ゼカリヤ書 資料(8)

『ゼカリヤ書(8)ヨシュアの戴冠 ―好意の記念としての冠』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ヨシュアの戴冠

Ⅲ、万人の救済

Ⅳ、祭司と冠について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

        

 

・ゼカリヤ書=捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言。八章までの第一部と九章からの第二部に大きく分かれる。

 

・前回までのまとめ―第一章から第六章前半の内容:神に立ち帰ることの勧め、ミルトスの林の中でのキリストのとりなし。悪と戦う神の使いたち。神が再びエルサレムを選ぶこと。神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くこと。神からたえず油(霊)がそそがれる燭台と二本のオリーブの樹。飛ぶ巻物のビジョン(律法は呪い)。エファ升の中の女(罪)がシンアルの地に安置されること。四両の戦車と北の地のビジョンつまり神の経綸と神の霊が困難な地にこそ赴くこと。これらの八つの幻が示された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は六章後半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) 

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章前半)

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)⇒ ※ 今回

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第六章後半の構成 

第一部 ヨシュアの戴冠 (6:9~6:13)

第二部 万人の救済 (6:14~6:15)

 

 第六章後半では、今までの八つの幻を通じて神の愛と知恵が示されたことを踏まえた上で、そのまとめとしてヨシュアの戴冠が語られる。

まず第一部において、捕囚から帰還した三人からの贈り物の金銀から冠をつくり、大祭司ヨシュアに戴冠させることが命じられる。さらに、メシア(若枝)が来ることが告げられる。

第二部では、冠は好意の記念であり、遠方の人々が主の宮を建て、神を知ること、つまり異邦人を含めた万人が神を知り救われることが告げられる。

 

Ⅱ、ヨシュアの戴冠 (6:9~6:13)

 

◇ 6:9 主の言葉がゼカリヤに臨む ⇒ 聖書は神のことば。

 

◇ 6:10  捕囚から帰還した三人からの贈り物

 

ヘルダイ:「もぐら」という意味。

トビヤ:「ヤハウェは知り給う」の意味。旧約聖書続編の「トビト記」のトビアか?エズラ記2:60およびネヘミヤ記7:62には「トビヤの一族」が帰還した捕囚の民として記されている。また、ネヘミヤ記には神殿再建を妨害するトビヤという人物が登場するがこれは別人と考えられる。

エダヤ:「ヤハウェはわが善なり、ヤハウェはわが恵みなり」の意味。エズラ記2:36およびネヘミヤ記7:39には帰還した捕囚の民として「エダヤの一族」が記されている。また、ネヘミヤ記3:10にはエルサレム城壁の修復を「ハルマフの子エダヤ」が行ったこと、同11:10には「ヨヤリブの子エダヤ」が祭司として勤めていること、またイエシュア(ヨシュア)の時代の祭司にエダヤがいたことがネヘミヤ記12:6-7に記されている。

 

⇒ 固有名詞を離れ、その名前の意味から考えるならば、(霊的に)目が見えない人々、しかし神がその人を知悉し見守る人々、そして神を善であり恵みであると信じる人々、つまり裁かれて困難な状況の中にあったけれども信仰を持つ人々が、バビロン捕囚から帰還し、贈り物を持ってきた、という意味と考えられる。

 

⇒ なお、古代イスラエルでは証人は三人の必要があった(申命記17:6および19:15)。捕囚が終わったことと、神の恵み・救いの証人としての三人か。

⇒ 予表論の立場に立てば、三人は東方の三博士の予表とも考えられる。

 

⇒ ※ ゼカリヤが三人からの贈り物を持って、バビロンから帰ってきたツェファンヤの子ヨシヤの家に入る。

 

ツェファンヤ:エレミヤの友人に同名の祭司がおり、その人物か(エレミヤ29:25、29)。原語は「ゼファニヤ」と同じ。「ヤハウェは隠し給うた」の意味。

ヨシヤ:「ヤハウェは支え給う、ヤハウェは癒し給う」の意味。ツェファンヤの子ヨシヤについては聖書中他に記述がないので不明。

 

捕囚の民の三人からの贈り物を持って、バビロンから帰還したヨシヤの家に「その日のうちに」入る。おそらく、三人は捕囚から帰還した直後であり、それらの人々からの贈り物を受け取って、すでに以前から帰還していたヨシヤの家にすぐに行く、という意味と考えられる。

 

岩波訳:「捕囚の民の中から、ヘルダイ、トビヤ、イェダヤ〔の三人〕から受けよ。そしてあなたはその日のうちに行って、バベルから帰ってきたゼファニヤの子ヨシヤの家に入り、」

⇒ 罪人が信仰を得て罪から救われ(神に帰還し)、そののちにすぐにすでに罪から贖われた救われた人々の家(つまりエクレシア)に入ることの予表か。

・特定の歴史上の人物という文脈から離れ、その名前の意味から考えるならば、神が隠し守ってくださっていた、そしてその中に入れば癒し支えてくれる、神の家(エクレシア)に罪から贖われてすぐに帰還するということか。

 

◇ 6:11 銀と金をとって、冠をつくり、ヨシュアの頭に載せる。

ヨツァダク:「ヤハウェは義なり」の意味。

ヨシュア:「ヤハウェは救い」の意味。当時の大祭司。ハガイ書およびゼカリヤ書3章にすでに登場。

 

※ 祭司は冠をつけることが律法には規定されていた(出エジプト29:6、レビ記8:9)。 出エジプト39:30 「聖なる冠である花模様の額当てを純金で作り、その上に印章を彫るように、「主の聖なる者」と彫った。」

 

※ 捕囚から帰還してすぐで、経済的には困窮していたはずだが、金銀など高価なものを惜しみなく神のために用いている。

(あるいは捕囚期間中にも、人によっては裕福になっていた可能性もあり(トビト、エステル、ダニエルなど)、そのような人々が惜しまずに祭司の冠を用立てたということを意味している。)

・歴史上の特定の人物という文脈から離れて、その名前の意味から考えれば、神の義と救いを象徴する冠をつくり、載せるということか。なお、「冠」はここでは複数形。この文章からゼルバベルの名前が削除されたためという説もある。あるいは、神がヨシュアに限らず多くの人に冠を授けることの預言か。

 

◇ 6:12   若枝=メシア 既出:ゼカリヤ3:8。 

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

(ゼルバベルを指すという説もあるが、メシア預言とみるべきか)

 

※ 主の宮を建てる ⇒ 旧約においては神殿の建設。新約の光に照らせば、キリストがエクレシア(教会、集会)を建てること。

 

◇ 6:13  メシアが王座について治める。

エスは王(マタイ27:11等)。(東方三博士の贈り物である黄金・乳香・没薬は、それぞれ王への捧げもの・祭司の祈り・葬儀(十字架の死)を意味。イエスは王であり大祭司であり贖いの小羊)。

 

⇒ イエスは、昇天ののちすでに神の右の座にいる(マルコ16:19、使徒2:33)。また、あらゆる権能を持っており(マタイ28:18)、王である(黙示録19:16、17:14)。再臨の日には、キリストの審判・支配が貫徹する。

 

※ メシア(キリスト)と祭司は、平和への思いで、一致している。

 

バルバロ訳「この二人の間には、平和の一致がある。」 

新改訳2017「二人の間には平和の計画がある。」

⇒ 十字架の贖いによってキリストの平和(ヨハネ14:27、16:33)を得、そしてその平和によって世界の平和をつくることをめざして生きる(マタイ5:9)。

(第四の幻(第三章)ですでにヨシュアは罪が赦されている)

 

 

Ⅲ、万人の救済 (6:14~6:15)

 

◇ 6:14   好意の記念

※ 三人のうちのひとりめ「ヘルダイ」⇒ヘブライ語原文はここでは「ヘレム」。ヘレムの意味は「強さ」。つまり、「もぐら」から「強さ」あるいは「強い者」に名前が変わっている。(シリア語訳ではヘルダイのまま)。

⇒ 目が見えない地中にいたものが、メシアを信じ、目の見える強められた者となったことを表しているとも考えられる。

 

※ 「ツェファンヤの子の好意」⇒好意のヘブライ語原文は「ヘン」。

すでに6:10でツェファンヤの子はヨシヤとなっているので、ここでは固有名詞ではなく通常の名詞に受け取る訳が多い。 ヘン=好意、恵み。

⇒ ヘルダイ(ヘレム)、トビヤ、エダヤ、ヨシヤ(ツェファンヤの子)らの好意の記念として、冠が主の宮に(ヤハウェの宮殿)に置かれる。

 

◇ 6:15 遠く離れている人々が来て、主の宮を建てる

⇒ ゼカリヤ書の当時における意味は、捕囚や離散の民が遠方から帰還するということ。ただし、新約の光に照らせば、イスラエル以外の遠方の異邦人もエクレシア(主の宮)を形成するようになるという預言と受けとめられる。

 

・ 神の言葉に聞き従うならば、ゼカリヤを通じた神の言葉を神の言葉として受けとめることができるようになる。

⇒ 心を尽くして神に従うことと、神の言葉に心を開くことの大切さ。

 

余談:ヘレム、トビヤ、エダヤの三人に加えて、ヨシヤも好意の記念として冠を主の宮に置いていると考えられる。前三者を東方の三博士の予表とするなら、ヨシヤは四人目の博士の予表となるとも考えられる。

(渡辺和子「キリストの香り(16) - 四人目の博士」

youtube動画: https://www.youtube.com/watch?v=M7VuRbPn7cA )

 

 

Ⅳ、祭司と冠について 

 

◇ 上記で、ゼカリヤ第六章後半のヨシュアの戴冠について見た。ここで「祭司」と「冠」について考察したい。

旧約のゼカリヤ書では、戴冠するのは歴史上の特定の人物である大祭司ヨシュアである。しかし、新約の光に照らせば、イエス・キリストの十字架の贖いはこの私のためであったことを信じる全ての人は祭司である。

 

参照:ルターの万人司祭説

 

教皇、司教、そして司祭、修道士たちは霊的で、諸侯、王、手工業者と農民は世俗的な身分だと言われています。そのような驚愕すべき、しかも巧妙な言い方が考案されているのです。けれども、そのような言い方に脅かされる必要はありませんし、恐れを感じることもありません(中略)すべてのキリスト者は誰でも皆、霊的な階級に属しているのです。それぞれの職務の違い以外には何の違いもありません。最も重要なことは、私たちは一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰をもっており、私たちは皆同じキリスト者だということです。〔一つの〕洗礼、〔一つの〕福音、〔一つの〕信仰が、私たちを皆、霊的なものにし、キリスト者にするのです。(中略)私たちは誰でもまさに文字どおり洗礼によって祭司として聖別されているのです。」

(ルター「キリスト教界の改善について」(深井智朗訳『宗教改革三大文書』講談社学術文庫、2017年、54頁))

Ⅰペトロ2:5「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです。」

 

Ⅰペトロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。」

 

黙示録1:6「私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」

⇒ 祭司の自覚

黙示録5:10「彼らを私たちの神に仕える御国の民/また祭司となさったからです。/彼らは地上を支配するでしょう。」

⇒ 小羊は贖いによってキリストを信じるあらゆる人々を祭司とする。

 

※ したがって、新約の光に照らせば、ゼカリヤ書における大祭司ヨシュアについての記述は、新約の時代以降はすべてのキリスト者にあてはまる。キリスト者は皆、キリストの十字架の贖いにより、すでに神との間に和らぎを得、キリストの平和を得た身である。キリスト者は皆祭司として、冠を得る。ゼカリヤ書6章後半は、新約の光に照らせば、キリスト者の戴冠について述べている。

 

□ では、新約においては、冠は何を意味するのか?

