『「アモス書」を読む ―正義の声を聞く』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、第一部 諸国民に対する預言=世界史の神 (1~2章)
Ⅲ、第二部 社会的正義を求める神、宇宙創造の神 (3~6章)
Ⅳ、第三部 五つの幻、審判の預言とアマツヤとの対決、後の日の回復 (7~9章)
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
アモス書:十二小預言書のひとつ。記述預言書としておそらく一番最初に成立。したがって、聖書の中で最初の文書という説もある(モーセ五書は口伝として存在し、部分的に文書があったものが、バビロン捕囚期に編集されたと考えられるのに対し、アモス書の主要な部分はアモス在世中に執筆されたと考えられる)。
北イスラエル王国を主な対象としている。全九章。
・アモスとは誰か?:テコアの牧羊者。職業的な宗教家ではなく、もともとは家畜を飼い、いちじく桑を栽培していたと自ら語る(7:14)。おそらく、ある程度の財産を持つ独立自営の牧羊者・農民であったと考えられる。
・アモスはBC8世紀前半から中期頃、南北分断期の北イスラエル王国において、ヤロブアム二世統治下の北イスラエル王国が最も繁栄し平和だった時代を生きた。預言活動は二年間か、あるいはもっと短い期間に集中的に行われたと見られる。(BC760-755の間か)。
・このヤロブアム二世の時代は、貧富の格差や腐敗が進んだ時代であり、アモスの預言の社会批判はそれらを背景としている。当時の北イスラエルの主要都市だったティルツァの遺跡からは、切石で建てられた「高級住宅地」と、粗末な「スラム街」の地域が、歴然と区別されていた様子が発見されている(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』(岩波現代文庫)150頁)。 ヨナ、ホセア、ミカ、第一イザヤとはほぼ同時代人である。
・アモス書は、アモス自身、あるいはその弟子によって文章として記録され、北イスラエル滅亡後の南ユダ王国で編集されたと考えられる。さらに捕囚期にも編集が加えられたという説もあるが、文章の中心部分はアモス自身の言葉にさかのぼると考えられる。
アモス書の特徴
・アモス書は、社会正義と貧者への憐れみを率直に訴えている点において、それまでのユダヤ人の精神活動にはなかった特徴がある。この特徴は、その後の全ての宗教の歴史から見ても、異彩を放っていると考えられる。アモスは、仏陀や孔子よりも前の時代の人物であるが、これら古代の思想家の中でも、社会正義の重視という点では際立っている。
・神から示されたヴィジョン(幻)を伝え、詩の形式の文章をはっきり伝えている点で、後世の預言文書の先駆であり、ひとつの典型をなす。
・内村鑑三は、「預言者と称すべき預言者はアモスをもって始まった」とし、アモスから始まった預言運動がイエスにおいて最高点に達したとしている。また、福音を伝える者は「アモスによって始められし預言運動を継続する」のであり、その意味において「われらは「預言者の子」である」と述べている。(「アモス書の研究」)
・政池仁は、アモスのことを、「預言者の祖」「最初の無教会主義者」「最初の社会主義者」と呼んでいる。
・十二小預言書の中では、アモスとホセアが代表的なものとして一般的に取り扱われる。
・政池仁:「アモス書とホセア書は姉妹篇である。アモスは義の書であって、ホセアは愛の書である。(略)ゆえに両書を読まずして預言というものを完全に理解できない。」
・矢内原忠雄:「ホセアの愛憐は正義を内容とし、アモスの正義は愛憐を内容とするのであって、両者は同一の真理を異なる方面より強調したに外ならない。」(「アモス書大意」)
※ アモス書を読み解くためのポイント
1、登場する地名・民族名の理解
地名、国名、固有名詞の連発が現代日本人の私たちにはわかりづらいので、これらを丁寧に調べて理解すれば、何を言っているのかわりとわかりやすい。
2、アモス書の「神観」を理解する。
アモス書は、神は正義の神、世界史の神、宇宙創造の神、預言の神、愛の神であるという五つの神への見方(神観)を明らかにしている。これらの神観は聖書の他の箇所にも見られるが、アモス書は特に簡潔明瞭に集中的に神観の問題を取り扱っている。
3、繰り返し読むこと。
アモス書のメッセージは素朴でシンプルなので、言葉自体はそれほど難しくはない。表現も率直である。したがって繰り返し読めば、わりとわかりやすい。
⇒ アモス書の「正義の声」に繰り返し耳を傾ける。
※ アモス書の鍵=5:14 (「善を求めよ、悪を求めるな」)
※ 「アモス書の構成」
第一部 諸国民に対する預言=世界史の神 1:1~2:16
第二部 諸々の託宣 (社会的正義を求める神、宇宙創造の神) 3:1~6:14
第三部 五つの幻(審判の預言、アマツヤとの対決)、後の日の回復 7:1~9:15
Ⅱ、第一部 「諸国民に対する預言=世界史の神」 (第一章~第二章)
第一部では、題辞でアモスの時代背景の簡単な紹介が行われたあと、八つの国民に対する神の審判が預言される。
◇ 1:1 題辞 (上図 左:カルメル山 中央:羊飼いの絵 右:テコアの風景)
