してゼネストが起き、軍隊が鎮圧。ブルガリアでは、反ユダヤ人政策を政府も国民も拒否し、殺戮を回避した。
しかし、フランスのヴィシー政府やルーマニア、ハンガリー、ウクライナ、ポーランド、セルビア、クロアチア、バルト三国などでは、ナチス協力者が多かった。
日本では、杉原千畝・小辻節三らがユダヤ難民の救出に尽力した。
(シェインドリン『物語ユダヤ人の歴史』中央公論社、232-234頁)
日本国内においても、相対的貧困家庭の子どもは六人に一人。剥奪指標の調査によれば、学校の行事や家族旅行が一切できず、進学や人とのつながりもままならない子どもが一定の割合いるという。
※ 15-16節 主の日における因果応報
主の日:ヨエル1:15、2:1、4:18 神が歴史に介入する時
行いの報いが自分に降りかかる:
同害報復の原理:レビ記24:17-22 エレミヤ50:15、50:29 黙示録20:12-13
内村鑑三は、第一次世界大戦において、かつてポーランド分割を行ったロシア・オーストリア・ドイツの三つの帝国が破滅したことを、神の審判として指摘している。
(ただし、詩編103:10-14は、信仰のある者に対してはその罪や悪に従って報いるわけではない主の慈しみが明記されており、仏教やテマン人エリファズの自業自得の因果応報論だけではないところが聖書の重要なところだと思われる。)
飲んで存在しなかった者のようになる:神の怒りの杯を今度はエドムの人々が報いとして飲むことになる。哀歌4:21 エドムに対し「お前にもこの杯は廻って来るのだ。」
泥酔した姿が、生命が取り去られた死体のようになることの比喩として述べられている。
⇒ しかし、人類の罪に対する主の怒りの杯は、代わりにイエス・キリストがゲッセマネで飲み、十字架に架かった。(マルコ14:36)
・第一部を通しての感想
・ エドムの傲慢・隣人の苦境への傍観が、その経済力や要塞や同盟関係や知恵や軍事力にもかかわらず、神によって裁かれることが印象的。神の前には、富や世俗的な知恵は何の役にも立たないこと。そして、実際、イスラエルは今も存続しているのに対し、エドムは消滅してしまったこと。
・ 隣人の苦境に対し傍観を禁じる言葉が、大変印象的。この精神を実際に実行したのがイエス・キリストであり、「善いサマリア人」(ルカ10:25-37)。
・因果応報だけの論理でいえば、裁かれるべき自分が、神の怒りの杯をキリストが代わりに引き受け、十字架の贖いをしてくださったおかげで、業によらない救いが与えられていることのありがたさ。そうであればこそ、できる限り隣人への倫理を忘れないことの大切さ。
Ⅲ、第二部 「イスラエルの勝利」 17~21節
※ 17-18節 神の民の勝利
シオンの山・ヤコブの家:イスラエルのこと。神の民のこと。失地を回復し、奪還。
火・炎:神の霊のこと。出エジプト3:2-6 燃える柴。 使徒言行録2:3
⇒ 「神の国」が「地の国」に最終的に勝って実現すること? 他人に冷淡で無神論的・物質主義的なエドムの生き方ではなく、神を愛し隣人を愛する神の民の生き方が広まること。
※ 19-20節 イスラエルの領域の回復
聖書巻末地図5および2を参照。
ネゲブ:「南」、ヘブロンより南方の放牧地帯。カデシュ・バルネアやベエル・シェバ周辺。
シェフェラ:低地。地中海沿岸の平野とユダの山岳地帯との中間の丘陵地帯。
ギレアド:ヨルダン川東岸の一帯、および町。ホセア6:8では悪を行う者の住みかと指弾されている。
サレプタ:フェニキアの町。ガリラヤよりも北の、シドン人の町。エリヤは飢饉の時にこの町の寡婦の家の客となり、死んだ子どもを祈りによって復活させた(列王記上17:8-24)。
セファラド:正確な場所は不明。サルディス、ボスフォラス、スペインなどの説がある。
⇒ 捕囚となっていた人々が帰還し、イスラエルが領域を回復し、さらに隣接する南北の地域に拡張する預言。
⇒ 内村鑑三は、ユダヤ人の精神活動が、世界中に広がっていく預言と受けとめている。
※ 21節 神の国の実現
救う者たち:関根訳・岩波訳「救われた者たち」。岩波脚注「原語は「救い主、救う者」の複数形。七十人訳に従って読み替えてある。」