 

※ 旧約においては、冠は祭司や王の身に着けるものであり、神の恵みや栄光を象徴するものだった

・祭司の冠出エジプト29:6、39:30、レビ記8:9)

・王の冠(サムエル記下1:10  列王記下 11:12 歴代誌下23:11 詩編21:4 詩編89:20)。王の権威を帯びる場合も冠をつけた場合あり(エステル8:15)。

・冠=栄光や誉れ、恵みの象徴詩編8:6、65:12、103:4、箴言4:9、イザヤ28:5、62:13)。

 箴言16:31「白髪は誉れある冠/正義を行う道に見いだされる。」

 箴言17:6「孫は老人の冠/祖先は子孫の誉れ。」

 

※ 新約では、冠は永遠のいのちと義認を意味する。

・イエス茨の冠(マタイ27:29、マルコ15:17、ヨハネ19:2、19:5)をかぶり、十字架の贖いを成し遂げた。

ヘブライ2:9「ただ、「僅かの間、天使より劣る者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と誉れの冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。」

⇒ イエスは永遠の大祭司(ヘブライ2:17、4:14、6:20)であり、その大祭司イエスは十字架の受難のゆえに栄光と誉れの冠を授けられた。

 

⇒ このイエスの十字架の贖いが私自身の罪の贖いのためであったと信じる者には、義の冠・いのちの冠が約束されている。

 

Ⅱテモテ4:8「今や、義のが私を待っているばかりです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう。」

⇒ すべての信仰を持つ者に義の冠が与えられる。

 

ヤコブ1:12 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格な者とされ、神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。」 ⇒ 命の冠

 

1ペテロ5:4「そうすれば、大牧者が現れるとき、あなたがたは消えることのない栄冠を受けることになります。」 ⇒ 消えることのない栄冠

 

黙示録2:10 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試すために、あなたがたのうちのある者を牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間、苦しみを受けるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ⇒ 命の冠

 

Ⅰコリ9:25「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです。」 ⇒ 朽ちない冠    ※ 新約では冠は義認・永遠のいのちの象徴

 

※ 旧約聖書続編にも冠についての言及あり。

 

バルク5:2「神からの義の外套を身にまとい/永遠なる方の栄光の冠を頭に戴け。」

エズラ記(ラテン語)2:43「その中央には、背の高い若者がいた。彼は、他の誰よりも秀でており、群衆一人一人の頭にをかぶせており、そしていっそう称賛されていた。私はこの不思議な光景に捕らえられた。」

エズラ記(ラテン語)2:45、46「天使は私に答えて言った。「この人たちは死すべき衣を脱ぎ捨て、不死の衣を身にまとい、神の御名を告白したのだ。今、を戴き、しゅろの葉を受ける。」私は天使に言った。「彼らにをかぶせ、しゅろの葉を手渡しているあの若者は誰なのですか。」

 

⇒ 神の子イエス・キリストから義の冠・命の冠を、キリストの十字架の贖いを信じる者は受ける。

 参照・ルター「喜ばしき交換」:私たちの罪をキリストが引き受け、キリストの義を私たちがいただく。それが十字架の贖いであり、神の一方的な恵み。

 

□ ゼカリヤ6:14 「好意」=「ヘン」=恵み。

⇒ 神からのはかりしれない恵み、またそのような神の愛と恵みは、罪からすでに救われた人々、エクレシアに集う人々によって伝えられていく。エクレシアは、このような神の好意の記念であり、冠そのものである。

 

Ⅰテサロニケ2:19「私たちの主イエスが来られるとき、その御前であなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、また誇りの冠となるでしょうか。」

⇒ エクレシアはキリストの冠。

(c.f.詩編132:18「しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」⇒エルサレム(エクレシア)の上に神の王冠が花開く。)

 

※ さらに言えば、私たちはキリストとともに王となる。

 

Ⅱテモテ2:12塚本虎二訳:「(キリストの復活についての)今の言葉は本当である、すなわち――「なぜなら、もしわたし達が(キリストと)一しょに死んだら、一しょに生きる。もしわたし達が耐え忍ぶなら、(キリストと)一しょに王となる。(以下略)」

 

Ⅱテモテ2:12新改訳2017:「次のことばは真実です。/「私たちが、キリストとともに死んだのなら、/キリストとともに生きるようになる。/耐え忍んでいるなら、/キリストとともに王となる。(以下略)」

 

私たちは、キリストの茨の冠と十字架の贖いによって、罪を赦され、義と命の冠が約束されている。神の子・祭司・王となり、キリストの平和をいただくという、はかりしれない「好意」(原語「ヘン」=恵み)を受けている。

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書六章後半から考えたこと

 

・神の好意・恵みのはかりしれなさ。また、万人が祭司である以上、自分もまた祭司の一人であり、「主の声を心して聞く」(ゼカリヤ6:15)ことの大切さ。

 

・ヘレム、トビヤ、エダヤ、ヨシヤのように、捕囚帰還直後の大変な状況にあっても、なけなしの金をはたいて神の御用に役立てるような信仰を、はたして自分が持っているか? ⇒ せめてもささやかな奉仕や労役。

 

・キリストと一致した「平和への思い」(ゼカリヤ6:13)を持って生きるのが祭司(キリスト者)。信仰によって「キリストの平和」をいただき(ヨハネ14:27、16:33)、そのうえで自らの生き方もこの世界に「平和を造る人」となるように努めること(マタイ5:9)。それにはキリストの贖いによる罪の赦しが前提(ヨシュアの戴冠も第四の幻で示された罪の赦しを含めた、八つの幻で示された神の愛と知恵の働きが前提)。

 

・地上の物質的な冠はむなしく、永遠の朽ちることのない霊的な冠こそが本当に意味のある恵み。

 

・ただし、霊的な冠は、神からの好意の象徴であるのと同時に、ある程度は人々からの好意として示されるとも思われる。好意や愛が全ての人々からではなくても、心ある三人、四人の人から示される。それこそ最も価値ある冠。

 ex.中村哲さんのお別れの会、五千人の参列者。多くの人の心からの追悼。cf. 山県有朋、葬儀に一万人の準備をするも実際は千人しか集まらなかった。必ずしも数にはよらないが、心のこもった哀惜や追悼は、その人への冠ではないか。

 cf. 的野ツギノさんの葬儀の時の、義理のお子さんやお孫さんたちからのメッセージに感動したこと。松村敬成さんの葬儀の時の、仕事でかつて関わった方からのメッセージに感動したこと。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数  

ゼカリヤ書(7) 資料

 

『ゼカリヤ書(7)四両の戦車と北の地の神霊 神の経綸』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、四両の戦車とその意味

Ⅲ、北の地に神の霊がとどまること

Ⅳ、天使について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

   

前回までのまとめ:

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。

今までに見た第一章から第五章の内容:神に立ち帰ることの勧めと、ミルトスの林の中でのキリストのとりなし。悪と戦う神の使いたち。神が再びエルサレムを選ぶこと。神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くこと。神からたえず油(霊)がそそがれる燭台と二本のオリーブの樹。飛ぶ巻物のビジョン、つまり律法は呪いであること。エファ升の中の女(罪と悪)と、それがシンアル(バベル、神殿)の地に安置されること。

これらのビジョンを通じて、人間の罪と悪の根深さと、それにもかかわらず神および天使が働きかけ続けていること。そして、神の霊と結びついた人々のことと、メシア到来における救いが告げられていることを見た。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は六章前半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) 

☆第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章前半)⇒ ※ 今回

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第六章前半(第八の幻)の構成 

第一部 四両の戦車とその意味 (6:1~6:6)

第二部 北の地に神の霊がとどまること (6:7~6:8)

 

 第六章前半では、第八の幻が示される。まず第一部において、四両の戦車とその意味が告げられる。つまり、それらは「天からの風」=神の霊の働きであり、全地に神の経綸が行われることが示される。

第二部では、それらの強い馬たちが出発し、かけめぐることと、中でも北の地に出ていった者が、北の地に留まることが告げられる。

 

Ⅱ、四両の戦車とその意味 (6:1~6:6)

 

◇ 6:1  四両の戦車が青銅の二つの山の間から来る

 

※ すぐのちに5節で見るように、この四両の戦車は、東西南北の四方の風を象徴する(ゼカリヤ6:5)。

 

・二つの山とは何か? → 一応は、エルサレム神殿があるシオンの山(神殿の丘)とその右にあるオリーブ山と、その間のキデロンの谷とも考えられる。(キデロンの谷=ヨシャパテの谷(ヨエル4:2)。ゲッセマネの園もキデロンの谷の中にある)。ただし、具体的な地理に関係なく、象徴的な表現とも考えられる。

 

※ 「青銅」は、聖書においては贖罪や清めを意味する。

例:「青銅の蛇」(民数記21:8-10、ヨハネ3:14-15、キリスト=青銅の蛇(=罪を清めるもの))。

また、幕屋に入るためには青銅の洗盤の水で手足を洗わなければならなかった(出エジプト30:17-21)。

エルサレム神殿に入るためには、外陣の廊の前の二本の青銅の柱の間を通らねばならなかった(列王記上7:15、7:21)

 

⇒ 四両の戦車が、神のもとからやってくることを象徴的に表現している。清らかな神の霊であることを表している。ちなみに、青銅は朝焼け・あけぼのの太陽の色を象徴しているとも考えられる。

 

◇ 6:2-3  赤、黒、白、まだら模様の馬 

   

※ 協会共同訳では「馬」と単数だが、原文の馬は複数形。「馬たち」。

 

岩波訳:「最初の戦車には赤い馬たちが、二番目の戦車には黒い馬たち、三番目の戦車には白い馬たち、4番目の戦車には強いまだらの馬たちがついていた。」

 

新共同訳「最初の戦車には赤毛の馬数頭、二番目の戦車には黒い馬数頭、三番目の戦車には白い馬数頭、四番目の戦車にはまだらの強い馬数頭がつけられていた。」

 

    

⇒ 戦車は通常一両あたり二~四頭の馬が引いていた。この箇所を象徴的にとらえるとしても(つまり馬を神の霊が下りた人とみなす場合も)、単数ではなく複数とみなすべき。

 

⇒ 詩編68:18「幾千、幾万の神の戦車。わが主はそのただ中におられ」 

戦車は、「万軍の主」である神に仕える天使のことを指す場合もある。

 

 

◇ 赤、黒、白、まだら模様のそれぞれの色は何を象徴しているのか?