テコア:ベツレヘムの南の荒野、死海が見える。南ユダに存在。したがって、アモスは活動したのは北イスラエル王国だが、出身は南ユダと考えられる。
このことについて、矢内原忠雄は、戦前の中国の山東省の人が満州国に行って預言するようなもので十分にありえると述べているし、政池仁は南北分断の時代にあえて国境にとらわれない愛国者だったとしている(cf.ヨナ)。祭司アマツヤが南ユダに立ち去るようにアモスに勧告したのは、アモスが南ユダ出身だったからかもしれない(7章)。北イスラエルの滅亡の方が寸前に迫っていたので、アモスはまず北イスラエルに赴いたのかもしれない。
ただし、北イスラエルのガラリヤ付近にもテコアという地名が存在し、アモスは北イスラエルのテコアの出身ではないかという説もある。
牧者の一人:独立自営としても、ありふれた牧羊者の一人で特別な存在ではなかったこと。
ヤロブアム二世:北イスラエル王国の第十三代国王(エヒウ王朝第四代目)。在位BC786~746。在位四十一年。その治世は繁栄し、北イスラエルの最盛期。しかし、貧富の格差が拡大した時代でもあった。人口も減少したらしい(列王紀下14:26、ホセア9:11~14)
地震:ゼカリヤ14:5 「ユダの王ウジヤの時代に/地震を避けて逃れたように逃げるがよい。」 当時は誰もが記憶している大地震だったらしい。なお、「あの地震の二年前」というので、これらの預言にもかかわらず悔い改めなかったイスラエルに対し、神は地震を通してさらに警告・審判を与えたと考えられている。
◇1:2 「ヤハウェはシオンから吠え、エルサレムからその声を上げる。」(岩波訳)
⇒ にもかかわらず、アモス以外、神の「吠え」「声を上げ」ている大きな声が、少しも聞こえていなかった。ただし、自然界には、神の意志と警告が現れつつあった。
カルメル山:イスラエル北部ハイファにある、標高525.4m、南北39kmにわたって広がる丘陵地。幸福や美の象徴。エリヤがバアルの祭司たちを打ち破った場所でもある。当時は樹木が多かった。
※ 八つの国民に対する預言 (諸国民に対する審判)
◇1:3 「三つの罪、四つの罪」:一度ならず、二度ならず、罪を何度も繰り返し、そのたびに神は忍耐し、大目に見てきたが、罪を繰り返すばかりなので、という意味(内村鑑三)。
三はヘブライ人にとって完全数なので、「十分に、いや十二分に」といった意味(政池仁)。
実際には、挙げられている罪はそれぞれ一つ。繰り返される罪の中でも特に大きいものか。
※新共同訳「赦さない」=関根訳「後へは引かない」、岩波訳「撤回しない」
原文の動詞「אֲשִׁיבֶ֑נּוּ לֹ֣א(ロー・アッシベーヌ)」は「立ち帰る」(シューヴ)に関連する語句(ローは否定詞)。「わたしは帰らせない、元に戻さない、報いない」(岩波訳脚注)といった意味。シューヴさせない。「立ち帰らせない」
左:当時の地図 右:ドレによるアモスの絵
- 「シリアに対する預言」
ダマスコ:シリア王国(アラム人の国)の首都。
アラム人:シリア一円に住んでいた民族。(元々はヘブライ人はアラム人?(申命記26:5))
ハザエル:もとシリアの軍人。エリシャによって油をそそがれ、ベン・ハダド王を殺害しシリアの王位を簒奪(列王記下8:7~15)。その後、南ユダ王国に侵略し、ガトを攻略、エルサレムをも攻撃しようとした。南ユダの王ヨアシュは、自らが所有するあらゆる宝物をハザエルに貢ぎ、エルサレムの攻撃をまぬがれた(列王記下12:18~19)。
神がエリヤにもハザエルに油をそそぐよう命じた記事もある(列王記上19:15))。
・ハザエルと同時代のイスラエルの国王は、エヒウやヨアハズであり、ヤロブアム二世の三代・二代前。この箇所のシリアのギレアド侵入は、ハザエルの時代のことなのか、ヤロブアム二世の時代のことなのか不明。エヒウやヨアハズの時代は、イスラエルはシリアに圧迫され、多くの領土を失い、武装解除されて属国に近かった。しかし、ヨアハズの次のヨアシュとヤロブアム二世の時代には、シリアはアッシリアの攻撃で弱体化し、北イスラエル王国はシリアを打ち破り領土を回復した。
※ このアモスの預言の二十~三十年のちに、当時の南ユダの王・アハズは、アッシリアの王に金銀を贈りダマスコの攻撃を依頼。
「アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに移し、レツィンを殺した。」(列王記下16:9)
⇒ アモス1:5「王笏を持つ者を断つ。アラムの民はキルの地に捕らえられて行く」
※ 預言は的中。アッシリアによってシリアは滅亡した。
- ペリシテに対する預言
ガザ:ペリシテ五都のひとつ。ペリシテは五つの自治都市の同盟で構成。(ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロン、ガト)。
エドム:④を参照。
この預言のおよそ150年ほど後、BC604年頃、バビロニアのネブカドネザル二世によって、ペリシテは征服され、完全に破壊。以後ペリシテ人の遺跡は存在せず、歴史から消滅した。
- 「残りの者も滅びる」 預言は的中。
- フェニキアに対する預言
