『ナホム書(上) ― 神は悩みの日の砦』 資料
『ナホム書(上) ― 神は悩みの日の砦』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、正義の神とその力ある業 1:1~1:8
Ⅲ、ユダとニネベへの言葉 1:9~1:14
Ⅳ、神は悩みの日の砦 1:7
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
ナホム書:十二小預言書の一つ。全三章。BC663頃-627の預言と考えられる。アッシリアに対する神の怒りの審判が描かれる。第一章のアクロスティック(いろは歌)が特徴。
・ナホムとは誰か?:ナホム書以外の聖書記述中の情報がなく、詳しいことは不明。エルコシュの出身とナホム書に記述があるが、エルコシュがどの場所にあたるのか諸説あり正確にはわからない。父の名も伝わらないのでおそらくは普通の庶民。
・ナホムの時代背景:ユダの王マナセ、アモン、ヨシヤの時代(BC663頃-(627)-612)
ナホムが生きた時代は、ナホム書本文に王の名前が出てこないため正確にはわからない。しかし、本文中(ナホム書第三章)にエジプトのノ・アモン(テーベ)が占領され破壊された記述があり、またアッシリアの首都ニネベの陥落の預言を事前にしたことが記されているので、ノ・アモンが占領されたBC663年頃からニネベ陥落のBC612年までの間に活動した預言者と推測される。ユダの王で言えば、マナセ(在位BC687-642、アッシリアに服属し偶像を崇拝するも、のちにアッシリアに反旗をひるがえし連行され苦難を経て、悔い改めた)、アモン(BC642-640)、ヨシヤ(BC640-609)の時代である。すでに北イスラエル王国はアッシリアによってBC722-721に滅亡しており、BC701年にはヒゼキヤ王の治下にエルサレムがアッシリア軍に包囲されかろうじて滅亡を免れた出来事があった。
アッシリアはBC627年にアッシュルバニパル王が死んだ後、急速に衰退する。ナホム書の内容から、おそらくアッシリアの全盛時代にまだ誰も滅亡を予測できなかった時点に述べられたと推測されるので、BC663年からBC627年までの間、アッシュルバニパル王の治世のもとでアッシリアが空前の繁栄と最大版図を達成していた頃と考えられる。
※ 「ナホム書の構成」
第一部 ニネベに対する主の怒り 第一章(1:1~1:14) ⇒ 今回
第二部 ニネベ崩壊とアッシリア滅亡の預言 第二~三章(2:1~3:19)⇒ 次回解説
・ナホム書は全三章の短い文章であるが、アッシリアに対する審判を非常に精彩に富んだ圧倒的な迫力で描く。神の熱情が迸るように描かれており、哲学的・理神論的な神とヤハウェが全く異なることが明瞭に描かれる。と同時に、これらの歴史の奔流の中において、神が苦しみの砦となることが描かれ、神は義の神であると同時に愛の神であることも明記されている。特に第一章七節は聖書の中でも珠玉の箇所。
・第一部(第一章)の構成
1、正義の神とその力ある業 1:1~1:8
2、ユダとニネベへの言葉 1:9~1:14
Ⅱ、正義の神とその力ある業 1:1~1:8
※ 1章1節 「題辞」
ニネベ:アッシリアの首都。女神イシュタルの神殿が古くから存在。当時の人口は百万以上だったという推定もある(「新約聖書講解シリーズ旧約9」14頁)。ヨナ書や、旧約聖書続編のトビト記の舞台でもある。 ※ 参照:聖書巻末地図1
エルコシュ:伝説ではニネベの北東のアル・クシュがエルコシュとされ、ナホムの墓があると伝わる。エルコシュについては、ガリラヤのカペナウム、あるいはガザ周辺という説もある。
ナホム:「慰める者」という意味。
幻:啓示。ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。
※ 1章2-6節 熱情の神のアッシリアの悪に対する怒り
・主は熱情の神である(1:2)
ナホム書では、ヤハウェは「熱情の神」であり、義の神・審判の神として歴史に介入する神であることが明確に宣言されている。これは、神は最初の第一原因としてこの宇宙を創造した後は、すべて因果法則に任せて歴史に介入しないというアリストテレスやデカルトの神に対する考え方や理神論と対照的である。神は人間に無関心で無関係な神ではなく、「主の日」つまりある特定の時間において熱情をもって歴史に介入し審判を行う存在であることが明確に述べられている。
ここでは、アッシリアに対する神の怒りと報復が宣言されている。
