ゼカリヤ書(4) ただ神の霊によって光となる

 

『ゼカリヤ書(4) ただ神の霊によって光となる』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、金の燭台と七つの灯皿

Ⅲ、ともしびとなるために神の霊と結びつくこと

Ⅳ、二本のオリーブの木と枝

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

    

 

前回までのまとめ

 

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選び、そこには城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。第三章では、サタンの告発から主のみ使いが大祭司ヨシュアを弁護し、神がヨシュアの罪を赦すことと、さらには若枝(メシア)が来て「地の過ち」(人類の罪)を一日のうちに取り除く(十字架の贖い)がなされて平和に至ることが預言された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は四章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

☆第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)⇒ ※今回

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第四章(第五の幻)の構成 

 

第一部 金の燭台と七つの灯皿 (4:1~5)

第二部 ともしびとなるために神の霊と結びつくこと (4:6~10)

第三部 二本のオリーブの木と枝(4:11~14)

 

 第四章では、第五の幻が示される。まず第一部において、金の燭台と七つの灯火皿のビジョンが示される。

第二部では、それがゼルバベルに向けられた神の言葉であることが示され、人の力によらず神の霊によって人が生きる時に、メシアの到来へと向かう歴史の一部となり、世の光となることが示される。

第三部では、二本のオリーブの木の枝が、二人の神の霊をそそがれた人間であることが告げられ、神の霊としっかり結びついた人間によって神の霊は人々に伝わることが示される。おそらくその二人の人物であるユダヤ総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアは、政治と宗教のそれぞれを象徴している。俗と聖の両方の分野で神の霊と結びついた指導者に恵まれる時に、この世は光輝きだすことが示されている。

Ⅱ、金の燭台と七つの灯皿 (4:1~5)

 

◇ 4:1 眠っていたゼカリヤとそれを起こすみ使い

 

バルバロ訳:「それから、私のなかで語っていた天使は、眠りから目覚めるように、私の目をさまさせた。」

 

※ なぜゼカリヤは眠っていたのか?

 

⇒ 四章の中にはその説明は何もない。通常、聖書では霊的に鈍くなった状態のことを「眠り」と表現する場合が多い(ヨナ1:5、マルコ14:40)。

 

・直前の三章では、メシアによる罪の贖いが説かれている。三章との関連で考えると、このことと関連していると思われる。

 

⇒ キリスト教においては、キリストを信じるだけで罪が贖われて救われることが告げられる。そのこと自体は真実だとしても、それが硬直した教義になると、信仰箇条を列挙してそれを承認すれば救われる、という姿勢になりやすい。つまり信仰が知識やドグマの問題にすり替わってしまう。

 

⇒ 単なる知識としてキリストとその救いを知っただけで、そこに安住し、生き生きとした神との霊的なつながりや神の言葉との絶えざる対話を持たないと、そこには霊的に鈍い状態が起こりうる危険がある。単なる儀式や知識と、本当に生きた信仰は異なる(⇒「眠り」から常に目覚めるのが無教会主義)。

 

◇ 4:2 「何が見えるか?」

 

・神は、しばしば、いま何が見えるか?と人に問う。(ゼカリヤ5:2、エレミヤ1:11、1:13など)。

 ⇒ 預言者というのは、神の問いに対して、誠実にきちんと目に見えたものを答える人。 ⇒ 一方、人はしばしば、この世界の出来事に気づかず、見ていないこと、あるいは見て見ぬふりをすることがあるのではないか?

 

 ⇒ 私たちも、いま何が見えているのか、何を見ているのか、問いつつ生きることの大切さ。

◇ 4:2-3 金の燭台と七つの灯皿と二本のオリーブの木

 

⇒ 1頁めの図を参照。ただし、おそらくはもっと古い時代の素朴な燭台で、円筒の上に丸い鉢があり、その上に七枚の皿があるという形。

 

(※ただし、関根訳だと、1頁めの図のようである。 関根訳「私は見ると、見よ、一つの燭台があって、すべて金でできています。一番上に皿があり、それに七つのともしびがついていて、そのともしびごとに七つのくちがあります。」)

 

◇ 4:4-5 主に意味を尋ねる。

 

・ゼカリヤはみ使いに、見えたものにどのような意味があるかを尋ねている。み使いが「何であるか知らないのか」と尋ねると、「知りません」と素直に答えている。

 

⇒ 私たちは、しばしばこの人生や世界において見えていることの意味がわからないことがある。その時は、神にその意味を尋ね、聖書を開いてその意味を尋ね求め、神との対話を続けていくことが重要なのだと思われる。

 

 

Ⅲ、ともしびとなるために神の霊と結びつくこと(4:6~10) 

 

◇ 4:6-7 金の燭台の意味:ゼルバベルに向けられた言葉・み使いが語る。

 

ゼルバベル

当時のユダヤ総督。大祭司ヨシュアと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として復興や神殿再建に尽力。第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。ハガイ書には神の言葉を受け入れ「神の印章」となったことが記され、ハガイ書・ゼカリヤ書ともにゼルバベルを高く評価している。

しかし、聖書の中には、唐突にゼルバベルについての記述が消えてしまい、その後の消息については不明。一説には、なんらかの政治的陰謀に巻き込まれて非業の死を遂げたと考えられ、イザヤ書五十三章において第二イザヤが描く「苦難の僕」は、ゼルバベルのことを指していたと推測する説もある。

 

新改訳2017 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』

関根訳 「力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」

岩波訳 「『武力によらず、権力によらず、わが霊によってである。』〔という意味だ。〕」

フランシスコ会訳 『武力によらず、権力によらず、むしろわたしの霊による』

バルバロ訳「それは権勢ではなく、力ではなく、私の霊によるものである」

 

⇒ ゼルバベル(ハガイ書では神の印章となった人物)は、人の世の力によってではなく、神の霊の力によって立つということと、そのことが金の燭台やオリーブの木の意味だと告げられる。

 

⇒ この世を良く変えたいと考えたとき、人はしばしば権力や武力などのこの世の力を持ちたいと考える。また、権力や武力を持たない場合、何もできないと無力感に陥る場合もある。しかし、ゼカリヤ書では、本当に世の中を変えるのは、神の霊の力であることが告げられている。

 

⇒ 本当に世の中を変えてきたのは、神の霊の力とつながった人物。ゼルバベルはイエスの予表。人は権力ある地位にいるかどうかに意義があるのではなく、神の言葉を受け入れ、神の霊と結びついている時、金の燭台(世の光)となり、その燭台に油を与え続けるオリーブの木の枝となりうる。

 

⇒ 神の霊という油が供給され続ける時、人は「世の光」(マタイ5:14)となる。

 

◇ 4:7 山がゼルバベルの前で平地となり、ゼルバベルは「恵みあれ」と叫びながら、「頭石」を運び出してくる。

 

⇒ 「頭石」=「親石」(詩編118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」)、エフェソ2:20等。キリストのこと。メシアのこと。

 

⇒ 大きな時代の困難や課題も、神のしるしとされ神の霊の力によって立つ人の前では平定されていき、乗り越えていくことができる。それらの人々は「恵みあれ」と神を讃え、キリストの時代・メシアの到来へと至る歴史を歩む。

 

⇒ キリストの初臨以前の時代のゼカリヤにとっては初臨へと至る歴史をつくることであり、初臨と復活以後の時代の私たちにとっては、神の国の到来と再臨を待つ歴史の歩みを歩むこと。

◇ 4:8  ゼカリヤに告げられる主の言葉

 

 4:6-7の言葉はみ使い「彼」の言葉だった。4:8では、4:9-10は「主」の言葉だと告げられる。4:9では、「私」(主)を「万軍の主」が遣わされたと「あなた」(ゼカリヤ)は知るようになる、と記される。したがって4:6の「彼」つまり「み使い」は「主」だということになる(そうでないと主が主を遣わしたという意味のわからない一文になる)。ゼカリヤ一章以来登場した、ゼカリヤに御言葉を伝え、神と人との間をとりなし、ヨシュアを弁護し、ゼルバベルの意味を伝える「み使い」は(受肉前の)主イエス・キリストのこと。

 

◇ 4:9-10 ささいな日には大きな意味がある。

 

・ゼルバベルが神の家・神殿の基礎を据え、「その手」つまり神の手がそれを完成させていくこと。その歴史を通じて、ゼカリヤ(4:8の「私」)は4:9の「私」つまり「み使い」を「万軍の主」(父なる神)が遣わした「主」であると知るようになる。

⇒ ゼルバベルとヨシュアによる神殿の再建とイスラエルの復興は、長い歴史の目で見れば、数百年のちのイエスの到来を準備することであり、神が人として受肉して救いを現す歴史につながった。ゼカリヤはまだ遠い時代においてその未来を不思議なビジョンのうちに見た。

 

「誰がその日をささいなこととして蔑んだのか」

 

⇒ 私たちは、とかく日ごろの日々をささいなつまらない日常と思ったり、たいしたことのない日々だと思いがちである。しかし、神の霊と結びついた人々にとっての日々は、かけがえのない貴重な神の計画の一部であり、すべてのことに意味がある日々となる。神の国が来るための一歩一歩となる。その中で、人々は「喜び」生きていくことができる。 ⇒ゼルバベルとヨシュアたちの神殿再建やイスラエル復興の努力には大きな意味があった。

 

⇒ ゼルバベルが持っている「下げ振りの石」には七つの神の目がある。前回ゼカリヤ3:9で見たように、七つの目は七つの霊(イザヤ11:2、黙示録1:4-5)つまり神の霊、聖霊を意味しており、神がいつも神の霊と結びついた人々を見守っていること、および神の霊・神への信仰と結びついたゼルバベルのような指導者を得る時に、人々の「ささいな」日々もまた「喜び」ある日々になることを示していると思われる。「下げ振りの石」は測量に使う価値基準。

Ⅳ、二本のオリーブの木と枝(4:11~14) 

 

◇ 4:11-13 ともしびに油(神の霊)をそそいでいる、二本のオリーブの木と枝の意味をみ使い(キリスト)に尋ねる。(意味がわからない時は再度尋ねる。)

 

・金色は、主の幕屋の祭具に使われたように、神の栄光を現す色。「金色の油」は、原文では「金」。神の栄光、神の霊がオリーブの木を通じてともしびにそそがれている。

 

◇ 4:14 主の側に立つ油注がれた二人の人 =オリーブの木・枝

 

⇒ ゼルバベルとヨシュアのことか?

政治と宗教、政治的指導者と精神的指導者、聖と俗。

エスはこの二つを統合し、王にして大祭司であり、両面を備えた。

 

⇒ 政治と宗教、世俗と精神の両方の側面に優れた指導者がいる時に、しばしば世界の歴史は大きく変わることもある(ex.ケネディキング牧師)。

 

⇒ 権力や武力によらず、神の霊としっかりと結びついた、ゼカリヤとヨシュアのような政治的指導者と精神的指導者の両方を通じて、この世には神の霊・神の精神がそそがれ、この世のともしびがともされる。

 

「油そそがれた人たち」は、原文では「新しいオリーブ油の子ら」。

彼ら自身も、神の霊によって「新しい」人になるのであり、それ自体に力があるわけではない。人は神の霊と結びついた時に、人に神の霊を伝えるものとなりうるし、また神の霊はそのような人の働きを通じて伝わる。

 

※ なお、黙示録11:4には、「二人の証人」が「二本のオリーブの木」「二つの燭台」と記される。これは終末の日に、二人の預言者が現れることの預言であり、ゼカリヤのこの箇所も、その預言とも読める。

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書四章(第五の幻)から考えたこと

・ゼカリヤ書第四章に記される「第五の幻」には、先の第三章の「第四の幻」でメシアによる罪の赦しの福音が告げられたのちに、人々が霊的な眠りに陥らぬように示されている。信仰は単なる知識や信仰箇条の承認や儀式ではなく、常に神の油、つまり神の霊・神の御言葉がそそがれ続ける必要がある。たえざる神の御言葉との対話の中に、神とたえず結びつく時に、人は世の光となる。

 

・聖書の言葉と常に接していると、人は信じられない力を発揮する場合がある。

 

例:最近見た映画『ハクソー・リッジ』(2016年) 