ティルス:フェニキアの首都。当時は海上の島。地中海屈指の商業都市。カルタゴはティルスがつくったフェニキア人の植民都市。
シドン:フェニキアの主要都市のひとつ。現在もレバノン第三の都市(サイダ)。
「兄弟の契り」:ティルスの王・ヒラムはダビデ王と盟友関係。ソロモンとも仲が良く、神殿建設に木材を提供した。(サムエル下5:11、列王記上5:15)
のちに、ティルスはエジプトと同盟しアッシリアに抵抗、五年間抵抗するが服属。バビロニアのネブカドネザル王にも十三年間抵抗したのちに服属。また、のちに、マケドニアのアレクサンドロス大王に抵抗し、征服され、市民は奴隷として売られ、政治的・経済的に弱体化し、二度と繁栄を取り戻すことはなかった。
⇒ 「ティルスの城壁に火を放つ」 預言は的中。
- エドムに対する預言
エドム:エサウの子孫。セラ(ペトラ)が首都。
テマンとボツラ:エドムの地名。特に、テマンは知恵をもって知られ(エレミヤ49:7)、ヨブの友人のエリファズはテマンの出身とされる。
エドムは、文化・経済的には優れていたが、宗教的にはいかなる神を信仰していたかも聖書に記録されておらず、物質主義的な民族だったという推測もある。(祝福よりも食べ物を欲しがったエサウ)。
ユダの王アマツヤはエドムを打ち破り、セラを占領(列王記下14:7)したことがあったが、それはこの預言より前の時期のこと。
おそらく、アッシリアやバビロニアがエドムを征服したことによって、エドムの都市であるテマンとボツラが燃えるという預言が成就されたと考えられる。
なお、エドム人が滅亡するとはアモス書には書かれておらず、エドム人はその後も実際にずっと聖書に登場し続ける。ヘロデ大王はエドム人(イドマヤ人)。
- アンモンに対する預言。
アンモン:ロトの子孫(次女)。ラバはその都。たびたびイスラエルと交戦。アンモン・モアブ・エドムは連合していた。現在のヨルダンの首都アンマーンはアンモンに由来。
のちに、アッシリア、バビロニア、セレウコス朝シリア、ローマに服属。
※ 預言のアンモンの王と貴族の捕囚については詳しくはわからないが、ラバの陥落はこれらの占領の時に成就したと考えられる。
- モアブに対する預言
モアブ:ロトの子孫(長女)。民数記にはモアブ王バラクがバラムを雇いイスラエルを呪おうとした出来事が記録。ルツはモアブ人。メシャ碑文にはモアブの王がイスラエル王オムリに対して勝利したことが書かれている。
モアブは、バビロニアよって征服され、ペルシア帝国の頃には完全に消滅。聖書にも、アンモンは登場するがモアブは全く登場しなくなる。
「混乱のうちにモアブは死ぬ。 わたしは治める者をそこから絶ち/その高官たちも皆殺しにする。」 ⇒ 預言は成就。
※ エドムに対する罪でモアブは裁かれている。⇒ イスラエルに対する暴虐のみでなく、いかなる民族に対する暴虐も、ヤハウェは裁くという神観。
- 南ユダ王国に対する預言
神の教えを拒み、掟を守らず、偽りによって惑わされた罪。
2:4「偽りの神」:原文では神に相当する語はなく「偽り」。
⇒ のちにバビロニアによるエルサレム陥落。バビロン捕囚(BC587)⇒ 預言は成就。
- 北イスラエル王国に対する預言
・正しいもの・貧しいものを売る:人身売買の罪。弱者・悩むものを虐げる罪。
・父も子も同じ女に通う⇒女神の偶像崇拝(アシュトレト、アシェラ)or神殿娼婦の事か。
参考・異教の神々:バアル(フェニキア、カナン一円)、モロク(フェニキア、アンモン)、アシュトレト(フェニキア、ペリシテ)、アシェラ(アッシリア、中東一円)、ダゴン(ペリシテ)、ケモシュ(モアブ)、ミルコム(アンモン)
・質のとりたてや罰金で庶民を苦しめ、神殿や祭儀ばかり肥え太る様子。
・ナジル人=「聖別された者」。酒を飲まず、けがれたものを食べず、髪を切らず、生涯を神にささげた(民数記 6:1~21)。その飲酒は、現代で言えば聖職者や僧侶の堕落・退廃。
・預言者に預言を禁じる ⇒ 不都合な真実に耳をふさぐ、現実の不条理を認識しない。
◇ 2:13 地震の預言
岩波訳「見よ、わたしはあなたがたの足下を轟かす、麦束を満載した、車が轟音をたてるように。」
関根訳「見よ、わたしは束を満した車が地を開くように、君たちの下なる地を開こう。」
⇒ おそらく地震の預言。(この預言の二年後に大地震が起こった(1:1))
※ 北イスラエルへの審判・滅亡の預言。 ⇒ のちにサマリアがアッシリアによって陥落し、成就。神は、イスラエルの敵国に対しての裁きだけではなく、イスラエルに対しても公正に裁きを行う。⇒ サマリア陥落(BC722~721、ヤロブアム二世没後わずか25年)
◇ 2:9 アモリ人:カナンの原住民
岩波訳「その上の実と、その下の根を断ち滅ぼした」:その国の文化の果実と、根底の根っこの部分が滅びれば、民族は消滅する。
◇ 2:16 「勇士たちの中でその心が強い者でも、その日には、裸で逃げ去る」
⇒ マルコ14:51~52
■ 第一部全体を通しての学び
・アモスの預言が正確に的中したこと。そのことを、おそらく当時の人々は大変な驚きを持って迎えた。そのために、単なる牧羊者・農民であるアモスの言葉に正しさと権威が認められ、人々は語りついだ。
・神はイスラエルにとっての神というだけでなく、世界万民の神であり、いかなる民も公正に裁く。
