ゼカリヤ書(4) ただ神の霊によって光となる

 

『ゼカリヤ書(4) ただ神の霊によって光となる』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、金の燭台と七つの灯皿

Ⅲ、ともしびとなるために神の霊と結びつくこと

Ⅳ、二本のオリーブの木と枝

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

    

 

前回までのまとめ

 

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選び、そこには城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。第三章では、サタンの告発から主のみ使いが大祭司ヨシュアを弁護し、神がヨシュアの罪を赦すことと、さらには若枝(メシア)が来て「地の過ち」(人類の罪)を一日のうちに取り除く(十字架の贖い)がなされて平和に至ることが預言された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は四章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

☆第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)⇒ ※今回

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第四章(第五の幻)の構成 

 

第一部 金の燭台と七つの灯皿 (4:1~5)

第二部 ともしびとなるために神の霊と結びつくこと (4:6~10)

第三部 二本のオリーブの木と枝(4:11~14)

 

 第四章では、第五の幻が示される。まず第一部において、金の燭台と七つの灯火皿のビジョンが示される。

第二部では、それがゼルバベルに向けられた神の言葉であることが示され、人の力によらず神の霊によって人が生きる時に、メシアの到来へと向かう歴史の一部となり、世の光となることが示される。

第三部では、二本のオリーブの木の枝が、二人の神の霊をそそがれた人間であることが告げられ、神の霊としっかり結びついた人間によって神の霊は人々に伝わることが示される。おそらくその二人の人物であるユダヤ総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアは、政治と宗教のそれぞれを象徴している。俗と聖の両方の分野で神の霊と結びついた指導者に恵まれる時に、この世は光輝きだすことが示されている。

Ⅱ、金の燭台と七つの灯皿 (4:1~5)

 

◇ 4:1 眠っていたゼカリヤとそれを起こすみ使い

 

バルバロ訳:「それから、私のなかで語っていた天使は、眠りから目覚めるように、私の目をさまさせた。」

 

※ なぜゼカリヤは眠っていたのか?

 

⇒ 四章の中にはその説明は何もない。通常、聖書では霊的に鈍くなった状態のことを「眠り」と表現する場合が多い(ヨナ1:5、マルコ14:40)。

 

・直前の三章では、メシアによる罪の贖いが説かれている。三章との関連で考えると、このことと関連していると思われる。

 

⇒ キリスト教においては、キリストを信じるだけで罪が贖われて救われることが告げられる。そのこと自体は真実だとしても、それが硬直した教義になると、信仰箇条を列挙してそれを承認すれば救われる、という姿勢になりやすい。つまり信仰が知識やドグマの問題にすり替わってしまう。

 

⇒ 単なる知識としてキリストとその救いを知っただけで、そこに安住し、生き生きとした神との霊的なつながりや神の言葉との絶えざる対話を持たないと、そこには霊的に鈍い状態が起こりうる危険がある。単なる儀式や知識と、本当に生きた信仰は異なる(⇒「眠り」から常に目覚めるのが無教会主義)。

 

◇ 4:2 「何が見えるか?」

 

・神は、しばしば、いま何が見えるか?と人に問う。(ゼカリヤ5:2、エレミヤ1:11、1:13など)。

 ⇒ 預言者というのは、神の問いに対して、誠実にきちんと目に見えたものを答える人。 ⇒ 一方、人はしばしば、この世界の出来事に気づかず、見ていないこと、あるいは見て見ぬふりをすることがあるのではないか?

 

 ⇒ 私たちも、いま何が見えているのか、何を見ているのか、問いつつ生きることの大切さ。

◇ 4:2-3 金の燭台と七つの灯皿と二本のオリーブの木

 

⇒ 1頁めの図を参照。ただし、おそらくはもっと古い時代の素朴な燭台で、円筒の上に丸い鉢があり、その上に七枚の皿があるという形。

 

(※ただし、関根訳だと、1頁めの図のようである。 関根訳「私は見ると、見よ、一つの燭台があって、すべて金でできています。一番上に皿があり、それに七つのともしびがついていて、そのともしびごとに七つのくちがあります。」)

 

◇ 4:4-5 主に意味を尋ねる。

 

・ゼカリヤはみ使いに、見えたものにどのような意味があるかを尋ねている。み使いが「何であるか知らないのか」と尋ねると、「知りません」と素直に答えている。

 

⇒ 私たちは、しばしばこの人生や世界において見えていることの意味がわからないことがある。その時は、神にその意味を尋ね、聖書を開いてその意味を尋ね求め、神との対話を続けていくことが重要なのだと思われる。

 

 

Ⅲ、ともしびとなるために神の霊と結びつくこと(4:6~10) 