 

参照箇所:ヨハネ黙示録6:1-8 (白い馬のみ黙示録19:11-14も参照)

 

白い馬=勝利、弓、冠、忠実、真実、正義の裁き。

赤い馬=戦争(平和を奪い取る)、剣。(マタイ10:34ではキリストのこと)

黒い馬=秤。物価高騰と食料の制限とすると飢饉。あるいは価値を正すこと。

青白い馬=死。陰府。

 

※ ヨハネ黙示録では、上記のようにそれぞれの意味が解き明かされている。ただし、ゼカリヤ6章では「青白い馬」ではなく「まだら模様の馬」である。これは同じかもしれないし、別の意味かもしれない。

 

⇒ まだらなので、勝利・戦争・飢饉などの意味が混ざっているという意味であり、複合的な要素を表しているとも受け取れる(「まだら模様」は新改訳では「まだら毛」。関根訳では「ぶちの馬」。口語訳では「まだらのねずみ色の馬」)。

 

※ なお、ゼカリヤ第一章(1:8)では、赤い馬(二頭)と栗毛の馬と白い馬が登場していた。この「栗毛の馬」と「まだら毛の馬」は同じかどうかは不明。同じかもしれないし、むしろ黒い馬を指していたのかもしれない。

 

◇ 6:4   「わが主よ、これらは何ですか」

 

ゼカリヤは、戦車と四つの馬の色がわからず、率直に天使にその意味を尋ねている。私たちも、人生において意味のわからないことは、率直に神・天使に尋ねることが重要。

 

◇ 6:5  天の四方の風

 

新改訳2017:「御使いは答えた。「これらは天の四方の風だ。全地の主の前に立った後に、出ていくことになる。」

 

文語訳:「天の使、こたへて我に言ふ。これは四の天つ風にして、全地の主の前よりまかり出でたる者なり。」

 

※ 四両の戦車は、天の四方の風だと告げられる。つまり、東西南北の方角にそれぞれ吹く風であり、またその風は主のもとから吹く、つまり神の霊、聖霊であることが告げられている。 (原語「ルーアハ」は霊と風の両方の意味。)

 

⇒ 神から天使・聖霊が各地に派遣され、常に働いている。全宇宙は神の御支配、御経綸の中にある。統宰(gubernare)。

 

⇒ 人は、この「四方からの風(霊)」を受ける時に、生き返る。(エゼキエル37:9-10、枯れた骨の谷、四方からの霊(風)で生き返る。)

 

◇ 6:6  それぞれの馬が向かう先

 

黒い馬=北

白い馬=マソラ本文では「その後に」。多くの訳では「西」に修正。

まだらの馬=南

 

※ 「赤い馬」は登場せず。補って、「赤い馬たちは東の地に向かい」としている訳もある(岩波訳)。ただし、ゼカリヤ第一章で赤い馬に乗ったみ使いがすでに登場し、ミルトスの林の中でとりなしをしており、ゼカリヤが対話しているみ使いが主にそのみ使いだと考えれば、ゼカリヤのいる場所にまさに赤い馬(とそれに乗ったみ使い)はいるので、ここで記載されていないとも考えられる。

 

※ 白い馬は、マソラ本文どおり「その後に」と読めば、西ではなく黒い馬のあとを追って北に向かったとも読める。その場合、北には二重に、黒と白の馬(とそれに引かれた戦車)が向かったということになる。(その場合、旧約と新約、あるいは初臨と再臨を象徴的に現すとも読める。)

 

Ⅲ、北の地に神の霊がとどまること (6:7~6:8)

 

◇ 6:7  四方の風が全地を駆けめぐる

岩波訳:「強い〔まだらの〕馬たちが出て来て、今にも飛び出して[全]地を行き巡ろうとしていたが、そこで御使いが言った、/「行け、そして地を行き巡れ」。/こうして四方の風は地を行き巡った。」

 

「行け、地を駆け巡れ」という文章は、複数男性形の命令文。一方、「地を駆け巡った」の動詞は三人称複数女性形。なので、「地を駆け巡った」の主語は、馬たち(複数男性形)ではなく四つの風(女性名詞)。(岩波訳脚注参照)

風(霊)=馬であると考えれば、文章に矛盾はない。

 

※ 「風」と「馬」、「戦車」とは?

 

⇒ 「風」は神から吹く風であり、霊であることは前述(ルーアハは風と霊を意味)。一方、「戦車」は人が乗り、それを「馬」が引く。とすれば、馬は人間を引っ張り導く霊や天使を現しているとも考えられる。あるいは、その逆で、神からの風(神からの霊)が吹き込まれた人間そのものを「馬」や「戦車」と象徴的に現しているのかもしれない(その場合、戦車は天使)。

 

「強い馬」=強い霊、強い聖霊の働き。神と深く結びつき神の御心を行う存在。

 

⇒ ゼカリヤ第二章の第二の幻において、四方から迫る四本の角と戦う四人の鉄工職人、つまり四方から迫る悪と戦う神の僕のビジョンが示されていることは以前見た(本講話の第二回)。

この第八の幻も、神としっかりと結びつき、神の御言葉・神の霊に満たされた人々が、各地で神の御心を行うというメッセージ。

 

◇ 6:8  北の地に神の霊がとどまる

 

新改訳2017:「見よ、北の地へ出て行った馬を。これらは北の地で、わたしの霊を鎮めた。」

 

フランシスコ会訳:「見よ、北の地へ出て行く馬は、北の地でわたしの霊を鎮めてくれる。」

 

バルバロ訳:「北の地に向かう馬を見よ。彼らは、北の地で私の霊をなだめてくれた」

⇒ 協会共同訳や岩波訳は神の霊が北の地に「とどまる」という意味の訳だが、新改訳2017・フランシスコ会・バルバロの訳では、神の霊を北の地で「鎮め」、「なだめる」という意味の訳になっている。

 

・ 北の地に向かったものなので「黒」の馬か?おそらくはそうだと考えられるが、マソラ本文によれば、黒い馬だけでなく、その後に従った白い馬も意味しているのかもしれない。それらが神の霊を北の地にとどめ、神をなだめる。

 

□ 「北」は何を意味するのか?

 

⇒「北」は、聖書では「災い」、さらには「バビロン」を意味している。

 

例:エレミヤ1:13-15 「煮えたぎる鍋」「災い」が「北」から来る

  エレミヤ4:6、6:1 北から災い・破滅

  エレミヤ25:9 北のすべての氏族をバビロンの王のもとに呼び集める

エゼキエル1:4 北から「激しい風」

ゼカリヤ2:9-10 「北」=「バビロン」から逃れよ(2:1には「測り縄」)

 

・「北」も「バビロン」も、地理的な概念というよりは、神から背いている地のこと、またそのような人々のあり方を指していると考えられる。

 

ゆえに、ゼカリヤ6:8のこの箇所においても、神に背いた地において、「黒い馬に引かれた戦車」つまり神の霊を受けて「秤」つまり正しい神の価値基準をもたらす人々が、神の霊をそこにとどまらせ、また神をなだめ、その怒りを鎮めるということを意味する。

 

⇒ 最も神をなだめ、鎮め、神の霊をとどまらせたのはもちろんイエス・キリスト。ただし、イエスのみでなく、イエスのように歩み、イエスの御跡に従った人々もまた、そのような存在だったと思われる。

⇒ ex: 中村哲さん。その他、最も困難な地に自ら赴き、神の愛を実践した人

  

ダニエル11章:北の国と南の国の戦い。サタンの側の人々と神の民の戦い?地の国と神の国の戦いを意味するか。終わりの日まで続く。(c.f. アウグスティヌス神の国』)

 

ヨハネ黙示録7:1-8 地の四隅に四人の天使が立ち、地の四隅から吹く風を押さえ、神の刻印が14万4千人(12部族×1万2千人。つまり神に選ばれた人々、神の民)に押されるまでは、世界が損なわれないように天使が守っている。

⇒ (c.f.1961年ゴールズボロ空軍機事故(広島原爆の250倍の威力のある核爆弾二発がノースカロライナに落下、奇跡的に起爆せず)、1962年キューバ危機、1966年パロマレス米軍機墜落事故(スペイン、核爆弾三つが墜落)、1973年第四次中東戦争(核戦争寸前)。2011年3.11福島第一原発事故。)

 

※ 矢内原忠雄「我らは四方より圧迫艱難を受けいつになれば我らの生活が平安・安定を得るに至るかを知らない。かくの如き場合に希望を与うるものはゼカリヤの幻影である。神は、信者を苦しむる者がいつまでも安泰であり、信者がいつまでも忍苦であるをそのままに捨て置きたまわない。神の霊のはたらく時、内外の困難はあるいは突然にあるいは次第に除かれる。そして平安と歓喜は神を信ずる者と共に在って、いつまでも離れないであろう。」

(『矢内原忠雄全集十三巻』「ゼカリヤ書の研究」、689-690頁)

 

Ⅳ、天使について 

◇ 上記で、ゼカリヤの第八の幻を見た。ここで「天使」について考察したい。(ゼカリヤの八つの幻とも、頻繁に「み使い」つまり「天使」が登場するし、第八の幻の戦車や馬も、天使のこと、あるいは神の霊・天使と結びついた人間のことと考えられる)。