・主は忍耐してきた(1:3)
同じ十二小預言書のヨナ書には、ナホムの100年ほど前に活動したヨナが、ニネベに対して悔い改めを勧告し、ニネベの人々が悔い改め、そのため主がニネベに対する審判を思いとどまったことが記されている。(参照:鎌田「「ヨナ書」を読む」2015年8月)
しかし、アッシリアは、その後再び暴虐の道を歩んだ。北イスラエルを滅ぼし、南ユダ王国も圧迫した。
主は忍耐強く、ある期間は猶予を与えるが、義の神である以上決して罪をそのまま見過ごしにすることはなく、悔い改めず神の忍耐を無にする相手に対しては時を見計らって審判を下すことが宣言されている。
参照・バルバロ訳:「主は全能ではあるが、怒ることおそく、/何ものも見逃されない。」
⇒ 忍耐強いと同時に、適切にすべてを観察し、決して見逃さないのが神の目。
※ アッシリアとは:
ナホム書はアッシリアに対する審判の預言である。ナホム書を理解するためには、アッシリアの歴史を理解しておくことが重要である。
アッシリアは、主にメソポタミア北部を本拠地とし、BC2000頃からBC609年まで、およそ1400年間存在した国である。117代の歴代国王の「王名表」が存在し、建前としては万世一系の王朝だった(実際については諸説あり)。
アッシュル神を最高神とし、正確には歴代の国王は「副王」とされ、王はアッシュル神だとされていた。他にも、女神イシュタルなどが崇拝された。宗教・神話や文化は先行するシュメール文化やバビロニアの文化を受容した。
広大な帝国を維持する行政機構が発達し、膨大な記録が今日も残っている。十万人以上の兵力を動員でき、千人・百人・五十人の部隊に分かれてそれぞれに隊長が存在した。戦車や投石器を用い、携帯食を携行し長距離の遠征を可能としていた。駅逓制度も発達した。
いくたびか盛衰を繰り返し(三度の大雌伏期)、紀元前9世紀から8世紀にかけても80年間ほど衰退期を迎えた(ちょうどヨナの時代。アダド・ニラリ三世の時のベール・タルツィ・イルマの碑文には、ナブー神への唯一神信仰をうかがわせる碑文が存在)。
しかし、紀元前8世紀半ばに登場したティグラト・ピレセル三世(在位BC745-727。別名プル、列王記下15:19)の時代に再興した。ティグラト・ピレセル三世は、職業軍人からなる常備軍を整備し、メソポタミア南部のバビロニアを450年ぶりに支配し、アッシリアはメソポタミア地域一円を支配する世界帝国となった。
ティグラト・ピレセル三世は、征服した諸民族に対して強制移住政策を実施し、混血を進め、民族の同一性や文化を弱体化させアッシリアに抵抗する力を弱めようとした。ティグラト・ピレセル三世の二十年に満たない治世に総計で約四十回にわたる強制移住が行われ、各地で五十万人以上の人々が移動させられた(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』岩波現代文庫、137頁)。
その後、アッシリアは拡大を続け、アッシュルバニパルがBC668年に即位すると、最盛期を迎えた。アッシュルバニパルは、すでにアッシリアが支配していたエジプトが反乱を起こしたのを鎮圧し、BC663年にエジプトの宗教的中心地テーベ(ノ・アモン)を占領・略奪している。この時の出来事が、ナホム書第三章に描かれている(次回詳述)。
アッシュルバニパルの時に、アッシリアは最大版図を誇り、最盛期を迎え、巨大な図書館も建造された。しかし、BC627年にアッシュルバニパルが死去すると、後継をめぐり内戦や混乱が起こり、諸民族の反乱が起り、急速に衰退した(アッシリアの急速な衰退の原因については諸説あるがはっきりした定説はない。)。BC612年にはニネベがバビロニア・メディアの連合軍の攻撃によって陥落し、その三年後にわずかに残った残存勢力も完全に滅亡した。
ナホム書は、おそらくアッシュルバニパル王のアッシリアが最大版図を誇り最盛期を迎えていた頃に預言されたものであり、その後の急速な滅亡を他の誰も予測しておらず、1400年も続いたアッシリアが完全に滅亡するとは誰も思いもしていなかったという背景を理解する必要がある。
1:4 バシャンは家畜、カルメルは果物、レバノンは木材の産地として、豊かさの象徴。
1:5 フランシスコ会訳「山々は主の前で震えおののき、/もろもろの丘も溶け去る。/大地はその前に不毛と化し/世界とそこに住むものは見る影もなくなる。」
⇒ 荒涼とした世界への変化を述べている。 ⇒ 当時、自然破壊があった?
