私にとっての無教会:無教会の二つの大きな意義

『私にとっての無教会:無教会の二つの大きな意義』  

 

 

 「はじめに」

 

 私は無教会の集会に参加するようになって、まだ三~四年である。信仰も人生経験も浅く、小半世紀あるいは半世紀以上聖書を学び続けてきた方の多いこの場で証をするなど、本当は任に堪えない者である。しかしながら、無教会に感謝の気持ちを伝えたいと思い、今回証をさせていただいた。

 

 

 「私にとっての無教会の意義 ① 聖書の学び」

 

 では、何に感謝しているかと言うと、まず無教会において聖書を深く学ぶことができたということである。「無教会=聖書を深く学ぶことができる場」、聖書を平信徒(layperson、特に専門家でもない普通の人)が深く学ぶことができるかけがえのない場に出会うことができた。そのことを神に感謝している。

日本において、そのような場は、内村鑑三によって切り開かれたと考える。奈良時代には、景教ネストリウス派キリスト教)が到来していたという説もある。しかし、一般民衆にはほとんど関係がなかった。戦国時代には、ザビエルによるキリスト教カトリック)の宣教が行われ、多くの庶民がキリスト教を知った。聖書の部分的な翻訳も行われていた(バレト写本など)。しかし、聖書の翻訳を多くの庶民が読むという状況にはまだ至らなかった。幕末・明治の開国以後、聖書の翻訳が行われ、多くの日本人が聖書を読むことができるようになった。ただし、今も昔も、必ずしも聖書を読むことを大切にしない教会や信者も多い。カトリックにおいては、公教要理(カテキズム)が重視され、ミサなどの儀式に重きが置かれている。また、本来はルターの聖書第一主義から起ったはずのプロテスタントも、ボランティアや組織運営でいそがしい所が多い。もちろん、人によっては深く聖書を学んでいる人が教会にもいることを否定しないが、内村鑑三がすでに指摘したとおり「日本のキリスト教徒の聖書知識の乏しさには驚くばかりだ。」(小舘美彦・小舘知子訳『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー』燦葉出版社、二〇一七年、五三頁。)という現状は、今日もあまり変わっていない。

その中で、内村鑑三の無教会主義の画期的意義は、ひたすら聖書を深く味わい学ぶことに中心を置く場をつくったことにある。主日ごとに聖書本文に即した学びを重視する無教会の「説教より講話」というありかたは、そのことをよく表している。

 ただし、儀式や典礼や組織よりも御言葉を学ぶことを中心とするという無教会のあり方は、何も内村鑑三に始まったものではなく、初代教会にさかのぼる(参照:高橋三郎『新約聖書の世界』(教文館)一九九四年)。マタイ的理解においては聖餐式や教会という制度が重視されているが、ヨハネ的理解においては御言葉そのものに集うありかたがすでに明記されている。両者の併存が新約聖書であり、したがっていずれかを否定する必要はない。

しかし、教会の教義や儀式が人の救いの妨げになる場合には、塚本虎二の「教会の外に救いあり」という言葉が、本当に救いになる場合もある。それが私の場合だった。

 

 

「私にとっての無教会の意義 ② 個人的な体験・私の妹のこと」

 

十五年前、私が二十五歳の時に二つ年下の妹が、四年間の闘病の末に亡くなった。悪性リンパ腫という病気で、入退院をくりかえし、私から二回骨髄移植を行い、本人も家族も一丸となって病気が治ることを願っていたが、治らなかった。その時は、「神も仏もない」と思った。また、そうであればこそ、強く宗教的な救いを希求するようになった。いくつかの宗教を遍歴し(『季刊無教会』第四十八号にそのことは記させていただいた)、途中を割愛し結論だけ述べると、私はキリストを信じ、聖書を学ぶようになった。

