『ゼファニヤ書(上) ―神の審判と悔い改めの呼びかけ』 資料
『ゼファニヤ書(上) ―神の審判と悔い改めの呼びかけ』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、神の審判の告知
Ⅲ、悔い改めの呼びかけ
Ⅳ、諸国民への審判
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
・ゼファニヤ書:十二小預言書のひとつ。全三章。南ユダ王国で活動した預言者・ゼファニヤによる預言をまとめたもの。内容は、神の審判を告げる前半と、神が人の内側に入り人に新生を与え救いを告げる後半から成る。十二小預言者中でも、人の心の内側に神が入り導くことと、新生の喜びを告げ知らせる点で、特徴あるメッセージとなっている。また、前半の神の審判の描写は、中世ラテン語の詩「怒りの日」(Dies irae)の元となり、レクィエムなどを通じて後世の最後の審判のイメージに大きな影響を与えた。
・ゼファニヤとは誰か?:ゼファニヤ書以外の旧約聖書中の情報がなく、詳しいことは不明。ただし、ゼファニヤ書の冒頭に、四代前までの系図が記されており、おそらく名門の出身。四代前の先祖の「ヒズキヤ」は、ヒゼキヤ王のこととも推測される。預言の内容から、名門出身の神殿に仕える預言者であり、ヨシヤ王の治世初期にヨシヤ王の宗教改革を主導したとも考えられる。
・ゼファニヤの時代背景:
ゼファニヤの生きた時代は、ユダの王ヨシヤの時代だとゼファニヤ書の冒頭に記されている。預言内容から、ニネベ陥落の前、かつヨシヤ王の改革が本格的に始まる前の、ヨシヤ王治世初期と考えられる。おそらく紀元前640-621年頃と推定される。ゼファニヤは、ナホムと同じかやや後、ハバククのやや前、エレミヤの活動期の初期と同じ頃に預言活動をしたと考えられる。
※ 「ゼファニヤ書の構成」
第一部 神の審判の告知 第一章~第二章(1:1~2:15) ⇒ 今回
第二部 神と共に生きるようになる希望 (3:1~3:20) ⇒ 次回
ゼファニヤ書では、第一章から第二章までにおいて、神の審判の告げ知らせがなされ、人間の側における「義と謙遜」が求められる。そののち、第三章では、神が人の中に働き、人を「愛によって新たにする」新生が告げられ、救いの希望が述べられる。
・第一部(第一~二章)の構成
1、神の審判の告知 第一章(1:1~1:18)
2、悔い改めの呼びかけ 第二章の冒頭(2:1~2:3)
3、諸国民への審判 第二章(冒頭以外) (2:4~2:15)
第一部は、大きく三つの部分に分かれ、主の日の審判の告知と、悔い改めの呼びかけと、諸国民への審判が告げられる。
全体として、第二部における新生の前提となる、悔い改めが目指されている。
Ⅱ、神の審判の告知 (1:1~1:18)
◇ 1:1 題辞
ゼファニヤ:「ヤハウェは隠し給うた」の意味。ヒゼキヤ王から悪王であったマナセ王やアモン王とは別の系譜の、ヒゼキヤ王の子孫としてのゼファニヤの系譜自体が、人々から「隠された」ものであり、神の意志に忠実であるもう一つの系譜となっている。また、神の審判が差し迫っていることが人々の目から隠されているということ、さらには、審判の日々において、悔い改めた人々は神の怒りから隠されて安全である(ゼファニヤ2:3)という、本文の内容との関連も見て取れる。