・単にイスラエルに対して危害を加えただけでなく、エドムに対する罪でモアブが裁かれているように、いかなる民族に対しても不正を加えればその罪を神は罰する。
・諸国民の歴史や天変地異を通して神は警告を発し、審判を下す。
・神は「吠え」「声を上げ」ているにもかかわらず、アモス以外、聞く人がいなかった。
Ⅲ、第二部 社会的正義を求める神、宇宙創造の神 (3~6章)
※ この第二部では、イスラエルに対するアモスのさまざまな預言が集められている。それらを通し、社会的正義をこそ神が求めていることが明らかにされる。また、その神は、同時に、宇宙や世界を創造した圧倒的な力を持つ神であることも語られる。
① 3:2 イスラエルは選民であるがゆえに裁かれる
新共同訳「地上の全部族の中からわたしが選んだのは / お前たちだけだ。」
⇒ 岩波訳「わたしは、この地のすべての氏族の中で、ただあなただけを知った。」
原文は、「選んだ」ではなく「知った」。
「罪のゆえに罰する」(新共同訳)⇒「あなたがたの罪を、あなたがたの上に報いる。」(岩波訳) 原文動詞には「訪れる」という意味もある(岩波脚注)。
※ 神は、選民であるイスラエルと特に親しく知り合っている、ゆえにすべての罪について報いる。しかし、罪の報いの時は、神が顕現し、神と出会う時でもある。
② 3:3~8 預言について (この箇所の見出し:「神が語られる」(新共同訳)、「預言の必然性」(フランシスコ訳)、「迫り来るヤハウェの言葉」(岩波訳))
※ ものごとには必ずしるし・合図がある。そのように、神は必ず先んじて預言を送る。
★ 3:7 「まことに主なる神は、ご自分の僕、預言者たちにその計画を示さずには何事もなさらない。」(フランシスコ会訳)
⇒ 神は審判の前に必ず預言者を通じて計画を知らせる。
⇒ 預言によって仮にその時は人々が悔い改めなくても、預言があったことによって、人はその預言が正しかったこと、自分たちが間違っていたことを知り、悔い改めることができる。ゆえに、預言は神の愛である。(内村鑑三)
★ 3:8 「獅子が吠える、誰が恐れずいられようか。主(なる)ヤハウェが語られる、誰が預言せずにいられようか。」(岩波訳)
⇒アモスは道を歩いている時に、主と出会い、その語られる言葉を聞き、預言せずにはいられなくなった(矢内原忠雄)。アモスは突然、やむにやまれず、預言するようになった。
⇒ 預言は預言者に対して有無を言わさず臨むもの。また、これから起こる出来事を知らせる合図である。イスラエルは神と格別知り合う仲であるゆえに、預言が伝えられる。
・「アシュドド」→七十人訳「アッシリア」。北イスラエルの堕落を、当時の二大大国、アッシリアとエジプトに行って知らせよ、の意か。
・「『サマリアの山々に集まり、そのうちなる大いなる騒乱と、その只中における圧政を見よ』と。彼らは正しさを行うことを知らない。」(岩波訳)
・「暴虐と破壊を積み重ねている。」(岩波訳)
ベテル:北イスラエルの聖所。ヤロブアム一世により金の子牛が置かれた。(列王記上12:29)
⇒ ゆえに、神はイスラエルを滅ぼす。人口は激減し、豪邸も、ベテルも滅びる。
④ 4:1~3 北イスラエルの享楽に耽る人々(バシャンの雌牛)の破滅の預言
「弱い者たちを虐げ、貧しい者たちを圧迫し」(岩波訳)
「低いものを圧制し、貧しい者をふみつけている」(関根訳)
⇒ これらの不正の上に享楽に耽る人々の破滅の予告。 (バシャンは現在のゴラン高原)
⑤ 4:4~13 かたくななイスラエル
◇ 4:4~5 ・本来は、いけにえは年に一度でよく(サムエル1:7)、十分の一税は三年に一度で良かった(申命記14:28)。また、神に捧げるパンには酵母を入れてはならなかった。(出エジプト23:18)。これらの度の過ぎた、誤った熱心をアモスは皮肉・批判している。
⇒ 聖地の巡礼や儀礼・儀式を行っても、罪を重ねるならば、神は少しも喜ばない。
(参照・ホセア6:6「なぜならば、私が欲するのは、愛であって犠牲ではなく、燔祭よりも神についての知識だからである。」)
⇒ 儀式を人は好むが、神は儀式や貢物よりも、具体的な人間の悔い改めと正義を好む。
⇒ ホセア同様、アモスは無教会主義の先駆。
◇4:6~11 食料の不足、天候不順、水不足、植物の病気やいなご、疫病、悪臭、「覆した」(地震のこと?)。これらを通じて、神は、イスラエルに神に立ち帰るように促した。しかし、人々は立ち帰らなかった。
⇒ 自然現象も神の警告や意志の現れ。
⇒ 自らの生き方を見つめ直し、神に立ち帰るきっかけとして、さまざまな出来事を神のサインとして敏感に見つめること。
◇4:12 「イスラエルよ、お前の神に会う準備をせよ。」(フランシスコ訳)
⇒ 本当に人々は、私たちは、日ごろから神に出会う準備をすることができているか?…
◇4:13 神は天地創造の神であり、また、預言者を通じて神の計画を告げる預言の神。
「暗闇を暁に変え」(フランシスコ訳)⇒ いかなる暗い時代をも明るい未来に変えることができる存在。 (4:13はアモス書の三大頌栄のひとつ。他は5:8、9:5~6)