しかし、そうなったらなったで、キリスト教の信仰を持たずに亡くなった私の妹は、死後に救われたのかという疑問が生じるようになった。若き日に矢内原忠雄内村鑑三に対して同様のことを質問したというエピソードがある。ノン・クリスチャンだった父親は死後に救われたのかと問う矢内原に対し、内村は自分にもわからないと答え、その疑問は時が来ればおのずとわかると答えた。これは、杓子定規に結論を出すことはできず、時間の経過の中で神と対話を積み重ねる中で解決が与えられると内村は言いたかったのだと思う。

 私も長くこの疑問を抱いていたが、今年の四月、同じ無教会の集会の方の勧めで『母 小林多喜二の母の物語』という映画を見て、氷解した。

 周知のとおり、小林多喜二特高警察の拷問によって非業の死を遂げた。戦後になり、何年も経っても、母のセキは多喜二の死を思うとはらわたの焼けるような思いがしていた。そんなある日、ある牧師が、セキに、マタイによる福音書の二十五章の四十節を引き、以下の内容のことを述べた。

エス様は、小さい者のために尽くした人は、イエス様のために尽くしたのと同じだと述べている。小林多喜二キリスト教徒ではなかったかもしれないが、本当に弱い人々や貧しい人々のために命をかけて尽くした。そのことはイエス様に本当に尽くしたのと同じだから間違いなく天国にいると思う…。

その映画の中のセリフは、私にとっては啓示のように響いた。そして、私の妹の、生前には知らなかった、あることを思い出した。それは、私の妹の小学校・中学校・高校の時の友人が、それぞれ一人ずつ、妹が亡くなった後に、わが家にやって来て、語ってくれた感謝のことばだった。

妹が小学六年の二学期、わが家は引っ越した。妹は卒業まで、電車で以前の小学校に通学し続けた。私はてっきり、途中で小学校が変わるのが嫌だからそうしていたと当時は思っていた。しかし、小学時代の妹の友人が、妹が亡くなったあと、語ってくれたことは、瞳ちゃん(私の妹のこと)は、自分のために引っ越し後も電車で通学してくれていた、ということだった。その友人は、小学校で私の妹の他に友達がいなかった。とてもおとなしい性格だった。そのため、心配して、瞳ちゃんは電車で通い続けてくれた。そのおかげで、自分も小学校を無事に卒業できた。その後は順調にずっと来ている。瞳ちゃんのおかげだ、と。

中学の時の妹の友人も、ある時うちに来て、生前知らなかったことを語ってくれた。とても明るくかわいらしい方で、今は保育士になっている。その中学時代の妹の友人は、妹のいる中学に途中から転入してきたのだけれど、引っ越してくる前の中学で、大変ないじめに遇ったことがあったそうだ。それでとても心が傷ついた状態で転校してきたところ、すぐにうちの妹が友達になってくれて、それで新しい中学ではいじめられることもなく、無事に卒業できた。そのあとはずっと順調で幸せに過ごしている。瞳ちゃんのおかげです、と語ってくれた。

もう一人、高校の時の妹の友人が語ってくれたことがある。その友人は十五年経った今でも、妹の命日やお盆には必ずお花を贈ってくれる。県内有数の進学校を卒業し、今は結婚して幸せに過ごしている。その方が話してくれたことには、高校時代はどうも高校がなじめず、やめようと思ったこともあった。しかし、瞳ちゃんがいつもさりげなく側にいて友達でいてくれた。そのおかげで高校を無事に卒業することができた。今の自分があるのは瞳ちゃんのおかげだ、と。

 マタイによる福音書の二十五章四十節には、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と記されている。もし杓子定規な、儀式や典礼を中心とするキリスト教の教理による考え方であれば、洗礼を受けていない人間は天国には行かないのかもしれない。しかし、聖書自体の御言葉によるという無教会のおかげで、私は今は違う考えに至ることができた。