デズモンド・ドス(1919-2006)を描いた作品。ドスは、良心的兵役拒否者だが、第二次世界大戦において衛生兵を志願。銃の訓練や所持を拒否するため、軍隊内で過酷ないじめに遭うが、除隊を拒否し、軍法会議にかけられるも勝訴して衛生兵となる。沖縄戦の過酷な戦場に行き、命がけで負傷兵の救護・救援を続け、75名以上の人命を救助し、良心的兵役拒否者としては初の名誉勲章を受ける。日本兵を救護したこともあったという。瀕死の重傷を負った時も肌身離さず聖書を所持した。

 

・「イエスの愛とは何なのか?」常に問い続けること。

最近見たドラマ『MAGI-天正遣欧少年使節-』(2019年)

 四人の少年は、イエスの愛とは何か、また宣教師たちの人種差別や黒人奴隷制や異端審問などに疑問を持ち、ローマ教皇グレゴリウス13世に問う。教皇は、イエスの愛とは何なのか問い続けることの大切さと、おそらくイエス自身も最後まで神の愛を問い続けたこと、問いや対話をやめず、対話し続けることが祈りであると述べる。

⇒ 硬直した教義や知識に安住せず、常に問いを持ち、神の言葉に触れ、神からの問いかけと神への問いとを続ける。

 

・油の絶えないともしびであること、さらには、オリーブの木そのものといかなくても、その枝ぐらいになりたい(そのためには聖書研究・無教会主義)。

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

ゼカリヤ書(3) ―神による着替え

 

 

『ゼカリヤ書(3) ―神による着替え』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神による着替え

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

      

前回のまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言(紀元前520年頃)。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選びそこは城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は三章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

☆第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) ⇒ ※今回

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

□ 第三章(第四の幻)の構成 

第一部 神による着替え (3:1~5)

第二部 神の約束と地の罪の赦し (3:6~10)

 

 第三章では、第四の幻が示される。前半の第一部においては、大祭司であるヨシュアが民の代表として主のみ使いの前に立ち、サタンの告発を受けるが、主と主のみ使いはサタンを責め、ヨシュアを汚れた衣から晴れ着に着替えさせ、罪を取り去ったことを宣言する。

さらに、後半の第二部では、神の御言葉に忠実に歩むならば、神の家と庭(エクレシア)を治める身となることと、将来メシアがやって来ること、ヨシュアたちはその予表(しるし)となることが告げられる。そして、七つの目のある石に刻印がなされることにより、地の罪が一日で除かれ、人々の平和が来ることが告げられる。新約から見れば、ここに十字架の贖罪の預言が示されている。

 

Ⅱ、神による着替え (3:1~3:5)

 

◇ 3:1 神の法廷におけるヨシュアと主のみ使いとサタン

 

ヨシュア:当時の大祭司。総督のゼルバベルと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として尽力。ハガイ1:12には、ゼルバベルと共にハガイの預言に耳を傾けたことが記されている。(ゼカリヤ書1:12では民とともに自分たちの罪を認め神に立ち帰ることを表明したと考えられる)。

 

主のみ使い:第一章・第二章に登場したみ使いか?だとすれば、神と人との間をとりなす仲保者であるイエス・キリスト。 ※バルバロ訳では「主の天使」。

 

サタンヘブライ語では「敵対者」一般を指す(岩波訳では「敵対者」)。ただし、ここでは神の法廷において、人の罪を告発する役割を果たしており、単なる敵対者一般というより、人間に対して罪の裁きを要求し滅ぼそうとする霊的な存在を表している(後世の新約時代にはそのような意味での固有名詞)。

 旧約においては、人口統計をつくるようにダビデをそそのかすサタン(歴代誌21:1)や、ヨブを試すように神に対して勧めるサタン(ヨブ記1:6-12)などが現れる。新約では、人を誘惑し(Ⅰコリ7:5)、つけこみ(Ⅱコリ2:11)、妨げ(Ⅰテサロニケ2:18)、道を踏み外させる(Ⅰテモテ5:15)存在としてサタンが言及されている。最終的にサタンは神に敗北する(黙示録20:7-10)。

 

 

◇ 3:2 主のみ使いによる弁護

 

・主のみ使いは、神がサタンを責められることを二回述べ、人の罪を許さず裁きを要求し滅ぼそうとするサタンの姿勢が神の御心にかなわないことを述べる。

c.f. マタイ18:14「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 c.f. 弁護者(パラクレートス)ヨハネ14章

 

燃えさし:バルバロ訳「燃え残りの木」。

神の怒りはしばしば「燃える炉」や「炎」「火」と表現される(詩21:10、詩18:9など)。「火」は人を試し(詩17:3-4、詩26:2)、銀を火で練るように試みて清める試練を意味する(詩66:10)。

⇒ ここでは、バビロン捕囚という大きな苦難を経て生き残ってきたことを、「燃えさし」「燃え残りの木」と呼んでいると考えられる。

主のみ使い(キリスト)は、大きな苦難を経て神の言葉に耳を傾けるようになったヨシュアヨシュアが代表するイスラエルの民を愛し、彼らを完全に滅ぼすことを望まず、サタンの告発から弁護し守ろうとしている。

c.f. 「残りの者」(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 3:3-5 神による着替え

 

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使いの前に立っている。(3:3)

⇒ 「汚れた衣」=罪に汚れている状態。

 

ヨシュアの罪とは?:

・神に背き、偶像崇拝や社会的不正義に耽り、南ユダ王国が滅亡するという事態に立ち至ったユダヤの民。

・バビロン捕囚期においても、異国の風習や文化に染まったことが考えられる(ヨシュアの一族も異民族の女性と結婚した者が多数いたことが記されている(のちに離縁)(エズラ10:18-19)。)

・捕囚期間後も二十年の間、神殿再建が滞っていたことは、ハガイ書が記すとおりであり、ヨシュアはその点では力不足の指導者でもあった。

 

・さらに言えば、アダム以来、人は神から離れようとする傾向・罪を持っており、皆大なり小なり汚れた衣を着てキリストの前に立っていると言える。(創世記3章、ホセア6:7、ロマ5:12、知恵の書2:23-24)。

 

◇ 3:4 「晴れ着」=新改訳2017・岩波訳「礼服」、関根訳「立派な服」

 

・「過ち」=新改訳2017・岩波訳「咎」、フランシスコ会訳・関根訳「罪」。

 

フランシスコ会訳3:4「見よ、わたしはお前の罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう。」

バルバロ訳3:4b「<見よ、私は、お前の罪を取り除いた>。」

 

⇒ み使い(キリスト)は、天使たちにヨシュアの汚れた衣を脱がせ、罪を取り除き、礼服を着せる。

 

c.f. マタイ22章、宴会のたとえ。天国の宴会では「礼服」をつけている必要があり、礼服を着ていないと追い出される。

 

礼服=キリストを信じることによって神に義とされること。キリストを着る。

 

「主イエス・キリストを着なさい。」(ロマ13:14a)

「キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)

c.f. 新しい人を着なさい(エフェソ4:24)、朽ちる存在の人間が不朽の死なないものを着る(Ⅰコリ15:53)。

 

・人は罪(汚れた衣)を身にまとっているが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで「汚れた衣」を脱ぎ、罪が赦され、「礼服」を着、キリストを着て、神の御前に立ち、キリストや天使と交わることができる存在となるというのが聖書の示すところである。黙示録によれば、天国の住人は「白い衣」を着ている。(黙示録3:4、3:5、4:4、6:11、7:9、7:13-17)。

 

◇3:5 「清いターバン」=フランシスコ会訳・岩波訳・バルバロ訳「清いかぶりもの」。 ⇒ 礼服をより完全にするという意味か。頭を清いターバン・かぶりもので覆うということで、思考までも完全に清らかな神にふさわしい聖なるものとなる、という意味か。(信仰による義認⇒一生をかけての完全なる聖潔)

 

 

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し(3:6~3:10) 

 

◇  3:7 

「家」:ヘブライ語バイス」。神の家の意味の場合は「神殿」と訳される。

「庭」:聖書では、庭・園は荒野と対比され平和な美しい豊かなイメージと結びつく。また、出エジプト記27章では「幕屋を囲む庭」が記され、庭は神の臨在の場所という意味もある。

 

⇒ 神の道を歩み、務め(関根訳「誡命」、新改訳2017「戒め」)を守るならば、神の家と庭の管理者となる。エクレシア(集会、教会)を守る者となる。

 

※ 信仰によって罪が赦されたのちは、神の御言葉に従って生きることが勧められている。

c.f. ヨハネ8:11 姦淫の女へのイエスのことば「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

c.f. Ⅰヨハ2:6「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」

そして、さらに、そのように御言葉に従って生きるようになった人は、自分だけでなく、エクレシアにおいて応分の役目を果たし、エクレシアを守るべきことが期待されていることが、この箇所では言われていると考えられる。

 

◇ 3:7c「ここに立っている者たちの間で行き来することを許す。」

 

フランシスコ会訳3:7c「ここに立っている者たちの間に入ることを許そう。」

=神やキリストや天使や聖徒の交わりに入ることが許されること。

 

・「礼服」を着た人は、神やキリストやエクレシアの交わり(コイノニア)に入ることが許され、可能となる。 

c.f. ヤコブの梯子(創世記28:11-12)

ヨハネ1:51「さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

  •  3:8 

 

「しるし」=文語訳「前表(しるし)」。予表。

 

イザヤ書20:3、エゼキエル12:11などの用例では、これから起こる出来事の前触れ・兆しという意味で「しるし」という言葉を使う場合がある。

 

「若枝」:メシアのこと。キリストのこと。

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

 

※ ヨシュアやその同僚の人々(つまり当時のイスラエルの大祭司や祭司たちや総督ゼルバベルなど)が、メシア(キリスト)の予表・先ぶれとなることと、メシアが来ることが告げられている。「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語では「イエス」である。

 ヨシュアの姿は、罪の赦しの宣言という意味でキリストの十字架による贖罪の予表であるのと同時に、ヨシュアが大祭司だということはキリストの贖いによって救われた人は皆「祭司」になるという新約の予表も意味していると考えられる(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。万人祭司の予表というしるしだとも、キリスト教の信仰の立場からは考えられる。

 

  •  3:9 ヨシュアの前に置かれた「石」の「七つの目」と、そこに刻まれるものと、罪の除去

 

 石の上の「七つの目」:

① ゼカリヤ4:10では、石にある七つの目は「すべての地を巡る主の目」だと言われている。ゆえに、このゼカリヤ3:9も、すべてを見守るし完全に知る「主の目」をこのように表現していると考えられる(7はユダヤにおいて完全数)。

② 「石」を宝石と考えれば、切子面のことを「目」と呼んでいると考えられる。大祭司の胸当てに付ける宝石のことか。ただし、ヨシュアの「前に置いた石」なので、この解釈が妥当かはいささか疑問。

③ 「目」のヘブライ語「アイン」(ayin)は、「泉」を意味する場合があり、その場合は、石に七つの泉があるということになる。石に七つの泉があり、その入り口を開けておく、という意味になる。モーセが岩を打って泉を湧かせたこと(出エジプト17:6、民数記20:7-11)や、いのちの水(ヨハネ4:14)とつながる。

 

⇒ おそらく、ゼカリヤは①の「目」と③の「泉」の両方の意味を「アイン」の語に持たせたと考えられる。(c.f. イザヤ11:2、黙示録1:4-5、七つの霊)

 

「石」:イエスは「かなめ石」(エフェソ2:20、Ⅰペテロ2:6)、

「親石」(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11、詩篇118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」

「岩」:いのちの水の湧いた岩=キリスト(Ⅰコリ10:4)

 

  • 3:9c「私はそこに文字を刻む。」

 

岩波訳「見よ、わたしがそこに彫るべき徴を刻み込む。」

(岩波訳脚注「徴」の原語は「彫り物」と注記。(ヘブライ語:ピットゥアハ))

 

バルバロ訳「見よ、私は、みずから、この石の上に銘を刻む」

 

⇒ 文字を刻むというよりも、なんらかの銘・彫りこみをそこに刻むというのが正しい意味と思われる。

 

⇒ つまり、「隅の親石」・「霊的な岩」でありすべてを知り人々を慈しみ見守る(七つの目・いのちの泉)であるキリストに、十字架という人類の忘れえぬ彫りこみがなされる。

 

□ 3:9d「そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」

 

関根訳「そして一日のうちにその地の罪を除く。」

⇒ 七つの目・泉の石に彫りこみがなされ、一日のうちに全人類の罪が除かれる。 

⇒ キリストの十字架の受難による人類の罪の贖いことと考えられる。

 

