ゼカリヤ書(7) 資料

 

『ゼカリヤ書(7)四両の戦車と北の地の神霊 神の経綸』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、四両の戦車とその意味

Ⅲ、北の地に神の霊がとどまること

Ⅳ、天使について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

   

前回までのまとめ:

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。

今までに見た第一章から第五章の内容:神に立ち帰ることの勧めと、ミルトスの林の中でのキリストのとりなし。悪と戦う神の使いたち。神が再びエルサレムを選ぶこと。神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くこと。神からたえず油(霊)がそそがれる燭台と二本のオリーブの樹。飛ぶ巻物のビジョン、つまり律法は呪いであること。エファ升の中の女(罪と悪)と、それがシンアル(バベル、神殿)の地に安置されること。

これらのビジョンを通じて、人間の罪と悪の根深さと、それにもかかわらず神および天使が働きかけ続けていること。そして、神の霊と結びついた人々のことと、メシア到来における救いが告げられていることを見た。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は六章前半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) 

☆第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章前半)⇒ ※ 今回

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第六章前半(第八の幻)の構成 

第一部 四両の戦車とその意味 (6:1~6:6)

第二部 北の地に神の霊がとどまること (6:7~6:8)

 

 第六章前半では、第八の幻が示される。まず第一部において、四両の戦車とその意味が告げられる。つまり、それらは「天からの風」=神の霊の働きであり、全地に神の経綸が行われることが示される。

第二部では、それらの強い馬たちが出発し、かけめぐることと、中でも北の地に出ていった者が、北の地に留まることが告げられる。

 

Ⅱ、四両の戦車とその意味 (6:1~6:6)

 

◇ 6:1  四両の戦車が青銅の二つの山の間から来る

 

※ すぐのちに5節で見るように、この四両の戦車は、東西南北の四方の風を象徴する(ゼカリヤ6:5)。

 

・二つの山とは何か? → 一応は、エルサレム神殿があるシオンの山(神殿の丘)とその右にあるオリーブ山と、その間のキデロンの谷とも考えられる。(キデロンの谷=ヨシャパテの谷(ヨエル4:2)。ゲッセマネの園もキデロンの谷の中にある)。ただし、具体的な地理に関係なく、象徴的な表現とも考えられる。

 

※ 「青銅」は、聖書においては贖罪や清めを意味する。

例:「青銅の蛇」(民数記21:8-10、ヨハネ3:14-15、キリスト=青銅の蛇(=罪を清めるもの))。

また、幕屋に入るためには青銅の洗盤の水で手足を洗わなければならなかった(出エジプト30:17-21)。

エルサレム神殿に入るためには、外陣の廊の前の二本の青銅の柱の間を通らねばならなかった(列王記上7:15、7:21)

 

⇒ 四両の戦車が、神のもとからやってくることを象徴的に表現している。清らかな神の霊であることを表している。ちなみに、青銅は朝焼け・あけぼのの太陽の色を象徴しているとも考えられる。

 

◇ 6:2-3  赤、黒、白、まだら模様の馬 

   

※ 協会共同訳では「馬」と単数だが、原文の馬は複数形。「馬たち」。

 

岩波訳:「最初の戦車には赤い馬たちが、二番目の戦車には黒い馬たち、三番目の戦車には白い馬たち、4番目の戦車には強いまだらの馬たちがついていた。」

 

新共同訳「最初の戦車には赤毛の馬数頭、二番目の戦車には黒い馬数頭、三番目の戦車には白い馬数頭、四番目の戦車にはまだらの強い馬数頭がつけられていた。」

 

    

⇒ 戦車は通常一両あたり二~四頭の馬が引いていた。この箇所を象徴的にとらえるとしても(つまり馬を神の霊が下りた人とみなす場合も)、単数ではなく複数とみなすべき。

 

⇒ 詩編68:18「幾千、幾万の神の戦車。わが主はそのただ中におられ」 

戦車は、「万軍の主」である神に仕える天使のことを指す場合もある。

 

 

◇ 赤、黒、白、まだら模様のそれぞれの色は何を象徴しているのか?

