永遠のメシアについて ミカ書を通じて

ミカ書の中に、「ベツレヘム預言」という有名な箇所がある。

メシアがベツレヘムに生れると預言した箇所である。

 

ミカの時代の七百年のちに、イエス・キリストベツレヘムに生まれたことにより、この預言が成就したと福音書が伝えるので、とても有名な箇所である。

 

「エフラタのベツレヘム

お前はユダの氏族の中でいと小さき者。

お前の中から、わたしのために

イスラエルを治める者が出る。

彼の出生は古く、

永遠の昔にさかのぼる。」

(ミカ書 第五章 一節)

 

エルサレムと異なり寒村に過ぎないベツレヘムにメシアが生れるというミカの預言は驚くべきものであり、またイエス・キリストの誕生によってそれが成就したとクリスチャンの立場からは受けとめられるので、実に驚くべき預言であることは間違いない。

 

ただ、私がこの箇所を読む時に、それ以上に驚くのは、ここに明確に、メシアが永遠の存在だと述べられていることである。

 

イスラエルを治める者」とはメシアのことであり、それはこれに続く第五章の記述で明確なことなのだけれど、そのメシアが、「永遠の昔にさかのぼる」存在だと、このミカ書の中で明確に述べられている。

 

これは、ヨハネ福音書冒頭の有名な、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という永遠のロゴス(ことば)としてのキリストというキリスト(メシア)に対する見方と完全に一致する。

 

また、コロサイ人への手紙の第一章十五~十七節の、

 

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」

 

という、いわゆる「先在のキリスト」論とも完全に一致する。

 

もっと言えば、箴言八章二十二節以下の、万物に先立って存在した知恵にも、一致する。

 

メシア=キリストが、単なるすぐれた統治者や救い主というだけでなく、永遠の存在であること。

そのことが、ミカ書には明確に説かれているのである。

 

ヨハネ福音書やコロサイ書における永遠のロゴスとしてのキリストや先在のキリストと全く一致する思想が、すでに旧約聖書のミカ書に説かれていることは、驚かざるを得ない。

 

日本人にとっては、このことが一番わかりにくいことかもしれない。

日本人の場合、戦国時代にキリスト教が伝わった時から、イエスは立派な人間だとは思う人は多かったようである。

そのイエスが、永遠の存在だということが、信仰を持っている人以外はなかなかわかりづらいかもしれないし、クリスチャンの中でも時折全く理解できない人もいるようである。

 

しかし、人間が本当に渇仰していることは、永遠ということなのではないだろうか。

何もかも無常に移り変わっていくものばかりで、滅びていくものの中にあって、人が本当に飢え渇いているものは、永遠との関係なのではないか。

 

そして、その永遠と、メシアを通して、キリストを通じて、関係することができる。

それが、信仰というものの、醍醐味であり、奥義なのではないかと思う。

 

逆に言えば、永遠の存在ではないメシアは、本当の意味での救いにならず、したがって救い主ということにならないのではないかと思う。

キリストは、永遠のいのちであり、永遠のいのちを与えることができるがゆえに、キリストなのである。

 

このような信仰の奥義や機微に、さらっと触れているという点において、ミカ書は本当に不思議な書物であり、やはり聖なる書物と思わざるを得ない。