クシ:クシュ。ゼファニヤの父の名前。通常は、エチオピアを意味する言葉。おそらくはクシュがその父・ゲダルヤとエチオピア人の母との混血だったことに由来すると考えられる。
ヒズキヤ:原文はヒゼキヤと同じ。ユダの王ヒゼキヤと同名であるが、同一人物かは不明。もしヒゼキヤ王だとすれば、ゼファニヤは王家の一族に連なる。わざわざ系譜を四代までさかのぼって記していることを考えれば、そのことを記そうとしたと考えられる。
ヨシヤ:南ユダ王国第十六代目の王。在位BC640-609。八歳で即位。父や祖父の偶像崇拝を改め、ヤハウェ唯一神の信仰に立ち帰る「申命記改革」を実行。のちにエジプトとの戦いで志半ばで戦死。ダビデ・ヒゼキヤとともに、列王記の中で珍しく神の前に正しく歩んだ王として記される。
⇒ ※ ゼファニヤは、王家の血を引きつつ、かつ異民族の血も引いており、複雑な生育環境や立場にあったと推測される。ヒゼキヤ王の後の王であったマナセとアモンは、偶像崇拝に走った悪王として列王記には記される。おそらくゼファニヤは、アモンの次の王になったヨシヤに対して大きな期待をし、王家の一員としてヨシヤの改革運動に影響力を及ぼし、指導する立場にあったと考えられる。幼少のヨシヤ王の補佐役であったかもしれない。(列王記には、ヨシヤの時代に活躍した人物としては、大祭司ヒルキヤや、女預言者フルダなどの名前が挙げられている(列王記下22章)が、特にゼファニヤの記述はない)。
◇ 1:2~1:3 自然界に対する審判の告知
地の面から一切が一掃。人も家畜も鳥も魚も除かれる。
⇒ ※ なぜ人間の罪で自然界まで一掃されるのか?
ロマ8:22 人間の罪によって、被造物も共に苦しみ、人間が救われれば、被造物も共に救われるというのが聖書の世界観。
c.f. : ノアの洪水(創世記7:23)、ソドムとゴモラの滅亡(創世記19:24,25)
ただし、おそらくは、全世界を滅ぼすというよりも、罪人の周辺地域の自然が荒廃し、生産力が衰え、国力が衰退することへの警告とも考えられる。
⇒ 主眼は人間への警告にあると見るべきで、実際に以下の箇所はすべて人間への警告となっている。
※ 新共同訳「神に逆らう者をつまずかせ」⇒岩波訳「わたしは悪しき者たちを躓かせる。」
◇ 1:4~13 ユダに対する審判の告知
1:4「バアルの名残」 ヨシヤ王による改革以前のユダヤには、マナセとアモンの治世において広まった多神教の偶像崇拝が深く根を下ろしていた。
1:5「天の万象」=被造物である自然界を崇拝対象とする多神教(c.f.日本)
「マルカム」=ミルコムとも。アンモン人の主神バアルの通称。モレクとも呼ぶ。モアブ人においてはケモシュと呼ばれた。しばしば人身御供も行われた(列王記下3:27)
1:6フランシスコ会訳「主から離れ去り、/主を求めず、また主に尋ねない者を絶つ。」
関根訳「またヤハウェからはづれ、ヤハウェを求めず、ヤハウェを尋ねない者を。」
⇒ 主に背を向け、離れ、主と対話しながら生きていくことをやめた時、人の生命は枯渇していく。
1:7 ⇒ 神の前の沈黙(c.f.ハバクク2:20、イザヤ30:15) 神の細く静かな声に耳を澄ませること。
新共同訳の「呼び集められた者を屠るために聖別された」は誤訳か?