 

参照箇所:ヨハネ黙示録6:1-8 (白い馬のみ黙示録19:11-14も参照)

 

白い馬=勝利、弓、冠、忠実、真実、正義の裁き。

赤い馬=戦争(平和を奪い取る)、剣。(マタイ10:34ではキリストのこと)

黒い馬=秤。物価高騰と食料の制限とすると飢饉。あるいは価値を正すこと。

青白い馬=死。陰府。

 

※ ヨハネ黙示録では、上記のようにそれぞれの意味が解き明かされている。ただし、ゼカリヤ6章では「青白い馬」ではなく「まだら模様の馬」である。これは同じかもしれないし、別の意味かもしれない。

 

⇒ まだらなので、勝利・戦争・飢饉などの意味が混ざっているという意味であり、複合的な要素を表しているとも受け取れる(「まだら模様」は新改訳では「まだら毛」。関根訳では「ぶちの馬」。口語訳では「まだらのねずみ色の馬」)。

 

※ なお、ゼカリヤ第一章(1:8)では、赤い馬(二頭)と栗毛の馬と白い馬が登場していた。この「栗毛の馬」と「まだら毛の馬」は同じかどうかは不明。同じかもしれないし、むしろ黒い馬を指していたのかもしれない。

 

◇ 6:4   「わが主よ、これらは何ですか」

 

ゼカリヤは、戦車と四つの馬の色がわからず、率直に天使にその意味を尋ねている。私たちも、人生において意味のわからないことは、率直に神・天使に尋ねることが重要。

 

◇ 6:5  天の四方の風

 

新改訳2017:「御使いは答えた。「これらは天の四方の風だ。全地の主の前に立った後に、出ていくことになる。」

 

文語訳:「天の使、こたへて我に言ふ。これは四の天つ風にして、全地の主の前よりまかり出でたる者なり。」

 

※ 四両の戦車は、天の四方の風だと告げられる。つまり、東西南北の方角にそれぞれ吹く風であり、またその風は主のもとから吹く、つまり神の霊、聖霊であることが告げられている。 (原語「ルーアハ」は霊と風の両方の意味。)

 

⇒ 神から天使・聖霊が各地に派遣され、常に働いている。全宇宙は神の御支配、御経綸の中にある。統宰(gubernare)。

 

⇒ 人は、この「四方からの風(霊)」を受ける時に、生き返る。(エゼキエル37:9-10、枯れた骨の谷、四方からの霊(風)で生き返る。)

 

◇ 6:6  それぞれの馬が向かう先

 

黒い馬=北

白い馬=マソラ本文では「その後に」。多くの訳では「西」に修正。

まだらの馬=南

 

※ 「赤い馬」は登場せず。補って、「赤い馬たちは東の地に向かい」としている訳もある(岩波訳)。ただし、ゼカリヤ第一章で赤い馬に乗ったみ使いがすでに登場し、ミルトスの林の中でとりなしをしており、ゼカリヤが対話しているみ使いが主にそのみ使いだと考えれば、ゼカリヤのいる場所にまさに赤い馬(とそれに乗ったみ使い)はいるので、ここで記載されていないとも考えられる。

 

※ 白い馬は、マソラ本文どおり「その後に」と読めば、西ではなく黒い馬のあとを追って北に向かったとも読める。その場合、北には二重に、黒と白の馬(とそれに引かれた戦車)が向かったということになる。(その場合、旧約と新約、あるいは初臨と再臨を象徴的に現すとも読める。)

 

Ⅲ、北の地に神の霊がとどまること (6:7~6:8)

 

◇ 6:7  四方の風が全地を駆けめぐる

岩波訳:「強い〔まだらの〕馬たちが出て来て、今にも飛び出して[全]地を行き巡ろうとしていたが、そこで御使いが言った、/「行け、そして地を行き巡れ」。/こうして四方の風は地を行き巡った。」

 

「行け、地を駆け巡れ」という文章は、複数男性形の命令文。一方、「地を駆け巡った」の動詞は三人称複数女性形。なので、「地を駆け巡った」の主語は、馬たち(複数男性形)ではなく四つの風(女性名詞)。(岩波訳脚注参照)

風(霊)=馬であると考えれば、文章に矛盾はない。

 

※ 「風」と「馬」、「戦車」とは?