◇ 3:10 ぶどう・いちじく=新約と旧約のことか。

キリストの福音が世界に広まったのちには、旧約と新約の御言葉の両方を人々がよく学び、御言葉に従うようになり、神を愛し隣人を愛し、おのおのそれぞれ自分の場所を持ち、全き平和が来る、の意か。

c.f. ミカ書4:4「人はそれぞれ自らのぶどうの木/いちじくの木の下に座し/脅かすものは誰もいないと/万軍の主の口が語られる。」

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ゼカリヤ書三章(第四の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第三章に記される「第四の幻」は、キリストの十字架の贖いによる人類の罪の赦しを示しているとしか私には思えない。旧約において、最も人類の罪に対する神の赦しを明確に示している預言と考えられる。この「第四の幻」の意味は、新約の時代において明らかにされたと考えられる。

 

・キリスト以前の時代に生きた人々は予表・前表という意味でキリストの「しるし」であり、キリストの以後の時代に生きるキリスト者は「キリストの香り」(Ⅱコリ2:14-16)という意味で「しるし」なのだと思われる。

 

・最近見た映画『バラバ』(イタリア、1961年。アンソニー・クイン主演)

 悪人で、すべて的外れで、なかなか回心しないバラバが、最後はキリストにすべてをゆだねる。

 思えば、出エジプト記に出てくる頑ななファラオや、列王記・歴代誌・預言書に出てくる頑なな民、そしてバラバは、私自身の姿であると思われる。

 そのような自分が、不思議な導きにより、キリストを信じ、御言葉を学ぶようになったのは、本当にありがたいことだと思う。

 

芥川龍之介西方の人』『続・西方の人』 

芥川が独自の観点からイエスを描き、常に「超えていこう」とする人であり、俗物と闘い、共産主義的で、ボヘミアンな人物として、天才的な「ジャアナリスト」だったとしている。それらは大変興味深く、魅力的で、イエスのある側面については鋭くとらえている部分もあると思われるが、「十字架の贖い」が決定的に抜け落ちている。晩年の芥川はキリストに随分と心惹かれていたようで、『続・西方の人』は遺稿でもあったが、最後まで贖罪の信仰に至らなかった。自殺してしまったのは、そのことが大きかったように思われる。

 

・「かくして、人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順のゆえに、かく信ずる人の罪を赦す。すなわちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。

 このように、イエスは我らの罪のために十字架にわたされ、我らの義とせられるために復活させられた。このことを信ずる者には聖霊によりて新しい生命が注がれ、神に対する背反はいやされて、神に対する従順の心が与えられる。第一の人アダムの背反がすべての人の原罪となって、人に死をもたらしたように、第二のキリストの従順は、彼を信ずるすべての人に罪の赦しと新しい生命をもたらしたのである。」

矢内原忠雄キリスト教入門』(中公文庫)、101-102頁)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神による着替え

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

      

前回のまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言(紀元前520年頃)。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選びそこは城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は三章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

☆第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) ⇒ ※今回

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

□ 第三章(第四の幻)の構成 

第一部 神による着替え (3:1~5)

第二部 神の約束と地の罪の赦し (3:6~10)

 

 第三章では、第四の幻が示される。前半の第一部においては、大祭司であるヨシュアが民の代表として主のみ使いの前に立ち、サタンの告発を受けるが、主と主のみ使いはサタンを責め、ヨシュアを汚れた衣から晴れ着に着替えさせ、罪を取り去ったことを宣言する。

さらに、後半の第二部では、神の御言葉に忠実に歩むならば、神の家と庭(エクレシア)を治める身となることと、将来メシアがやって来ること、ヨシュアたちはその予表(しるし)となることが告げられる。そして、七つの目のある石に刻印がなされることにより、地の罪が一日で除かれ、人々の平和が来ることが告げられる。新約から見れば、ここに十字架の贖罪の預言が示されている。

 

Ⅱ、神による着替え (3:1~3:5)

 

◇ 3:1 神の法廷におけるヨシュアと主のみ使いとサタン

 

ヨシュア:当時の大祭司。総督のゼルバベルと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として尽力。ハガイ1:12には、ゼルバベルと共にハガイの預言に耳を傾けたことが記されている。(ゼカリヤ書1:12では民とともに自分たちの罪を認め神に立ち帰ることを表明したと考えられる)。

 

主のみ使い:第一章・第二章に登場したみ使いか?だとすれば、神と人との間をとりなす仲保者であるイエス・キリスト。 ※バルバロ訳では「主の天使」。

 

サタンヘブライ語では「敵対者」一般を指す(岩波訳では「敵対者」)。ただし、ここでは神の法廷において、人の罪を告発する役割を果たしており、単なる敵対者一般というより、人間に対して罪の裁きを要求し滅ぼそうとする霊的な存在を表している(後世の新約時代にはそのような意味での固有名詞)。

 旧約においては、人口統計をつくるようにダビデをそそのかすサタン(歴代誌21:1)や、ヨブを試すように神に対して勧めるサタン(ヨブ記1:6-12)などが現れる。新約では、人を誘惑し(Ⅰコリ7:5)、つけこみ(Ⅱコリ2:11)、妨げ(Ⅰテサロニケ2:18)、道を踏み外させる(Ⅰテモテ5:15)存在としてサタンが言及されている。最終的にサタンは神に敗北する(黙示録20:7-10)。

 

 

◇ 3:2 主のみ使いによる弁護

 

・主のみ使いは、神がサタンを責められることを二回述べ、人の罪を許さず裁きを要求し滅ぼそうとするサタンの姿勢が神の御心にかなわないことを述べる。

c.f. マタイ18:14「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 c.f. 弁護者(パラクレートス)ヨハネ14章

 

燃えさし:バルバロ訳「燃え残りの木」。

神の怒りはしばしば「燃える炉」や「炎」「火」と表現される(詩21:10、詩18:9など)。「火」は人を試し(詩17:3-4、詩26:2)、銀を火で練るように試みて清める試練を意味する(詩66:10)。

⇒ ここでは、バビロン捕囚という大きな苦難を経て生き残ってきたことを、「燃えさし」「燃え残りの木」と呼んでいると考えられる。

主のみ使い(キリスト)は、大きな苦難を経て神の言葉に耳を傾けるようになったヨシュアヨシュアが代表するイスラエルの民を愛し、彼らを完全に滅ぼすことを望まず、サタンの告発から弁護し守ろうとしている。

c.f. 「残りの者」(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 3:3-5 神による着替え

 

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使いの前に立っている。(3:3)

⇒ 「汚れた衣」=罪に汚れている状態。

 

ヨシュアの罪とは?:

・神に背き、偶像崇拝や社会的不正義に耽り、南ユダ王国が滅亡するという事態に立ち至ったユダヤの民。

・バビロン捕囚期においても、異国の風習や文化に染まったことが考えられる(ヨシュアの一族も異民族の女性と結婚した者が多数いたことが記されている(のちに離縁)(エズラ10:18-19)。)

・捕囚期間後も二十年の間、神殿再建が滞っていたことは、ハガイ書が記すとおりであり、ヨシュアはその点では力不足の指導者でもあった。

 

・さらに言えば、アダム以来、人は神から離れようとする傾向・罪を持っており、皆大なり小なり汚れた衣を着てキリストの前に立っていると言える。(創世記3章、ホセア6:7、ロマ5:12、知恵の書2:23-24)。

 

◇ 3:4 「晴れ着」=新改訳2017・岩波訳「礼服」、関根訳「立派な服」

 

・「過ち」=新改訳2017・岩波訳「咎」、フランシスコ会訳・関根訳「罪」。

 

フランシスコ会訳3:4「見よ、わたしはお前の罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう。」

バルバロ訳3:4b「<見よ、私は、お前の罪を取り除いた>。」

 

⇒ み使い(キリスト)は、天使たちにヨシュアの汚れた衣を脱がせ、罪を取り除き、礼服を着せる。

 

c.f. マタイ22章、宴会のたとえ。天国の宴会では「礼服」をつけている必要があり、礼服を着ていないと追い出される。

 

礼服=キリストを信じることによって神に義とされること。キリストを着る。

 

「主イエス・キリストを着なさい。」(ロマ13:14a)

「キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)

c.f. 新しい人を着なさい(エフェソ4:24)、朽ちる存在の人間が不朽の死なないものを着る(Ⅰコリ15:53)。

 

・人は罪(汚れた衣)を身にまとっているが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで「汚れた衣」を脱ぎ、罪が赦され、「礼服」を着、キリストを着て、神の御前に立ち、キリストや天使と交わることができる存在となるというのが聖書の示すところである。黙示録によれば、天国の住人は「白い衣」を着ている。(黙示録3:4、3:5、4:4、6:11、7:9、7:13-17)。

 

◇3:5 「清いターバン」=フランシスコ会訳・岩波訳・バルバロ訳「清いかぶりもの」。 ⇒ 礼服をより完全にするという意味か。頭を清いターバン・かぶりもので覆うということで、思考までも完全に清らかな神にふさわしい聖なるものとなる、という意味か。(信仰による義認⇒一生をかけての完全なる聖潔)

 

 

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し(3:6~3:10) 

 

◇  3:7 

「家」:ヘブライ語バイス」。神の家の意味の場合は「神殿」と訳される。

「庭」:聖書では、庭・園は荒野と対比され平和な美しい豊かなイメージと結びつく。また、出エジプト記27章では「幕屋を囲む庭」が記され、庭は神の臨在の場所という意味もある。

 

⇒ 神の道を歩み、務め(関根訳「誡命」、新改訳2017「戒め」)を守るならば、神の家と庭の管理者となる。エクレシア(集会、教会)を守る者となる。

 

※ 信仰によって罪が赦されたのちは、神の御言葉に従って生きることが勧められている。

c.f. ヨハネ8:11 姦淫の女へのイエスのことば「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

c.f. Ⅰヨハ2:6「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」

そして、さらに、そのように御言葉に従って生きるようになった人は、自分だけでなく、エクレシアにおいて応分の役目を果たし、エクレシアを守るべきことが期待されていることが、この箇所では言われていると考えられる。

 

◇ 3:7c「ここに立っている者たちの間で行き来することを許す。」

 

フランシスコ会訳3:7c「ここに立っている者たちの間に入ることを許そう。」

=神やキリストや天使や聖徒の交わりに入ることが許されること。

 

・「礼服」を着た人は、神やキリストやエクレシアの交わり(コイノニア)に入ることが許され、可能となる。 

c.f. ヤコブの梯子(創世記28:11-12)

ヨハネ1:51「さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

  •  3:8 

 

「しるし」=文語訳「前表(しるし)」。予表。

 

イザヤ書20:3、エゼキエル12:11などの用例では、これから起こる出来事の前触れ・兆しという意味で「しるし」という言葉を使う場合がある。

 

「若枝」:メシアのこと。キリストのこと。

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

 

※ ヨシュアやその同僚の人々(つまり当時のイスラエルの大祭司や祭司たちや総督ゼルバベルなど)が、メシア(キリスト)の予表・先ぶれとなることと、メシアが来ることが告げられている。「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語では「イエス」である。

 ヨシュアの姿は、罪の赦しの宣言という意味でキリストの十字架による贖罪の予表であるのと同時に、ヨシュアが大祭司だということはキリストの贖いによって救われた人は皆「祭司」になるという新約の予表も意味していると考えられる(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。万人祭司の予表というしるしだとも、キリスト教の信仰の立場からは考えられる。

 

  •  3:9 ヨシュアの前に置かれた「石」の「七つの目」と、そこに刻まれるものと、罪の除去

 

 石の上の「七つの目」:

① ゼカリヤ4:10では、石にある七つの目は「すべての地を巡る主の目」だと言われている。ゆえに、このゼカリヤ3:9も、すべてを見守るし完全に知る「主の目」をこのように表現していると考えられる(7はユダヤにおいて完全数)。

② 「石」を宝石と考えれば、切子面のことを「目」と呼んでいると考えられる。大祭司の胸当てに付ける宝石のことか。ただし、ヨシュアの「前に置いた石」なので、この解釈が妥当かはいささか疑問。