文語訳:「彼はすなわち、山を作りなし風を作り出し、人の思想のいかなるをその人に示し、 また晨光をかえて黒暗となし、地の高処を踏む者なり。その名を万軍の神エホバという。」
⑥ 5:2~3 アモスの哀歌
「娘イスラエルは倒れて、二度と起き上がれず、自分の地で見捨てられて、彼女を起こす者は誰もいない。」「イスラエルの家では、千人を出陣させた町は百人しか残らず、百人を出陣させた町は十人しか残らない。」(フランシスコ訳)
⇒ アモスの短い哀歌(矢内原忠雄) 簡潔で短いが胸を打つ。(敗戦の日本、今のシリア)
哀歌・挽歌を、国家に対してはじめて歌ったのはアモス。
⑦ 5:6~15 「主を求め、善を求めよ」アモス書の中心(アモス書の鍵)
◇5:6 「ヤハウェを求めて生きよ。」(関根訳) (挽歌と対照をなす生命の言葉)
「主を求めよ、そうすればお前たちは生きる。」(フランシスコ訳)
⇒ ベテルなどの神殿・儀式は何の助けにもならない。神を求めることのみが生きる道。
◇5:7 「災いだ、公義を苦きに変じ / 正義を地になげうつ者。」(関根訳)
「彼らは公義をにがよもぎに変え、正義を大地に投げ捨てたままだ。」(岩波訳)
⇒ 「にがよもぎ」(c.f. チェルノブイリ) 正義や自然の理を曲げ、さまざまな識者(高木仁三郎ら)のあらかじめの警告(預言)を無視し、放射能に大地を汚染させ、未だに国のあり方を十分に改めない日本…。
◇ 5:8 「すばるとオリオン」 宇宙創造の神 (アモス書の三大頌栄のひとつ)
左:すばる 右:オリオン星雲
文語訳:「昴宿および参宿を造り、死の蔭を変じて朝となし、昼を暗くして夜となし、海の水を呼びて地の面に溢れさする者を求めよ。その名はエホバという。」
(オリオンの三連星とすばるを東方の三博士とキリストのたとえという見方もある。)
「暗闇を朝に変え、昼を夜に暗くする方」(フランシスコ訳)
「暗きを朝に転じ、昼を夜の暗きに変え」(関根訳)
「海の水を呼んで地の表に注ぐ者」(関根訳)
◇ 5:10
「彼らは町の門で(正しく)戒める者を憎み、真実を語る者を忌み嫌う。」(岩波訳)
⇒ 日本でも戦前・戦中、自由や平和を主張した人々は徹底した弾圧を受けた。今は?
◇5:11 家を建て、ぶどう畑をつくるが、住むことができず、ぶどう酒を飲むことができないのは、誰か?
⇒ 岩波訳・フランシスコ訳は、そのような不正を行っているゆえに、不正を行っている人が家やぶどう酒を享受できなくなる、の意味に解している。
一方、新共同訳と関根訳は、家を建てた人、ぶどうをつくっている人が、搾取のために、自分たちの生産の果実を享受できない意味に解している。
⇒ 新共同訳・関根訳が妥当と思われる。マルクス:剰余価値の搾取、所有と労働の分離。
⇒ 働いている人が、その労働の成果を享受できず搾取され、働かない人が、搾取によって他人の労働の成果を享受していることを、アモスは「罪」と指摘した。
◇ 5:12
「正しい者を敵視し、賄賂を取り、(町の)門では貧しい者たちの(訴え)をねじ曲げている。」(岩波訳) ⇒ 真実を語る人を敵視し、腐敗し、不正な裁判をすることが「罪」。
◇ 5:13 賢い人々は沈黙。しかし、アモスは語る。アモスを通して神は語る。
◇ 5:14 「善を求め、悪を求めるな、君たちがふさわしく生きるため。」(関根訳)
⇒ 善を求め、悪を求めなければ、生きることができる(新共同訳)し、人間の尊厳にふさわしく生きることができる(関根訳)。そして、神が共にいてくださる。
⇒ アモス書の鍵の箇所
◇ 5:15 「悪を憎み、善を愛し、(町の)門で公義を確立せよ。」(岩波訳)
⇒ そうすれば「残りの者」を神が憐れみ、救って下さる。「残りの者」の救済預言。
⇒ 善:神に立ち帰り、正義を実現すること。
悪:神から離れ、貧しい人々を搾取し、不正を放置すること。
⇒ シンプルなメッセージ。だが、めったに実現されない。
⑧ 5:18~20 主の日:
当時は、「主の日」(ヤハウェの日)という伝承があり、イスラエルの敵が滅び、イスラエルが救われる日がやがて訪れるという信仰があった。アモスは、その伝承を踏まえた上でひっくり返し、公正にイスラエル自体も神によって裁かれる日だと説いた。後世の預言者はアモスを踏襲していった。
闇、暗闇。審判の日。⇒ 怒りの日。終末。 ⇒ 再臨
⑨ 儀式よりも正義を 5:21~27
☆ 5:24 「むしろ正しい裁きを水のようにほとばしらせ、正義を涸れることのない川のように流れさせよ。」(フランシスコ訳)
「公義を水のようにほとばしらせ、正義をつきざる川のように流れしめよ。」(関根訳) ⇒キング牧師『私には夢がある』(1963)、「正義が河水のように流れ下り、公正が力強い急流となって流れ落ちるまで、われわれは決して満足することはないだろう。」
⇒ 儀式ではなく、正義の実現・実践こそ、神が喜ぶこと。礼拝や集会や儀式よりも、正義の実践を神は求めている。
5:26 シクト(星)・キウン(ケワン) 土星の神。 偶像は人間が勝手につくったもの。
5:27 捕囚の預言。⇒ イスラエルにもユダにも、その実現。⇒使徒行伝7:42~43引用
⑩ 驕れる人々への審判 6:1~14
◇6:1~11 安逸をむさぼる者たちは、災い。 享楽・高慢 ⇒ 捕囚
