浄土真宗とキリスト教の違いについて

浄土真宗キリスト教の違いについて、Dさんの浄土真宗論に刺激されて、若干考えてみた。

 

しばしば、浄土真宗キリスト教はよく似ていると言われる。

何が似ているかというと、本人の行為や功績によって救われるのではなく、絶対者(浄土真宗では阿弥陀如来キリスト教ではキリスト)の側の働きへの信仰(信受)によって救われるということである。

 

たしかにその点はよく似ている。

その他のあらゆる宗教が、呪術的なものにしろ、律法的なものにしろ、あるいはなんらかの座禅などの行によるものにしろ、行為者の側の行為による救済を説くのに対し、浄土真宗キリスト教は行為者の側の行為は問題とせず、ただ信仰のみによる救いを説く点では他の宗教と異なるものである(なお正確に言うと、浄土真宗では「信心」と言っても「信仰」とは言わない。自力の信心と他力の信心の区別に基づく重要な論点であるが、ここでは割愛する。)

 

だが、しかし、上記の共通点を認めた上で、キリスト教浄土真宗には相違点が以下の三点がある。

 

1、キリスト教天地創造の神を認めるが、浄土真宗には天地創造の神は存在しない。

 

2、キリスト教の場合、イエス・キリストという具体的な歴史的人物による十字架の贖いという行為に救いの根拠が置かれているが、浄土真宗における法蔵菩薩阿弥陀如来は具体的な歴史的人格ではなく、超時間的な理念的存在であり、また救いの根拠は贖いではなく回向による。

 

3、キリスト教には黙示録における世の終末と新天新地の希望が記されているが、浄土真宗には特に終末論やその後の世界についての展望はない。つまり、キリスト教における「神の国」は終末において現実化するものであるのに対し、浄土真宗の浄土はあくまで他界であり終末が存在しないので終末において現実化するということはない。

 

この三つが異なっていると思われる。

 

もちろん、これらのどちらが正しいかというのは、これは客観的には論証使用がないことである。

というのは、天地創造も世の終末も、ごく限られた時間を生きる人間には、体験のしようも観察のしようもないからである。

また、歴史的人物であるイエスと、理念的存在である阿弥陀如来と、どちらが救いとなるかどうかも、これはそれぞれの信仰を持つ人にとって答えが変わってくることであろう。

人によっては、歴史的存在だからこそイエスを具体的に感じるというかもしれないし、人によっては具体的な歴史的存在ではないからこそ阿弥陀如来に自分の時代や場所から接することができやすいと感じるかもしれない。

 

なので、大事なことは救いを本人が得ることであろうし、相違点よりも共通点を見いだすこと、そして相違点を相違点のままとして尊重することであれば、ことさらに優劣を論じることは愚かなことであり、自勝勝他のあさましき振る舞いとなると言えるかもしれない。

 

しかし、あえて上記のことに留意した上で、一種の思考実験として、上記の三つの相違点において、私が思うところを書くならば、以下のとおりである。

 

まず、1の点について。

仮に、創造があったとすれば、この世のすべての人間や動植物の存在は、根底において神の愛や承認のもとにあり、すべてに意味があるということになる。

人間の浅知恵ではわからないとしても、人間の思いはからいを越えた、神の愛や配慮がすべての存在には刻印されていることになる。

ここに、人間や動植物の尊厳の究極的な根拠が見出し得るのではないだろうか。

仮に創造がないとすると、すべての存在は偶然的なものとなり、どこに尊厳の根拠があるのかはわからなくなる。

もっとも、将来的に仏になりうる存在として、尊厳があるということは、浄土真宗の論理からも言えるが、それは将来の可能性としての尊厳ということになり、今現在はたして尊厳があると言えるのかどうかは疑問である。

 

次に、2の点について。

これは、信仰者の側の問題なので、歴史的と理念的とどちらが良いかは、一概には言えないかもしれないが、イエスの場合は福音書に資料がほぼ限られているとしても、それなりにその言行について知りうるということはあるかと思う。

