『ハバクク書(下) ―  神による喜びと讃美 』 

 

ハバクク書(下) ―  神による喜びと讃美 』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ハバククの詩 ① 導入・嘆願

Ⅲ、ハバククの詩 ② 神の顕現

Ⅳ、ハバククの詩 ③ 結論 

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

     

前回のあらすじ ハバクク書の第一章と第二章:

ハバクク書は、紀元前600年頃、アッシリアが滅亡し、新バビロニア王国が急速に台頭する時代を背景としている。第一章・第二章では、ハバククの神に対する問いかけと、神の答えが記されている。その主題は、神議論(神はなぜ悪を放置するのか?)である。

ハバククは、南ユダ王国国内、あるいはアッシリアの悪を見て、なぜ悪が放置されているのかと神に問う。すると、神はそれらの罪の審判として、バビロンを興すと答える。ハバククは、バビロンの暴虐を目の当たりにし、どうしてこのような悪を神が道具として用いるのかと問う。神は、その問いに対し、終りの時が必ず来ること、悪に対しては裁きがあること、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)ことを答える。

ハバクク書は、神義論の問題に対して、長い時間をかけて歴史を通して神の意志が必ず実現するという「信実」(エメット)を伝えることで答えている。神の「信実」に基づく「信仰」を持つ時に、人は本当に生きるということが、ハバクク書では述べられている。

人は、信仰により、永遠のいのちを無償でいただき、かつこの宇宙には神の御経綸があり、世界や宇宙は終りの日の完成に向かっていくものであり、その中で自分の存在にも何かしらの創造された意味と目的があると知る時、虚無主義や刹那主義を乗り越え、本当に充実した意味のある人生を生きることができる。そのためには、神の御前に沈黙し、静かにささやく神の声に耳を傾け、神と対話すること(祈り)が大事であり、率直な問いかけとその中での神との対話の深まりの中に信仰の深まりもありうる。

 

前回と今回の内容のつながり

ハバクク書の第三章は、第一章・第二章と大きく形式や内容が異なり、ハバククの神に対する讃美が詩の形式で書かれている。

第一章・第二章とどのような関係があるのかは諸説あり、まったく別個に成立したテキストがハバククの手によるものとして特に前後の脈絡もなくハバクク書に入れられたという説も成り立つ。しかし、第一部(第一章・第二章)の中での神との神義論をめぐる対話を経て獲得した信仰による喜びと神への讃美を歌ったものと考えれば、第一部の内容を前提としてはじめて第二部(第三章)の讃美は成り立つと考えられる。

 

※ 「ハバクク書の構成」

第一部 ハバククの疑問と神の答え 第一章~第二章(1:1~2:20)  前回

第二部 ハバククの詩 第三章(3:1~3:19)  今回

 

・第二部(第三章)の構成 

① 導入・嘆願 3:1~2

② 神の顕現  3:3~15

③ 結論  3:16~19

 

Ⅱ、ハバククの詩 ① 導入・嘆願 (3:1~3:2)

 

◇ 3:1 題辞

シグヨノトの調べ:音楽の旋律あるいはリズムのことらしい。詩編第7編にも言及されている(「シガヨン」)。

岩波訳脚注(210頁)によれば、「語源的にヘブライ語のシャーガー(「迷い出る、さまよう、夢中になる」)から転調の激しい挽歌のような調べを想定する場合もあり、またアッカド語シグーから、哀歌の調べだと説明する試みもある。」とあるが、正確なところは不明。

バルバロ訳では「悲しみの歌の調べ」と訳されている。

 

◇ 3:2  神への嘆願

・新共同訳「御業に畏れを抱きます。」(マソラ本文) :

・岩波訳脚注「業を見ました」(七十人訳

 

・新共同訳「数年のうちにも」 : 口語訳「この年のうちに」。

⇒ ハバクク書第二章までの内容を踏まえて、長い年月をかけて神が必ず悪に対して審判を行い、良い方向に歴史を導くと信じているとしても、それをできる限り早く、自分たちが生きている間に見たいという願い・祈り。

 

※ この箇所では、ハバククが神に対して、近い将来に歴史に対する審判としての神の御業を示して欲しいという嘆願と、怒りの中にあっても哀れみを忘れずにいて欲しいという祈りがなされている。

 

文語訳 3:1-2シギヨノテに合せて歌える預言者ハバククの祈り。/エホバよ、われ、汝の宣(のたも)うところを聞きて懼(おそ)る。/エホバよ、このもろもろの年のあいだに汝の運動(わざ)を活発(いきはたら)かせたまえ。/このもろもろの年のあいだにこれを顕現(あらわ)したまえ。/怒る時にも憐れみを忘れたまわざれ。」

 

Ⅲ、ハバククの詩 ② 神の顕現 (3:3~15)

 

◇ 3:3  テマン:エドムの中の地域名。

パランエドムの地域の中にある山の名前。

 

※ なぜエドムの中の地名が出るのか?