 

※ 天使とは:

ヘブライ語「マルアハ」、ギリシャ語「アンゲロス」、英語「エンジェル」

 

・神から使わされる使者で、天上では神に仕え、地上では特定の人間に現れて、神の意志を伝え、人間を守護し導く存在。

アブラハム、ロト、モーセ、エリヤ、ダニエル、ゼカリヤなどに現れた。

・新約では、受胎告知や羊飼いに御子の誕生を告げたり、荒野でイエスに仕え、イエスの復活を弟子たちに告げた。

トマス・アクィナスは、天使の仕事を「照明」と「勧告」の二つとしている。

 

・聖書では、すべての人に天使がついていて、神を仰ぎ、人は天使を通じて神とつながっているとされている。

※ マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのです。」

※ ルターの朝の祈りと夕の祈り (参照:藤田孫太郎編訳『マルティン・ルター 祈りと慰めの言葉』(新教出版社、1966年)43-44頁。)

 

朝の祈り:「天の父よ、あなたはこの夜、あらゆる損害とあらゆる危険からわたしを護りたもうたことを、あなたの御子イエス・キリストによって感謝します。願わくは今日もまたわたしのすべての行いと生活があなたの御意にかないますように、すべての罪と悪からわたしを護りたまえ。わたしはわたしの身も、たましいも、一切のことをあなたの御手に委ねます。悪しき敵がわたしに何の力も及ぼさないように、あなたの聖なる天使をわたしの近くに置きたまえ。アーメン」。

 

夕の祈り:「天の父よ、あなたは、わたしを今日めぐみをもって護りたもうたことを、あなたの御子イエス・キリストによって感謝します。願わくはわたしが正しくないことをしたとき、あなたはわたしのすべての罪をゆるして、めぐみにより今夜もわたしを護りたまえ。わたしはわたしの身もたましいも、一切のことをあなたの御手に委ねます。悪しき敵がわたしに何の力も及ぼさないように、あなたの聖なる天使をわたしの近くに置きたまえ。アーメン」。

 

※ マタイ24:30-31 再臨の時、天使が四方から選ばれた人々を呼び集める。

 

Ⅴ、おわりに  

ゼカリヤ書六章前半(第八の幻)から考えたこと

 

・全宇宙は神の支配のもと、神の御経綸の中にあり、神から発せられた聖霊や天使が常に働いている。ゆえに何の心配もいらず、私たちも素直に神の御経綸を信頼し、神と対話し、神の霊と結びつき、神の計画に従い、神の御心を行うように努めれば良いのだと、第八の幻を学んであらためて感じさせられた。

 

・風を敏感に感じとり、神からの風を受けとめて生きていくこと。それには、常に神の御言葉に触れる、つまり聖書の御言葉に触れること。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数  

アガペの像について

「アガペの像について」 

 

 今年の八月に東京駅前の「アガペの像」の実物をはじめて見ました。私が感慨無量で像を見ていると、通りがかる人々がそんなにすごいものなのかと驚いて見ていたと、一緒にいた妻が後で話していました。アガペの像には説明の看板も碑文も一切ついていないので、あらかじめ知っていなければこの像が何を意味するのかわかりません。おそらく今日では東京駅を通るほとんどの人は知らないのかもしれません。以下、いくつかの資料をもとに、アガペの像について書きたいと思います。

 アガペの像は、先の大戦で戦犯として処刑された方たちの遺書集『世紀の遺書』の出版印税から費用を捻出し1955年(昭和三十年)に建立されました。その後、幾度か東京駅の改修に伴い、一時的に撤去されることがあり、2007年からも十年間撤去され、2017年に現在の位置に再び設置されました。像の台座の部分に『世紀の遺書』の本が納められているとのことです。

 敗戦後、先の大戦における罪を問われて一千人を越える人々がBC級戦犯として死刑、あるいは死刑執行前の服役中に命を落としました。中には無実の人々もいたといいます。また朝鮮半島や台湾出身の人々の中にもBC級戦犯として死刑になった人々がいます。それらの人々の遺書を集めたものが『世紀の遺書』であり、その追悼としてアガペの像は建立されました。

 『世紀の遺書』を読むと、戦争の罪を深く悔い、一国中心主義の非を反省し、人類愛や世界の平和を祈る言葉が多く含まれていることに驚きます。それらの人々の中には、クリスチャンもいれば、仏教徒も多くいます。出版や像の建立に携わった人々も、クリスチャンもいれば、仏教徒もいました。

 台座の部分に記された「愛」の漢字の部分は巣鴨プリズン教誨師を務めた真言宗僧侶の田嶋隆純が、ギリシア語の「αγάπη」(アガペー)の部分は中村勝五郎の母サトの手を画家の東山魁夷がとって記した文字とのことです。中村勝五郎は味噌の事業で財を成した人物で、私財をなげうって戦犯とされた人々やその家族のために奔走した人物です。中村は芸術家の支援もしており、敗戦後しばらくは中村の邸宅に東山が仮住まいをしていたそうで、その縁で東山が『世紀の遺書』の外箱のデザインをしたり、アガペの像にも関わったとのことです。

 アガペの像の彫刻部分は、広島の平和記念公園の中の「祈りの像」などを制作した彫刻家の横江嘉純が手がけています。なぜアガペの像と呼ばれるのかについては、同じくこの像の建立に関わった元早稲田大学総長の村井資長が、この像の精神は「アガペ」だと述べ、アガペの像と名づけたとのことです。村井はプロテスタントだったとのことです。

 中村らは仏教徒でしたが、村井の発案に賛同し、この像を「アガペの像」と名付け、台座に漢字とギリシャ文字で愛と記したことに深く胸を打たれます。そこには、宗教の違いを超えた本当の愛と祈りがあったと思われます。

 その愛と祈りは、敗戦における痛切な体験から生まれたものだったと思われます。しかし、今日、敗戦後七十年以上が経ち、戦争の記憶が薄れるとともに、そのような愛と祈りも風化しつつあるのかもしれません。

 アガペの像の建立および『世紀の遺書』の出版の中心となった人物の一人に、冬至堅太郎という方がいました。冬至は福岡出身です。冬至は、自分自身もBC級戦犯として絞首刑が言い渡されていたものの、のちに減刑されて命が助かりました。冬至は、福岡大空襲で母親を失い、火葬の準備をしているところ、たまたまB29の乗組員がこれから処刑される現場に通りがかり、執行役を自ら志願して、四人の捕虜の米兵を軍刀で殺害したそうです。その罪で死刑が言い渡された後、巣鴨プリズンの中で生と死の意味を見つめ、歎異鈔などを深く読み、膨大な思索をノートに綴りました。その三千頁を越える手記が昨年発見され、今年の七月にその抜粋が出版されています。

 昨年7月31日に放映されたNHKのニュース番組「ロクいち!福岡」は冬至について取り上げ、その中で手記の中の以下の言葉を読み上げていました。

「日本人は自分自身で考えるという大切なことに欠けている。どんな人の言葉も、盲信してもいけないし、頭から否定してもいけない。必ず自分でよく味わい、吟味しなくてはならないのだ。」

 この言葉は、今日の日本においてこそ、よく味わわれる言葉ではないかと思われます。

 なお、アガペの像だけでなく、池袋サンシャインシティの一角にある「永久平和を願って」と記された石碑も、背面に若干の説明が記されているものの、同施設を訪れるほとんどの人が知らないようです。現在サンシャインシティがある敷地は、かつて巣鴨プリズンが存在し、多くの戦犯とされた人々がここで収監され、死刑となった場所でした。

 戦後、七十年以上の時が経ち、多くの思いや経験や教訓が今や忘れられつつあります。

「長老たちよ、これを聞け。/この地に住むすべての者よ、耳を傾けよ。/あなたがたの時代に、またその先祖の時代に/このようなことがあっただろうか。/これをあなたがたの子らに語り伝えよ。/子らはその子らに/その子らは後の世代に。」(ヨエル書 第一章 二、三節)

 ヨエル書のこの言葉のように、私たちも過去の人々の貴重な教訓や、痛切な思いや、心からの尊い祈りを、忘れずに語り継いでいきたいと思います。

 

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資料『ゼカリヤ書(6) エファ升の中の女と神殿―人間の罪』 

 

『ゼカリヤ書(6) エファ升の中の女と神殿―人間の罪』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、エファ升の中の女 

Ⅲ、二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動

Ⅳ、罪について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

       

 

前回までのまとめ:

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。第一章では、神に立ち帰ることの勧めと、キリストのとりなしのビジョンが告げられた。第二章では、悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選ぶビジョンが告げられた。第三章では、神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くことが預言された。第四章では、ゼカリヤが眠りから起こされ、神からたえず油(霊)がそそがれる燭台のビジョンが告げられた。また、二本のオリーブの樹のビジョンが示された。

第五章前半では、飛ぶ巻物のビジョンが告げられ、律法は呪いであることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は五章後半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)

☆第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) ⇒ ※ 今回

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第五章後半(第七の幻)の構成 

 

第一部 エファ升の中の女 (5:5~5:8)

第二部 二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動 (5:9~5:11)

 

 第五章後半では、第七の幻が示される。まず第一部において、エファ升とその中の女のビジョンが告げられ、それぞれ罪と邪悪を意味していることが示される。

第二部では、二人の翼を持つ女が、エファ升を封印し、シンアルの地にある神殿へエファ升を移動し置くことが告げられる。

 

Ⅱ、エファ升の中の女 (5:5~5:8)

 

◇ 5:5  目を上げて、そこに出てくるものが何かを見なさい

 

※ 天使が、ゼカリヤに、目を上げて、そこに出てくるものが何かを見るように促している。私たちの人生も、今そこに出てくるものをきちんと見るように、気づくか気づかないかにかかわらず、天使から促されている。

 

◇ 5:6 エファ升

 

・1エファは約23リットル(本によっては36リットル、19リットルなど諸説あり)。穀物を量る単位。穀物を量る升(英訳ではバスケット)。

 

※ このエファ升が、罪であると述べられる。

 

 

・なぜエファ升が「罪」を表しているのか?

 

 「升」は量りの道具であり、量りをごまかして暴利をむさぼる人が当時いたらしい。そのことへの怒り、批判、罪の指摘か?