◇6:10 「主の名を唱えるな」 ⇒葬式の時の禁忌?あるいは、ヤハウェが災いを下す何か恐ろしいもののように思い、避けること。自らの道徳的責任や選択の責任を引き受けず、災いを何か禁忌や縁起の問題と考える無責任な態度。
◇6:12
「馬は岩の上を駆けるだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。お前たちは公義を毒草に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。」(フランシスコ会訳)
⇒ 痛烈な皮肉。人がみずからの幸せを求めて的外れなことをし、かえって自らを害し損なうことをしていること。
⇒ 人が幸せになるためには、善を求めることが大事であるのに、善を求めず的外れな仕方で幸福を求め、かえって悪を招き寄せて不幸になっていること。
◇6:13 ロ・ダバル(空虚、無駄なこと、現実に存在しないもの、無)
カルナイム(二つの角、二本の角を帯びた女神の町、あるいは軍事力を誇る高慢)
⇒ 空虚なものを喜び、自分で繁栄を手に入れたと高慢になり、誤ったものに寄り頼む。
◇6:14 アッシリア勃興の預言。「レボ・ハマトからアラバ」(列王記下14:25 ヨナの預言。ヤロベアム二世が回復した領土全体がアッシリアの圧迫を受けることになる。)
■ 第二部全体を通しての学び
・神は必ず前もってしるしやメッセージを送る。したがって、預言者や真実を語る人の言葉に謙虚に素直に耳を傾けることと、さらには自然現象や歴史の事象を敏感に受けとめ悔い改めの機会とすることが、神と共に歩むためには重要である。
・神は儀式や儀礼よりも、正義の実践をこそ求めている。正義の実践をこそ神は喜ぶ。
・正義とは、抽象的なものではなく、具体的に、貧しい人・苦しんでいる人の権利を回復することである。働く者とその成果を享受する者の分離をアモスは(神は)批判した。
・アモスは、イスラエルの迫り来る滅亡に深く心を痛めていた。(短い哀歌)
・にもかかわらず、結局、イスラエルはアモスの言葉をも、さまざまな自然現象をも、みずからが悔い改めるきっかけとすることはなかった。それは真実を語る者を嫌い、安逸を貪り、享楽に耽っていたからである。
Ⅳ、第三部 五つの幻、アマツヤとの対決、後の日の回復の預言(7~9章)
第三部では、アモスが見た五つの幻が描かれる。また、アモスの預言を禁止しようとする祭司・アマツヤと対決する。さらに、結びで、後の日にイスラエルが回復される預言が説かれる。
第一の幻:イナゴ
第二の幻:大火
第三の幻:下げ振り(準縄)
第四の幻:熟した果物
第五の幻:壇上の主
※ 第三の幻のあとにアマツヤとの対決、第四の幻のあとに社会の不正への批判が入る。
① 第一の幻:イナゴ (7:1~3)
二番草:春の雨による草。(一番草:秋の雨)。二番草の方が一番草より遥かに勢いがよく、一番草を王の軍馬に使い、二番草を人民が羊を飼うために使った。
二番草がイナゴによって食べ尽くされれば、当然餓死者が続出する。
⇒ アモスのとりなしにより、神はイナゴによる大飢饉を下すことを取りやめた。
※ 申命記11:14の「秋の雨と春の雨」を旧約の御言葉と新約の御言葉と解釈するならば、この箇所は、単にイナゴによる飢饉ではなく、イスラエルを全滅させることで、やがて来たるべき新約の御言葉を受けとめて育つ人々がいなくなるという神の審判を意味し、アモスの必死のとりなしで、そのことが回避されたことを意味する。
② 第二の幻:大火 (7:4~6)
大いなる淵:当時の思想では、地面の下に大きな水たまりがあり、そのうえに地面があり、泉や井戸の水はそこから湧き出ていると考えられていた。
⇒ アモスのとりなしにより、神は、「大いなる淵」と「畑」を焼き尽くすことをとりやめた。
※ この「大いなる淵」をそれまで蓄積された御言葉つまり旧約聖書と解釈し、「畑」を人の心と解釈するならば、旧約聖書とそれを受け継ぐ人々の心を完全になくすという神の審判の予告が、アモスの必死のとりなしにより回避されたことを意味する。
③ 第三の幻:下げ振り(準縄) (7:7~9)
下げ振り(準縄):紐の先に石や鉛の重りを付けた測量のための道具。城壁が垂直かどうかを調べた。
⇒ 人々の価値の尺度・基準がねじまがってゆがんでいるのを(イスラエルの城壁)、神の価値基準(神の下げ振り)が正すこと。
※ 神の裁きが下り、イスラエルが滅亡し、儀式の拠点になる聖所が破壊されることは、もはやまぬがれないこととなった。
アマツヤ:ベテルの祭司。ベテルには、黄金の子牛があった。
ホセア書の第4章7~10節に登場する、神を知る知識をおろそかにし民が罪を犯すことをかえって喜び望むような祭司は、ホセア書では名前が登場しないが、アマツヤではないかという説がある。
・ヤロブアム二世に対し、アモスが「背きました」と報告。しかし、アモスは神の言葉を忠実に伝えただけで、王に反逆はしていない。
・「ヤロブアムは剣で殺される」→ 実際はアモスは一言もそうは言っていない。
・7:12「ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。」→ アマツヤは、自分自身が保身や生活のことしか頭にないので、アモスも身の安全や糧のことしか頭にないと考えていた?