 べつに私の妹が正しい行為をしたから、その功績で天国に行ったということが言いたいわけではない。そういうことが言いたいのではない。そうではなくて、誰かから感謝されるような心で生きた人間を、愛である神がほっておかれるはずがない。見捨てるわけがない。そのような神の愛というものに、私は、この御言葉を通じて触れることができた。小林多喜二についての映画をきっかけに、このマタイによる福音書の二十五章四十節の御言葉にあらためて触れて、神の愛がいかなるものか、決してそのような人を見捨ててはおかぬ神の愛というものに、触れた気がするのである。

 また、仮に信仰によってのみ人が救われるとして、ある人が心の中で信仰に至っていたかどうかについて、たとえ家族であっても本当にわかるのだろうか。妹の生前は、私自身がまだキリストへの信仰に至っておらず、妹とキリストへの信仰について話をしたことはなかった。しかし、母から、私の妹が亡くなる少し前に、「私は神にさからうことをやめた。」と言ったと聞いたことがある。妹がどのような意味でそう言ったのか今となってはわからない。

また、私の妹は、ノン・クリスチャンだったはずなのだけれど、生前なぜか旧約聖書の「ヨナ書」と旧約聖書続編の「トビト記」を愛読していた。好きだったレンブラントの絵や当時読んでいた文学作品の影響だったと思われるが、そのことがきっかけで、現在私は福岡の集会で十二小預言書の講話を担当している。いつかヨナ書をきちんと理解したいと思い、その思いがきっかけとなって、十二小預言書を学ぶようになり、講話担当させていただくことになった。

 また、妹が亡くなった後、絵が好きだったので、遺したスケッチや絵をまとめて自費出版したことがあった。この画集を自費出版する時は、まだ私も母も無教会の集会に通うようにはなっておらず、キリストへの信仰にも至っていなかったが、たまたま母が当時読んでいた本の中から『Sursum Corda(スルスム・コルダ)』というタイトルにした。ずっと後になり、私も母も無教会の集会に通うようになってから、『讃美歌21』の中にこのタイトルの讃美歌があると知って驚いたことがあった。

 これらを思うに、すでに妹が救われているからこそ、その後、その導きで、自分がいま福音の信仰に至ったのだと思う。そして、聖書を学ぶようになり、時間の経過の中で、聖書のことばや、神との対話を積み重ねる中で、少しずつ、すべてに感謝し、神を讃美する心持に、変わっていくことができたのだと思う。

長い間、なぜ人は生きねばならないのか、この人生に何の意味があるのかと問うことも多かったが、今は、神は愛であり、愛をもって創造されたすべての存在や人生に意味があり、きっと私も、妹も、何がしか神の御経綸の中で意味がある存在なのだと思えるようになった。

 

 

 「結論」

 

私にとっての無教会とは、聖書という霊の糧を日々に学ぶことができ、また私のような教会の外の人間にとっても本当に聖書の言葉に即した慰めと救いをもたらしてくれる場である。教会の儀礼や儀式や教理とは縁のない私のような教会の外の人間にとって、真の救いをもたらすことができるかけがえのないエクレシアである。

 霊(プネウマ)の糧は、聖書の御言葉にある。人間は、肉体・こころ・霊の三つの要素から成り立つ(矢内原忠雄全集十五巻、二〇二~二一〇頁)。聖書こそ霊の糧であり、この霊の糧を日々に味わうことを通じて、キリストの愛による喜びの人生が開かれていくのだと考える。

 最後に、詩編の第三〇編二~六節(新共同訳)を読み、神を讃えたい。

 

「主よ、あなたをあがめます。

あなたは敵を喜ばせることなく

わたしを引き上げてくださいました。

わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを

あなたは癒してくださいました。

主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ

墓穴に下ることを免れさせ

わたしに命を得させてくださいました。

 

主の慈しみに生きる人々よ

主に賛美の歌をうたい

聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

ひととき、お怒りになっても

命を得させることを御旨としてくださる。

泣きながら夜を過ごす人にも

喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」