 

レビ記19:36a「正しい天秤、正しい重り、正しい升と正しい瓶を用いなさい。」

 

箴言11:1「主は人を欺く秤をいとい/正確な量り石を喜ばれる。」

 

アモス8:5「…エファ升を小さくし、…偽りの天秤を使ってごまかし、」

 

ミカ6:10「まだなお、悪人の家、不正に蓄えた富/容量を減らした呪われたエファ升が/あるというのか」

 

 

 人を量ること自体が罪であるということか? 善悪を人間がみずからの基準で決め、他人を裁くこと自体が罪だと、聖書では指摘する。

 

マタイ7:1-2「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」

 

ヨハネ8:1-11 姦淫の女に対して 「私もあなたを罪に定めない」

 

⇒ ①は旧約聖書の観点においてはよくわかりやすい解釈で、多くの注釈書でそう述べられている。

しかし、新約の光に照らした時、人を量ること自体が罪だという視点が、すでに旧約のゼカリヤ書にも述べられていると②のように見ることもできると思われる。

 

(※ 5:6「罪」は、ヘブライ語原文では「目」で、新改訳も罪ではなく「目」とこの箇所を訳している。その場合は、「目」は聖書では「魂」を指すので(マタイ6:22-23、ゼカリヤ3:9)、量りをごまかす、あるいは人を量るような魂のあり方を問題にしている箇所となる。)

 

 

◇ 5:7-8   エファ升の中の女=邪悪

 

エファ升の中に封印されている女。それそのものが「邪悪」だと告げられる。

 

聖書には、しばしば、人を誘惑し罪に陥れる存在が比喩的に「女」として描かれる。

 

箴言7:6-27 「彼女の家は陰府への道/死への部屋へと下る。」

 

黙示録17:4-5「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」

 

そのすぐ後の箇所にこの邪悪な女を封印し運び去る翼を持った天使も女であるとされているので、必ずしも女性一般を邪悪と述べているのではなく、邪悪な女もいれば天使のような女も聖書には出てくるということと思われる。

男性にとって、特に誘惑や無意識の非合理な情動が女性として観念されることがあるので、このような表現をとっているのだとも思われる。

 

 「邪悪」の女が、エファ升の中にいて、鉛の蓋におさめられているというのは、人間の内面の奥底に、無意識に、邪悪なものが存在している、罪が存在しているということの指摘と思われる。

 

参照:フロイトのリビドーとタナトスロジェ・カイヨワ戦争論

 

万葉集「家にありし 櫃(ひつ)に鍵刺(かぎさ)し 蔵(をさ)めてし 恋の奴(やつこ)の つかみかかりて」(巻一六、三八一六)穂積皇子)

 

思いもよらぬ誘惑で身を持ち崩した事例は歴史に数多い。

(ex.ダビデ玄宗etc.)

 

※ エファ升の中の女は、再びみ使い(天使)によって封印された。

 

Ⅲ、二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動 (5:9~5:11) 

 

◇ 5:9  翼に風をはらんだ二人の女

 

おそらくは二人の女は天使。「風」は神の聖霊のことと思われる。「こうのとり」は関根訳では「あおさぎ」。

 

「地と天の間に持ち上げた」⇒ 神の国と地の国の中間ということか。罪を持った人間のこの人生における状態は、神の国にも地獄にもどちらにも行きうる存在。猶予が与えられている。

 

◇ 5:10 どこに運んで行くのですか?

 

ゼカリヤは率直に天使に尋ねている。私たちも、物事がどのように運ばれていくのか、天使や神に率直に問いながら生きて良いのだと思われる。

 

◇ 5:11 シンアルの地に神殿が建てられ、エファ升はそこに置かれる

 

 神殿:ヘブライ語では「バイス」。家という意味である。

 

シンアル:バビロンや南メソポタミアの古い呼び方。バベルの地、バベルの塔を建てたニムロドの支配していた地域。(創世記10:10)

 

⇒ 今で言えば、「もろこし」や「天竺」や「南蛮」といった語感か。

 

※ シンアルの地に、エファ升が移動されるということは、何を意味するのか?

 

① ユダヤの罪がエファ升に封印され、升ごとバビロンの地の神殿に運ばれることで、ユダヤは罪がない状態となり、罪が処分されたということを意味する。

 

⇒ この解釈だと、この第七の幻は、罪の除去・罪の処分についてのメッセージということになる。多くの解釈がこのような解釈をとっている。

 

② 「シンアル」を実際のバビロンの地ととらえず、バベルの塔の故事を踏まえた、己の力を頼りとし、神を神とせず、おごりたかぶるあり方を指しているのであれば、この「シンアル」はどこにでもありうる。

⇒ 特に、この時期に建設中だった神殿は、他ならぬエルサレム神殿である。⇒ したがって、この「シンアルの神殿」は、再建中のエルサレム神殿であり、そこに封印された形で人間の罪・邪悪が安置されるという意味になる。

 

※ ①が多くの解釈であるが、②は、のちの歴史において、まさにこの再建された神殿において、大祭司や律法学者や群衆がイエスを裁き、十字架につけたことを考えれば、そのことを預言したものとも考えられる。

 

⇒ 神から離れ、己の力を頼り、人を裁く。この人間のどうしようもない「罪」や「邪悪」が、再建される神殿にすら根深く残るということを、この第七の幻は示しているのではないか。

 

 

Ⅳ、罪について 

 

◇ 上記で、ゼカリヤの第七の幻を見た。ここで「罪」について考察したい。

 

※ 罪とは:

ヘブライ語「ハッタース」(的外れ)、「アヴェラー」(神の意志を拒否すること)ギリシャ語「ハマルティア」(的外れ)。

 

※ 悪とは:ヘブライ語「ラー」 善(幸福や生命をもたらすもの)の反対。苦しみ・死につながるもの。

 

⇒ ユダヤ教における罪とは、具体的な行為のことであり、律法に具体的に違反した行為を指す。キリスト教における罪は、行為のみならず、神から逃れようとする傾向性そのものを指し、神の恵みや愛に対して自らの自由意志で拒絶することを罪と呼んでいる。

 

⇒ 人間は、神の愛がわからず、自己を中心とし、神ではなく己を頼りとしようとする傾向がある。それをキリスト教では「原罪」と呼ぶ。この原罪が、的外れな状態を人間に生じさせる。その結果、神のいのちにどこまで辿っていっても辿り着くことができず、努力すればするほどかえって悪が生じる。

 

(ex. 本来は人間の解放や平等をめざしたはずのマルクス・レーニン主義によるソビエトや東欧での悲惨な歴史。)

 

□ 私の個人的な体験:なかなか「罪」がわからず。あまり自分が悪いという気がしない。そんなにたいした罪も犯していないという気持ち。

⇒ 塚本虎二の本を以前読んでいた時に(どの文章だったかを忘れ、今回探したけれど見つからず)、神の愛は絶対的でいかなる人をも平等に絶対的に愛する、この神の絶対的愛を持ちえないことが人間における罪だという指摘がなされており、はじめて自分の罪が少しわかった。

 

※ 神の愛から離れ、神のような愛を持ちえないのが人間。

 

参照:「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」(ロマ3:9)

 

人間はどこまでいっても自己中心的な不完全な愛しか持ちえない。また、神の愛から離れ、他人を心から愛することができず、他人の尊厳を無視してしまう。

 

※ 律法は本来は、人をいのちに導き、罪を防ぐために与えられたものだったはずだが、かえって律法そのものが罪を生み、他人を裁く根拠に使われるようになってしまった(ex.ファリサイ派の人々)。

 

⇒ そのような律法や神殿までも、他人を裁き、他人を量る道具にしてしまった人類の真っただ中に現れ、十字架と復活によって人類の罪を贖い、愛とは何かを示してくださったのがイエス・キリスト

 

⇒ ただイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じるだけで、人は義とされる。神の愛とつながり、神の愛を伝える人生を歩むことができる。

 

⇒ 神を愛し、人を愛する人生(マルコ12章)。しかし、これは人間の力のみでは不可能であり、神の恵みがあってはじめて可能なこと。

 

内村鑑三「罪のなき所に救いはない。そして罪の感覚の浅い所には救いの喜びも浅く、罪の感覚の深き所には救いの喜びも深い。深く恩恵の宝泉に汲まんと志す者は、まず鋭利なる解剖刀をもって自己の心を切りさかねばならぬ。されば罪の認知は信仰の礎石としてきわめて重要なものである。」

(『内村鑑三聖書注解全集十六巻 ロマ書の研究(上)』第15講人類の罪(二)、125頁)

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書五章後半(第七の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ第七の幻が、再建される神殿に罪・邪悪が存在し続け、キリストが来る時までは封印されているが、キリストが来た時にそれらが露わになるということを指していることに思い至った時に、深い戦慄を感じずにはいられなかった。聖書はまさに人の書ではなく神の書。

 

・私たち日本人も、一時的に罪や邪悪が封印されたかのように敗戦後思われた時代もあったが、実は罪や邪悪は消えておらず、再び噴出している時代に生きているのではないか。

(『世紀の遺書』に数多く書き込まれた戦争への痛切な反省や人類愛への希求や戦争の二度とない平和への祈りが忘却されていっていること。参照:アガペ像)。

 

・どうにもならない人間の罪や邪悪を、キリストが十字架の贖いと復活によって解決し、神のいのちや愛と通い合うようにしてくださったことのありがたさ。

 

・翼に聖霊を受けた天使が常にいて、神の国と地の国の両方がせめぎあい、天国と地獄のどちらにも行きうる、地上の人生を生きる私たちに、なんらかの手助けをしてくれていること。

 

・この世を生きる上では人間の心の奥底に罪や邪悪が潜んでいることを謙虚に認識し注意しつつも、もはや罪がキリスト者にとっては恐れるに足らず、安心して神に身をゆだねて生きることができることのありがたさ。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

「箴言27:21」について

箴言27:21」について

 

 

先日、箴言の27章21節について、新改訳と協会共同訳が大きく異なるが、その理由は何かと尋ねられた。

気になって、自分なりに調べてみた。

 

※ 協会共同訳と、その他の訳でかなり異なる。多くの訳は新改訳と同主旨(英訳も)。

 

協会共同訳:「銀の精錬にはるつぼ、金には炉。

人は賛美する口によって精錬される。」

 

新改訳2017:「銀にはるつぼ、金には炉があるように、

人は他人の称讃によって試される。」

 

新共同訳:「銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。」

 

岩波訳:「銀にはるつぼ、金には融解炉。

人は、その賞賛〔の程度〕に応じて〔試験される〕。」

 