・7:13 預言の禁止。しかも、その理由が、王の聖所・神殿。 ⇒ 神ではなく権力を見ている。言論の自由を否定し、真実の言葉を人々にも触れさせないようにしている。
・7:14 岩波訳「この私は預言者ではない。また私は預言者の子でもない。私は牧者で、いちじく桑を栽培する者だ。だがヤハウェは羊の群れの後ろから私を取り、ヤハウェは私に言われた、『行って、わが民イスラエルに向かって預言せよ』と。」
⇒ アモス自身によるアモスの簡潔な自己紹介。職業宗教家ではないこと。しかし、神が「取り」、「預言せよ」と命じたこと。 ⇒ いかなる権威にも屈しない信仰にもとづく個の確立。(cf. ヴィッテンベルクやウォルムスでのルター)
・アマツヤの破滅の預言は、イスラエルの国が亡びることによるもの。当時、敗戦国の女性は捕虜にされると売られて遊女とされた。国を真実から遠ざけ、国の破滅を来したものは、自らとその家族も滅びる。
7:17「イスラエルは、必ず捕らえられて / その土地から連れ去られる。」 7:11のアマツヤの言葉をそっくりそのまま引用した、痛烈な皮肉。
⑤ 第四の幻:熟した果物 (8:1~3)
夏の果物(カイツ)⇒終わり(ケーツ)
爛熟した果物をもって、文化の爛熟、一国の腐敗を象徴させている。
「声を出すな」→参照:アモス6:9 岩波訳「しっ!」
⑥ 社会に蔓延する不正への批判と神の審判 (8:4~14)
8:4 岩波訳「これを聞け、貧しい者を踏みつけ、地の弱り果てた者たちを根絶やしにする者たちよ。」
⇒ 祝祭のことよりも、投機のことばかり頭にある人々。
⇒ 商売における不正なごまかし、偽装表示・手抜き工事。
⇒ 貧しい人々を安く買いたたき、売り飛ばす。人身売買や搾取。
⇒ 8:7 岩波訳「ヤハウェはヤコブの誇りにかけて誓われた。「わたしは彼らのあらゆる行いを永久に忘れない」。」
⇒ 神の怒り。8:8 大地震(1:1)。8:9 日蝕 前763年6月15日は皆既日食があった。また、前765年と前759年には飢饉が中東一円にあった。
※ 8:11 ただし、神の御言葉を聞くことができないことこそ本当の飢えと渇き。審判。
⇒ ヤハウェは審判として、この神の御言葉を聞くことができない飢えと渇きを送る。
政池仁「地震や疫病を起し、預言者を送って民を責めたもう間は、まだ神の御怒りが絶頂に達したのではない。しかしこれらの警告にも耳を傾けざる時には、ついに預言者を送ることをやめたもう。これは最大の刑罰である。神が人を見捨てたもうのである。」(136頁)
ダン:ベテルと同様、黄金の子牛の像が置かれていた。(列王記上12:28-30)
ベエル・シェバ:ユダの南部にあり人々が長い道を歩いていく巡礼地だった。(誓いの井戸)
⇒ 御言葉がないために、若者や人々の生命が枯渇し、生命力を失ってしまう。
⑤ 第五の幻:壇上の主 (怒りと恩恵の神)
※ 神の怒り (9:1~10)
柱頭・敷石:神殿や宮殿の徹底的な破壊。
陰府(よみ)に逃げても引き出す:死んでも免れることができない神の裁き。
カルメルの頂きに身を隠しても:カルメル山には洞窟が多く、また樹木が多かった。
◇ 9:5~6 アモスの三大頌栄のひとつ。
文語訳:「主たる万軍のエホバ、地に捫(さわ)れば、地鎔けその中に住む者みな哀しむ。すなわち、全地は河のごとくに噴きあがり、エジプトの河のごとくにまた沈むなり。彼は楼閣を天に作り、穹蒼の基いを地の上に置(す)え、また海の水を呼びて地の面にこれを斟(そそ)ぐなり。その名をエホバという。」海の水⇒雨:御言葉のないところから御言葉
◇ 9:7 クシュ:エチオピアのこと。⇒ 神はイスラエルのみの神でなく、世界万民の神であり、エチオピアやペリシテやアラム人の神でもある。イスラエルのみを正義を曲げてまで特別扱いはしないし、どの民族も神の手の中にある。
ただし、ヤコブを全滅させない。(9:8) ⇒残りの者
9:10 岩波訳「わが民の罪ある者たちは皆、剣で死ぬ。『災いは、われわれに近づかない、(われわれには)達しない』と言っているが」。」
⇒ 「災いは、われわれに近づかない、達しない」は、今も多くの人々が思っていること?
※ 神の恵み 後の日の回復 (9:11~15)
◇ 9:12 岩波訳「こうして彼らはエドムの残りと、わが名をもって呼ばれる諸国民の残りを受け継ぐ。」 ⇒ 使徒行伝15:16~18
⇒ イスラエルの宿敵だったエドムの人々も残りの者は救われ、異邦人も神の民となる。
◇ 9:13 関根訳「山々は新酒でしたたり」⇒ 新約の御言葉が到来することの預言?
