雅歌 資料(2)

『雅歌② 百合の花とりんごの木』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、百合の花、りんごの木

Ⅲ、愛の働きかけと愛による合一

Ⅳ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに 雅歌の背景・解釈について   

          

      

(左:クリムト「りんごの木」 中央:ミュシャ「フラワー」 右:木槿ムクゲ)の花(英語ではムクゲを「シャロンのばら」と呼ぶ。)

 

前回のまとめ:雅歌は、旧約聖書に含まれる文書の一つ。おそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニアの会議で聖書正典に含まれることが決定した。

雅歌は、一見すると世俗的恋愛詩のように読めるが、その解釈には大きく分けると、①寓喩的・象徴的解釈、②戯曲説、③世俗的恋愛の詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説の四つがある。本講話では①の立場に立ち、、知恵文学として解釈する説(小友聡『謎解きの知恵文学 旧約聖書・「雅歌」に学ぶ』(ヨベル新書、2021年))を採り、ニュッサのグレゴリオスやウォッチマン・ニーを参考にしながら解釈する。その観点から、前回は第一章を読み、アガペーとエロスが融合した形で神と人との愛が象徴的に歌われていることを見た。

 

・ 雅歌2章の構成 

 

雅歌二章では、おとめと若者の愛の歌の応答が一章の内容を受けて続いている。小さな部分から成っており、内容上必ずしも二つに截然と分かれるわけではないが、便宜的に二つの部分に分けて見てみたい。

 

1、百合の花、りんごの木  (2:1~2:7)

2、愛の働きかけと愛による合一 (2:8~2:17) 

 

第二章の前半は、若者がおとめをあざみの中の百合だと述べ、一方、おとめは若者を木々に囲まれたりんごの木だと述べる。これは、相互に特別の存在だと相手を認識することを意味する。また、そのような愛の関係において、「愛が旗印」であることが告げられる。また、そのような愛は決して強制されるものでなく、自発的な愛であるべきことが述べられる。

第二章の後半では、若者が野を越えてやって来て、窓から声をかけ、冬が去り春が来たこと、邪魔をするジャッカルをつかまえること、若者はおとめのものであり、おとめは若者のものであること、日の暮れぬ前に若者に戻って来て欲しいことが告げられる。

 

 

Ⅱ、百合の花、りんごの木(2:1~2:7) (旧約1036-7頁)

 

◇ 2:1 岩波訳(勝村弘也訳)「私は、シャロンの百合、低地の睡蓮」

 

※ 協会共同訳で「ばら」と訳される「ハバッツェレト」は、他の訳では百合、水仙サフラン、アイリスとも訳される。同じく「百合」と訳される「ショシャナー」はアネモネとも訳されるが、岩波訳では「蓮」「睡蓮」と解釈している。

 

※ 英語では「シャロンのばら」は木槿(むくげ)を意味する。シャロンはカイサリアとヤッファの間にある海岸平野。荒れ地の多いイスラエルでは最も緑豊かな農業地帯(巻末地図⑨参照)。

 

 第一章の内容を受けて、おとめは自ら「シャロンのばら、谷間の百合」と言う。これを、当時のパレスチナでは野ばらやむくげや百合はありふれた花で、謙遜の意味だと受けとめる解釈もある。だが、一章において若者が「あなたは美しい」とおとめを褒めて愛していることを受けていることを考えれば、ありふれた野の花の一つかもしれないが、美しい野の花である、という適度な自尊心や自己尊重の意味も含まれていると思われる。神の愛に触れた時に、人は自分の尊厳に目覚める。

 

◇ 2:2 あざみの茂みに咲く百合のよう

 

あざみ:他の訳では「いばら」としているものもある(さまざまな英訳)。

 

※ ウォッチマン・ニーは、いばら・あざみは、堕罪した人間の状態を指すと解釈し、根拠として創世記3:18を挙げている。

・創世記3:18「土があなたのために生えさせるのは/茨とあざみである。/あなたはその野の草を食べる。」

 

※ 若者(神、キリスト)は、おとめ(神を愛する者)を、いばらやあざみの中の百合だと見てくださる。原罪により神から離れてしまった人間が、十字架の贖いによって再び神といのちが通い合うようになり、義とされ、美しい白い純潔の花を咲かす存在と見てくださっている。

 

 2:3 木々に囲まれたりんご

 

 おとめは、若者を「木々に囲まれたりんご」と言う。これは、他の実のならぬ木々と異なり、イエスをいのちの実のなる木として格別に愛することと解釈される。

 「りんご」と訳された「タプアー」は、シトロン、みかん、柘榴とも解釈される。

 

※ 創世記二~三章のエデンの園にある善悪の知識の木といのちの木は、伝統的に図像ではりんごの木に描かれることが多い。

 

