ユダヤ教のラビのマゴネットさんの講演があったので、聴きに行ってきた。
出エジプト記の二章についての話だった。
「モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出エジプト 2:12)
という箇所は、「誰もいない」というのは、すぐそのあとに他のヘブライ人が目撃していたことがわかるので、その場に多くの人がいたことがわかる、
つまり、ここで「誰か人がいないか見回した」というのは、不正義を黙って見ておらず、不正義に抗議するような、そういう「人」がいないか探し、いないことを見いだしたので、やむなくモーセが奴隷を虐待しているそのエジプト人を倒した、ということだ、という解説をしてくださった。
この箇所、原文だと、「「人」がいないか」、という文章になっており、「人」は「イッシュ」というヘブライ語だそうである。
そして、ヘブライ語では、ただの人間は「アダム」だけれど、「イッシュ」はインテグリティを持ったひとかどの立派な人、というニュアンスがあるそうである。
日本語で言うと、「漢(おとこ)」を探したがいなかった、といった感じだろうか。
歴代のレビの解釈として、ここは特に「イッシュ」に着目し、上記のような意味に受け取る解釈がなされ、深められてきたそうである。
ラビの伝統はやっぱすごいなぁと感銘。
結論では、モーセが出エジプトを果たすには、エジプトの王子として育てられ、かつミディアンの野で羊飼いをしていた、という二つの経験が不可欠だったということが述べられていた。
奴隷根性ではなく独立した誇り高い精神や幅広い教養や知性と、羊の群れの様子を繊細に感じ取って世話をしていく精神や能力と、これらをモーセが持っていたから出エジプトができた、また、モーセのアイデンティティは多義的だった、ということの指摘がなされていた。
質疑応答の時に、私も三つ質問させてもらった。
1、世の中にある不正を黙視しない、義を見てせざるは勇なきなりの心を持った「人(イッシュ)」ということに関する御話は感銘深かった、世の中はなかなかそういう人が少なく、ユダヤ人虐殺もごく少数は黙視しなかったものの多数が見て見ぬふりをしたためあのような事態になったと思う、もし聖書やユダヤ教の中に人が「イッシュ」であるための何かもっとあれば教えていただきたい。
2、申命記(23章)には、エドム人とエジプト人は嫌ってはならないし、三代目はイスラエルの会衆に加わることができる、とある。これは、モーセがエジプト人として生まれ育った経験と関係があるのか。
3、イザヤ書19章には、エジプト人とアッシリア人とイスラエル人の三つが、神の祝福を受け、世界の祝福の源になる、という箇所がある。しばしば通俗的な見方ではキリスト教は普遍的なのに対しユダヤ教は偏狭な自民族中心主義と言われるが、イザヤ書のこの箇所を見るとそんなことはなく、もともと旧約聖書の時から普遍主義的な要素があったと思われるし、今日の「イッシュ」の御話を聞いても、モーセの時からそうだったとも思われるが、その点はどうか。
これに対して、マゴネットさんは、以下のような答えをしてくださった。
1、ユダヤ人はマイノリティだったため、歴史の中でしばしば迫害やジェノサイドの対象となってきました。そのような経験から、ユダヤ人は歴史的に、正義ということを非常に重視し、正義の観念を希求するようになりました。
しかし、自分が権力を持つ側になった時に、それまでこれほど求めてきた正義の観念とどう向い合っていくかということは、長い間マイノリティだったユダヤ人には不慣れな問題であり、イスラエル建国後今に至るまでパレスチナ問題が生じています。
しかし、希望となることを言えば、イスラエル国内にも、また世界中のユダヤ人にも、パレスチナ問題におけるイスラエル国家のありかたを正義に照らして批判する大勢の人がいます。
2、奴隷として扱われたことがあったにもかかわらず、聖書の中には、律法の中には、おっしゃるとおり、エジプト人に対する優しい気持ちを示す箇所が存在しています。これは、モーセのエジプト人として育てられた経験や、エジプトへの理解によるのかもしれませんが、推測以上のことは申せません。
3、そのとおりで、イザヤ書には、おっしゃるとおり、イスラエルが世界の光となるという、普遍性を志向した内容があります。民族や宗教団体や、あらゆるなんらかの組織や団体は、常にみずからのアイデンティティを探し求め問う傾向があります。そして、多くの場合は、自分が何でないか、外との関係によって、アイデンティティを決めようとします。その一方で、それとは別に、他とうまくやっていこうとし、その中でのアイデンティティを求める場合もあります。実は、出エジプト記の中にも、イスラエルのアイデンティティについての、注目すべき箇所があります。
出エジプト記19章6節に「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。
この「祭司の王国」というのは、祭祀というのは民を代表して神と向かい合う存在ですが、イスラエルの民全体が祭司とここではされていて、つまり世界の他の民族を代表し、イスラエルの民全体が祭司とならねばならない、ということです。
ですから、代表するためには、他の民のこともよく理解し、代表できるように仲良くやっていく必要がある、ということになります。
一方で、「聖なる国民」の「聖なる」は、「分けられた」とも訳せる言葉であり、区別された民ということです。ここでは、他の民族とは異なった独自の特徴や風習を持つことということになります。
ユダヤ人にとって、外の他の民族をよく理解し仲良くやっていくことと、その一方で他の民族とは区別された独自性を保持することは、常にどちらも重要な課題であり、そしてこの二つの葛藤を常にも続けてきたわけですが、この出エジプト記の箇所がすでにこの二つの要素と葛藤が書き込まれていると見ることができます。
これは、おそらく、ユダヤ人に限らず、どの民族にも多かれ少なかれ該当する葛藤ではないかとも思います。
という返答で、とても興味深く、ためになった。
1についての返答を敷衍すると、苦しみの体験からこそ本当の正義感は生じるし、仮に今現在がマイノリティではないとすれば、マイノリティの声に耳を傾けたり、かつて自分がそうであったことを忘れないことが大事、ということだろうか。
にしても、やっぱりユダヤ教はすごいなぁとあらためて思った。