一方、法蔵菩薩は、少しその修行について書かれているとしても、極めて抽象的で、あまり具体的にその生涯や言葉を知ることはできない。

また、信仰者を救うための働きにおいて、キリストにおいては十字架の贖いという、具体的な贖いの行為が存在しているのに対し、法蔵菩薩(=阿弥陀如来)においては讃仏偈において代受苦を思わせる内容も若干存在してはいるものの、さほど贖いということは強く前面に出ることはなく、あくまで回向という行為によってである。

ゆえに、法蔵菩薩の生涯や受難を追体験することは極めて難しく、また回向を購いに比べて切実に感じ取ることはかえって茫漠としていて難しいのではないかと私には思われる(もっともこれは人によっては違うかもしれない)。

 

最後に、三つ目の点だが、浄土真宗の場合は浄土はあくまで他界であり現実とはどこまでも平行線の超越した世界であるのに対して、キリスト教の場合は歴史の軸の最後の時点で「神の国」が現実化し、また今生においても部分的に「神の国」が現実化しているという点は極めて大きな相違点と思う。

もっとも、キリスト教においても、「神の国」のほとんどは基本的には他界であり超越的な性格を持っており、しかもその到来はまったく神の側の働きによるもので、人の行為が神の国の到来をもたらすことはできない。

なので、安易な現世と他界の混同や、救済が現世で行われるとする説(典型的なのは天台本覚思想や娑婆即浄土・煩悩即菩提といった言説)とは二つとも全く異なるということは注意する必要がある。

なので、共通点の方が実は多いのかもしれないけれど、ずっと断絶している浄土真宗と異なり、理想的な世界と現実の世界が歴史の終末において交わるというキリスト教の終末観は、やはり異なると思われる。

 

私自身のことを言えば、創造を思う時、神の愛に触れることができる気がするし、キリストの受難と贖いをもってはじめて罪人の私も救われたと思うし、終末のキリストの再臨を思えばこそ、この歴史が無意味な反復ではなく何がしかの完成に向かい神の経綸に貫かれた意味のあるものだと思うことができる。

 

もっとも、これは人によって、全く違う反論も成り立つかもしれない。

 

ただ、私としては、上記の三つの相違点に関して、上記のように今のところ思っている。

 

が、仮に浄土真宗の側に立つとすれば、以下の三つの議論も成り立つことだろう。

 

1の点について。

今日の科学からすれば、天地創造など到底信じることはできない。

また、自然界は残酷なものであり、どうしてこんな残酷な自然界や残酷な生物を神が創造したのか理解できない。

あるがままにこの世界を観察するために、特に創造の神を想定する必要はない。

 

2の点について。

どうして歴史上の一人物であるイエスが十字架上で処刑されたからといって、それが後の時代の人間を救うと言えるのか。

また、法蔵菩薩の修行についてはたしかに抽象的としても、具体的な菩薩の行為やことばや生涯については、ジャータカや一切経に現れる釈迦牟尼仏の言行を見れば良い。

回向を共感によって受けとめる原理は合理的であり、受けとめる心があれば回向は受けとめることができるものである。

 

3の点について。

浄土は他界だとしても、浄土によって救われた人の働きはおのずとこの世にも現れるものであり、染香人・妙好人と呼ばれる念仏者がこの世を良くする働き自体を浄土真宗は否定するものではなく、むしろ浄土真宗の歴史はそのような多くの事例を持っている。

終末を想定する必要はなく、むしろ自分の人生の死をこそ見つめるべきであり、身のたけを越えた創造や終末を論じるより、この人生の始まりと終わりをこそよく見つめるべきである。

 

以上のような議論も、浄土真宗の側から成り立つと思う。

 

結局のところ、ここから先は、個々人の自分の人生における実感や実験に基づくしかないのかもしれない。

 

ただ、ひとつ言えることは、私は浄土真宗の人にも、キリスト教の人にも、どちらも多くの素晴らしい人を見て来た。

そこには、何がしかの真理の働きがあったと思われる。

 