※ 聖書において雅歌以外で「りんご」(タプアー)が言及されるのは、以下の二つの箇所である。

 

ヨエル1:12「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木は朽ち果てた。/ざくろも、なつめやしも、りんごも/野の木はすべて枯れ/人の子らから喜びは涸れてしまった。」

 

箴言25:11「銀細工に付けられた金のりんごは/時宜に適って語られる言葉。」

 

⇒ これらを踏まえれば、りんごの実は「喜び」を表し、また「言葉」を表す。解釈するならば、いのちの喜びといのちの言葉をりんごの木とその実は現わしており、それらがキリストにあることを知り、愛し、他の実のならぬ木々には目もくれないことを、雅歌の2章3節のこの箇所は指していると解釈できる。

 

 2:4  旗印は愛

 

・「ぶどう酒の館」:ヨハネ2章のカナの婚礼。新約では、キリストはぶどうの木であり、ぶどう酒は聖霊や神とのいのちの通い合い、喜びを意味する。そこに神は招き、いざなってくださる。

 

・「旗印は愛」:軍旗はその部隊の象徴。キリスト者にとっては「愛」こそが旗印であり、人生の目的であり目印である。イエスは人生において一番大切なことは、神を愛し隣人を愛することだと述べた(マルコ12:29-31)。内村鑑三をはじめとした多くのキリスト者が、非戦と愛をもってその生涯を貫いた。愛から離れた者はもはやこの旗印から離れた者であり、キリスト者ではないと言える。愛は決して滅びず(Ⅰコリ13:8)、ゆえに愛の旗のもとにある者は必ず負けることなく勝利する。

 

 2:5  愛は元気づける

 

干しぶどうの菓子、りんご:イエスはぶどうの木(ヨハネ15:1)であり、また雅歌では「りんごの木」である。その言葉や愛は、わたしたちを元気づけ、よみがえらせる。

 

愛に病む:恋はしばしば「恋の病」とも称され、病気にもたとえられてきた。神の愛を求める過程においては、人はしばしば理想どおりにいかず、もどかしい思いや人生の試練の中で苦しむことがあるが、聖書の言葉という「干しぶどうの菓子・りんごの実」を通して、そのつど神は私たちの悩みや苦しみを癒し、慰め、勇気や力をくださる。

 

 2:6  神は私たちをしっかりと支え、抱いてくださる

 

申命記32:10「主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ/彼を抱き、いたわり/ご自分の瞳のように守られた。」

 

イザヤ40:11「主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く。」

 

イザヤ46:3-4「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」

 

 2:7  神は愛を強制せず、自由意志に委ねる

 

※ 風変わりな誓いの言葉は、以下の語呂合わせの言葉遊びではないかという説もある。(岩波訳脚注参照)。

ガゼル(雌羚羊)=ツェバオート、万軍の主の「万軍」=ツェバオート

野の雌鹿=アイロト・ハッサデー、「全能の神」=エル・シャッダイ

 

 ものものしい重い内容とは異なる、軽やかな恋人と同士の言葉遊びの愛のささやきのようなものか。あるいは、「曙の雌鹿」(詩編22:1)という復活の活力の象徴か。

 

※ 「愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさない」

 

⇒ キリストは、自分への愛や信仰を決して強制せず、あくまで説得や勧告を通じた、その人自身の自発的な愛や決断に委ねる(福音書全編を通じて)。

 

⇒ 各自の人生においても、イエスは決して強制せず、その人自身の自由意志を尊重し、辛抱強く神への愛をその人自身が気づき自発的に起こすことを待つ。

 

⇒ 雅歌の一章や二章前半に描かれる神と人との愛は、決して強制に基づくものではなく、このようなおおらかな相手の自由意志を尊重した神の愛に基づくものであること。

 

 

Ⅲ、愛の働きかけと愛による合一 (2:8~2:17) (旧約1037頁)

 2:8~9

・野山を越え、ガゼルや牡鹿のように来る:活力に満ちていることのたとえ。復活のキリストがいのちの活力に満ちていること。

 

・家の外に立ち、窓からのぞき、語りかける:キリストはその人の自由意志を尊重して決して愛を強制しないが、常に働きかけ、呼びかける。

 

ヨハネの黙示録3:20「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」

 

(文集『野の花 2015年』「心の戸口に立って戸をたたく神」 http://pistis.jp/textbox/no/no-2015-a.html#%E3%80%8C%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%B8%E5%8F%A3%E3%81%AB%E7%AB%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%88%B8%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8F%E7%A5%9E%E3%80%8D  )

 

 