③ 「目」のヘブライ語「アイン」(ayin)は、「泉」を意味する場合があり、その場合は、石に七つの泉があるということになる。石に七つの泉があり、その入り口を開けておく、という意味になる。モーセが岩を打って泉を湧かせたこと(出エジプト17:6、民数記20:7-11)や、いのちの水(ヨハネ4:14)とつながる。

 

⇒ おそらく、ゼカリヤは①の「目」と③の「泉」の両方の意味を「アイン」の語に持たせたと考えられる。(c.f. イザヤ11:2、黙示録1:4-5、七つの霊)

 

「石」:イエスは「かなめ石」(エフェソ2:20、Ⅰペテロ2:6)、

「親石」(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11、詩篇118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」

「岩」:いのちの水の湧いた岩=キリスト(Ⅰコリ10:4)

 

  • 3:9c「私はそこに文字を刻む。」

 

岩波訳「見よ、わたしがそこに彫るべき徴を刻み込む。」

(岩波訳脚注「徴」の原語は「彫り物」と注記。(ヘブライ語:ピットゥアハ))

 

バルバロ訳「見よ、私は、みずから、この石の上に銘を刻む」

 

⇒ 文字を刻むというよりも、なんらかの銘・彫りこみをそこに刻むというのが正しい意味と思われる。

 

⇒ つまり、「隅の親石」・「霊的な岩」でありすべてを知り人々を慈しみ見守る(七つの目・いのちの泉)であるキリストに、十字架という人類の忘れえぬ彫りこみがなされる。

 

□ 3:9d「そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」

 

関根訳「そして一日のうちにその地の罪を除く。」

⇒ 七つの目・泉の石に彫りこみがなされ、一日のうちに全人類の罪が除かれる。 

⇒ キリストの十字架の受難による人類の罪の贖いことと考えられる。

 

◇ 3:10 ぶどう・いちじく=新約と旧約のことか。

キリストの福音が世界に広まったのちには、旧約と新約の御言葉の両方を人々がよく学び、御言葉に従うようになり、神を愛し隣人を愛し、おのおのそれぞれ自分の場所を持ち、全き平和が来る、の意か。

c.f. ミカ書4:4「人はそれぞれ自らのぶどうの木/いちじくの木の下に座し/脅かすものは誰もいないと/万軍の主の口が語られる。」

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ゼカリヤ書三章(第四の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第三章に記される「第四の幻」は、キリストの十字架の贖いによる人類の罪の赦しを示しているとしか私には思えない。旧約において、最も人類の罪に対する神の赦しを明確に示している預言と考えられる。この「第四の幻」の意味は、新約の時代において明らかにされたと考えられる。

 

・キリスト以前の時代に生きた人々は予表・前表という意味でキリストの「しるし」であり、キリストの以後の時代に生きるキリスト者は「キリストの香り」(Ⅱコリ2:14-16)という意味で「しるし」なのだと思われる。

 

・最近見た映画『バラバ』(イタリア、1961年。アンソニー・クイン主演)

 悪人で、すべて的外れで、なかなか回心しないバラバが、最後はキリストにすべてをゆだねる。

 思えば、出エジプト記に出てくる頑ななファラオや、列王記・歴代誌・預言書に出てくる頑なな民、そしてバラバは、私自身の姿であると思われる。

 そのような自分が、不思議な導きにより、キリストを信じ、御言葉を学ぶようになったのは、本当にありがたいことだと思う。

 

芥川龍之介西方の人』『続・西方の人』 

芥川が独自の観点からイエスを描き、常に「超えていこう」とする人であり、俗物と闘い、共産主義的で、ボヘミアンな人物として、天才的な「ジャアナリスト」だったとしている。それらは大変興味深く、魅力的で、イエスのある側面については鋭くとらえている部分もあると思われるが、「十字架の贖い」が決定的に抜け落ちている。晩年の芥川はキリストに随分と心惹かれていたようで、『続・西方の人』は遺稿でもあったが、最後まで贖罪の信仰に至らなかった。自殺してしまったのは、そのことが大きかったように思われる。

 

・「かくして、人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順のゆえに、かく信ずる人の罪を赦す。すなわちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。

 このように、イエスは我らの罪のために十字架にわたされ、我らの義とせられるために復活させられた。このことを信ずる者には聖霊によりて新しい生命が注がれ、神に対する背反はいやされて、神に対する従順の心が与えられる。第一の人アダムの背反がすべての人の原罪となって、人に死をもたらしたように、第二のキリストの従順は、彼を信ずるすべての人に罪の赦しと新しい生命をもたらしたのである。」

矢内原忠雄キリスト教入門』(中公文庫)、101-102頁)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

ゼカリヤ書(2) ―城壁のない開かれた所

 

『ゼカリヤ書(2) ―城壁のない開かれた所』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、第二の幻:四本の角と四人の鉄工

Ⅲ、第三の幻:城壁のない開かれた所

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

       

前回のまとめ

ゼカリヤ書は十二小預言書の一つで、バビロン捕囚から帰還した後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言をまとめたもの。メシア預言を多く含み新約とも関連が深い。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、さらにミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は二章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章) ⇒ 今回

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章) ⇒ 今回

第四の幻 汚れた衣を晴れ着に着替えさせられる (第三章)

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

Ⅱ、第二の幻:四本の角と四人の鉄工 (2:1~2:4)

 

◇ 2:1 四本の角

 

角:力の象徴。(図像には悪魔や鬼によく角が生えている。怒りや傲慢の象徴。)

四:四つの方角、世界全体の象徴。四方から角が攻めてくること。

 

・ダニエル書第七章:四頭の獣の幻、第四の獣は十本の角

 ⇒ バビロニア、メディア、ペルシア、マケドニア? あるいは、エジプト、アッシリアバビロニア、ペルシア?

 

・黙示録第十三章:二匹の獣、十本の角と七つの頭の獣と、小羊の角に似た二本の角の獣。  ⇒ ローマ帝国と偽メシア?

 

ゼカリヤ書二章の四本の角は、バビロニアエドム、アンモン、モアブ、ペルシア等?なんらかのユダヤに敵対する民族、国々を指すと一応は考えられる。

 

 

◇ 2:2 「ユダ、イスラエルエルサレム

 ⇒ 同じ意味ともとれるが、南ユダ王国と北イスラエル王国と、本来はそのどちらにとっても首都だったはずのエルサレムを挙げているともとれる。

その場合、ソロモンの背信の結果、南北に分裂してしまった神の民を嘆いている意味合いがこめられていることになる(参照:列王記上11、12章)

だとすれば、「角」は、単に外的や外部の力というよりも、内部において人々の心を分裂させる内的な力を指すと考えられる(ソロモンやヤロブアムの偶像崇拝、レハブアムの傲慢や他人への共感の欠如、ヤロブアムのベテルの神殿をつくるなどの分裂志向や反逆など)。

 

  • 四本の角とは:「角」を外的な勢力や国と受取ることは、外部の脅威に目を向ける人間にはありがちなことである。今の日本にも、周辺諸国を脅威としたり敵視する言説がはびこっている。しかし、内面に働く悪しき力と考えるならば、傲慢・過度の筋違いな怒り・欲望・偶像崇拝や物質主義などと「角」を解釈することも可能である。

 

 

◇ 2:3 「四人の鉄工」

 

鉄工:文語訳「鍛冶」、新改訳2017「職人」、岩波訳「鍛冶職人」

 

⇒ 神の命を受け、角を切り倒すために来る。

 

岩波訳2:3d :「これらは、その頭を上げ得ないほどユダを蹴散らした角だが、これら〔の鍛冶職人〕は、地に角を振り上げてユダを蹴散らした諸国民を脅かし、彼らの角を投げ倒すために来るのだ。」

 

四本の角に対しては、四人の「鉄工」が現れて、角を切り倒すために来る。

 

⇒ この世界の、さまざまな悪や問題に取り組む人々。

四は例として挙げられているだけで、本当は敵の数だけ天使が遣わされる(矢内原忠雄の解釈)。この世界の問題の数だけ、それに取り組む人々もいる。

 

ex:アパルトヘイトにはマンデラ公民権問題にはキング牧師、インドのスラム街にはマザーテレサアフガニスタンには中村哲さん、等々。

 

  • 大切なことは、世界のあちこちに存在している問題や悪(角)を見るだけではなく、それらと取り組んでいる神の命を受けた鉄工・鍛冶職人が必ずいることを知って、その人たちの取り組みを支援したり、それらの人々のメッセージに耳を傾けることではないか。また、自分自身もできれば鍛冶職人になり、角を切ることに尽力すべき。

 

参照:イザヤ54:16 「見よ、わたしは職人を創造した。彼は炭火をおこし、仕事のために道具を作る。わたしは破壊する者も創造してそれを破壊させる。」

 

⇒ 鉄工・職人のわざや創造もまた、神の創造の働きのうち。

神は人を通して働かれる。

「鉄工」は天使と解釈しても良いかもしれないが、悪と戦う神の命を受けた人間と解釈すべきと思われる。

 

 

・第二の幻から考えたこと:※「角」を国々、世俗の権力者のことだと考えると、世俗の権力をどう考えるべきか?

 

聖書においては、ロマ書13章では、権力は神に由来するとされ、従うべきとされる。一方、黙示録13章では、サタンによって権威が授けられている権力者がいるとされる。

⇒ 本来的には世俗の権力や国家秩序も神のつくった秩序の内であり、神によって命じられているものだが、その座に就くものが間違った目的や行動をとる場合、それは神ではなくサタンに仕えるものであり、サタンに据えられたものとも言える。

 私たちは、基本的にはロマ書13章に従い、権力や権威を尊重し従うべきではあるものの、実際の権力者や政治が何を目的とし何を基準としているかについてはよく聖書を基準に見定め、それが明らかに神の目的(一人一人を大切にする愛)に反している場合は、「角」を切り倒す「鉄工」となり不正と闘うこと、そうした鉄工の人々を支持することが重要ではないかと思われる。

 

 

Ⅲ、第三の幻:城壁のない開かれた所(2:5~2:17) 

 

◇  2:5-6 測り縄:

① エルサレム復興のため、修復や街づくりのための測量?

② 物事の価値基準を定めることの象徴?

③ エルサレム=神の民とすると、人々の心の広さや深さをみ使いが測る?

⇒ おそらくはそのどれもであるが、捕囚期間後というゼカリヤの背景を考えると、エルサレムの復興を示していると考えられる。

 

 

  •  2:7 「わたしに語りかけたみ使い」

⇒新改訳2017 「私と話していたみ使い」

 

  •  2:8 「あの若者」 ←測り縄を持ったみ使いのことではなくて、おそらくはゼカリヤのこと。測り縄を持ったみ使いに対し、もう一人のみ使いが、ゼカリヤに2:8以下のメッセージを告げるように言っていると解釈できる。

 

  • エルサレムは・・・城壁のない開かれた所となる。」

 

城壁:当時は、戦争の際の防御のため、通常、都市は城壁に囲まれていた。

 

では、なぜ城壁がないところになるのか?