ヘブライ語原文:

マツレフ・ラケセフ・ヴェフール・ラザハヴ・ヴェイッシュ・レフィ・マハラロー

(るつぼ・銀に・そして炉・金に・そして人は・~によって・その賞賛)

 

⇒ つまり、多くの訳に補足されている「試される」は原語にはない。箴言17:3のよく似た文章から「試す」の語を補足して訳している。

参照:箴言17:3 新改訳2017「銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。」

協会共同訳「銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。」

 

賞賛の原語「マハラル」は「ハラル」から来ており、praiseの意味。「レフィ」はaccording toの意。したがって、「銀にはるつぼ、金には炉、人は、その讃美に応じて。」とも訳せる。また、「レフィ」の元の形の「ペー」は「口」の意味もある。

 

箴言17:3がよく似ており、前半は同じなので、その「試す」の語句を27:21に補足して読めば新改訳や多くの訳の「人はその賞賛によって試される」という訳になるかと思われる。

 

しかし、箴言17:3を考えず、全く別個の文章と考えるならば、箴言27:21は「銀にはるつぼ、金には炉、人は、その讃美に応じて」あるいは「その讃美の口に応じて」となる。単独で読むのであれば、協会共同訳も正確な訳と言えると思われる。協会共同訳は他の訳とあえて異なる訳を提起しているが、人が讃美によって精錬されるというビジョンは美しいと思われる。

ゼカリヤ書(5) 飛ぶ巻物―律法の呪いと裁き

『ゼカリヤ書(5) 飛ぶ巻物―律法の呪いと裁き』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、飛ぶ巻物とその意味

Ⅲ、主の裁きの宣告

Ⅳ、律法について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

   

前回までのまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。

第一章では、神に立ち帰ることの勧めと、キリストのとりなしのビジョンが告げられた。

第二章では、悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選ぶビジョンが告げられた。

第三章では、神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くことが預言された。

第四章では、ゼカリヤが眠りから起こされ、神からたえず油(霊)がそそがれる燭台のビジョンが告げられ、人の力によらず神の霊によって人が生きる時に世の光となることが示された。また、二本のオリーブの樹(政治と宗教の両方の分野で神と結びついた指導者)のビジョンが示された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は五章前半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

☆第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)⇒ ※ 今回

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第五章前半(第六の幻)の構成 

 

第一部 飛ぶ巻物とその意味 (5:1~3)

第二部 主の裁きの宣告  (5:4)

 

 第五章前半では、第六の幻が示される。まず第一部において、飛ぶ巻物のビジョンとその意味が告げられる。

第二部では、主の言葉が告げられ、盗みと偽りの誓いをする者たちが裁きを受けることが伝えられる。

 

Ⅱ、飛ぶ巻物とその意味 (5:1~3)

 

◇ 5:1 ゼカリヤが再び目をあげて見ると

 

※ 四章冒頭では眠りこけていて、天使に揺り起こされたゼカリヤは、五章では最初から目覚めている。すでに霊的に鈍い状態を脱し、神の霊としっかりと結びついたゼカリヤは、自ら目を上げた。⇒ 飛ぶ巻物が見えた。

 

◇ 5:2 「何が見えるか?」

 

・ゼカリヤ4:2と同じ。神は、しばしば、いま何が見えるか?と人に問う。(ゼカリヤ5:2、エレミヤ1:11、1:13など)。

 ⇒ 預言者というのは、神の問いに対して、誠実にきちんと目に見えたものを答える人。私たちも、いま何が見えているのか、問いつつ生きることが大切。

 

◇ 5:2 飛んでいる巻物:長さ20アンマ、幅10アンマ

 

⇒ 巻物=神の御言葉が記された巻物(エゼキエル2:8-10、黙示録5:1、黙示録10:9-10)。

 当時は、羊皮紙やパピルスに文字を記し、巻物にしていた。聖書も巻物だった。

次の3節で「呪い」であることが示されていることを考えれば、「律法の呪い」(ガラテヤ3:13)、つまりこの巻物は「律法」(モーセ五書もしくはそれを中心にした旧約聖書に示された神の掟と意志)を意味している。

 

※ 参照:「仰せを地に送ると/御言葉は速やかに走る。」(詩編147:15)

および詩編19:1-5 

⇒ 神の意志が全地に速やかに執行されることを、「飛ぶ巻物」と述べている。

 

☆ 1アンマは約45㎝。したがって、この飛んでいる巻物の大きさは、長さ9メートル、幅4.5メートル。(講話担当者の5人分ほどの高さと幅)

 

※ この巻物の大きさは、ソロモンの神殿の玄関前の広さと同じ。

(参照:列王記上6:3「神殿の外陣の前にある廊は、神殿の幅に従い、長さ二十アンマ、神殿の前に幅十アンマであった。」

 

⇒ ゼカリヤ四章ではゼルバベルとヨシュアによって神殿の再建が進む様子が希望をもって語られたが、五章では神殿再建後は、その再建された神殿から、神の律法に基づく裁きの声が鳴り響くというビジョン。

 

◇ 5:3 飛ぶ巻物の意味は呪い

 

・全地に出ていく呪い。つまり、神の裁き。律法に違反した場合、律法にもとづいて神の裁きが行われる。

 

特に、「盗む者」と「偽って誓う者」が「取り除かれる」ことが記され、盗みと偽りの誓いの罪が呪いの対象となっている。

◇ 「盗み」と「偽りの誓い」とは

 

※ モーセ十戒出エジプト20章、申命記5章)の第七戒「盗んではならない」と第八戒「隣人について偽りの証言をしてはならない」のこととも考えられる。だとすれば、十戒の中の、特に他人に対する道徳や倫理への違反について取り上げ、主が裁くことを述べている。

 

※ あるいは、十戒の第七戒はそのとおりとして、「偽りの誓い」は「隣人についての偽りの証言」に限らず、十戒全体および十戒を含めたすべての律法を指すとも考えられる。

もともと、十戒や律法全体は、モーセに率いられたイスラエルの民が神と結んだ契約であり、「呪いを伴う契約」(申命記29:11)であり、違反した場合は呪われ罰せられることが約束されていた。

 

⇒ その場合、「盗み」と「偽りの誓い」は、本来の律法の精神である神を愛し隣人を愛すること(マルコ12:29-30)に違反し、隣人を大切にせず侵害し、神を大切にせずおろそかにすることであり、律法の精神全体の毀損を指していると考えられる。

 

※ イザヤ48:1には、「主の名によって誓い/イスラエルの神の名を唱えるが/真実もなく、正義もなくそれをなす者よ。」とあり、「偽りの誓い」は、神への真実の信仰がなく、形式的な宗教に堕していることを指している。ゼカリヤにおいても、真実の信仰つまり神と自分との一対一の生き生きとした関係を持たず、単なる形式的な祭儀だけになることへの警戒や批判があったとも考えられる。

 

※ ちなみに「盗み」については、関根訳の脚注には、バビロン捕囚で遠方に行っていた人々の家屋や土地を自分のものとして占有していた人々のことが当時問題になっていたのではないかと推測している(パレスチナ人の家屋にその後イスラエルの人々が定住したことと若干似た歴史と思われる)。

 

※ また、「盗み」については、マラキ3:8から、十分の一の収入を神のために用いるということをしないことを含意しているという解釈もある。(参照・ネヘミヤ13:10、十分の一の献納がなくレビの分が与えられていなかったこと。)

 

 

Ⅲ、主の裁きの宣告  (5:4) 

 

◇ 主が飛ぶ巻物を送り出した

 

主が律法を啓示し、律法にもとづく裁きを執行すること。

 

◇ 「飛ぶ巻物」が「盗人の家」や「偽りを誓う者の家」に入り、とどまり、滅ぼす

 

⇒ 「飛ぶ巻物」が擬人化され、律法違反者の家に入り、とどまり、滅ぼす主体として描かれている。律法、つまり法則が、審判を執行するということ。

 

◇ 「家」が裁かれること

 

 家:ヘブライ語では「バイス」。家庭および家屋の両方の意味がある。

 

※ 「家」は民族や部族を表す場合もある。

イスラエルの家」(出エジプト16:31、アモス5:4など)、「ユダの家」(イザヤ37:31など)、「ヨセフの家」(ゼカリヤ10:6など)

 

※ 「家」は王家や王朝を表す場合もある。

ダビデの家」(歴代誌上17:24)、「ヤロブアムの家」(列王記上14:10)、「アハブの家」(列王記下8:27)

 

※ 聖書においては、神が家を建てる、つまり家庭にしろ、ひとつの国家や王家にしろ、建てると考えられている。

参照・詩編127:1「もし、主が家を建てるのでなければ/それを建てる人々は空しく労苦することになる。/もし、主が町を守るのでなければ/守る人は空しく見張ることになる。」

 

※ 神の裁きは、子や孫にかかわる。

出エジプト20:5b「私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、」  (※ただし「愛千義三」)

 

岩波訳5:4f「家の〔梁や板張りの〕木も〔基礎の〕石も滅ぼし尽くす」。

⇒ 盗みや偽りの誓いにより、隣人や神に対して罪を行う者の家庭もしくは国家に対して、神は裁きによって上部構造も根底の下部構造も滅ぼし尽くす。

 

律法に違反し、神に対する愛や隣人愛を失った存在は、魂が枯れていき、神によってしか建てられない家が、神の加護を離れるために滅びる。

 

⇒ 「家」が裁かれるということは、それぞれの家庭が裁きの対象であるとともに、民族や王国など共同体が裁きの対象であることを表している。

 

 

◇ モーセの七戒と八戒:「盗み」と「隣人への偽証」について

 

ルターは、十戒についての文章の中で、以下のように第七戒と第八戒を深く受けとめている。参照:藤田孫太郎編訳『マルティン・ルター 祈りと慰めの言葉』(新教出版社、1966年)38-40頁。

 

第七戒(あなたは盗みをしてはならない)について:

① ここで学ぶこと:自分で汗して自ら養う。神が私の財産を安全に保護したもうこと。

② 神が全世界にこのような善い教訓と庇護を与えた好意に感謝。

③ 「わたしは、生涯にわたって他人に不当な行為をしたり、他人を短気にあるいは不誠実に取り扱ったならば、私のすべての罪と忘恩を懺悔する。」

④ 「盗みと強奪と高利を貪ることと横領と不正を少なく」する神の恵みを、自分と全世界に祈る。

 

