『ゼカリヤ書(6) エファ升の中の女と神殿―人間の罪』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、エファ升の中の女
Ⅲ、二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動
Ⅳ、罪について
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
・前回までのまとめ:
ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。第一章では、神に立ち帰ることの勧めと、キリストのとりなしのビジョンが告げられた。第二章では、悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選ぶビジョンが告げられた。第三章では、神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くことが預言された。第四章では、ゼカリヤが眠りから起こされ、神からたえず油(霊)がそそがれる燭台のビジョンが告げられた。また、二本のオリーブの樹のビジョンが示された。
第五章前半では、飛ぶ巻物のビジョンが告げられ、律法は呪いであることが告げられた。
※ 「ゼカリヤ書の構成」
第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は五章後半
第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章
・第一部(第一~第八章)の構成
神に帰ること (第一章)
第一の幻 ミルトスの林と馬 (第一章)
第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)
第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)
第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章)
第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)
第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)
☆第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) ⇒ ※ 今回
第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)
ヨシュアの戴冠 (第六章)
真実と正義の勧め (第七~八章)
□ 第五章後半(第七の幻)の構成
第一部 エファ升の中の女 (5:5~5:8)
第二部 二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動 (5:9~5:11)
◇ 第五章後半では、第七の幻が示される。まず第一部において、エファ升とその中の女のビジョンが告げられ、それぞれ罪と邪悪を意味していることが示される。
第二部では、二人の翼を持つ女が、エファ升を封印し、シンアルの地にある神殿へエファ升を移動し置くことが告げられる。
Ⅱ、エファ升の中の女 (5:5~5:8)
◇ 5:5 目を上げて、そこに出てくるものが何かを見なさい
※ 天使が、ゼカリヤに、目を上げて、そこに出てくるものが何かを見るように促している。私たちの人生も、今そこに出てくるものをきちんと見るように、気づくか気づかないかにかかわらず、天使から促されている。
◇ 5:6 エファ升
・1エファは約23リットル(本によっては36リットル、19リットルなど諸説あり)。穀物を量る単位。穀物を量る升(英訳ではバスケット)。
※ このエファ升が、罪であると述べられる。
・なぜエファ升が「罪」を表しているのか?
① 「升」は量りの道具であり、量りをごまかして暴利をむさぼる人が当時いたらしい。そのことへの怒り、批判、罪の指摘か?
レビ記19:36a「正しい天秤、正しい重り、正しい升と正しい瓶を用いなさい。」
箴言11:1「主は人を欺く秤をいとい/正確な量り石を喜ばれる。」
アモス8:5「…エファ升を小さくし、…偽りの天秤を使ってごまかし、」
ミカ6:10「まだなお、悪人の家、不正に蓄えた富/容量を減らした呪われたエファ升が/あるというのか」
② 人を量ること自体が罪であるということか? 善悪を人間がみずからの基準で決め、他人を裁くこと自体が罪だと、聖書では指摘する。