 

① エルサレムが人と家畜に溢れて繁栄する場所となるので、小さな城壁だと手狭になってしまうので、測り縄を張って小さな城壁をつくるな、という意味(矢内原説)。

 

c.f. ウィーンのリングシュトラーセ。1857年に市壁の放棄が決定され、環状道路がつくられ、それが大きな発展の契機となった。

 

② 軍備を撤廃し、神が守ってくださることを信じ、城壁を持たない。

c.f.  日本の平城京は、長安などと比較した時に、そもそも城壁がなかった。

c.f. 武田信玄「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」⇒甲斐に城をつくらなかった。

c.f. 戦後の日本の憲法九条。コスタリカの軍備撤廃。

 

⇒ 次の9節で神自身が火の城壁となると言っていることを考えれば、②の解釈が正しいと考えられる。

 

 

主が「その中にあって栄光となる」。

神が神の民に中にいてくださる。(メシア預言)

 

 

  • 2:10―11 バビロンから逃れよという勧め。

 

当時の歴史的文脈から言えば、バビロン捕囚から解放されても、なお帰還せず多くのユダヤ人がバビロンに留まっていたという状況があった。それらの人に対し、バビロンから逃れることを勧めている(おそらくは精神や文化に悪影響があることや、イスラエルの復興を神が意図しているため)。

 

⇒ 歴史的文脈から離れれば、バビロンから逃れることの勧めは、いつの時代においても、神に信頼し、物質主義や利己主義や恐怖心から離れることの勧め。

 

c.f. 日本国憲法前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

(戦前の軍国主義や戦後のアメリカへの依存とは異なる、正義への信頼の道)

 

 

  • 2:12 「わたしの目の瞳に触れる者だ」

 

c.f. 申命記32:20 「主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。」

 

c.f. コーリー・テン・ブーム『わたしの隠れ場』(いのちのことば社

第二次世界大戦中、オランダでユダヤ人をかくまったため、ホロコーストに送られた一家の物語(実話回想録)。著者の父親は、ユダヤ人をかくまったためにホロコーストに送られて殺されるが、ユダヤ人を迫害するドイツ人たちを見て、なんとかわいそうな人たちだと気の毒がっていた。娘が理由を尋ねると、彼らは神の瞳に触れてしまった、今に必ず恐ろしい罰が下ると述べた。

 

・神はユダヤ人やエクレシアに対してはもちろん、すべての人を「瞳のように守る」ことを忘れないこと。

 

  • 2:13 「自分自身の僕に奪われる」 ⇒ 暴虐な国や人々は自壊すること。神が瞳のように守る人々を傷つけ、虐げた国や権力者は、必ず反乱や内部の転覆で滅びる。

 

  • 2:14 人々のただ中に住まう神

 

人々の心の中に住まい、働きかける神。聖霊。(内なるキリスト、ヨハネ6:56、同14:17、同17:26、Ⅱコリ13:5、コロサイ1:27、Ⅰヨハ4:4)

 

岩波訳2:14「『娘シオンよ、/歓び、喜べ。/わたしは来て、/あなたの只中に住むからである』。/―〔これは〕ヤハウェの御告げ―」

 

  • 2:15 多くの国々が主に帰依し、その中に神が住まう。

 

異邦人の救いの預言。神の民はユダヤ人に限定されず、キリストを信じたすべての人、エクレシア全体が神の民であり、神がその中に住まう。

 

  • 2:16  再び選ぶ

神は一度背いても、立ち帰れば、再び選んでくださる。

 

  • 2:17

 

神の前に静かに沈黙すること。静かに沈黙して祈ること。 

c.f. イザヤ30:15 「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」

c.f. ハバクク2:20 「しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」

 

「主はその住まいから立ちあがられる。」

⇒ 主は歴史を通して働きかける神であること。

 

⇒ あるいは、復活を指す? ギリシャ語の復活・アナスタシス=立ちあがる

 

  • 神が守ってくださること、バビロンから逃れるべきこと、神の瞳のように大切にされていること、神がエクレシアの只中に住んでくださることを喜ぶこと、神が復活し、立ち上がること。これらを静かに沈黙の中で思い考えることの勧め。

Ⅳ、おわりに  

ゼカリヤ書二章から考えたこと

 

・神の民・神の国は壁のない開かれた所であるということ。

 

・私たちは、日ごろあまりにも多くの壁をつくってしまってはいないか。

ex:ベルリンの壁イスラエルパレスチナ分離壁、メキシコとアメリカの壁。アメリカの要塞町。

ex:人種、民族、病気/健康、学歴・教育、宗教、政治信条・政党etc.

 

⇒ イエスは、あらゆる壁や隔たりをなくし、壊された方だった。

 

エフェソ2:14-16:

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 

・私たちもまた、イエスに倣い、なるべく壁や隔てをなくすように努めることが大切ではないか。

・平和や非暴力・非武装軍縮は、神への信頼・正義への信頼・真理への信頼が基礎になければ、難しいというのが聖書の示すところではないか。

・宗教の隔ての問題(マザーテレサはそれぞれの人の宗教を尊重。「わたしはどんな近づき方をするでしょう?カトリックヒンズー教、他のだれかには仏教と、その人の心に合った方法で。」)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

ゼカリヤ書(1) ―神に帰ること

 

 

『ゼカリヤ書(1) ―神に帰ること』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神に帰ること

Ⅲ、第一の幻 ミルトスの林と馬

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

     

 

ゼカリヤ書

十二小預言書のひとつ。全十四章。バビロン捕囚から帰還した後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言をまとめたものとされる。内容は、極めて不思議なビジョンに満ちた、いわゆる黙示を多く含む。また、神に立ち帰ることや、社会正義を勧めている。

ゼカリヤ書の特徴は、十二小預言書中最も多くのメシア預言を含むことである。ろばに乗ったメシア等の預言は、のちに福音書に引用されている。さらに、メシアが受難することが明確に預言されている。

 

・ゼカリヤとは誰か?:

ゼカリヤ書冒頭に祖父にまで及ぶ三代の家系図が書かれており、祖父のイドは帰還した祭司としてネヘミヤ記に記されている(ネヘミヤ記12:4)。したがって、ゼカリヤはレビ人の祭司の家系の名門出身であることがわかる。捕囚から帰還した頃は、極めて若かったことがネヘミヤ記から推測される。老人だったと推測されるハガイとともに、神殿再建について預言し人々を慰め励ましたことがゼカリヤ書前半からはうかがえる。後半の九章以降もゼカリヤの預言だとすれば、神殿完成後かなり経ってからも預言を続けたと考えられる。

 

ゼカリヤの時代背景:

 ゼカリヤ書の第一章にはペルシア帝国のダレイオス王の第二年八月と、また、第七章にはダレイオス王の第四年という日時が記されており、紀元前520年および紀元前518年にそれらの預言がなされたことがわかる。

 ただし、第九章以降は日付が存在せず、かつかなり内容が異なるので、もしゼカリヤ自身の預言とすれば、かなり後年に、おそらく紀元前480年頃になされた預言と推測される。別の学説では、後半は別人の手により、おそらくヘレニズム期、紀元前218年から紀元前134年の間、マカバイ戦争の時代と考えられている(第二ゼカリヤ)。さらに第十二章以降を第三ゼカリヤとする説もある。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

ゼカリヤ書は、大きく二つの部分に分けられる。

第一部においては、八つの幻を通じて、神殿再建期のイスラエルを慰め励ます内容となっている。また、社会正義こそが重要とも説かれる。

第二部では、終末における諸国民の審判や、イスラエルエルサレムの救いが描かれ、メシアがろばに乗ってやってくること、およびメシアが受難すること等が預言されている。第二部はアラム語由来の言葉を含み、内容も異なるので、別人による預言という説もある(第二ゼカリヤ)。ただし、第一部が若い時の、第二部が年をとってからの預言という説もある。

 

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                    ⇒ 今回

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   ⇒ 今回

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 汚れた衣を晴れ着に着替えさせられる (第三章)

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

第一部は、八つの幻と、神に帰ることへの勧めと、社会正義の勧めがなされている。これらを通じて、神殿再建と捕囚期間後のイスラエルの本当の意味での復興が目指され、図られている。

 

新約聖書との関連において特に注目すべきこと 

 

ゼカリヤ書には、新約聖書との関連で、以下の注目すべき内容がある。

 

ろばに乗ったメシア(9:9)→ マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章、ヨハネ12章。 四福音書すべてが記すエピソード。

契約の血(9:11) → マルコ14:24 キリストの贖いの血=契約の血

銀30シェケル(銀貨30枚) (11:12) → マタイ26:15、27:9(実はエレミヤにはない)

命の水(14:8) → 黙示録7:17、21:6、22:1、22:17

一日のうちに罪を取り除く(3:9) → キリストの十字架の贖い

受難のメシア(12:10)

 

⇒ ゼカリヤ書は全体として、神に帰るべきことと、その帰るべき対象であるメシアは平和と受難のメシアであることを述べている。キリスト教の信仰の立場から言えば、イエス・キリストを預言した預言書として、ゼカリヤ書はイザヤ書同様に極めて貴重な内容と言える。

 

 

Ⅱ、神に帰ること (1:1~1:6)

 

◇ 1:1 題辞

 

ダレイオス:ペルシア帝国第三代皇帝ダレイオス一世。治世はBC522からBC486年。

その第二年八月は、紀元前520年の10~11月。(すでに同年の二か月前と一か月前にハガイの預言があり、ゼルバベルとヨシュアと民は神の言葉に耳を傾け、神が共にいることと勇気を出すべきことが告げられていた。)

 

イド:「神の友」という意味の名前。ゼカリヤの祖父。ただし、エズラ5:1、同6:14では、ゼカリヤの父と伝えられる。ネヘミヤ12:4によれば、レビ人の家系の祭司であり、ゼルバベルとヨシュアとともにバビロンからエルサレムに帰還した。

 

ベレクヤ:「ヤハウェは祝福したもう」という意味の名前。ゼカリヤの父。ただし、前述のとおり、エズラ記においては、ゼカリヤはイドの息子とされ、ベレクヤの名は省かれている。ベレクヤが若くして亡くなったか、あるいは何か事情があったと推測される。聖書中他に記載なし。

 

ゼカリヤ:「ヤハウェは覚え給う」という意味の名前。イドの孫とすれば、第一章当時は極めて若年だったと推測される。

 

◇ 1:2 主の怒り=バビロン捕囚、および帰還後の苦しみのこと。

 

◇ 1:3  

 

新改訳2017:

「あなたは人々に言え。/『万軍の主はこう言われる。/わたしに帰れ。/―万軍の主のことば―/そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。/万軍の主は言われる。』

 

文語訳:「万軍のエホバ、かく言ふと、汝かれらに告(つげ)よ。万軍のエホバ言ふ、汝ら我に帰れ、万軍のエホバいふ、我も汝らに帰らん。」

 

※ 立ち帰る・帰る = シューヴ  英訳:return, turn

回心、心の方向転換。

神以外のものを向いていたことから、神の方向に向き直ること、神に帰ること。

⇒ 人が神に帰れば、神も人に帰ると、ゼカリヤ書では明確に告げられる。

 

⇒ 十二小預言書はすべて神に立ち帰り、神を求めることを勧めている。

ホセア12:7、14:2-3  ヨエル2:12-13  アモス5:4、5:6

ヨナ(神の逃亡から神の意志に従うことと、さらに深い神の意志を知ること)

ミカ5:8「へりくだって神と共に歩むこと」 ナホム1:7 ハバクク2:20

ゼファニヤ2:3  ハガイ(神の家を大切にすること) マラキ3:7

⇒ イザヤ・エレミヤ・エゼキエルの三大預言書も同様。

 

  • その中で、ゼカリヤ1:3は、ただ神に帰ることが呼びかけられ、特になんらかの条件や行いは何も要求されていない。

 

参照:ルカ15:11-32 放蕩息子の帰還

神の愛への帰還。

 

  • 私自身のこと:中学の時に一度聖書を通読し、山上の垂訓に感動したこともあったが、長く聖書からは離れていた。家族の死や、家の経済的困窮の苦しみの中で、随分遠回りしたのち、再び聖書をよく読むようになった。それからは、不思議と生きることがだいぶラクになり、心に幸せを多く感じるようになった。
  • まずは、理屈や行いでなく、ただ神の愛に帰ることの大事さ。(参照:内村鑑三とシーリーのエピソード)

 

 

◇ 1:4~6 先祖のようであってはならない

 

ユダヤの人々の先祖は預言者を通じて語られる神の言葉に聞く耳を持たなかったことが記され、そのようになってはならないと諭されている。

 

先祖のようであることの具体例:詩編78:8「頑なな反抗」、エレミヤ11:8「耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。」

(十二小預言書、三大預言書を通じて、偶像崇拝や社会の不正義を批判)

 

1:4b 新改訳2017:『万軍の主はこう言われる。/あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』 ← 先祖への呼びかけ。

 

1:6a 新改訳2017:「しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。」

新共同訳「届かなかったろうか」 ⇒ 新改訳2017「追い迫ったではないか」

 

・何度もさまざまな預言者を通じて神が警告や諭しを行ったのに、ユダの民は聞き従わず、バビロン捕囚の憂き目にあった。

 

(参照:戦前の日本。内村鑑三田中正造矢内原忠雄らが幾度も批判や警告をしたにもかかわらず耳を傾けず、神を知ろうともせず、物質文明や軍国主義に走り、近隣諸国を侵略し、社会の不正義を放置し、敗戦の破局を迎えた。)

 

⇒ 1:6b 新改訳2017:「それで彼らは立ち返って言ったのだ。/『万軍の主は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことを/そのとおりになさった』と。」

 

ユダヤの人々は、先祖の誤りを認め、自分たちの苦しみは自業自得と認めた。

参照:ルカ15:21「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」

 