 

⇒ 「風」は神から吹く風であり、霊であることは前述(ルーアハは風と霊を意味)。一方、「戦車」は人が乗り、それを「馬」が引く。とすれば、馬は人間を引っ張り導く霊や天使を現しているとも考えられる。あるいは、その逆で、神からの風(神からの霊)が吹き込まれた人間そのものを「馬」や「戦車」と象徴的に現しているのかもしれない(その場合、戦車は天使)。

 

「強い馬」=強い霊、強い聖霊の働き。神と深く結びつき神の御心を行う存在。

 

⇒ ゼカリヤ第二章の第二の幻において、四方から迫る四本の角と戦う四人の鉄工職人、つまり四方から迫る悪と戦う神の僕のビジョンが示されていることは以前見た(本講話の第二回)。

この第八の幻も、神としっかりと結びつき、神の御言葉・神の霊に満たされた人々が、各地で神の御心を行うというメッセージ。

 

◇ 6:8  北の地に神の霊がとどまる

 

新改訳2017:「見よ、北の地へ出て行った馬を。これらは北の地で、わたしの霊を鎮めた。」

 

フランシスコ会訳:「見よ、北の地へ出て行く馬は、北の地でわたしの霊を鎮めてくれる。」

 

バルバロ訳:「北の地に向かう馬を見よ。彼らは、北の地で私の霊をなだめてくれた」

⇒ 協会共同訳や岩波訳は神の霊が北の地に「とどまる」という意味の訳だが、新改訳2017・フランシスコ会・バルバロの訳では、神の霊を北の地で「鎮め」、「なだめる」という意味の訳になっている。

 

・ 北の地に向かったものなので「黒」の馬か?おそらくはそうだと考えられるが、マソラ本文によれば、黒い馬だけでなく、その後に従った白い馬も意味しているのかもしれない。それらが神の霊を北の地にとどめ、神をなだめる。

 

□ 「北」は何を意味するのか?

 

⇒「北」は、聖書では「災い」、さらには「バビロン」を意味している。

 

例:エレミヤ1:13-15 「煮えたぎる鍋」「災い」が「北」から来る

  エレミヤ4:6、6:1 北から災い・破滅

  エレミヤ25:9 北のすべての氏族をバビロンの王のもとに呼び集める

エゼキエル1:4 北から「激しい風」

ゼカリヤ2:9-10 「北」=「バビロン」から逃れよ(2:1には「測り縄」)

 

・「北」も「バビロン」も、地理的な概念というよりは、神から背いている地のこと、またそのような人々のあり方を指していると考えられる。

 

ゆえに、ゼカリヤ6:8のこの箇所においても、神に背いた地において、「黒い馬に引かれた戦車」つまり神の霊を受けて「秤」つまり正しい神の価値基準をもたらす人々が、神の霊をそこにとどまらせ、また神をなだめ、その怒りを鎮めるということを意味する。

 

⇒ 最も神をなだめ、鎮め、神の霊をとどまらせたのはもちろんイエス・キリスト。ただし、イエスのみでなく、イエスのように歩み、イエスの御跡に従った人々もまた、そのような存在だったと思われる。

⇒ ex: 中村哲さん。その他、最も困難な地に自ら赴き、神の愛を実践した人

  

ダニエル11章:北の国と南の国の戦い。サタンの側の人々と神の民の戦い?地の国と神の国の戦いを意味するか。終わりの日まで続く。(c.f. アウグスティヌス神の国』)

 

ヨハネ黙示録7:1-8 地の四隅に四人の天使が立ち、地の四隅から吹く風を押さえ、神の刻印が14万4千人(12部族×1万2千人。つまり神に選ばれた人々、神の民)に押されるまでは、世界が損なわれないように天使が守っている。