マタイ7:1-2「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」
ヨハネ8:1-11 姦淫の女に対して 「私もあなたを罪に定めない」
⇒ ①は旧約聖書の観点においてはよくわかりやすい解釈で、多くの注釈書でそう述べられている。
しかし、新約の光に照らした時、人を量ること自体が罪だという視点が、すでに旧約のゼカリヤ書にも述べられていると②のように見ることもできると思われる。
(※ 5:6「罪」は、ヘブライ語原文では「目」で、新改訳も罪ではなく「目」とこの箇所を訳している。その場合は、「目」は聖書では「魂」を指すので(マタイ6:22-23、ゼカリヤ3:9)、量りをごまかす、あるいは人を量るような魂のあり方を問題にしている箇所となる。)
◇ 5:7-8 エファ升の中の女=邪悪
エファ升の中に封印されている女。それそのものが「邪悪」だと告げられる。
聖書には、しばしば、人を誘惑し罪に陥れる存在が比喩的に「女」として描かれる。
箴言7:6-27 「彼女の家は陰府への道/死への部屋へと下る。」
黙示録17:4-5「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」
そのすぐ後の箇所にこの邪悪な女を封印し運び去る翼を持った天使も女であるとされているので、必ずしも女性一般を邪悪と述べているのではなく、邪悪な女もいれば天使のような女も聖書には出てくるということと思われる。
男性にとって、特に誘惑や無意識の非合理な情動が女性として観念されることがあるので、このような表現をとっているのだとも思われる。
「邪悪」の女が、エファ升の中にいて、鉛の蓋におさめられているというのは、人間の内面の奥底に、無意識に、邪悪なものが存在している、罪が存在しているということの指摘と思われる。
参照:フロイトのリビドーとタナトス、ロジェ・カイヨワ『戦争論』
・万葉集「家にありし 櫃(ひつ)に鍵刺(かぎさ)し 蔵(をさ)めてし 恋の奴(やつこ)の つかみかかりて」(巻一六、三八一六)穂積皇子)
思いもよらぬ誘惑で身を持ち崩した事例は歴史に数多い。
※ エファ升の中の女は、再びみ使い(天使)によって封印された。
Ⅲ、二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動 (5:9~5:11)
◇ 5:9 翼に風をはらんだ二人の女
おそらくは二人の女は天使。「風」は神の聖霊のことと思われる。「こうのとり」は関根訳では「あおさぎ」。
「地と天の間に持ち上げた」⇒ 神の国と地の国の中間ということか。罪を持った人間のこの人生における状態は、神の国にも地獄にもどちらにも行きうる存在。猶予が与えられている。
◇ 5:10 どこに運んで行くのですか?
ゼカリヤは率直に天使に尋ねている。私たちも、物事がどのように運ばれていくのか、天使や神に率直に問いながら生きて良いのだと思われる。
◇ 5:11 シンアルの地に神殿が建てられ、エファ升はそこに置かれる
シンアル:バビロンや南メソポタミアの古い呼び方。バベルの地、バベルの塔を建てたニムロドの支配していた地域。(創世記10:10)
⇒ 今で言えば、「もろこし」や「天竺」や「南蛮」といった語感か。
※ シンアルの地に、エファ升が移動されるということは、何を意味するのか?
① ユダヤの罪がエファ升に封印され、升ごとバビロンの地の神殿に運ばれることで、ユダヤは罪がない状態となり、罪が処分されたということを意味する。
⇒ この解釈だと、この第七の幻は、罪の除去・罪の処分についてのメッセージということになる。多くの解釈がこのような解釈をとっている。
② 「シンアル」を実際のバビロンの地ととらえず、バベルの塔の故事を踏まえた、己の力を頼りとし、神を神とせず、おごりたかぶるあり方を指しているのであれば、この「シンアル」はどこにでもありうる。
⇒ 特に、この時期に建設中だった神殿は、他ならぬエルサレム神殿である。⇒ したがって、この「シンアルの神殿」は、再建中のエルサレム神殿であり、そこに封印された形で人間の罪・邪悪が安置されるという意味になる。
※ ①が多くの解釈であるが、②は、のちの歴史において、まさにこの再建された神殿において、大祭司や律法学者や群衆がイエスを裁き、十字架につけたことを考えれば、そのことを預言したものとも考えられる。
⇒ 神から離れ、己の力を頼り、人を裁く。この人間のどうしようもない「罪」や「邪悪」が、再建される神殿にすら根深く残るということを、この第七の幻は示しているのではないか。
Ⅳ、罪について
◇ 上記で、ゼカリヤの第七の幻を見た。ここで「罪」について考察したい。
※ 罪とは:
ヘブライ語「ハッタース」(的外れ)、「アヴェラー」(神の意志を拒否すること)ギリシャ語「ハマルティア」(的外れ)。
※ 悪とは:ヘブライ語「ラー」 善(幸福や生命をもたらすもの)の反対。苦しみ・死につながるもの。
⇒ ユダヤ教における罪とは、具体的な行為のことであり、律法に具体的に違反した行為を指す。キリスト教における罪は、行為のみならず、神から逃れようとする傾向性そのものを指し、神の恵みや愛に対して自らの自由意志で拒絶することを罪と呼んでいる。
⇒ 人間は、神の愛がわからず、自己を中心とし、神ではなく己を頼りとしようとする傾向がある。それをキリスト教では「原罪」と呼ぶ。この原罪が、的外れな状態を人間に生じさせる。その結果、神のいのちにどこまで辿っていっても辿り着くことができず、努力すればするほどかえって悪が生じる。
(ex. 本来は人間の解放や平等をめざしたはずのマルクス・レーニン主義によるソビエトや東欧での悲惨な歴史。)
□ 私の個人的な体験:なかなか「罪」がわからず。あまり自分が悪いという気がしない。そんなにたいした罪も犯していないという気持ち。
⇒ 塚本虎二の本を以前読んでいた時に(どの文章だったかを忘れ、今回探したけれど見つからず)、神の愛は絶対的でいかなる人をも平等に絶対的に愛する、この神の絶対的愛を持ちえないことが人間における罪だという指摘がなされており、はじめて自分の罪が少しわかった。
※ 神の愛から離れ、神のような愛を持ちえないのが人間。
参照:「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」(ロマ3:9)
人間はどこまでいっても自己中心的な不完全な愛しか持ちえない。また、神の愛から離れ、他人を心から愛することができず、他人の尊厳を無視してしまう。
※ 律法は本来は、人をいのちに導き、罪を防ぐために与えられたものだったはずだが、かえって律法そのものが罪を生み、他人を裁く根拠に使われるようになってしまった(ex.ファリサイ派の人々)。
⇒ そのような律法や神殿までも、他人を裁き、他人を量る道具にしてしまった人類の真っただ中に現れ、十字架と復活によって人類の罪を贖い、愛とは何かを示してくださったのがイエス・キリスト。
⇒ ただイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じるだけで、人は義とされる。神の愛とつながり、神の愛を伝える人生を歩むことができる。
⇒ 神を愛し、人を愛する人生(マルコ12章)。しかし、これは人間の力のみでは不可能であり、神の恵みがあってはじめて可能なこと。
内村鑑三「罪のなき所に救いはない。そして罪の感覚の浅い所には救いの喜びも浅く、罪の感覚の深き所には救いの喜びも深い。深く恩恵の宝泉に汲まんと志す者は、まず鋭利なる解剖刀をもって自己の心を切りさかねばならぬ。されば罪の認知は信仰の礎石としてきわめて重要なものである。」
(『内村鑑三聖書注解全集十六巻 ロマ書の研究(上)』第15講人類の罪(二)、125頁)
Ⅴ、おわりに
ゼカリヤ書五章後半(第七の幻)から考えたこと
・ゼカリヤ第七の幻が、再建される神殿に罪・邪悪が存在し続け、キリストが来る時までは封印されているが、キリストが来た時にそれらが露わになるということを指していることに思い至った時に、深い戦慄を感じずにはいられなかった。聖書はまさに人の書ではなく神の書。
・私たち日本人も、一時的に罪や邪悪が封印されたかのように敗戦後思われた時代もあったが、実は罪や邪悪は消えておらず、再び噴出している時代に生きているのではないか。
(『世紀の遺書』に数多く書き込まれた戦争への痛切な反省や人類愛への希求や戦争の二度とない平和への祈りが忘却されていっていること。参照:アガペ像)。
・どうにもならない人間の罪や邪悪を、キリストが十字架の贖いと復活によって解決し、神のいのちや愛と通い合うようにしてくださったことのありがたさ。
・翼に聖霊を受けた天使が常にいて、神の国と地の国の両方がせめぎあい、天国と地獄のどちらにも行きうる、地上の人生を生きる私たちに、なんらかの手助けをしてくれていること。
・この世を生きる上では人間の心の奥底に罪や邪悪が潜んでいることを謙虚に認識し注意しつつも、もはや罪がキリスト者にとっては恐れるに足らず、安心して神に身をゆだねて生きることができることのありがたさ。
「参考文献」
・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)
・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数