 

① 申命記33:2「主はシナイより来り/セイルから人々の上に輝き昇り/パランの山から顕現される。主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある。」

  士師記5:4「主よ、あなたがセイルを出で立ち/エドムの野から進み行かれるとき/地は震え/天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた。」

⇒ 出エジプトの時に、この地域を通って主に導かれてきた歴史的な経緯の想起。神の御力と御業を思い起こすため。

 

② ケニ人説。ヤハウェ一神教は、エテロ(モーセの舅)をはじめとしたケニ人(ミデアン人の一部)からもともと伝わったという学説。ハバクク書のこの箇所は、もともとヤハウェ一神教イスラエルよりも南のエドムやミデアンの地域から伝わったことを示唆すると考える。

 

⇒ おそらくは①説が妥当か?

 

文語訳3:3~4「神、テマンより来たり、聖者(きよきもの)パラン山より臨みたもう。その栄光、諸天を蔽い、その讃美、世界に徧(あまね)し。その朗耀(かがやき)は日のごとく、光線その手より出づ。彼処(かしこ)はその権能(ちから)の隠るるところなり。」

 

◇ 3:5 病気も神に従うこと: c.f. 十災。あるいは、逆にキリストが多くの人を癒したこと。

⇒ しばしば、病は、人を神に導く先触れとなる。 (本人、あるいは家族の)

 

◇ 3:6 自然も悠久のように見えるが、神の被造物であり、しょせんは無常なもので、本当に永遠なものは神の道のみ、ということ。

ただし、関根訳のみ若干解釈が異なる。

 

関根訳3:6-7「…永遠の軌道も彼によって壊される。」

⇒ この解釈だと、神のみ自由に自然法則に介入して奇跡を起こしたり、人間の決まりきったパターンをくつがえすことができる、という意味になる。

 

◇ 3:7 クシャン=クシュに属するもの。 クシュはエチオピヤ(聖書の指す範囲はエジプト南部から東アフリカ一帯)を指すが、まれにベニヤミン人のことを指すらしい用例もある(詩編第7編)。あるいは、ここでは、ミデアンと関係のある南アラビアの地方あるいは部族を指していると考えられる。

 

※ この箇所は何を述べているのか?

① ミデアンやクシュの人々が神の審判を受けること

② ミデアンやクシュの人々が、バビロンの攻撃を受けて動揺すること。

⇒ おそらく②と考えられる。まず南ユダ王国の周辺の弱小地域や部族がバビロンの攻撃を受けその支配に組み込まれる様子を描いている。

 

 

◇ 3:9 新共同訳「言葉の矢で誓いを果たされる」:  難解な箇所

 

フランシスコ会訳脚注「み言葉と七つの矢」(「誓い」を同じ語源の「七」と読む)

⇒ この訳だと、み言葉と七つの聖霊(イザヤ11:2-3)という意味になり、メシアがみ言葉と七つの聖霊によって人々を救うという意味に受け取れる。

 

・岩波訳「(その)言葉が矢による誓いとなる。」

⇒ サムエル上20:42 ヨナタンが矢によってダビデの命を救う誓い

⇒ この意味だと、御言葉によって人の命を救う、という誓いの意味になる。

 

⇒ 聖霊による御言葉、あるいは人の命を救う御言葉の譬えとして、「矢」という言葉がここでは用いられていると読むべきか。

 

 

◇ 3:11 新共同訳「日と月はその高殿にとどまる。」 :これも難解

 

フランシスコ会訳3:11「日と月とはその住処(すみか)のうちに留まり、/あなたの矢の光と槍の煌めきに従って、/それらは動く。」

 

「日と月とはその住処(すみか)のうちに留まり」

⇒ フランシスコ会訳脚注:「日」を前節の最後と合せて読み、「日は昇るのを忘れる」と読みかえる説もある、と指摘。おそらく日食や、厚い雲が覆っていることを述べていると推測。

⇒ 日がささなくなったこと・日食あるいは暗雲の状況とすれば、キリストの磔刑の時の空の様子?