キリストが犠牲として供えられ、キリストを信じる人々(=主に招かれた人々)は義とされた(聖別された)と読む方が、新約の光に照らした時に筋道が通る。ここは一種のメシア預言ととるべきか。
フランシスコ会訳「主なる神の前に沈黙せよ。/主の日は近いからだ。/実に主は犠牲(いけにえ)を備え、/主に招かれた人々を聖別された。」
文語訳 「汝、主エホバの前に黙せよ。そは、エホバの日近づき、エホバすでに犠牲(いけにえ)を備え、その招くべき者をさだめ給いたればなり。」
1:8 「高官たちと王の子ら」を罰する。⇒ 王自身は罰の対象となっていない。おそらく、ヨシヤ王が義しい王であったためか。ヨシヤ王の息子のヨヤキムは、エレミヤから再三批判された悪王だった。
1:10 「魚の門」:エルサレム北側の主要な門。(歴代誌下33:14)
「ミシュネ地区」:第二区。神殿の北側、エルサレムの西側の丘にあり、上流階級の人々の住居があった。(列王記下22:14)
⇒ エルサレムの東から西は崖で攻められにくく、北は攻められやすかった。
1:11 「マクテシュ地区」:原語は窪地。魚の門と同じ地域。
⇒ 経済にばかりかまけて、魂のことをなおざりにしていた人々は、絶たれる。
1:12 フランシスコ会訳:「その時、わたしは、明かりをつけてエルサレムを捜し、/酒の澱の上に凝り固まっている者、/心の中で、『主は善いことも悪いこともしない』と言う者を罰する。」
「酒の澱の上に凝り固まって」⇒ぶどう酒の発酵のプロセスに入らず、かたまって浮いている不純物。役に立たないもの、頑ななもののこと。神に対して無感覚になり、良心が麻痺すること。
⇒ 「神は善いことも悪いこともしない、自分に無関係なものだ」と考え、道徳や法を守らずに生きる人々を、神は逐一探し出して罰する。天網恢恢疎にして漏らさず。神は人生に何も関係がないと考えることが、人の罪の源であり、神に背を向け、神からはずれた生き方の原因だと、ゼファニヤは指摘している。そして、そのような状態になると、人生の実りがなくなると指摘する(1:13)。
◇ 1:14~18 主の日
1:14 「主の日」:神が人間の歴史に介入する一定の時間のこと。
c.f.ヨエル1:15、オバデヤ15
1:15-16 岩波訳 「その日は、憤りの日、苦しみと苦悩の日、滅びと滅亡の日、暗闇と暗黒の日、密雲と黒雲の日、角笛と鬨(とき)の声の日、堅固な町々の上に、諸々の高い四隅の塔の上に(臨む)。」
⇒ 「怒りの日」(Dies irae) セラノのトーマスが13世紀に書いたラテン語の詩。モーツアルトのレクィエム、ヴェルディのレクィエム。
Dies iræ, dies illa
solvet sæclum in favilla:
teste David cum Sibylla
Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus
怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です。
審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか。
「滅び」原文はショアー。
日が六回繰り返されている。天地創造のやり直しか。
1:17 「目が見えない者のように歩かせる。」
⇒ 苦しみの中で、展望がなく、希望がないことほど、つらいことはない。主に対する罪の結果。
1:18 「金も銀も彼らを救い出すことはできない」
⇒ 金銭や財産は、究極的には救いの足しにならない。
c.f. ルカ12:13-21 「愚かな金持ちのたとえ」
Ⅲ、悔い改めの呼びかけ (2:1~2:3)
◇ 2:1~2:3 義と謙遜への呼びかけ
2:1‐2 判決が出る前に、恥を知り、悔い改めるために集まることの呼びかけ。罪を悔い改めた人々の集い=エクレシアの形成の呼びかけ。
※ 2:3 口語訳:
「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、
主を求めよ、
正義を求めよ、
謙遜を求めよ。
そうすればあなたがたは主の怒りの日に、
あるいは隠されることがあろう。」
岩波訳「ヤハウェを求めよ、/ヤハウェの公義を行う/すべてこの地のへりくだる者たちよ。/義を求めよ、/謙虚さを求めよ、/あるいは、ヤハウェの怒りの日に、/あなたがたは匿(かくま)われることになろう。」
関根訳「ヤハウェを求めよ。/[地のすべてのへり下れる者よ、/彼の定めを行う者。]/義を求めよ、/へり下りを求めよ。/君たちはあるいはかくまわれるであろう、ヤハウェの怒りの日に。」
