終わりの日に純真であること

昨夜、塚本虎二訳の新約聖書を読んでいたら、こんな箇所があった。

「そしてわたしが祈っているのは、
あなた達の愛がますます御心の(実践のための)知識とあらゆる道徳的知覚とにおいて成長し、
あなた達が本質的なものの判別ができるようになり、
こうしてイエス・キリストによ(って生じ)る義の実に満ちて、
キリスト来臨の日に純真であり申し分のないものとなり、
すべての栄光と栄誉とが神に帰するに至るようにということである。」

(ピリピ人へ 1:10)


「純真であり申し分のないもの」というところに、はっとさせられた。

つまり、終わりの日に、純真な者であることが、聖書では一番願われているということである。

(原語 ειλικρινεις (エイリクリネイス)は英訳だと"pure"と訳されることが多く、混じりけなく、太陽の光にあてたときに、合成化合物ではない、純粋なものとわかるもの、という意味らしい。)

私が知っている長年聖書を学んできたお年寄りの方々は、そういえば、とても純真な方が多い。
世間的な立場や地位は関係なく、年をとって最も尊いことは、年をとった時に純真であることのように思える。
世間を見ていると、年をとってあまり純真ではないお年寄りも多く、むしろ年を重ねるごとに純真さを失っていくのが一般的な世間の傾向であることを考えれば、聖書の学びのひとつの意義は、年をとった時に純真になるということにあるのかもしれない。

人生の目的や意味は、終わりの日に、純真で、申し分のないものとなること。
富や名誉や肩書ではない。

そう思うと、何かとても心が晴れやかになるような気がする。