1:6 主の怒りの前には、誰も耐ええない。
※ 1章7節 神は悩みの日の砦 ⇒ ナホム書の中心となる御言葉 (後述)
アッシリアの圧制、あるいはその滅亡の際の急速な秩序の崩壊や混乱の中においても、神が支えとなること。悪しき時代においても、神が心の砦となり魂を守ってくれること。
※ 1章8節 洪水
洪水の中の悩みの砦 ⇒ ノアの箱舟のように
舟の中で嵐を鎮めるキリスト マタイ8:23-27 マルコ4:35-40 ルカ8:22-25
参照:創世記6章、ノアの洪水。
⇒ アッシリアの粘土板に記されていた世界最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」にも、ノアの洪水と酷似した洪水神話が記されている。(ウトナピシュテムという人物が六日六晩続いた大洪水で世界が破滅した時も箱舟に乗って家族や動物たちとともに生き残り、その後、神によって永遠の命を得たことが記されている。)
しかし、ギルガメシュ自身は永遠のいのちを得ることに失敗する様子がギルガメシュ叙事詩には描かれる。聖書とギルガメシュ叙事詩は、どちらも永遠の命をテーマにしているが、結局永遠の命を得ることができないギルガメシュに対し、キリストにより誰もが永遠の命を得ることができるというのが聖書の主題である。
アモス5:24 「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」 エゼキエル47:1 命の水
Ⅲ、ユダとニネベへの言葉 1:9~1:14
※ 1章9-11節 神による救いとベリアルを滅ぼすことの宣言
1:9 フランシスコ会訳「お前たちは主に何を企んでいるのか。/主はすべてを一掃され、/悩みが二度と訪れることはない。」 (関根訳も同様の訳)
⇒ アッシリアあるいは敵(罪)が滅ぼされることと、悩みがなくなること=救いが述べられている。
1:10 フランシスコ会訳「絡まる茨のように絡みついても、/それらは乾いたわらのように残らず焼き尽くされる。」
⇒ 絡まる茨=敵陣 あるいは、罪による束縛。
参照:オバデヤ18節 神は罪を清め焼き尽くす炎 (出エジプト3:2-6 燃える柴)
1:11 「よこしまな事を謀る者」=原語「ベリヤアル」(בְּלִיָּֽעַל beliyyaal)
⇒ Ⅱコリ6:15「ベリアル」
キリストと対照をなす悪魔。不信仰。偶像。不法。生ける神と反対のもの。
⇒ ナホム書の審判の対象が、単に歴史上のアッシリアという一つの帝国にとどまらず、サタン(ベリアル)であること。
⇒ また、それが「あなたの中から出た」と書かれているように、単に他の民族が敵だというだけでなく、罪やサタンは自分たちの中に働くものであり、それこそが問題であるという認識。 (黙示的二元論の克服)
※ ナホム書には、アッシリアに対しての審判のみが述べられ、ユダの罪に対しては告発されていない?