  • 神に帰ることの呼びかけ ⇒ 先祖のようにならないこと(不従順の誤りを繰り返さないこと)の勧め ⇒ 自業自得の認識。自分の罪を認める。

 

(参照:戦後の日本。一度一応はそのような認識に達し、平和国家を目指してきたはずだった。しかし、最近は過去の罪を隠蔽糊塗することを意図する人々が増加し、しかも勢力を振るっているように思われる。)

 

※ 神に帰ることと、律法を守ることや善い行いが、聖書においてはしばしばセットで語られる。

信仰によって救われるか、行いによって救われるかは、しばしばのちの時代の議論にもなってきた。(信仰義認と行為義認、ロマ書とヤコブ書)

ゼカリヤ書においては、何の条件もつけずに神に帰ることがまず告げられ、そのうえで「先祖のように歩まないこと」が勧められる。

これは、神の計画において、神に帰ることが必要条件で、正しく行い歩むことが十分条件ということではないかと思われる。

つまり、神に帰るだけで神の愛は回復し救われ神の子となるが(Ⅰヨハネ3:1)、神の望むとおり全き聖なるものとなるためには神の命じるとおりに歩むことが重要となる。善い行いや「先祖のようにならない」ことは救いの条件ではなくて、ただ神に帰ることだけによって神の愛は回復され救われるが、神に帰ったあとには神の意志に従って善い行いになるべく努め「(間違った)先祖のように歩まない」ことが神の意志に即した生き方であり、より完全なる神の子になるということではないかと思われる。

 

※ この世界においては、神が定めた原因と結果の法則が貫徹しており、善い行いには善い結果が伴い、悪い行いには悪い結果が基本的には蓋然的に伴う(箴言)。しかし、この法則を直視することは、苦難の中においては難しい。通常、自分は悪くないと考え、また先祖の行為は自分とは関係がないと考えがちである。

したがって、自分の境遇が自分や先祖(自分の社会の歴史)の行いの結果だという直視や認識を可能とするのは、すでに神に立ち帰って神の支えがあればこそと考えられる。すでに神の愛を知っているからこそ、恐れることなく、不安になることなく、過去の自分たちの罪業を直視し、やり直すことができるのではないかと考えられる。

自分の社会を構成する過去の歴史からの人間の行為の集積を自分のこととして引き受けることが、罪の自覚ということであり、罪からの自由はそこから始まると考えられる。そのような自由を可能とするのは、神の愛の先行である。

 

 

Ⅲ、第一の幻 ミルトスの林と馬(1:7~1:17) 

 

◇  1:7 シェバトの月:現在の一月中旬から二月中旬

 

  •  1:8  赤い馬、赤毛・栗毛・白の馬:

 

参照:ヨハネ黙示録6章 白い馬=勝利者、赤い馬=戦争・審判、黒い馬=価値を定め正す、青ざめた馬=死

⇒ 栗毛の馬が黒い馬だとすれば価値を定め正しくすること、青い馬だとすれば死を意味する。栗毛なので、おそらくは黒い馬か?

 

⇒ これらの馬は地上を巡回させるために主が遣わしたもの(1:9)。巡回の結果、イスラエルの周辺の国々は平穏で安逸に過ごしていることが報告される(1:11)。

 

⇒ 主はそれらの不正の上に安逸を貪る諸国の民を怒り、苦しんできたイスラエルの民に愛をそそぎ、正義を回復することを述べる(1:16-17)。

 

※ ミルトス:キンバイカのこと。5-7月頃咲く。

    

  • ミルトスが咲く谷間の中にあって、審判の権限を持つ(赤い馬に乗っている)「み使い」とは誰か?

⇒ 主とユダヤの民との間を仲介している(1:12)。さらには、主のことばをゼカリヤに伝えている(1:14-17)。また、主はこのみ使いに対し「恵みと慰めに満ちた言葉」で答えている(1:13)

⇒ イエス・キリストのことと考えられる。

 

  • 仲保者・仲介者としてのキリスト。神に人をとりなしてくださるキリスト。

 

◇1:16 測り縄が張られる ― エルサレムが復興されること。また、神の民が正しい価値基準を得ること、および正しく測られ評価されること。

 

◇1:17 恵み・慰め・選び

神に帰ること・信仰によって、この三つが与えられる。

 

参照:ヨハネ1:16(恵みの上の恵み)、ロマ15:5(慰めの源である神)、ヨハネ15:16(神の側からの選び)

 

⇒ 神に帰るとただちに、神の恵み・慰め・選びが与えられる。日々に神と人との間を仲保者であるキリストがとりなしをしてくださる。

 

⇒ 一見、世界に不条理や不正義が放置され、神がどこにいるのかと考えられる時も、ある時に「馬」が巡回し、不正の上の安逸に対しては審判が開始されることとなる。

 

Ⅳ、おわりに  

 

 

ゼカリヤ書一章から考えたこと

 

・ 神はまず、そのままで神に帰ることを求めておられる。

  • そのうえで、過去の歴史の過ちを繰り返さないことを勧めている。
  • 神に帰り、すでに神の愛の回復があればこそ、私たちは現在の境遇が過去の行いの結果だと直視し、そこから再び自由にやり直すことができる。
  • 神に帰ると、ただちに神の恵み・慰め・選びが与えられる。
  • キリストがとりなしをしてくださっていることのありがたさ。(主はキリストを通して、「優しい言葉、慰めの言葉」(1:13)を語られる。)

 

・日本における「先祖の悪い道と悪い行い」は何だったか。「わたしたちの歩んだ道と行った業に従って」神が私たちを扱ったと、きちんと認識しているのか。また、そのような先祖の歩みから、本当に今の日本は離れているのか。

・「無責任の体系」(丸山真男の指摘)⇒311福島原発事故で同様の状態

・戦争責任について、平和国家の理念の希薄化

・神の前に一人立ち責任を負う「個」としての自覚の希薄さ

・神を愛し隣人を愛する精神の希薄さ(冷淡な利己主義、無関心、人心の荒廃)

⇒ ただし、そのような私たちにも、ミルトスの林の谷間に立って、神との間で人をとりなしてくださっているキリストが存在する。

 

・「神に帰ること」自体は、極めて簡単なことであり、そのままの自分で、神に心を向けて、神に帰るだけで良い。(ペテロとイスカリオテのユダとの違い。)

特に儀礼や儀式や修行は不要である。特別な行いや特に難しい信仰の心を固めることも不要である。

神に帰るだけで、神が自分に帰る(恵み・慰め・選びが与えられる)。これらのことを、今回ゼカリヤ書一章で確認でき、ありがたいことだった。

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

『ハガイ書(下) ―神の選びとしるし』 

『ハガイ書(下) ―神の選びとしるし』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、勇気の呼びかけ

Ⅲ、罪の指摘と赦し

Ⅳ、神の選びとしるし

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに 

            

 

前回のまとめ(第一章分)

ハガイ書第一章では、捕囚から帰還し二十年近く経った人々に対し、神が神殿の再建を命じたことが記される。かつ、そのメッセージの中で、人生の中心とは何かが神から問われている。つまり、神の家(神殿)こそが人の家よりも人生の中心であるべきことが告げられ、さらに、ひとたび神を信じれば、神が共にいるということが伝えられる。神によって人々の霊が奮い立たされ、捕囚の苦難を通じて素直になったイスラエルの民は、神の言葉に耳を傾け、神殿(神の家、新約的には信仰者そのもの)の再建に着手したことを見た。

 

※ 「ハガイ書の構成」

 

第一部 神殿再建の呼びかけ 第一章(1:1~1:15) ⇒ 前回

第二部 新しい神殿の栄光と祝福 第二章(2:1~2:23) ⇒ 今回

 

ハガイ書では、第一章において、神殿再建が呼びかけられ、人生の中心を何にするのかが問われ、神を中心に生きる人々には神が共にいることが告げられる。第二章では、神が人々に勇気を出すよう励まし、汚れ(罪)の問題が指摘され、さらに赦しが告げられる。ゼルバベルを神が選んだことが告げられる。

 

 

・第二部(第二章)の構成 

 

1、勇気の呼びかけ (2:1~2:9)

2、罪の指摘と赦し(2:10~2:19)

3、神の選びとしるし(2:20~2:23)

 

第二部は、三つの部分に分かれる。まず、神殿再建に向けて勇気を持てとイスラエルの民に対して呼びかけられる。次に、人間にはどうしようもない罪があることが指摘され、かつその罪の赦しが伝えられる。最後に、ゼルバベルが、神の「印章」(しるし)として選ばれたことが告げられる。

 

Ⅱ、勇気の呼びかけ(2:1~2:9)

 

◇ 2:1-2 題辞

 

ダレイオス王の第二年:紀元前520年。 

 

ゼルバベル     

第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。捕囚帰還期のユダヤの総督。大祭司ヨシュアと共に、神殿再建に努めた。イエスの養父・ヨセフの先祖でもある。

 

ハガイを通じた神の言葉 ⇒ ゼルバベルとヨシュアと「残りの者」に述べられている。

 

◇ 2:3  「昔の栄光」をハガイは見たことがあった?

⇒ もしそうだとすると、ハガイはこの時かなりの高齢のはず。BC587年バビロン捕囚から67年が経過。その時に子どもだったとして、70~80歳前後と推定。

 

◇ 2:4  「勇気を出せ」

ヘブライ語「ハザク」:多くの英訳は”Be strong”と訳す。

関根訳・バルバロ訳:「しっかりせよ」

文語訳「自ら強くせよ」

 

 c.f.:易経「天行健なり。君子はもって自ら彊(つよ)めて息(や)まず。」

ex.自彊術山口彊(1916-2010):二重被爆者、93歳まで元気に生きた。

 

参照:「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」(Ⅰコリ16:13)

 

「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。」(イザヤ35:3)

 

「雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。」(詩篇31:25)

 

⇒ 聖書は「弱さ」を誇り(Ⅱコリ12:5)、あるがままで神にお任せして、己の知恵よりも神の知恵を優先させることを説く一方で、上記のように信仰の上に立った「強さ」「勇気」を説くものである。

 これは別に矛盾せず、己の弱さを自覚してあるがままに神に委ねた信仰者は、信仰のゆえに神が共にいてくださることを知り、己の欲ではなく神のみ旨に従って生きようとする時に、通常では考えられない勇気や強さが湧いてくるということだと思われる。

 

◇2:5 神の霊がともにいる。 参照:ゼファニヤ3:17等。

 

◇2:6 もう一度揺り動かす。 ⇒ 状況は不変ではなく、神の御心に沿って大きな変化が歴史を通じて必ず行われること。

 

◇2:7 「財宝」:原文では「望ましいもの」。ラビ・アキバはこの箇所をメシアの到来と解釈、ヴルガタ訳も「万民のあこがれるものが来られる」と訳している。もしメシア預言と受け取れば、キリストが来るという預言(初臨、再臨)。

 

◇2:8 すべての富は、神のもの。

 

◇2:9 新しい神殿は昔の神殿にまさる。 ⇒ 第二神殿にキリストが現れたことを考えれば、第一神殿にまさる。あるいは、第一神殿・第二神殿よりも、キリストという新しい神殿とその復活(ヨハネ2:19)がまさるということ。

「この場所に平和を与える」 神の約束。

 

 

Ⅲ、罪の指摘と赦し(2:10~2:19) 

 

◇  2:10~14 ハガイの問いと民の罪の指摘

 

問1:聖なる肉を中に入れた衣服でさまざまな食べ物に触れた場合、その食べ物は聖なるものとなるか? ⇒ ならない。

問2:死体に触れて汚れた人が、何かに触れた場合、触れたものは汚れるか?⇒ 汚れる。

(参照:聖別された肉を食べる儀式(レビ7:16-18)、死体に触れると汚れる(レビ21:11、民数記19:11-13)

 

  • この箇所は何を言っているのか?

⇒ きよめの力より汚染力が強いこと。

 

帰還したユダヤ人の神殿再建を、サマリア人は手助けしようと申し出たが、ゼルバベルたちは拒絶した。

混血が進んだサマリア人を、ユダヤ人たちは不純なものとみなし、そのような人々によって神殿は汚れてしまうと考えた?