⇒ 太陽と月を、キリストとその光を受けて生きる使徒や弟子と考えれば、十字架の死と、その後に復活し、御言葉によって弟子たちも生き始めた様子?

 

◇ 3:13 油注がれた者を救うために神が動く。

⇒ メシアの復活と審判。あるいは、油注がれた者を、メシアではなく、イスラエルの民、あるいは神の民と解釈すると、それらの人々を救うために、キリストが悪や罪を根源から粉砕する様子のことか。

◇ 3:14 新共同訳「あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き」

関根訳 3:14「あなたは彼ら自身の矢をもって/荒れ狂うその従者たちの頭を貫く」

⇒ 関根訳だと、自らの行いの報いが審判されるという意味になる。

 

②を通して

※ ひとつの解釈としては、3:8~12(怒りをもって国々を踏みつける)については、バビロンを道具として神の怒りが示され、バビロンの急速な勃興と支配が行われることを述べ、それに対して、3:13~15では、バビロンに対する神の怒りの審判のビジョンが示されていると読むことも可能か。

※ ただし、正確な意味は特定できず、壮大なビジョンの中で、神の圧倒的な力が示されているということと、それが「み言葉の矢」、つまり神の言葉によって遂行されることが述べられている。

 

Ⅳ、ハバククの詩 ③ 結論  (3:16~19)

 

◇ 3:16 「それ」とは何か?

 

 「それ」が指すものは、一見、この第三章の詩のそれまでの部分のように見える。しかし、そうすると、ハバククのこの箇所での苦悩や苦悶の理由がよくわからない。「それ」は、ハバクク書の1:5~1:11において示された預言、つまりバビロンの急速な勃興の預言のことと考えると、意味内容としては理解しやすい。

なお関根訳では3:16後半は「わたしは苦しみの日、われらを襲う/一つの民が起こる日のためにうめく。」となっており、このようにバビロンの台頭の預言と解釈すれば、ハバククの3:16前半での苦悩と苦悶の意味がわかりやすい。

あるいは、ハバククには、バビロンの台頭と、それによる南ユダ王国の滅亡およびバビロン捕囚までの両方が啓示されており、「それ」はその両方だと考えると3:16での苦悩は理解できる。(3:8~12と3:13~15の上記解釈参照)。

 つまり、直近のバビロン捕囚の預言にハバククは苦悩すると同時に、バビロンへの審判と捕囚からの解放も示されているとすると、そのことを「静かに待つ」と述べていることの意味がわかる。

 南ユダの滅亡と捕囚、およびその後の解放も同時に啓示され、すべては神の計画として避けられないことをハバククは知り、このように呻き、かつ「静かに待つ」と述べたと考えられる。

◇ 3:17  全く何も実をつけず、生計の糧もない、絶望的な状況。

⇒ 人生における苦境。何をやってもうまくいかない時期。貧乏や窮乏の時期。

あるいは、いちじく=律法、ぶどう=福音、オリーブ=黙示録(未来の預言)の象徴と考え、そのどれも無力なように感じられる打ちひしがれた様子。

 

◇ 3:18 新共同訳「踊る」:原語は、「よろこぶ」のヘブライ語のもう一つの言葉。

 

◇ 3:19  新共同訳「高台」:口語訳「高い所」 NIV“heights”(高み)

 

偶像に対する崇拝が行われていた「高台」と解するよりも、「高いところ」と一般的に解した方が、信仰の喜びによって、くじけずに、いかなる場合も高い精神性を持って歩み、気高い生涯を生きることができるという意味に受けとることができる。

⇒ 絶望的な状況にあっても、無条件の喜びが信仰によって存在することが述べられている。

 

ハバクク3:18-19 諸訳対照

 

・関根訳3:18-19「わたしはヤハウェにあって喜び/わが救いの神にあって楽しもう。/主ヤハウェはわが力、/彼はわが足を雌鹿のようにされ、/わたしをして地の高みを歩ませ給う。」

 