 

◇ 4:6-7 金の燭台の意味:ゼルバベルに向けられた言葉・み使いが語る。

 

ゼルバベル

当時のユダヤ総督。大祭司ヨシュアと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として復興や神殿再建に尽力。第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。ハガイ書には神の言葉を受け入れ「神の印章」となったことが記され、ハガイ書・ゼカリヤ書ともにゼルバベルを高く評価している。

しかし、聖書の中には、唐突にゼルバベルについての記述が消えてしまい、その後の消息については不明。一説には、なんらかの政治的陰謀に巻き込まれて非業の死を遂げたと考えられ、イザヤ書五十三章において第二イザヤが描く「苦難の僕」は、ゼルバベルのことを指していたと推測する説もある。

 

新改訳2017 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』

関根訳 「力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」

岩波訳 「『武力によらず、権力によらず、わが霊によってである。』〔という意味だ。〕」

フランシスコ会訳 『武力によらず、権力によらず、むしろわたしの霊による』

バルバロ訳「それは権勢ではなく、力ではなく、私の霊によるものである」

 

⇒ ゼルバベル(ハガイ書では神の印章となった人物)は、人の世の力によってではなく、神の霊の力によって立つということと、そのことが金の燭台やオリーブの木の意味だと告げられる。

 

⇒ この世を良く変えたいと考えたとき、人はしばしば権力や武力などのこの世の力を持ちたいと考える。また、権力や武力を持たない場合、何もできないと無力感に陥る場合もある。しかし、ゼカリヤ書では、本当に世の中を変えるのは、神の霊の力であることが告げられている。

 

⇒ 本当に世の中を変えてきたのは、神の霊の力とつながった人物。ゼルバベルはイエスの予表。人は権力ある地位にいるかどうかに意義があるのではなく、神の言葉を受け入れ、神の霊と結びついている時、金の燭台(世の光)となり、その燭台に油を与え続けるオリーブの木の枝となりうる。

 

⇒ 神の霊という油が供給され続ける時、人は「世の光」(マタイ5:14)となる。

 

◇ 4:7 山がゼルバベルの前で平地となり、ゼルバベルは「恵みあれ」と叫びながら、「頭石」を運び出してくる。

 

⇒ 「頭石」=「親石」(詩編118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」)、エフェソ2:20等。キリストのこと。メシアのこと。

 

⇒ 大きな時代の困難や課題も、神のしるしとされ神の霊の力によって立つ人の前では平定されていき、乗り越えていくことができる。それらの人々は「恵みあれ」と神を讃え、キリストの時代・メシアの到来へと至る歴史を歩む。

 

⇒ キリストの初臨以前の時代のゼカリヤにとっては初臨へと至る歴史をつくることであり、初臨と復活以後の時代の私たちにとっては、神の国の到来と再臨を待つ歴史の歩みを歩むこと。

◇ 4:8  ゼカリヤに告げられる主の言葉

 

 4:6-7の言葉はみ使い「彼」の言葉だった。4:8では、4:9-10は「主」の言葉だと告げられる。4:9では、「私」(主)を「万軍の主」が遣わされたと「あなた」(ゼカリヤ)は知るようになる、と記される。したがって4:6の「彼」つまり「み使い」は「主」だということになる(そうでないと主が主を遣わしたという意味のわからない一文になる)。ゼカリヤ一章以来登場した、ゼカリヤに御言葉を伝え、神と人との間をとりなし、ヨシュアを弁護し、ゼルバベルの意味を伝える「み使い」は(受肉前の)主イエス・キリストのこと。

 

◇ 4:9-10 ささいな日には大きな意味がある。

 

・ゼルバベルが神の家・神殿の基礎を据え、「その手」つまり神の手がそれを完成させていくこと。その歴史を通じて、ゼカリヤ(4:8の「私」)は4:9の「私」つまり「み使い」を「万軍の主」(父なる神)が遣わした「主」であると知るようになる。

⇒ ゼルバベルとヨシュアによる神殿の再建とイスラエルの復興は、長い歴史の目で見れば、数百年のちのイエスの到来を準備することであり、神が人として受肉して救いを現す歴史につながった。ゼカリヤはまだ遠い時代においてその未来を不思議なビジョンのうちに見た。

 

「誰がその日をささいなこととして蔑んだのか」

 

⇒ 私たちは、とかく日ごろの日々をささいなつまらない日常と思ったり、たいしたことのない日々だと思いがちである。しかし、神の霊と結びついた人々にとっての日々は、かけがえのない貴重な神の計画の一部であり、すべてのことに意味がある日々となる。神の国が来るための一歩一歩となる。その中で、人々は「喜び」生きていくことができる。 ⇒ゼルバベルとヨシュアたちの神殿再建やイスラエル復興の努力には大きな意味があった。