 

⇒ その場合、2:14の「この民」は、サマリア人を指すと考えられる。

 

⓶ より内面的なことを言っていると考える解釈。

 

※ 何か聖なるものを持っていたり儀式で手に入れたとしても、周囲を浄化し聖(きよ)める力はない。また、「死体」(=死、罪)に触れていれば、触れるものすべてを汚してしまう。

 

⇒ 罪にまみれている人間にとっては、行うことがすべて罪となってしまい、的外れなものとなってしまうことの指摘。(罪=ハマルティア(的はずれ))

参照:ロマ書3章、7章等、罪の支配・罪の法則。

 

⇒ つまり、人間が何をしようとも罪にまみれており、儀式や儀式から生じる聖なるもの(聖別された肉、聖餐など)によっては、死と罪にまみれた人間は救われないということをここで述べているとも考えられる。

⇒ その場合、14節の「この民」はイスラエルの民でもあり、全人類をも指すということになる。

 

◇ 2:15~19  

 

汚れ・罪のために、人の行いが十分に実を結ばないこと。

参照:「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」(ロマ3:23)

 

⇒ 2:19 この日から「祝福を与える」 新改訳2017「祝福する」

一方的な神の赦しと祝福が宣言される。 ⇒ キリストの福音

キリストを信じれば、それだけで神に義とされる。

 

※ ハガイ書には明示的には述べられないが、その罪への深い認識と、一方的な神の祝福はキリストの福音を指し示しているとも考えられる。ただし、この罪の贖いが明確に啓示されるには、新約を待たねばならなかった。

 

Ⅳ、神の選びとしるし(2:20~2:23)

 

  • 2:21-22 神が状況を揺り動かす。苦しい状況はいつまでも変わらないわけではなく、神の力によって急速に変わることがある。

 

・「馬を駆るもの」「戦車」=軍隊・戦力。

⇒ 軍隊・戦力を神が覆し、それらは滅びていくことが述べられる。

 

参照:マタイ26:52「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

 

 

  • 2:23

 

印章=「ホタム」、英訳signet, seal。 

王が文書につける印章、封印、その印のついた指輪。

 

迎え入れる=フランシスコ会訳「わたしはお前を取り」

 

※ ゼルバベルが、神に迎え入れられ(あるいは「取られ」)、「印章」となり、神から選ばれるということが述べられる。

 

・ゼルバベルはメシアと期待された?

 

関根訳の見出し:「ゼルバベル―メシヤ」

ハガイとゼカリヤはゼルバベルに対してメシア的な期待を持った?

 

※ ゼルバベルはその後、全く旧約聖書に姿を現さなくなり、どうなったのかわからない。

一説にはペルシアに謀殺されたという説もある。つまり、ダビデ王家の血筋で、メシアとも期待され、ユダヤ民族の団結の中心点となったため、ペルシアに意図的に排除されたとも考えられる。

※ 参照:山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』(岩波現代文庫)2003年、195頁。

 

一説には、イザヤ書53章の「苦難の僕」はゼルバベルのことを指しているとも言われる。

おそらくは、ゼルバベルは、メシアとも期待されたものの、なんらかの理由で、唐突に姿を消してしまったものと思われる。また、その末路を語ることさえ、当時は憚られるものだったと推測される。

(ちなみに、マタイ1:12-13およびルカ3:27では、ゼルバベルはイエスの養父ヨセフの先祖の一人に挙げられている。)

 

※ では、この箇所は、ゼルバベルに対してのみ言われていることと解釈すべきなのか? だとすれば、はずれた預言、あるいは歴史的な一エピソードに過ぎなくなる。しかし、・・・。

 

  • 印章・刻印・しるしについては、聖書には以下のような箇所がある。

 

印章:「また、純金の花模様の額当てを作り、その上に印章に彫るように「主の聖なる者」と彫りなさい。」(出エジプト記28:36)

 

証印:「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリ1:22)

 

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェソ1:13)

 

焼き印:「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(ガラテヤ6:17)

 

刻印:「こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」

わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。」(黙示録7:3-4)

 

しるし:「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(ルカ2:34)

 

同箇所文語訳「シメオン彼らを祝して母マリヤに言ふ『視よ、この幼兒は、イスラエルの多くの人の或は倒れ、或は起たん爲に、また言ひ逆(さから)ひを受くる徴のために置かる。」

 

ヨナのしるし:マタイ12:39、ルカ11:29-32

⇒ 人々はしるしを欲しがるが、ヨナのしるし以外は与えられない。ヨナのしるしとは、受難し三日ののちによみがえること、つまり復活というしるし、あるいは人々に悔い改めを促し人々が悔い改めることそのものを指す。

 

⇒ イエス自身が、神から与えられた、神が人類を愛していることの「しるし」であった。イエスはまた、神への愛と隣人への愛に生きたがゆえに、多くの人々から反抗される・逆らいを受ける「しるし」でもあった。

⇒ このようなイエスを信じ、受け入れたものは、聖霊によって刻印され、証印され、救われるものである。

また、イエスの生き方や存在が「焼き印」された者ともなり、いかなる苦難においてもイエスの御心にかなった生き方を歩まざるを得なくなるものでもある。

 

⇒ これはゼルバベルに限らず、歴史上多く存在した人々にもあてはまる。

パウロ、多くの預言者使徒内村鑑三矢内原忠雄等。

 

⇒ ex.  フランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jägerstätter、1907-1943)

オーストリアの人で、普通の農民だった。ナチスによるオーストリア併合の是非を問う国民投票において、村で唯一反対の投票を行い、村八分となる。その後もヒトラーを「反キリスト」だと批判し、徴兵命令が来ると良心に反するとして徴兵拒否を宣言し、ナチスにより逮捕、死刑判決を受けてギロチンによって処刑された。

 

  1. 映画『ジュリア』、『サウンドオブミュージック』  
  2. 日本においても、戦争に抵抗した人々。斎藤宗次郎、浅見仙作、渡部良三など。小林多喜二など。 (フィリピ2:15、世にあって星のように輝く人々)
  • また、私たちの人生においても、神の御手の働きや導き、神の愛を教えてくれた人々は、私たちの人生における神の「しるし」だったと思われる。

 

内村鑑三「贖罪の弁証」:「われら各自もまたわれらに付与せられし力量相応に世の贖い主となることができるのである。」 ⇒ 究極の意味の贖い主・救い主と「しるし」はイエスだが、イエスを信じその歩みにならった人々は、それぞれの力量に応じて、しるしとなり、また贖いをもなすことができる。

⇒ キリストの香りとなる生き方。Ⅱコリ2:14-16

 

  • キリストを信じ、聖霊に証印され、キリストの香りを持つ生き方になったのは、キリストに選ばれたからである。
  • 2:23「わたしがあなたを選んだからだ」:神の選びの先行

 

参照:「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

 

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)

 

キリストを信じる信仰を与えられた人は、それぞれに神から選ばれた人であり、神の「印章」であると、聖書全体を通してみた場合、言える。

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ハガイ書2章から考えたこと

 

・ 勇気を持ち、しっかりと生き、自らを強くすることの大切さ。これらは、みずからの無力と罪を自覚し信仰を持つことの大切さと両立することである。神が共にいます時、人は強くなる。

・ 人間の罪の重さと、またその罪を一方的に赦し祝福するキリストの福音についてあらためて考えさせられる。

・ 信仰を与えられた者は、すべて大なり小なりゼルバベルのように神から選ばれた者であり、神の印章であって、聖霊によって証印されたものである。ゆえに、イエスの歩みにならって、できうる限り地の塩・世の光として、キリストの香りとして、神のみ旨に従って歩む努力を日々になすべきではないか。

⇒ そう考えると、ハガイ書二章のゼルバベルへの言及は、「外れた預言」などではなく、深い意味を持った言葉なのだと思われる。

 

 

「参考文献」

 

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

『ハガイ書(上) ―人生の中心とは』 

『ハガイ書(上) ―人生の中心とは』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神殿再建の呼びかけ(人生の中心とは何か?)

Ⅲ、神が共にいることの告げ知らせ

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

 

ハガイ書

十二小預言書のひとつ。全二章。バビロン捕囚から帰還した後の時代に、神殿の再建に尽くしたユダヤ預言者・ハガイによる預言をまとめたもの。

内容は、捕囚から帰還した後の人々に対し、神殿の再建を命じ、その努力を支え励ますものである。さらに、その中で、人生の中心とは何かを問いかけ、神が共にいることを示し、本当の意味における復興とは何かを問いかける内容となっている。

 

・ハガイとは誰か?:

ハガイ書の中には、「預言者」として記されているのみで、父親の名前を含めて詳しいことは不明。父親の名前が記されていないので、おそらく庶民出身。エズラ記5:1には、預言者ゼカリヤとともに、ハガイが神殿再建を指導したことが記されている。

ハガイ書の内容から、ハガイは捕囚前の神殿を見たことがあると推測でき(2:3)、だとすればこの時にはすでに老人だったと考えられる。若きゼカリヤとともに、捕囚帰還後の神殿再建期のイスラエルの精神的指導者となったが、それまでの長い年月につぶさに捕囚の苦難を耐え忍んできた人物と考えられる。

 

ハガイの時代背景:

 ハガイ書本文中(1:1等)に、ペルシア帝国の皇帝ダレイオスの治世第二年、つまり紀元前520年に行われた預言であると明記されている。

バビロン捕囚(BC587~538)の後、バビロニアを滅ぼしたペルシア初代皇帝キュロスによる捕囚からの解放からすでに十七年が経っていた。

未だにバビロンによる占領時に破壊された神殿は再建できず、人々の生活が少し落ち着きを取り戻したものの、まだ貧しい時期だったと考えられる。当時の中東はほぼ全域をペルシア帝国が支配し、イスラエルはその一部となっていた。

 

 

※ 「ハガイ書の構成」

 

第一部 神殿再建の呼びかけ 第一章(1:1~1:15) ⇒ 今回

第二部 新しい神殿の栄光と祝福 第二章(2:1~2:23) ⇒ 次回

 

ハガイ書では、第一章において、神殿再建が呼びかけられ、人生の中心を何にするのかが問われ、神を中心に生きる人々には神が共にいることが告げられる。第二章では、人々に勇気を出すよう励まし、本当の意味における神殿再建とは何かが問われ、ユダヤ総督ゼルバベルを神が選んだことが告げられる。

 

 

・第一部(第一章)の構成 

 

1、神殿再建の呼びかけ(人生の中心とは何か?)  第一章(1:1~1:11)

2、神が共にいることの告げ知らせ(1:12~1:15) 

 

第一部は、二つの部分に分かれる。前半は、神殿再建が呼びかけられ、人生の中心を何とするのかが問われる。後半では、神の言葉に耳を傾け、神を中心として生きることを選んだ人々に対し、神が共にいることが告げ知らされ、霊が奮い立たせられることが述べられる。全体として、神を中心として生きることの大切さと、そうすれば神が共にいるということが告げられている。

Ⅱ、神殿再建の呼びかけ(人生の中心とは何か?) (1:1~1:11)

 

◇ 1:1 題辞

 

ハガイ:「祭り」の意味。父の名前が記されていないので、おそらくは庶民の出身。「預言者」と明記されているので、「預言者」として当時の人々に尊重されたことがうかがわれる。神と共に生きることは宴の日々であり祭りの日々であるということを考えれば、神と共に生きることと「神の家」(神殿)を重視したハガイの思想は、名前とも深く関わると考えられる。

 

ダレイオス:ペルシア帝国第三代皇帝ダレイオス一世のこと。治世はBC522からBC486年。初代皇帝キュロスとともに名君とされる。ペルシア帝国の版図を広げ、統治を安定させ、多様な民族や宗教に対して寛容な政策で臨んだ。しかし、ギリシャ諸都市を征服しようとし、マラトンの戦いでアテナイの軍隊に敗戦を喫し、屈辱の余り憤死したとヘロドトスの歴史は伝える。

 

ゼルバベル:第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。

ハガイ書にはシャルティエルの子と記されているが、歴代誌上3:17にはペダヤの子と記されている(シャルティエルもペダヤもどちらもヨヤキンの息子。おそらくはペダヤの子で長子のシャルティエルの養子となって王家の直系を継いだと推測される)。  

捕囚帰還期にユダヤの総督としてユダヤの民の政治的指導者となり、大祭司ヨシュアと共に、ハガイとゼカリヤに従い、神殿再建に努めた。ハガイ書・ゼカリヤ書ともに、ゼルバベルを高く評価している。