・口語訳3:18-19「しかし、私は主によって楽しみ、わが救(すくい)の神によって喜ぶ。/主なる神はわたしの力であって、/わたしの足を雌じかの足のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」

 

・岩波訳3:18―19「しかし、私はヤハウェによって喜び、/わが救いの神に、私は喜び踊ろう。/わが主(なる)ヤハウェはわが力、わが足を雌鹿のようにし、私に高き所を歩ませて下さる。」

 

フランシスコ会訳3:18-19「しかし、わたしは主にあって喜び、/わたしの救いの神にあって歓喜しよう。わたしの主なる神はわたしの力。/わたしの足を雌鹿のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」

 

・バルバロ訳3:18-19「しかし、私は主において楽しみ、/私の救い主、神において喜ぶ。/神である主は私の力。/主は、私の足を雌じかの足のようにし、/頂を歩ませられる。」

 

・文語訳3:18―19「さりながら、われはエホバによりて楽しみ、わが救いの神によりて喜ばん。/主・エホバは、わが力にして、わが足を鹿のごとくならしめ、われをしてわが高きところを歩ましめたもう。」

 

※ どの訳も一長一短あり、それぞれに素晴らしいが、ハバクク第三章の訳について言えば、冒頭の箇所と末尾は、特に文語訳が素晴らしい?

 

讃美の喜び

ハバククのこの詩は、指揮者によって伴奏付きで歌われた(3:19)。

ユダ王国の末期、バビロンに圧迫され、最終的にはエルサレムが陥落させられ、バビロン捕囚の憂き目にあったユダヤの民にとって、このハバククの詩はことのほか愛唱され、語りつがれ、歌い継がれてきたと考えられる。

 

最初に嘆願によって始まったハバククの詩は、末尾の結論としては、現状をあるがままにすべて感謝し喜ぶことによって結ばれている。

その喜びの背景には、いつかは必ず神によって審判や救いの時が来るという希望があるということもあるかもしれない。

しかし、この箇所は、いかなる状況でも神と共に生き、神との交わりの中で生きること自体が喜びであり、この信仰の喜びは無条件にどのような状況でも与えられるということを述べており、将来というよりも現在の喜びを述べていると考えられる。いかなる状況にあっても、意気阻喪して低みを生きる人生ではなく、信仰を持ち神とともに生きるがゆえに、雌鹿のように元気に生きて高みを歩いていけるということが、確信をもってここには述べられている。

 

※参照 Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。/絶えず祈りなさい。/どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

Ⅴ、おわりに  

 

※ ハバクク書第三章から考えたこと 

 

1、讃美について

他宗教と比べた時に、キリスト教の大きな特徴は、讃美にあると思われる。たとえば、神道の神社においては、御祓いや祈願が多く、神を讃えることがそれほど多く行われているとは思われない。また仏教の寺院も、一般的に、修行や儀礼が多く行われる場ではあっても、それほど讃美が多いとは思われない。例外として浄土真宗では讃嘆門が一応重視されており、他の仏教に比べれば讃美が多いと言えるが、それでもキリスト教における讃美歌ほど多くの歌曲が歴史的に存在してきたわけではない。修行や祈願や儀礼が多くの宗教において主要形態であるのに対し、キリスト教の場合、すでに救われた喜びによる讃美が大きな比重を占めてきたことは注目に値する特徴と思われる。

讃美はイエスパウロ以降の新約聖書において顕著な特徴ではあるが、旧約聖書においても出エジプト記(15:1)をはじめとし、士師記詩編エズラ、ネヘミヤ、イザヤ、そしてハバククなど、神への賛美は至るところに存在し、聖書を一貫している特徴と言える。

 

2、何を讃美するのか?

 現実的に何か良いことがあった場合(ex.病気平癒や商売繁盛など)に、神を讃美することは、比較的たやすいことであり、諸宗教においてもしばしばありえることと考えられる。しかし、ハバクク書第三章において述べられるのは、絶望的な状況においても、なお神によって喜び神を讃美することである。いかなる状況でも、現実をあるがままに受けいれて神に感謝し、神を讃美する時に、神の力は思わぬ働きをなしとげるのではないか。

(※参照:マーリン・キャロザース著『讃美の力』生ける水の川、1975年)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『矢内原忠雄全集第14巻』、岩波書店、1964年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数