新改訳「主の定めを行う/この国のすべてのへりくだる者よ。/主を尋ね求めよ。/義を求めよ。柔和を求めよ。/そうすれば、/主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
フランシスコ会訳「主を求めよ。/地のすべての謙虚な者たち、/主の掟を守る者たちよ、/正義を求め、謙遜を求めよ。/主の怒りの日に、匿ってもらえるかもしれない。」
バルバロ訳「主をさがし求め、主の定めを踏み行う、/地のしいたげられた者よ、/正義を求め、謙遜をさがせば、/主の怒りの日を免れるかもしれない。」
文語訳「すべてエホバの律法(おきて)を行うこの地の遜(へりくだ)るものよ、汝らエホバを求め、公義を求め、謙遜を求めよ。さすれば、汝ら、エホバの怒りの日に、あるいは匿(かく)さるることあらん。」
※ 新共同訳「苦しみに耐えてきたこの地のすべての人々よ」=フランシスコ会訳「地のすべての謙虚な者たち」=アナウィーム
= 福音書における「貧しい人々」(「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)
※ 「謙遜」=「柔和」 「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)
⇒ 「義」と「謙遜」を神は人に求めている。悔い改めて、義と謙遜を取り戻せば、神の怒りから守られ、安全となる。
義や罪に鈍感になること=傲慢
義や罪に敏感になること=謙遜 (神の細く静かな声に耳を澄ますこと)
Ⅳ、諸国民への審判 (2:4~2:15)
◇ ペリシテに対する審判 2:4-7
ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロン:ペリシテの都市の名前。ガテと合せて、ペリシテの五都市と呼ばれていた(ヨシュア13:3)。ペリシテはこの五つの都市の同盟連合だった。ここでガテが挙げられていないのは、アシュドドにすでに久しく従属していたため(関根訳・註四、131頁)。
「海沿いの民」 アモス8:11-12(主の言葉を聞くことができぬ飢えと渇き)を踏まえて考えれば、神の言葉を聞くことができない民のことか。
2:6―7 ペリシテの地も、羊飼いのものとなり、繁栄が回復する。
⇒ 異邦人も悔い改め、神の言葉を聞くようになれば、救われる。
◇ モアブとアンモンに対する審判 2:8-11
モアブ、アンモン:ユダ王国の東に隣接する国々。アブラハムの甥のロトの子孫とされる。
嘲り・おごり⇒ ソドムとゴモラのようになる。
2:11 偶像の神々を滅ぼし、島々の人々まで主にひれ伏すようになる。
⇒ 異邦人も、全滅ではなく、審判ののちの悔い改めと神への立ち帰りに力点が置かれている。神が滅ぼすのは、人間が自己中心のためにつくりだした本当は神ではないものに対する倒錯した崇拝対象である偶像。
◇ クシュ人への審判 2:12
クシュ:エチオピアのこと。ゼファニヤの父の名前もクシュであり、ゼファニヤの父方の祖母がエチオピア人の可能性が高い。ただし、ここでのクシュは、エチオピアというより、エジプトへの審判のことを指すとも考えられる。当時エジプトは、第二十六王朝であったが、その初代王はエチオピア人アンメリスとも伝わる。ただし、第二十六王朝自体は、二十四王朝と同じくリビア系と考えられる。直前の第二十五王朝は、ヌビア人の王朝であり、ヌビア人はクシュ人ともしばしば呼ばれていた。第二十五王朝の滅亡はBC656年だが、その残存勢力であるメロエ朝への変動に関する事柄を指すのかもしれない。
◇ アッシリアへの審判 2:13-15
アッシリアとその首都ニネベの破滅が告知される。(c.f.ナホム)
2:15a 関根訳「これがかの安居しつつ、/笑いさざめいていた都であるか。」
フランシスコ会訳 「これが、安心しきって生活し、心の中で「わたしのほかに誰もいない」と言い、/たいした勢いだったあの町だろうか。」
バルバロ訳「安らかに君臨し、/心の中で、「私だ、私のほかにはない」/といっていたあの勝利の町が、これか。」
新改訳「これが、安らかに過ごし、/心の中で、「私だけは特別だ。」と言った/あのおごった町なのか。」
⇒ 自分は特別だと考え(「~ファースト」といった考え方)、神の審判を少しも恐れず、正義に鈍感になり、謙遜を忘れて驕っている勢力は、いかに力の強い存在であろうと、最後は荒廃に帰す。
(c.f. アッシリア、バビロン、ペルシア、マケドニア、ローマ、ナチスetc.)
