ミカ書における平和主義について

旧約聖書のミカ書の中に、戦争放棄と平和を説いている箇所がある。

 

「彼、多くの民の間を裁き、

強き国を戒め、

遠きところにまでもしかしたもうべし。

 

彼らはその剣を鋤に打ちかえ、

その鎗を鎌に打ちかえん。

 

国と国とは剣を挙げて相攻めず、

また重ねて戦争(いくさ)を習わじ。

 

皆その葡萄の樹の下に坐し、

その無花果樹の下に居らん。

これを懼(おそ)れしむる者なかるべし。

 

万軍のエホバの口、これを言う。

一切の民はみな各々その神の名によりて歩む。

しかれども、

我らはわれらの神エホバの名によりて、

永遠(とこしえ)に歩まん。」

(ミカ書 第四章 三節 文語訳)

 

「剣を鋤に打ちかえ、その鎗を鎌に打ちかえん」

つまり、武器を捨てて農具に変えることと、

「また重ねて戦争(いくさ)を習わじ。」

つまり、戦争をもはや放棄するということが、

ここには明確に説かれている。

 

この箇所とほぼ同じ文言がイザヤ書の中にもある。

ミカとイザヤは同時代の預言者であり、どちらかがどちらかの言葉を引用したのかもしれないが、おそらくは志を同じくし、理想を共にしていたのだろう。

 

紀元前700年頃に、このような理想が説かれていたことには、驚きを禁じ得ない。

当時は、アッシリア帝国が中東で大規模な征服戦争を行っていたし、ユダ王国も周辺の国々と繰り返し戦争を行ってきたことは、旧約聖書を読めば一目瞭然である。

 

そのような中で、このような発想が出てきたのは、やはり何か人間を超越したところからのメッセージがあったような気もする。

 

ミカ書の中には、他にも、明確に軍備の撤廃を説いた箇所がある。

 

「その日が来れば、と主は言われる。

わたしはお前の中から軍馬を絶ち

戦車を滅ぼす。

わたしはお前の国の町々を絶ち

砦をことごとく撃ち壊す。」

(ミカ書 第五章 九、十節 新共同訳)

 

人類がこのような軍備撤廃は戦争放棄の思想を持つに至るのは、ミカの時代からかなり後の時代の、比較的近代に入ってからではないかと思う。

第一次大戦後のパリ不戦条約や日本国憲法九条にその理想が国際法や国内法に結実することになったが、それまでは長いこと日の目を見なかった思想と思う。

それに、未だに人類はこの理想にはかなり程遠く、軍備や戦争は絶えない。

 

ただ、長い目で見れば、ミカやイザヤのこの理想は、やはり確実に、少しずつ、実現しつつあるのではないかと思う。

おそらく、ミカの時代においては、絵空事としかほとんどの人は思わなかったのではないかと思う。

ミカの時代に限らず、その後のほとんどの時代においても。

ただし、徐々に非戦論や平和主義というものが人類の中に育っていき、いまは完全なる実現にはまだ程遠いとしても、国際法や国内法にいくばくか反映されてきている。

多くの人々が支持する理想になってきている。

 

ミカ書は、その遠い源流であり、また清冽な泉である。

内村鑑三はこの聖句をみずからの非戦論の根拠として挙げている。

日本国憲法九条も、本当に確固たる基礎を持つためには、このようなはるか古代にさかのぼる精神史にみずからを基礎づけることも大事ではないかと思う。

 

ミカの時代においても、このミカの理想に、このミカを通して語られた神の言葉に、深く感動し、共鳴する人々がいたから、この言葉が記憶され、書きとめられ、保存され、伝えられていったのだろう。

そして、忘れずに伝えられ、何度も多くの人々の心にその理想がともされ、よみがえり続ければ、いつか少しずつ、この世を変えていくこともあるのだと思う。

我々もまた、このような理想を忘れず、繰り返し心によみがえらせる時に、多少なりとも、この理想に向かっていくことができるのではないかと思う。

そして、それが光の中を生きるということではないかと思う。

 

どの方向に向かって歩むか。

光に向かってか、闇に向かってか。

それは、このような光の言葉に照らされた時に、はじめてわかることなのではないかとも思う。