⇒ ルターは第七戒を単なる「盗み」だけでなく、他人に対する不当な行為全体を指すものだと深く受けとめ、自らの罪を懺悔し、神の恩恵を感謝する契機としている。

 

八戒(あなたは偽りの証しを立ててはならない)について:

① この掟が教えること:「互いに真実であり、あらゆる虚言と中傷を避け、他人のことについて喜んで最善のことを語りまた聞くこと」

② 神の庇護と教えに対して感謝。

③ 「わたしたちは、わたしたちの隣人に対して虚言と偽りの悪しき口をもってわたしたちの生涯をかく恩知らずに、また罪悪的に過ごしたことを懺悔し、このためにめぐみを切に求める、というのは、わたしたちも自分にしてもらいたいと思うように、わたしたちは隣人のすべての名誉と無過失を維持する義務があるからである。」

④ この掟を守るため、援助と救いのためになる舌を祈願。

 

⇒ 隣人に対して真実であり、最善のことを語り、聞くことを第八戒の精神としてルターは受けとめ、隣人の名誉を維持することだと深く受けとめている。

⇒ ゴシップやヘイトスピーチや嫉妬や罵りがネット上に蔓延する現代社会には、この精神こそが大切と思われる。

 

☆ 他人を誠実に取り扱い、他人の名誉を守ること。これができない社会は神の裁きを受けることが、宣告されている。

 

 

Ⅳ、律法について 

 

◇ 上記で、ゼカリヤの第六の幻「飛ぶ巻物」についての聖書の記述については見た。ここで「律法」について考察したい。

 

◇ ゼカリヤ書五章前半本文では「律法」の言葉は出ておらず、「飛ぶ巻物」であるが、それが神の呪いと裁きを意味していることを考えれば、律法を指していることは明白である。(参照:ガラテヤ3:13「律法の呪い」)

 

※ 律法とは:

ヘブライ語「トーラー」(תּוֹרָה 教え)、ギリシャ語「ノモス」(νόμος法則)

 

旧約聖書においては、創世記・出エジプト記レビ記民数記申命記のいわゆるモーセ五書を「律法」と呼ぶ。それらの箇所は、歴史物語を多く含み、必ずしも法律的内容だけではないが、祭儀的律法(幕屋や犠牲や祭りについての規定など)と道徳的律法(十戒など)を多く含む。

 

旧約聖書は、律法のみでなく、歴史・預言書・知恵文学の部分を持つ。しかし、その根幹を成すのは律法であり、他の部分は律法に関連している。

 

・歴史(列王記、歴代誌など)は、律法に違反したイスラエルの民に対する神の裁きを主な内容としており、単なる歴史というよりも、律法と関連した歴史観で貫かれている(申命記史観)。

・預言書は、律法に違反したイスラエルの民の罪を指摘し、神と律法に立ち帰ることが繰り返し記されている。

・知恵文学も、律法が知恵の中心とされている(バルク4:1「知恵は神の掟の書、永遠に続く律法である。これを堅く保つ者は皆、命に至り、これを捨てる者は死に至る。」、および詩編19:8など。)

 

⇒ つまり、旧約聖書においては上記のとおり一見すると律法が中心的位置を占めている。

 

※ ただし、新約聖書においては、「律法」はモーセ五書のみを指すとは必ずしも限らず、他の用例が新約聖書には存在している。

 

パウロは異邦人も良心と自然によって律法を持っていると論じている(ロマ2:14-15)。(これを「自然の律法」と『聖書思想事典』はまとめている。)

 

・また、パウロは「キリストの律法」という言葉も用いている。(ガラテヤ6:2、Ⅰコリ9:21)。ヤコブでは「自由をもたらす律法」が述べられている(ヤコブ1:25、同2:12)。これは、福音のことを指している。

 

したがって、聖書における律法には三種類ある。

 

① 自然の律法 (異邦人や、アダム以後モーセ以前の人々の律法。理性や良心によって把握される。)

② モーセの律法 (祭儀的律法と道徳的律法の両方を含む)

③ キリストの律法 (福音。新約聖書の教え。)

 

※ たとえば、日本の歴史においては、仏教や儒教が①の自然の律法をある程度、人々に教えていたと思われる。仏教の五戒や十善戒には、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語など、モーセ十戒に共通するものが含まれる。また、儒教における孝の精神は、父母を敬う十戒の精神と共通している部分もある。

 

①あるいは②によって、すべての人が本来は滅びるはずだったのが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで罪が赦される、というのが新約聖書の教え。

参照:「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。」(ロマ10:4)

 

 

◇ それでは、福音と律法(①~③を含む)の関係はどうなるのか?

 

塚本虎二は「福音と律法」(塚本虎二著作集・続 第七巻、317-324頁)において、以下の三つの態度が多く存在していることを指摘し、どれも否定している。

 

A、律法主義 (クリスチャンはモーセ律法もすべて遵守すべき。マタイ5:17-20などに依拠)

 

B、律法否定主義 (パウロの「信仰によって義とされる」を極端に推し進め、守るべき律法はないとし、モーセ律法のみならず、あらゆる道徳から自由であると主張)

 

C、折衷主義 (モーセ律法は否定されたが、イエスによる山上の垂訓や使徒による訓戒の遵守を主張。つまり、②は廃棄されたとするが③を律法的に受けとめる。)

 

※ 塚本は、どれも不可としている。

Aはキリストの十字架を無意味とするものであり、Bは無道徳主義で堕落に陥ると指摘。Cは、不徹底な立場で、イエスが律法の呪いからすでに私たちを解放したのに、再び新たなる律法をつくるはずはない、と論じる。

 

⇒ それでは、律法と福音の関係はどうなるのか?

 

※ 塚本虎二の高利貸のたとえ:高利貸からの債務を友人が支払ってくれた。法律上はなんらの義務もなくなった。しかし、友人の愛に対する道徳上の義務・愛の義務が新たに生まれた。キリストの無限の愛に対する感謝から、全身全霊全力をささげ尽くし、モーセ律法に百倍千倍する義務をキリストに対して負う。冷酷な義務の綱ではなく、温かき愛の絆となる。

 

※ 律法は本来は自然の法則を示しており、神から恩恵として与えられたものだったが、常に自己中心でしか生きられない罪を抱えた人間は、律法を持つとかえって律法を根拠に人を裁き、残酷になってしまう。かつてのパウロがそうであり、今も昔も、なんらかの正義にもとづいてかえって残酷になってしまう人間は多い。罪がかえって律法によって罪として現れてしまうのが人間である。しかし、十字架の贖いと復活によって、罪がすでに赦され、聖霊が働く人は、一挙にすべてではなくても、時折は、中心が自己から離れて、神を讃える讃美歌を歌ったり、神を中心とし、隣人を愛することが聖霊の恵みによってできるようになる。中心が自己から神に移る。この自己中心を離れることは、聖霊の恵みによってはじめてできることで、これが律法の呪いからの解放ということ。

 

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書五章前半(第六の幻)から考えたこと

 

・個人的なことを言えば、キリストを信じる以前から、「自然の律法」の問題は、仏教の自業自得の法則の問題として、私にとっては大きな問題だった。仏教には自業自得を超える弥陀回向の本願念仏の教えもある。しかし、浄土門の場合、キリストには歴史的実在の人格であることと、十字架の贖いという要素があるのに対し、非歴史的理念的存在であり、贖いという契機があいまいな点が異なっていた。

 

・ゼカリヤは、十戒の第七戒と第八戒の違反を特に問題としていたが、日本ははたしてこれを守れているのか?

(国家全体としては、日本国憲法前文や九条の精神と誓約がともすれば忘却され軽んじられていること。また河野談話村山談話の精神や誓約が全く軽んじられていること。社会全体としても、オレオレ詐欺や手抜き工事やブラック企業の蔓延、他人の名誉や人権への軽視が横行していること。その一方で、これらを大切にする地の塩・世の光も存在している。)

 

・本来であれば、律法の呪いによって、飛ぶ巻物によって、滅ぼされるべき私たちが、キリストの十字架の贖いによって、すでに罪を赦され、自由の身となった。この恵みの本当のありがたさは、しかしながら、飛ぶ巻物、つまり「義」の厳しさがわからないと、わからない。義がわかって神の愛はわかる。

 

・キリストを信じる私たちはすでに律法の呪いから十字架の贖いによって完全に自由になっており、自然の律法からもモーセ律法からも自由である。律法違反の罪からは解放され、神によって義とされ、永遠のいのちが与えられている。その限りない神の愛を知り、感じるほどに、自発的に神への愛と隣人の愛に生きることができる。キリストが来たのちは律法の巻物だけでなく、福音の巻物が全地を飛び交っており、私たちもまたその一助となることが願われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

第二テモテ 資料集 異訳対照

資料集 

 

Ⅰ、第一の讃美歌 不滅のいのち (第二テモテ1:9~10)

 

 

協会共同訳:神が私たちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、私たちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにあって私たちに与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。

 

新共同訳:神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

 

共同訳:神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです(エフェ2 8-9、ティト3 5参照)。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエススにおいてわたしたちのために与えられ(エフェ1 4参照)、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエススの現われによって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし(一コリ15 54-57、ヘブ2 14-15参照)、福音を通して不滅の生命を現してくださいました。

 

岩波訳

〔神は〕私たちを救い、

聖なる召しによって召して下さった、

私たちの行ないに従ってではなく、

御自身の意思(おもい)と恵みに従って。

〔この恵みは〕キリスト・イエスにある私たちに与えられた、

永遠の時以前から。

〔この恵みは〕今やあらわにされた、

私たちの救い主キリスト・イエスの顕現を通して。

〔キリストは〕一方で死を無力にし

他方で生命(いのち)と不死性を光のもとに導いた、福音を通して。

 

塚本虎二訳:神はわたし達をお救いになり、聖であらせようとしてお召しになった。それはもちろんわたし達の業によるのでなく、御自身の(選びの)計画と恩恵とによるのであって、永遠の昔すでにキリスト・イエスにおいてお定めになったわたし達の分であるが、いまわたし達の救い主キリスト・イエスの御降臨によってついに啓示されたのである。このお方は一方では死を滅ぼし、他方福音によって不滅の命を明るみに出されたお方であって、

 

前田護郎訳:神がわれらを救って、聖なる招きをもってお招きになったのでして、それはわれらのわざによらず、彼ご自身のおぼし召しと恵みによるものです。この恵みは永遠の昔からキリスト・イエスにあってわれらに賜ったものです。それは今やわれらの救い主キリスト・イエスの出現によって現実にされました。彼は死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅とを明らかになさったのです。