⇒ エクレシア(シオンの山)に、福音によって救われた者たちが集まることと、その救われた者たちは同時に救う者でもあるということか? 救い手(ネヘミヤ9:27 士師たち)
王国は主のものとなる:新改訳・フランシスコ訳「王権は主のものとなる」
詩編22:28-29、詩編47:7-8、ダニエル書7:13-14、ミカ4:7、ゼカリヤ14:9、ルカ1:32-33、黙示録11:15、黙示録19:6 ⇒ キリストが人類の王となる。神の国の実現。
終末の日における神の国の実現。
隣人に冷淡な物質主義・無神論 ➡ 隣人の苦境を決して放置しない隣人愛と神への愛を持った人々からなる世界。
・第二部を通しての感想
・ 神の精神(火・炎)が、冷たい物質主義の心(エドムのわら)に燃え移って、いつか全面的に実現するという預言は、大変救いとなる素晴らしいものと思われた。
・ オバデヤ書には、アウグスティヌスの言葉を借りれば「神の国」と「地の国」、あるいは神とサタンの闘いという聖書を通底するテーマが貫いている。「エドム」という言葉を単に歴史的な一民族のことと考え、「本書はいわば憎悪の歌である。」(聖書辞典358頁)と単純に切って捨てるのは、大変もったいないことであり、神の審判への信頼や希望、および隣人への倫理を教えてくれる貴重な書と思われる。
Ⅳ、おわりに
◇ オバデヤ書の聖書全体の中での重要性
・仮にヨラム王の時代の預言者だと考えれば、十二小預言者中最古の預言者、最古の記述預言者ということになる。
・「エドム」つまり無神論的・物質主義的な世俗主義への批判として、精彩に富んでいる。
・隣人の苦境を見捨ててはならないという聖書の教えが最もよく書き込まれている。
・神の審判への信頼と希望を呼び覚ましてくれる。
・極めて短いので読みやすく理解しやすく、覚えやすい。十二小預言書のいわばエッセンス。
※ オバデヤ書から考えたこと:
・日本は近年、自己責任ということを強調し、隣人への責任や配慮よりも、能率や利潤第一主義や自分自身の生き残りを追求してきた。しかし、それは本当に正しかったのだろうか?
奥田知志牧師は、自己責任というのは関わりを持たないための言いわけであり、自分の安全や安心を求めるほど人は絆から遠ざかる、自己責任論をつきつめると社会は崩壊する、助けてと率直に言い合うことができる、関わり合いのある、ホームのある社会をいかにしてつくっていくかが大事ではないかと指摘していたが、そのとおりと思う。
人は神の前に立って自らの人生の責任を持ち、行為の責任が問われることも一方で大事なことであり、そのこともオバデヤ書は明記しているが、と同時に、人間同士の関係は傍観や無責任であってはならず、相互の配慮を必要とし、神からもそのように求められているというのが、オバデヤ書および聖書の隣人愛の倫理と言えると思われる。
※ オバデヤ書 第十二節 (隣人への倫理)
וְאַל־תֵּ֤רֶא בְיֹום־אָחִ֙יךָ֙ בְּיֹ֣ום נָכְרֹ֔ו וְאַל־תִּשְׂמַ֥ח לִבְנֵֽי־יְהוּדָ֖ה בְּיֹ֣ום אָבְדָ֑ם וְאַל־תַּגְדֵּ֥ל פִּ֖יךָ בְּיֹ֥ום צָרָֽה׃
ベアル・テーレー・ベヨウム・アヒーハー・
ベヨウム・ノホロウ・
ベアル・ティシュマー・リブネー・イェフダー・ベヨウム・オーブダム・
ベアル・タグデル・ピーハー・ベヨウム・サラー
「兄弟が不幸に見舞われる日に
お前は眺めていてはならない。
ユダの人々の滅びの日に
お前は喜んではならない。
その悩みの日に
大きな口をきいてはならない。」
「参考文献」
・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・内村鑑三「オバデヤ書の研究」全集31巻所収、岩波書店、1983年
・矢内原忠雄「オバデヤ書の大意」全集13巻所収、岩波書店、1964年
・デイヴィッド・W・ベーカー著、清水武夫訳『ティンデル聖書注解 オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書』いのちのことば社、2006年
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年