 2:10~14  冬は去り、春は来ている

参照・BSスペシャル 「世界で一番の春 イスラエル 花の聖地の奇跡が見たい」(初回放送2000年、時折再放送あり)

 

・冬は人生の試練の時とも考えられる。また、神から離れ、いのちが枯渇していた時とも解釈できる。

・冬のあとには、必ずいのちに溢れた春が来る。すでにキリストの受難や使徒たちの受難や苦難の時代を経て、福音の春はやって来ている。私たちは、何らのことさらな修行は必要はなく、ただキリストの十字架の贖いを信じるだけで罪が赦され、永遠のいのちを得、神との愛の交わりに入ることができる。

 

いちじく、ぶどう新約聖書においては、それぞれ律法と福音を象徴。神から離れ、愛の旗印のもとにいない人は、実のならぬいちじくとなるが、キリストの招きに応じ神を愛し隣人を愛する者は、いちじく(=律法、旧約聖書の御言葉)によっても、ぶどう(=福音、新約聖書の御言葉)によっても、神といのちを通わせ永遠のいのちの実を結ぶ人生を歩むことができる。

 

「立ち上がって来なさい」:神は私たちがいかなる苦難や絶望を感じていても、再び立ち上がる力を与え、気力を与え、立ち上がらせてくださる(福音書における多くの人を立ち上がらせた記事)。「復活」を意味するギリシャ語Ἀνάστασις(アナスタシス)は、もともとは「立ち上がる」ことを意味する。死から再び立ち上がったキリストのいのちを受ける時、人は再び立ち上がり、歩んでいくいのちの力を得ることができる。

 

岩:Ⅰコリント10:4「皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」

 

⇒ 聖書においては、岩はいのちの水の源であるキリストを象徴している。

⇒ つまり、岩の裂け目に住む鳩とは、キリストを自分の避けどころとする者のことであり、そのような者を神は愛し、「あなたの声を聞かせてください」と、祈りや讃美の声を聴くことを何よりも願い楽しみとしてくださる。

 

 2:15   

ジャッカル:他の訳では「狐」。ぶどう畑、つまりエクレシアや人の霊魂を荒らす存在。サタンを指すと考えられるが、しばしば巨大な恐ろしい存在として描かれるサタンも、全能の神から見れば、ジャッカルや狐に過ぎない。神の経綸を邪魔するほど強大な力はなく、せいぜい撹乱を行うことができる程度の存在だが、適切な対策を講じる必要はある。

 特に、今日ではインターネットやマスメディアを通じて、人の心を撹乱し、悪しき方向に引っ張る有害な情報やデマが多いので、それらに適切な対策を講じる必要がある。

 

※ あるいは、サタンや外部から人を邪魔するものと受けとめるのではなく、その人の中にある古い習慣や「古い人」(エフェソ4:22、ロマ6:6)を指しており、キリストの福音によって新しい人となった者は、神への愛や隣人への愛を妨げる古い人の残存と闘って克服すべきこととも解釈できる。

 

 2:16 愛による合一

 

神は私のもの、私は神のもの:愛による主客の合一。

 

ヨハネ17:10「私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。」

 

参照:西田幾多郎は「愛は主客合一である」と言っている。「神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。」(西田幾多郎善の研究』第四編五章)

 

「百合の中で群れを飼っている」:草で羊を飼うのではなく、百合によって神は羊を飼う。通常の世俗的な物質的な事柄を糧とするのではなく、神の言葉を糧として神は羊たちを養ってくださる。

 

 2:17 日が息をつき:夕方になるとパレスチナ地域に吹く風のこと。

日が暮れる前に、光あるうちに、キリストに出会うべきこと。キリストの再臨を願うこと。

 

Ⅳ、おわりに 

雅歌二章から考えたこと

ウクライナにおけるロシアの侵略戦争や、一昨年より続くコロナ・ウイルスの蔓延など、今この世界には多くの困難が存在している。しかし、雅歌は冬が去り、必ずいのちの春がやってくること、福音の春はすでに来ていることを告げている。これがどれだけ希望を与え、いのちを与える言葉であることか。

 

・愛は自発的であるべきこと。キリストはその生涯の間も、また復活後の二千年以上の間も、決して強制することなく、辛抱強くその人自身の自由を尊重し、一人一人の心の戸口に立って働き続けている。

 

キリスト者の旗印は愛であること。無教会は内村鑑三以来、特に純粋にその旗を立て、その旗のもとに闘ってきたこと。信仰のみの救い、非戦・非暴力、聖書中心主義といった無教会の愛の旗印のもとにおける闘いは、今後も重要性をますます持つと思われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、ホルマン英訳など。

・大森正樹ほか訳『ニュッサのグレゴリオス 雅歌講話』新世社、1991年

・ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』日本福音書房、1999年