Ⅴ、おわりに
ゼファニヤ書から考えたこと
・次回とりあげるゼファニヤ書第三章では、神の愛による新生が述べられているが、その前提には、今回読んだ箇所に説かれる、悔い改めと義と謙遜が存在している。
今回、ゼファニヤ書の第一章・第二章を丹念に読むことで、いかに日頃自分が「酒の澱の上に凝り固まっている」ようなもので、神の審判をさほど真剣に考えることもめったになく、鈍感になっていることかと反省させられた。
この世の中に本来は行われるべき正義に鈍感で、虐げられている人々(アナウィーム)にも無関心でさほど連帯もせず、「主から離れ去り、/主を求めず、また主に尋ねない者」というのは、わがことと反省させられた。
・と同時に、今回丹念に読んでいて気づかされたのは、「神の怒り」「主の審判」の警告は、滅ぼすためではなく、なんとか悔い改めさせて、それらの滅亡から免れさせようとするためのものであることが、行間ににじみ出ていることに初めて気づいた。
かつては、ゼファニヤ書、およびゼファニヤ書から書かれた「怒りの日」(Dies irae)の詩や音楽は、人を恫喝し脅かすもののように感じることもあったが、そうではなく、人間が自分自身の罪で滅亡の事態に至ることを、事前になんとか回避させようとする神の衷心からの警告であり、愛があればこそなのだとわかった。(このまま歩くと穴に落ちることを警告する案内人、あるいは非行少年を叱る親のようなものと思われる)。
・義に鈍感になることが傲慢であり、義に敏感になることが謙遜だということを、ゼファニヤ書を読んで考えさせられた。
・また、ゼファニヤ書の言う「義を求める」ということは、新約の光に照らすならば、自分の義ではなく、キリストの十字架の義であり、ゼファニヤ1:7ですでにキリストの犠牲が預言されていることに今回読んでいて気づかされた。
・次回は、これらの内容を踏まえた上で、ゼファニヤ書三章に説かれる「愛によって新たにされること」(=新生)について、新約を参照しながら考えたい。
※ ゼファニヤ書 第二章三節 (義と謙遜の呼びかけ)
בַּקְּשׁ֤וּ אֶת־יְהוָה֙ כָּל־עַנְוֵ֣י הָאָ֔רֶץ אֲשֶׁ֥ר מִשְׁפָּטֹ֖ו פָּעָ֑לוּ בַּקְּשׁוּ־צֶ֙דֶק֙ בַּקְּשׁ֣וּ עֲנָוָ֔ה אוּלַי֙ תִּסָּ֣תְר֔וּ בְּיֹ֖ום אַף־יְהוָֽה׃
バッケシュー・エット・ヤハウェ・コール・アンヴェー・ハアーレツ・
アシェール・ミシュパトー・パアールー・
バッケシュー・ツェーデク・バッケシュー・アナヴァー・
「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、
主を求めよ、
正義を求めよ、
謙遜を求めよ。
そうすればあなたがたは主の怒りの日に、
あるいは隠されることがあろう。」」
「参考文献」
・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年
・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数