しかし、聖書の中には、唐突にゼルバベルについての記述が消えてしまい、その後の消息については不明である。一説には、なんらかの政治的陰謀に巻き込まれて非業の死を遂げたと考えられ、イザヤ書五十三章において第二イザヤが描く「苦難の僕」は、ゼルバベルのことを指していたと推測する説もある。

 

ヨシュアエズラ記・ネヘミヤ記には「イエシュア」と記される。レビ人の家系で、大祭司。総督のゼルバベルと協力し、捕囚からの帰還の時期に指導者として活躍し、帰還の翌年(BC536)には、みずから神殿の工事の指揮をとり(エズラ3:8-9)、神殿の基礎を据えた。しかし、その後、十七年間工事は進まず、神殿は再建されなかったが、ハガイの預言を機に、再びゼルバベルと協力して神殿再建に努めた。

 

◇ 1:2  口語訳「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」。」

 

※ 今がその時 「まだその時は来ていない」 人がよく使う言いわけ。

⇒ ※ ルカ14:16-24 大宴会のたとえ

 

⇒ 魂の再建をするのは今、魂のことをすることは今。集会に参加するのは今。

 

※ 神殿:ヘブライ語では「ヘーカル」(王宮)、あるいは「バイス」(家)(ハガイ書では「バイス」)。

    

 

第一神殿 ソロモン王が建設(起工BC958)。バビロンにより破壊(BC587)。

第二神殿 ハガイ・ゼカリヤ・ゼルバベル・ヨシュアらが再建 礎石を置いたのはBC536、着工はBC520、竣工はBC515。

ヘロデの神殿 第二神殿を大幅に拡張。BC20頃着工、AD64に完成。AD70にローマ軍により破壊。

 

※ 神殿とは何か?新約聖書においては、建物ではなく信仰者。

 

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリ3:16)

 

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(1コリ6:19)

 

「わたしたちは生ける神の神殿なのです。」(Ⅱコリ 6:16)

 

「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(エフェソ2:21)

 

⇒ ただし、旧約のハガイにおいては、まず建物としての神殿(神の家)の再建が呼びかけられている

 

 

◇ 1:3~11 人生において何を中心として生きるのか?

 

1:4 バルバロ訳「居心地の良い家」

 

⇒ 神殿(神の家)を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板貼りの家・居心地の良い家に住む。 ⇒ 霊的なことよりも、物質的生活を優先する。

⇒ 戦後の日本も、霊的な事柄を廃墟にさせたまま、物質的生活のみを追求してはこなかったか?

 

※ BC537年にキュロスから解放され帰還したユダヤの民は、翌年には大祭司ヨシュアのもと、神殿の礎石を据えた(エズラ記3:8-13)。しかし、サマリア人が神殿再建の手助けを申し出たのを断ると、サマリア人は神殿再建を妨害するようになり、再建工事は中断せざるを得なくなった(エズラ記4:1~24)。帰還後の生活的・経済的苦境も工事がはかどらなかった理由として大きかったと考えられる。十七年経ち、人々が神殿再建について、帰還直後の感激(詩編126、エズラ3:12)を忘れかけていた時に、ハガイを通して神は語りかけた。

 

1:5 「自分の歩む道に心を留めよ。」  ⇒ 1:7でも繰り返される。

 

フランシスコ会「お前たちがどう過ごしてきたかをよく心に留めよ。」

関根訳「君たちは今の状態についてよく考えて見るがよい。」

岩波訳「あなたがたは自分たちの歩みに心を留めよ。」

バルバロ訳「自分のやったことを思い直せ。」

新改訳2017「あなたがたの歩みをよく考えよ。」

文語訳「汝ら、おのれの行為(おこない)を省察(かんがう)べし。」

⇒ 自分がどのように生きているか、どのように生きて来たか。

⇒ つまり、何を中心に生きているか、何を大切にし、何とともに生きようとしているのか。神はハガイを通して問いかけた。

 

 

1:6 収穫が少なく、飲食に満足できない。金袋には穴があいている。

 

① 実際に、物資が不足し、働いても楽にならない。

② ある程度は、収穫や物資があっても、心が満足できない。

 

⇒ おそらくは、両方とも。神の祝福がないと、物質的に十分な安定や繁栄が得られず、苦難によって神が人の心を神に向き直させようとされることがあると旧約は記す(ホセア二章、アモス四章など)。また、神との関係が満たされないと、魂が満たされることはないということは聖書に通底するメッセージ。

 

1:7  1:5の繰り返し。再度、自らの人生の歩みを問い直すことが呼びかけられている。

 

1:8  新改訳2017「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。/そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。/―主は言われる―」

 

⇒ 信仰者、あるいはその集いであるエクレシアを通して、神は栄光を現す。

 

1:9 岩波訳「それは、わたしの家が廃墟のままなのに、/あなたがたは各々自分の家のために走り回っているからだ。」

 

⇒ 「神殿」」は原文では家。「神の家」と「人の家」とが対比され、後者が優先されたために、物質的に満たされることがないことが指摘される。

 

1:10 本来、神を愛し、神の言葉に従うならば、天から雨が降り、地から収穫があることが約束されていた(申命記 11:13-15)

 

1:11 バルバロ訳「私は、地にも、山にも、小麦にも、ぶどう酒にも、油にも、地の産物にも、人間にも、家畜にも、すべての手の業にも日照りを下した。」

 

⇒ 神から遠ざかると、心も、人生の出来事においても、「日照り」となる。

 

 

Ⅲ、神が共にいることの告げ知らせ(1:12~1:15) 

 

◇  1:12 神の言葉に耳を傾ける

 

※ ゼルバベル、ヨシュア、「民の残りの者」(=捕囚から帰還した民)は皆、ハガイを通して伝えられた神の言葉に「耳を傾けた」。

 

⇒ 列王記・歴代誌では、あれほど神の言葉に耳を傾けず、十二小預言書でも、多くの場合、耳が傾けられなかった神の言葉に、「残りの者」は耳を傾けた。

⇒ それは、バビロン捕囚という苦難をかいくぐってきたから。

⇒ 頑なな心も、さまざまな苦難を経て、神の言葉に素直に耳を傾けるようになる。

 

 

◇ 1:13  「神が共にいる」というメッセージ

 

※ 1:13a 新改訳2017「主の使者ハガイは主の使命を受けて、民にこう言った。」

 

※ 1:1や1:12の「預言者」から「主の使者」とハガイの呼び方が変わっている。 ⇒ 耳を傾ける者にとっては、神の言葉を伝えるものは「御使い」「天使」と等しい。 ⇒ 私たちの人生にとっても、その人の背後に神の御手を感じとり、その人の言葉の背後に神を感じる時は、「主の使者」と受けとめられる(ex. 内村鑑三矢内原忠雄など。)

 

1:13b 新改訳2017「わたしはあなたがたとともにいる ―主のことば。」

 

※ 神が共にいるということは、聖書を通底して一貫した呼びかけであり、メッセージである。

 

・エノクやノアは神と共に歩んだ。(創世記3:24、同6:9)

 

アブラハム:「恐れるな、アブラムよ。/わたしはあなたの盾である。/あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)

 

イサク:「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」(創世記 26:24)

 

ヤコブ:「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)

 

ヨセフ:「監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39:23)

 

モーセ:「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」」(出エジプト 3:12

 

「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。」(申命記2:7)

 

「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31:6)

 

ヨシュア:「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア 1:5)

 

ギデオン:「主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」」(士師記 6:12)

 

ダビデ:「主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。」(サムエル記上 18:14)

 

ヒゼキヤ:「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。」(列王記下 18:7)

 

「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」(詩編23:4)

 

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)

 

「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)

 

「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43:5)

 

「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」(エレミヤ1:8)

 

「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エゼキエル37:27)

 

「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」(ダニエル10:19)

 

「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)

 

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)

 

 

◇ 1:14 主が霊を元気づける。

 

バルバロ訳「主は(略)みなの心を奮い起こされた。」

関根訳「ヤハウェは(略)霊を呼び起こした。」

⇒ 主が霊を奮い立たせる、元気づける。そうすれば、どのように困難な出来事も可能となる。

 

⇒ 逆に言えば、主が共にいないと、主の力が加えられないと、人間が自分の力だけで何かをしようとしても、うまくいかない場合がある(神殿再建が帰還から十七年も中断したこと)。神に頼り、神を仰ぐ時に、人は大きな力を発揮できる。神と共にいることが霊に大いなる力を与える。

⇒ 日々に聖書を読み、神の言葉に霊を奮い立たせることの必要性。

 

◇ 1:15 「それは六月二十四日のことであった。」

⇒ 神と共に歩み、霊に大きな力を得て、何かを始めた日は、いつでも記念すべき日となる。永遠に残る一日となる。

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

 

ハガイ書から考えたこと

 

・ 自分は人生の何を中心にして生きているか。

・ 神から離れていた時は、「日照り」の時だったと、人生の経験上・実験上、思う。霊的にも物質的にも。

・ しかし、ひとたび神の方向に心の向きを変えて、神の言葉に耳を傾ければ

即座に「神は共にいます」ことが実感できる人生が始まる。

・ 神が共に歩んでくださる人生は、霊が決して沈みこんだままになることがなく、霊が奮い立ち、心が元気になる。必ず希望がある。力ある歩みとなる。

 

・ 「神殿」は、新約聖書を踏まえれば、建築物ではなく、信仰を持つ人間である。また、その集いであるエクレシア(集会、教会)である。この神殿・神の家をきちんと築き、清め、立派につくりあげていくことを人生の中心とすることが、神の御心であること。神の栄光はそこにおいて現れること。

 

・ 戦後の日本は、ごくわずかな例外を除けば、「人の家」のみを大切にし

「神の家」をおろそかにしがちだったのではないか。

・ そのような中で、福岡聖書研究会や無教会、愛真高校や独立学園は、「神の家」を大切にしてきた数少ない貴重な例外と思われる。

 

・ バビロン捕囚は決して無駄ではなく、多大な苦難を経たからこそ、ユダヤの残りの民は、神の言葉に素直に耳を傾けるようになったのだと思う。

ただし、そうして築かれた第二神殿が、かえって人が神の宮であることを見失わせ、キリストを磔刑にするファリサイ人たちの拠点になってしまったことに、人間の罪の深さを感じざるを得ない。「神殿」の本当の意味に開眼する必要があるのだと思う。

 

 

 

※ ハガイ書 第一章十三節b 神ともにいます 

 

アニー・イッテヘム・ネウーム・アドナーイ

 

アニー=私 / イッテヘム=共に、~のために /ネウーム=言った

 

「わたしはあなたがたと共にいる。」

―(これは)ヤハウェの御告げ―

 

 

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

「マクタールの収穫夫の碑文」

BSであっていた「古代文明への旅」という番組の「北アフリカのローマ都市」という回の中で、チュニジアのマクタールで発見されたという、古代ローマ帝国の時代の碑文が紹介されていた。

ある収穫夫が、自分の人生を振り返って記したものだそうで、古代ローマ時代の北アフリカの属州の農夫の生活をうかがい知ることができる貴重な資料とのことだった。

もちろん、そうでもあるのだろうけれど、簡潔な文章にある立派な人物の人生がこめられていて、とても感動させられた。

碑文の文章は、番組の紹介によれば、以下のものである。


「私は貧しい家に生まれた。

生まれた時からずっと畑を耕して生きてきた。

私の土地も私も、片時も休むことがなかった。

その後、故郷の村を離れ、灼熱の太陽のもと、農作物の種をまいて、
人のために十二年間働いた。

そして、収穫仲間のリーダーとなり、
十一年間、農園労働者たちの先頭に立った。

私は金を貯め、自分の家と農園を持つまでになった。

これまでの苦労が報われ、今は快適に暮らしている。

行政の仕事に就くほどまでに出世もした。

貧しい小作農から、最高位の行政官まで、のしあがったのだ。

男たちよ、正直に生きることを学べ。

人をあざむくことなく生きる者は、栄光につつまれて、死を迎えるのだ。」


全く装飾のない、簡潔な文章である。

文字にすれば、ほんの数行だけれど、その行間に、どれほどのことがあったのか、想像すると胸を打たれるものである。

いつの世にも、こういう立派な人がいたのだなぁと、感心させられた。

帝政ローマというのも、首都の酒池肉林の馬鹿な貴族や市民たちではなく、地方の属州のこういった人たちが支えていたので、長く続いたのだろうと思う。