⇒ (c.f.1961年ゴールズボロ空軍機事故(広島原爆の250倍の威力のある核爆弾二発がノースカロライナに落下、奇跡的に起爆せず)、1962年キューバ危機、1966年パロマレス米軍機墜落事故(スペイン、核爆弾三つが墜落)、1973年第四次中東戦争(核戦争寸前)。2011年3.11福島第一原発事故。)

 

※ 矢内原忠雄「我らは四方より圧迫艱難を受けいつになれば我らの生活が平安・安定を得るに至るかを知らない。かくの如き場合に希望を与うるものはゼカリヤの幻影である。神は、信者を苦しむる者がいつまでも安泰であり、信者がいつまでも忍苦であるをそのままに捨て置きたまわない。神の霊のはたらく時、内外の困難はあるいは突然にあるいは次第に除かれる。そして平安と歓喜は神を信ずる者と共に在って、いつまでも離れないであろう。」

(『矢内原忠雄全集十三巻』「ゼカリヤ書の研究」、689-690頁)

 

Ⅳ、天使について 

◇ 上記で、ゼカリヤの第八の幻を見た。ここで「天使」について考察したい。(ゼカリヤの八つの幻とも、頻繁に「み使い」つまり「天使」が登場するし、第八の幻の戦車や馬も、天使のこと、あるいは神の霊・天使と結びついた人間のことと考えられる)。

 

※ 天使とは:

ヘブライ語「マルアハ」、ギリシャ語「アンゲロス」、英語「エンジェル」

 

・神から使わされる使者で、天上では神に仕え、地上では特定の人間に現れて、神の意志を伝え、人間を守護し導く存在。

アブラハム、ロト、モーセ、エリヤ、ダニエル、ゼカリヤなどに現れた。

・新約では、受胎告知や羊飼いに御子の誕生を告げたり、荒野でイエスに仕え、イエスの復活を弟子たちに告げた。

トマス・アクィナスは、天使の仕事を「照明」と「勧告」の二つとしている。

 

・聖書では、すべての人に天使がついていて、神を仰ぎ、人は天使を通じて神とつながっているとされている。

※ マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのです。」

※ ルターの朝の祈りと夕の祈り (参照:藤田孫太郎編訳『マルティン・ルター 祈りと慰めの言葉』(新教出版社、1966年)43-44頁。)

 

朝の祈り:「天の父よ、あなたはこの夜、あらゆる損害とあらゆる危険からわたしを護りたもうたことを、あなたの御子イエス・キリストによって感謝します。願わくは今日もまたわたしのすべての行いと生活があなたの御意にかないますように、すべての罪と悪からわたしを護りたまえ。わたしはわたしの身も、たましいも、一切のことをあなたの御手に委ねます。悪しき敵がわたしに何の力も及ぼさないように、あなたの聖なる天使をわたしの近くに置きたまえ。アーメン」。

 

夕の祈り:「天の父よ、あなたは、わたしを今日めぐみをもって護りたもうたことを、あなたの御子イエス・キリストによって感謝します。願わくはわたしが正しくないことをしたとき、あなたはわたしのすべての罪をゆるして、めぐみにより今夜もわたしを護りたまえ。わたしはわたしの身もたましいも、一切のことをあなたの御手に委ねます。悪しき敵がわたしに何の力も及ぼさないように、あなたの聖なる天使をわたしの近くに置きたまえ。アーメン」。

 

※ マタイ24:30-31 再臨の時、天使が四方から選ばれた人々を呼び集める。

 

Ⅴ、おわりに  

ゼカリヤ書六章前半(第八の幻)から考えたこと

 

・全宇宙は神の支配のもと、神の御経綸の中にあり、神から発せられた聖霊や天使が常に働いている。ゆえに何の心配もいらず、私たちも素直に神の御経綸を信頼し、神と対話し、神の霊と結びつき、神の計画に従い、神の御心を行うように努めれば良いのだと、第八の幻を学んであらためて感じさせられた。

 

・風を敏感に感じとり、神からの風を受けとめて生きていくこと。それには、常に神の御言葉に触れる、つまり聖書の御言葉に触れること。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数