預言書の多くは、イスラエルの周辺諸民族に対する神の審判と同時に、イスラエルの罪の告発も行われている。しかし、ナホム書は、一見、アッシリアに対する審判のみ終始宣告し、イスラエルの罪に対しては特に言及していない。この点で、アモス・ホセア・イザヤ・エレミヤなどと大きく異なることがよく指摘される。
しかし、ナホム書においては、すでに北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡し、南ユダ王国もかろうじて奇跡的に滅亡を免れたもののアッシリアの前に風前の灯火の属国となっていたという歴史背景がある。また、マナセ王の晩年あるいはヨシヤ王の時代は、王がすでに神に従順となっていたという背景もある。さらに、すでにイスラエルの罪は多くの預言者によって指摘・告発されていたことも挙げられる。
上記の背景を踏まえた上で、ナホム書は、神の審判という見通しを人々に与え、神への信頼と解放への希望を人々に与えることに特に力点を集中し、主眼を置いていると見るべきと考えられる。また、1:11を見れば、「ベリアル」(サタン)こそが問題であり、それは人々の中、神の民の中にも働くものであるという認識がナホム書にも読み取れる。「アッシリア」は、人間の自己中心性や征服欲、内なる帝国主義の意味とも見るべき。
※ 1章12-13節 神の民に対する解放の宣言
イスラエルに対する言葉。神の民に対する言葉。
くびき・鎖(縄目)からの解放。今までは神によって苦しめられたとしても、これからは二度と苦しまないこと。
⇒ 罪からの解放 キリストの十字架
※ 1章14 節 アッシリアに対する滅亡の宣告
アッシリアに対する言葉。ベリアルに対する言葉。
アッシリアが最終的に滅び、偶像も消え去ることの宣言。虚偽は歴史的に淘汰されることの宣告。あるいは、罪を最終的に滅ぼすことの宣言。
⇒ BC609年、アッシリアは最終的に滅び、二度と国が再建されることはなく、その宗教や民族の伝統も消滅した。 ⇒ ユダヤ人とその信仰がずっと存続し、イスラエルが復興されたのとは対照的。⇒ (十字架が罪を滅ぼすこと)
⇒ 本当に長く続いていくのは真実や愛や義。虚偽は滅び去る。罪は滅ぼされる。
Ⅳ、神は悩みの日の砦 1:7
新翻訳「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり/身を寄せる者を知っておられる。」
フランシスコ会訳:「主は慈しみ深く、悩みの時の砦。/ご自分のもとに難を逃れる者には、み心を砕かれる。」
バルバロ訳:「主に希望をおく者にとって、/主はよいものであり、/危険のときの避け所である。/主のみもとに逃れる者を見守り…」
「恵み深く」=原語 トーヴ(tov) 英訳good 「神は善い」「主は良い方」⇒一見、この世界が不条理で悲惨に見えても、その根底にあり歴史を司る神は良い存在であるという確信・信仰。 ⇒ キリストの善意、キリストの愛
信仰のある者の祈りや呼びかけに対し、神は決して無視したり、無関心であることはなく、必ず耳を傾けて聞き、御心に留め、御心を砕き、配慮するという言明。
⇒ 参照:出エジプト記2:23-25 叫び声は神に届く・御心に留められる ヨナ2:8
※ 神が「砦」とは具体的にいかなる意味か? 砦=מָעוֹז (maoz) 英訳stronghold
根拠地・避け所・要塞・要害・守ってくれるもの ⇒ その理由 (聖書の他の箇所)
1、神は守ってくれる
詩18:3「主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。」
詩71:3 「常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」
詩91:2 「主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。」 (参照・詩121 ヨエル4:16 避け所=砦)
2、守り導いてくれる
・詩31:4-5「あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き/隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。」
・詩37:39-40 「主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。/主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」
・詩59:10-11 「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。/神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。」 → 神は先に立って進んでくれる
・神は動かない存在ではなく、移動して先に立って導いてくれ、後ろに回って守ってくれる存在である(出エジプト13:21-22、出エジプト14:19)。
詩48:15 「死を越えて、私たちを導いて行かれる」 終わりまで砦となる存在。
3、義の神として敵を裁く
詩9:10「虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。」(←詩9:5「あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。」)
・詩94:22「主は必ずわたしのために砦の塔となり/わたしの神は避けどころとなり/岩となってくださいます。」(←94:23「彼らの悪に報い/苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。わたしたちの神、主よ/彼らを滅ぼし尽くしてください。」)
4、主は光
・詩27:1 「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。」
⇒ 主の存在そのものが光となって照らしてくださるので、人生の指針となり、希望を与え、砦となってくれる。 (参照・詩119:105 ヨハネ8:12)