 

⇒ ゼルバベルが持っている「下げ振りの石」には七つの神の目がある。前回ゼカリヤ3:9で見たように、七つの目は七つの霊(イザヤ11:2、黙示録1:4-5)つまり神の霊、聖霊を意味しており、神がいつも神の霊と結びついた人々を見守っていること、および神の霊・神への信仰と結びついたゼルバベルのような指導者を得る時に、人々の「ささいな」日々もまた「喜び」ある日々になることを示していると思われる。「下げ振りの石」は測量に使う価値基準。

Ⅳ、二本のオリーブの木と枝(4:11~14) 

 

◇ 4:11-13 ともしびに油(神の霊)をそそいでいる、二本のオリーブの木と枝の意味をみ使い(キリスト)に尋ねる。(意味がわからない時は再度尋ねる。)

 

・金色は、主の幕屋の祭具に使われたように、神の栄光を現す色。「金色の油」は、原文では「金」。神の栄光、神の霊がオリーブの木を通じてともしびにそそがれている。

 

◇ 4:14 主の側に立つ油注がれた二人の人 =オリーブの木・枝

 

⇒ ゼルバベルとヨシュアのことか?

政治と宗教、政治的指導者と精神的指導者、聖と俗。

エスはこの二つを統合し、王にして大祭司であり、両面を備えた。

 

⇒ 政治と宗教、世俗と精神の両方の側面に優れた指導者がいる時に、しばしば世界の歴史は大きく変わることもある(ex.ケネディキング牧師)。

 

⇒ 権力や武力によらず、神の霊としっかりと結びついた、ゼカリヤとヨシュアのような政治的指導者と精神的指導者の両方を通じて、この世には神の霊・神の精神がそそがれ、この世のともしびがともされる。

 

「油そそがれた人たち」は、原文では「新しいオリーブ油の子ら」。

彼ら自身も、神の霊によって「新しい」人になるのであり、それ自体に力があるわけではない。人は神の霊と結びついた時に、人に神の霊を伝えるものとなりうるし、また神の霊はそのような人の働きを通じて伝わる。

 

※ なお、黙示録11:4には、「二人の証人」が「二本のオリーブの木」「二つの燭台」と記される。これは終末の日に、二人の預言者が現れることの預言であり、ゼカリヤのこの箇所も、その預言とも読める。

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書四章(第五の幻)から考えたこと

・ゼカリヤ書第四章に記される「第五の幻」には、先の第三章の「第四の幻」でメシアによる罪の赦しの福音が告げられたのちに、人々が霊的な眠りに陥らぬように示されている。信仰は単なる知識や信仰箇条の承認や儀式ではなく、常に神の油、つまり神の霊・神の御言葉がそそがれ続ける必要がある。たえざる神の御言葉との対話の中に、神とたえず結びつく時に、人は世の光となる。

 

・聖書の言葉と常に接していると、人は信じられない力を発揮する場合がある。

 

例:最近見た映画『ハクソー・リッジ』(2016年) 

デズモンド・ドス(1919-2006)を描いた作品。ドスは、良心的兵役拒否者だが、第二次世界大戦において衛生兵を志願。銃の訓練や所持を拒否するため、軍隊内で過酷ないじめに遭うが、除隊を拒否し、軍法会議にかけられるも勝訴して衛生兵となる。沖縄戦の過酷な戦場に行き、命がけで負傷兵の救護・救援を続け、75名以上の人命を救助し、良心的兵役拒否者としては初の名誉勲章を受ける。日本兵を救護したこともあったという。瀕死の重傷を負った時も肌身離さず聖書を所持した。

 

・「イエスの愛とは何なのか?」常に問い続けること。

最近見たドラマ『MAGI-天正遣欧少年使節-』(2019年)

 四人の少年は、イエスの愛とは何か、また宣教師たちの人種差別や黒人奴隷制や異端審問などに疑問を持ち、ローマ教皇グレゴリウス13世に問う。教皇は、イエスの愛とは何なのか問い続けることの大切さと、おそらくイエス自身も最後まで神の愛を問い続けたこと、問いや対話をやめず、対話し続けることが祈りであると述べる。

⇒ 硬直した教義や知識に安住せず、常に問いを持ち、神の言葉に触れ、神からの問いかけと神への問いとを続ける。

 

・油の絶えないともしびであること、さらには、オリーブの木そのものといかなくても、その枝ぐらいになりたい(そのためには聖書研究・無教会主義)。

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数