 

口語訳:神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。

 

新改訳2017:神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、

今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。

 

文語訳:神は我らを救い聖なる召をもて召し給へり。これわれらの行為に由るにあらず、神の御旨にて創世の前にキリスト・イエスをもて我らに賜いし恩恵によるなり。この恩恵は今われらの救主キリスト・イエスの現れ給うによりて顕れたり。彼は死をほろぼし、福音をもて生命と朽ちざる事とを明かにし給えり。

 

フランシスコ会:神はわたしたちを救い、また聖なる招きをもって招いてくださいましたが、これは、わたしたちの業によるのではなく、神ご自身の計画とその恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスに結ばれているわたしたちに、永遠の昔から与えられ、今、わたしたちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音によって不滅の命を明らかに示されました。

 

バルバロ訳:神が聖なるお召しによって私たちを救いそして召されたのは、私たちの行いによるのではなく、神のみ旨と恩寵による。その恩寵は、代々の前からイエズス・キリストにおいて私たちに与えられたもので、死を滅ぼし、福音によって命と不朽を輝かされた救い主キリスト・イエズスの現れによって、今明らかにされた。

 

柳生直行訳:われわれは救われて、かたじけなくも神のお招きにあずかる者となった。それは、われわれが何か善いことをしたからではなく、神御自身の恵みの計画に基づくことだったのである。その恵みは、永遠の昔から、キリスト・イエスとの結合を通してわれわれに与えらえているものなのだが、それが今、われらの救い主キリスト・イエスの出現によって、はっきりと示されるに至ったのだ。では、その恵みとは何か。それは、キリスト・イエスが死を滅ぼし、福音によって不死の生命(いのち)を目のあたり見せて下さった、ということである。

 

宮平望訳

神が私たちを救い、

聖なる招きによって呼び出したのは、

私たちの業によるのではなく、

御自身が恵みとして差し出したものによるのであり、

それはキリスト・イエスにおいて私たちに与えられた

永遠の昔からのもの、

今や明らかにされたもの、

私たちの救い主キリスト・イエスの輝きによって、彼は死を滅ぼし、

福音によって朽ちることのない命に光を当てました。

 

田川健三訳:神は我らを救い給うた方、聖なる召しによって、我らの業績の故ではなく御自身の計画と恵みによって、我らを召し給うた方。恵みは、キリスト・イエスにおいて、此の世の時よりも前に我らに与えられたもの。その恵みが今や我らの救済者キリスト・イエスの顕現によって明らかとなった。キリストは死を無効にし、福音によって生命と不滅とを輝かせて下さった。

 

岩隈直訳:彼(神)はわたしたちを救い、聖なる召しによって召し給うたが、それはわたしたちのわざによるのでなく(神)御自身の計画と恩恵によるのである。それ(恩恵)は永遠の昔にクリーストス・イエースースにあってわたしたちに与えられたものであるが、今わたしたちの救い主イエースース・クリーストスの出現によってあらわされたものである。彼(イエースース・クリーストス)は、一方において死を滅ぼし他方において福音によって命と不朽とを明らかにされた。

 

9 τοῦ σώσαντος ἡμᾶς καὶ καλέσαντος κλήσει ἁγίᾳ, οὐ κατὰ τὰ ἔργα ἡμῶν ἀλλὰ κατὰ ἰδίαν πρόθεσιν καὶ χάριν, τὴν δοθεῖσαν ἡμῖν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ πρὸ χρόνων αἰωνίων,

 

10 φανερωθεῖσαν δὲ νῦν διὰ τῆς ἐπιφανείας τοῦ Σωτῆρος ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, καταργήσαντος μὲν τὸν θάνατον φωτίσαντος δὲ ζωὴν καὶ ἀφθαρσίαν διὰ τοῦ εὐαγγελίου.

 

9 tou sōsantos ēmas kai kalesantos klēsei hagia, ou kata ta erga hēmōn alla kata idian prothesin kai charin, tēn dotheisan hēmin en Christō Iēsou pro chronōn aiōniōn,

 

10 phanerōtheisan de nun dia tēs epiphaneias tou sōtēros hēmōn Christou Iēsou, katargēsantos men ton thanaton phōtisantos de zōēn kai aphtharsian dia tou euangeliou.

 

 

 

 

Ⅱ、第二の讃美歌 主の真実 (第二テモテ2:11~13) 

 

協会共同訳

次の言葉は真実です。

「私たちは、この方と共に死んだのなら

この方と共に生きるようになる。

耐え忍ぶなら

この方と共に支配するようになる。

私たちが否むなら

この方も私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても

この方は常に真実であられる。

この方にはご自身を

否むことはできないからである。」

 

新共同訳

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きるようになる。

耐え忍ぶなら、

キリストと共に支配するようになる。

キリストを否むなら、

キリストもわたしたちを否まれる。

わたしたちが誠実でなくても、

キリストは常に真実であられる。

キリストは御自身を

否むことができないからである。」

 

共同訳

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きるようになる(ロマ6 2-5、8参照)。

耐え忍ぶなら、

キリストと共に支配するようになる(ロマ5 17、8 17、エフェ2 6、黙示5 10、22 5参照)。

キリストをいなむなら、

キリストもわたしたちをいなまれる(マタ10 33、ルカ12 9参照)。

わたしたちが誠実でなくても、

キリストは常に誠実であられる(ロマ3 3-4参照)。

キリストはご自身をいなむことができないからである」。

 

岩波訳

この言葉は信に値する。

私たちは〔キリストと〕共に死んだなら、

〔キリストと〕共に生きもするだろう。

私たちは耐え忍ぶなら、

〔キリストと〕共に王国的支配もするだろう。

私たちが〔キリストを〕否むなら、

彼もまた私たちを否むだろう。

私たちが忠実でなくても、

彼は忠実であり続ける。

自身を否むことができないから。

 

塚本虎二訳:(キリストの復活についての)今の言葉は本当である、すなわち――「なぜなら、もしわたし達が(キリストと)一しょに死んだら、一しょに生きる。もしわたし達が耐え忍ぶなら、(キリストと)一しょに王となる。もしわたし達が(キリストを)否認するなら、このお方もわたし達を否認される。たといわたし達は不誠実であっても、このお方はいつも誠実である。御自分(の言葉)を否認することはお出来にならないのだから」。

 

前田護郎訳:信ずべきはこのことばです。――「われらは彼とともに死ねば、共に生きよう。彼とともに忍べば、共に王になろう。彼を否めば、彼もわれらを否もう。われらがまことならずとも、彼はつねにまことにいます、彼は自らを否みえないから」。

 

口語訳:次の言葉は確実である。

「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。

もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。

 

新改訳2017

次のことばは真実です。

「私たちが、キリストとともに死んだのなら、

キリストとともに生きるようになる。

耐え忍んでいるなら、

キリストとともに王となる。

キリストを否むなら、

キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、

キリストは常に真実である。

ご自分を否むことができないからである。」

 

文語訳

ここに信ずべき言(ことば)あり『我等もし彼と共に死にたる者ならば、彼と共に生くべし。

もし耐へ忍ばば、彼と共に王となるべし。もし彼を否まば、彼も我らを否み給わん。

我らは真実ならずとも、彼は絶えず真実にましませり、彼は己を否み給うこと能わざればなり』

 

フランシスコ会

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストとともに死んだのなら、

キリストとともに生きるようになる。

わたしたちは、耐え忍ぶなら、

キリストとともに支配するようになる。

わたしたちがキリストを否むなら、

キリストもわたしたちを否まれる。

わたしたちが誠実でなくとも、

キリストは常に誠実であられる。

キリストはご自身を否むことができないからである」。

 

バルバロ訳

すなわち、次のことばは信じるに足るものである。「私たちがキリストとともに死んだならまたキリストとともに生きるであろう。もし最後まで耐え忍ぶなら、私たちもキリストとともにその王国をつかさどる。もし否むならキリストも私たちを否まれる。私たちが不忠実であっても、神は常に忠実である。神がご自分を否むことはないからである」。

 

柳生直行訳

次の言葉は真実である。

「われわれは、彼と共に死ぬなら、

彼と共に生きることができる。

耐え忍ぶなら、

彼と共に支配する者となる。

彼を否むなら、

彼もわれわれを否むであろう。

だが、われわれは不実でも、

彼はつねに誠実である。

彼は本性上、不実たり得ないのだ。」

 

宮平望訳

この言葉は真実です。

「実に、もし、私たちが共に死んだのなら、共に生きるだろう。

もし、私たちが耐え抜くなら、共に王にもなるだろう。

もし、私たちが拒むなら、

その方も私たちを拒むだろう。

もし私たちが信じないとしても、その方は常に真実である。

かれは自分自身を拒むことができないからである。」

 

田川健三訳

この言葉は信実である、「もしも我々が共に死んだのであれば、共に生きるであろう。耐え忍ぶならば、共に王となるであろう。否定するならば、彼もまた我々のことを否定するだろう。我々が不信実であるとしても、彼は信実でありつづける。彼がみずからを否定することはありえない」、という。

 

岩隈直訳

この(次の)言葉は信じてよい、

というのは、もしわたしたちが(クリーストスと)一緒に苦しんだなら、わたしたちも一緒に生きるであろう。

もしわたしたちが忍耐するなら、わたしたちも一緒に王になるであろう。

もしわたしたちが(クリーストスを)否認するなら、彼もまたわたしたちを否認し給うであろう。

たとえわたしたちが不信実であっても、彼は信実であり続け給う、というのは、彼は自分を否認することができないのだから。

 

11 πιστὸς ὁ λόγος · εἰ γὰρ συναπεθάνομεν, καὶ συζήσομεν ·

12 εἰ ὑπομένομεν, καὶ συμβασιλεύσομεν. εἰ ἀρνησόμεθα, κἀκεῖνος ἀρνήσεται ἡμᾶς.

13 εἰ ἀπιστοῦμεν, ἐκεῖνος πιστὸς μένει. ἀρνήσασθαι γὰρ ἑαυτὸν οὐ δύναται.

 

11 pistos o logos ei gar sunapethanomen, kai suzēsomen

12 ei hupomenomen, kai sumbasileusomen. ei arnēsometha, kakeinos arnēsetai hēmas

13 ei apistoumen, ekeinos pistos menei, arnēsasthai gar heauton ou dunatai.