5、力の源 詩28:8 主は力、砦、救い ⇒ 神は力の源なので、砦となる。
・詩28:8(フランシスコ会訳)「主はわたしたちの力、油注がれた者を救う砦。」
エレミヤ16:19「主よ、わたしの力、わたしの砦」 詩18:2-3
6、必ずいつも共にいてくれる
・詩46:2「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」、46:8「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」、46:12「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」 → 必ず共にいる存在 (参照:マタイ1:23 インマヌエル)
必ず応答してくれる神
・詩9:11「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」→詩9:10
苦難の中にあって呼びかけることができる存在
・詩43:2「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。」 詩89:41
主の慈しみが支えてくれる・砦となる
・詩94:18-19 「「足がよろめく」とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。/わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。」
→ 詩94:22「主は必ずわたしのために砦の塔となり/わたしの神は避けどころとなり/岩となってくださいます。」
7、主は歌 詩118:14「主はわたしの砦、わたしの歌。/主はわたしの救いとなってくださった。」 (参照:出エジプト15:2)
※ 歌が人の心の支えとなること。 例:アンブロシウスの最初の讃美歌、映画「望郷の鐘」における満州からの引揚者や残留孤児における「ふるさと」、日本海上の船の上でのハティクヴァ、公民権運動における”we shall overcome”、黒人霊歌「深い河」。
※ イザヤ25:4-5 神は「弱い者の砦」であり、「暴虐な者たちの歌声を低くされる。」
神は、小さい者・弱い者にとって本当の支えとなり「歌」となり、横暴な者の歌や騒ぎは鎮める。 ⇒ 長い目で見ると、良い歌が残り、悪い歌は残らない。
※ 砦とはキリストのこと ゼカリヤ9:12「希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。」 ゼカリヤ9:9 ろばに乗って王(メシア)が来る (参照 詩8:3 乳飲み子)
砦=キリスト キリストに帰ることこそ、本当の魂の砦を得ること、砦に帰ること。
※砦⇒勇気 参照:ハリエット・タブマン(1821-1913)、絵本『ハリエットの道」
⇔ アッシリアのサルゴン2世(110代)、シン・シャル・イシュクン(116代)
※ イザヤ27:5「そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」
⇒神を歌・砦とすること=神との和解 キリストの十字架の贖いを信じること
・詩73:26 「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが/神はとこしえにわたしの心の岩/わたしに与えられた分。」 ⇒肉や心ではなく、神とつながるプネウマのみ変わらぬもの (参照:Ⅰテサロニケ5:23)
エレミヤ9:22‐23 誇るべきは主を知ること。Not 知恵・力・富
箴言14:26-27「主を畏れれば頼るべき砦を得、/子らのためには避けどころを得る。/主を畏れることは命の源/死の罠を避けさせる。」
Ⅴ、おわりに
※ ナホム書から考えたこと
・ナホム書は、その最盛期において事前にアッシリアの滅亡を預言した。その後の急速なアッシリアの滅亡により、神の預言の真実と、歴史の主権者は神であることをナホム書は証した。そのことは、当時の人々にとって実に驚愕すべきことであり、それゆえにナホム書が長く大切に語りつがれ聖書に加えられたのだと思われる。
世俗権力のいかなる強大な力も、それが不義のものであり続ける限り、必ず最終的には審判を受ける。虚偽は滅び去り、真実のみが存続していく。それらのことをナホム書は教えてくれる。
と同時に、単に歴史上のアッシリアという一つの固有の存在だけではなく、「ベリアル」つまりサタンをアッシリアの奥に見ており、またそれが単にアッシリアだけにとどまらず、人間の内部に働くものであることを、ナホム書が指摘していることが、今回丹念に読むことでわかった。ナホム書は、ベリアル(罪)を滅ぼす神の業の宣言であり、その意味で、キリストの福音の到来を他の預言書と同じく預言している。(次回ナホム2:1)
・最近の世界においては、アメリカにおけるトランプ政権や、欧州各国における極右の台頭など、今後の世界の見通しについて暗い影を落とす要素が多々見受けられる。今後、アメリカが誤った政策を実行し、急速に衰退して世界の秩序が混乱する可能性もある。
しかし、神を信じる者にとっては、神が悩みの日の砦となり、勇気の源となり、歴史の根底には神の善意や導きや義の審判があり、必ずベリアル(罪)は滅ぼされていくという見通しを持つことができる。全て変わりゆく世界の中で、変わらないもの・真のよりどころを持つことができることを、ナホム書は教えてくれる。
※ ナホム書 第一章七節 (神は悩みの日の砦)
טֹ֣וב יְהוָ֔ה לְמָעֹ֖וז בְּיֹ֣ום צָרָ֑ה וְיֹדֵ֖עַ חֹ֥סֵי בֹֽו׃
レマオウズ・ベヨウム・ツァーラー・
ヴェヨデーア・ホーセ・ボウ
「主は善い方であり、
悩みの日の砦である。
主のもとに避難する者を
主は知ってくださる。」
「参考文献」
・聖書:新共同訳、新翻訳パイロット版、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年
・黒崎幸吉編『𦾔約聖書略註 下』、下山忠夫「ナホム書」
・『新聖書註解 旧約4』いのちのことば社、千代崎秀雄「ナホム書」、1974年
・『ライフ人間世界史 第13巻メソポタミア 』タイム社、1968年 (他多数)