新酒「עָסִ֔יס(アーシス)」:fresh grape-juice, new (sweet) wine. (NIV: ”new wine”)
◇ 9:14 関根訳「わたしはわが民イスラエルの運命を転換する。」
岩波訳「わたしはわが民イスラエルの囚われ人を帰らせる。」
⇒ 捕囚からの帰還の預言。あるいは、新天新地の預言。
※ アモス書は厳しい審判の預言の印象が最初は強かったが、結びの部分は、ホセア書と同じく、神による救済が明確に預言されている。
■ 第三部全体を通しての学び
・アモスのとりなしにより、最初の二つの幻は実現が回避されることになった。アモスは審判を告げるだけでなく、とりなしの預言者でもあった。また、神は愛と赦しの神でもあった。
・しかし、神の正しい価値尺度、つまり義は、決してゆるがせにすることができず、義に基づく審判は避けられなかった(だが、後にバビロン捕囚後も旧約聖書は残り福音も到来)。
・信仰にもとづく個人がいかなる権威をも拒否し自立的に判断するという、ルターに見られる「個の自立」が、アマツヤとの対決においてアモスにすでに見られる。
・社会の不正が一貫して批判され、そのことを神は決して忘れないことが宣言されている。
・審判の預言の後に、後の日の回復が預言され、神の救いと愛で締めくくられている。(義の神は愛の神)
Ⅴ、おわりに
◇ アモス書の聖書全体の中での重要性
・最初の記述預言者。
・社会の不正に真摯に立ち向かう姿。(救霊=救国)
・簡潔明瞭に、倫理の中枢を説いている。(善を求めよ、悪を求めるな)
・正義の審判とともに、とりなしや後の日の救済を説き、義と愛が貫徹されている。
・アモスの影響はイザヤに顕著に見られる(社会の不正への批判etc.)。 ホセアの影響はエレミヤに顕著に見られることを考えれば、アモス⇒イザヤ、ホセア⇒エレミヤ、という後世への影響や流れを指摘できる。
・アモス書には、捕囚と異邦人の救済がすでに預言されており、新約聖書の使徒行伝は、アモス5:27を使徒行伝7:42~43に引用し(捕囚・審判)、アモス9:12を使徒行伝15:16~18(異邦人の救済)に引用している。ホセアとともに、アモスは異邦人の救済を新約聖書の時代において根拠づける重要な役割を果たしたと考えられる。
※ アモス書から考えたこと:
① 社会正義と宗教との関係
マルクスは、宗教を「阿片」と呼んでいる。(参照・マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」:
・「宗教は圧迫された生き物の溜め息であり、無情な世界における心情であり、精神なき状態の精神なのである。宗教は民衆の阿片なのだ。」
・「(宗教という)真理の彼岸が消滅した後の歴史の課題は、(現世における)此岸の真理を確立することにある。」)
つまり、マルクスは、宗教を現実の矛盾から逃避し、現実の苦しさをまぎらわせる麻薬のようなものと指摘している。そして、現実の課題に取り組まないものだと考えている。
これは、たしかに、歴史上の多くの宗教にはあてはまるものと思われる。中世の日本の仏教のほとんどは、現実からの離脱・遁世を勧めるものだった。中世ヨーロッパのキリスト教も、来世の救済を説き、権力者や権威への従順を説くものが多かった。
しかし、アモスは、礼拝や儀式よりも、正義の実践こそ、神の求めることだと明瞭に指摘している。そして、正義とは具体的な貧しい人々や虐げられている人の権利の回復や救済であることを明確に説いている。
したがって、アモスにはマルクスの指摘はあてはまらないと思われる。現実の矛盾の直視という点で、アモスはむしろマルクスの先駆者とも言える。
と同時に、アモスは社会制度の変革だけでなく、個人の倫理的自覚を重視している点でマルクスと異なる。各自が神の前に倫理的自覚をもった自立した個人として歩み、その結果の社会の変革をアモスは呼びかけた。(なお、キング牧師は、1963年の有名な演説「私には夢がある」の中で、アモス書を引用した。)
今回アモス書を学んで、アモスに立ち帰ることこそ、宗教の堕落を防ぎ、現実に生きたものとして宗教が再生するために不可欠ではないかと、考えさせられた。(なお、アモス書の問題意識は新約聖書のヤコブ書に通底していることがしばしば指摘されている。)
② 無教会主義との関連:アモス=儀式よりも正義、ホセア=儀式よりも愛、ヨナ=魚の腹の中で祈っても救われる(場所は一切関係なくどこからでも神に直結できる)。
③ アモスは単に審判を告げるのみでなく、とりなしや嘆きや愛が根底にあることが今回きちんと学ぶことで、よくわかった。救済預言も。 ⇒ 次回はミカを学ぶつもり。
ディルシュッ・トーヴ・ヴェアル・ラー・レマアーン・ティフィユー・ヴィーヒー・ヘム・アドナイ・エローヘー・セバオウットー・イッテヘム・ガアーシェール・アマルテム
「善(トーヴ)を探求せよ、
悪(ラー)を(探究)するな、
そうすれば、あなたがたは生きる。
あなたがたが言ってきたように、
万軍の神なる主が、
あなたがたと共にいるようになる。」
「参考文献」
聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、文語訳、口語訳、新改訳、英訳(NIV)、エスペラント語訳(La Sankta Biblio)
ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
内村鑑三「アモス書の研究」、『内村鑑三聖書注解全集 第七巻』教文館、1961年
政池仁『アモス書・ホセア書講義』聖書の日本社、1970年
矢内原忠雄「アモス書大意」、『矢内原忠雄全集 第13巻』岩波書店、1964年
アラン・ハバード著、安田吉三郎訳『ティンデル聖書注解 ヨエル書、アモス書』いのちのことば社、2008年
『ATD旧約聖書註解25巻 十二小預言書上』ATD・NTD聖書註解刊行会、1982年
山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』岩波現代文庫、2003年
マルクス著・中山元訳『ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説』光文社、2014年