そのうえで、言えることは、浄土真宗の場合、比較的、日本の風土や伝統に即しやすいとは言えるのかもしれない。

逆に言えば、キリスト教の場合、おのずと世界史的な広がりや視野を持ちやすいのかもしれない。

しかし、たぶん本当は、どちらも大事なことなのかもしれない。

 

ここから先は、私個人のことに過ぎないが、親鸞聖人や法然上人は実に偉大な人物であり人格だったと思うが、あくまで人だったのに対し、イエスは神の子だったとしか思えないというところが違いだろうか。

だが、もし親鸞法然がイエスに出会うことができたら、即座に東方の三博士のように頭を垂れたと思うし、イエスは百人隊長に対して言ったように「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と述べたような気がする。

思うに、キリストを知らずしてキリストのおぼろな光を感じ取ったのが浄土真宗であり、阿弥陀如来と言われるものの実体がキリストだったのではないかと私には思えてならない。

『ナホム書(上) ― 神は悩みの日の砦』 資料

『ナホム書(上) ― 神は悩みの日の砦』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、正義の神とその力ある業 1:1~1:8

Ⅲ、ユダとニネベへの言葉 1:9~1:14

Ⅳ、神は悩みの日の砦 1:7

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに

 

ナホム書:十二小預言書の一つ。全三章。BC663頃-627の預言と考えられる。アッシリアに対する神の怒りの審判が描かれる。第一章のアクロスティックいろは歌)が特徴。

  

・ナホムとは誰か?:ナホム書以外の聖書記述中の情報がなく、詳しいことは不明。エルコシュの出身とナホム書に記述があるが、エルコシュがどの場所にあたるのか諸説あり正確にはわからない。父の名も伝わらないのでおそらくは普通の庶民。

 

ナホムの時代背景:ユダの王マナセ、アモン、ヨシヤの時代(BC663頃-(627)-612)

 

ナホムが生きた時代は、ナホム書本文に王の名前が出てこないため正確にはわからない。しかし、本文中(ナホム書第三章)にエジプトのノ・アモン(テーベ)が占領され破壊された記述があり、またアッシリアの首都ニネベの陥落の預言を事前にしたことが記されているので、ノ・アモンが占領されたBC663年頃からニネベ陥落のBC612年までの間に活動した預言者と推測される。ユダの王で言えば、マナセ(在位BC687-642、アッシリアに服属し偶像を崇拝するも、のちにアッシリアに反旗をひるがえし連行され苦難を経て、悔い改めた)、アモン(BC642-640)、ヨシヤ(BC640-609)の時代である。すでに北イスラエル王国アッシリアによってBC722-721に滅亡しており、BC701年にはヒゼキヤ王の治下にエルサレムアッシリア軍に包囲されかろうじて滅亡を免れた出来事があった。

アッシリアはBC627年にアッシュルバニパル王が死んだ後、急速に衰退する。ナホム書の内容から、おそらくアッシリアの全盛時代にまだ誰も滅亡を予測できなかった時点に述べられたと推測されるので、BC663年からBC627年までの間、アッシュルバニパル王の治世のもとでアッシリアが空前の繁栄と最大版図を達成していた頃と考えられる。

 

※ 「ナホム書の構成」

 

第一部 ニネベに対する主の怒り 第一章(1:1~1:14)  今回

第二部 ニネベ崩壊とアッシリア滅亡の預言 第二~三章(2:1~3:19) 次回解説

 

・ナホム書は全三章の短い文章であるが、アッシリアに対する審判を非常に精彩に富んだ圧倒的な迫力で描く。神の熱情が迸るように描かれており、哲学的・理神論的な神とヤハウェが全く異なることが明瞭に描かれる。と同時に、これらの歴史の奔流の中において、神が苦しみの砦となることが描かれ、神は義の神であると同時に愛の神であることも明記されている。特に第一章七節は聖書の中でも珠玉の箇所。

 

・第一部(第一章)の構成 

1、正義の神とその力ある業 1:1~1:8

2、ユダとニネベへの言葉 1:9~1:14

 

Ⅱ、正義の神とその力ある業 1:1~1:8

 

※ 1章1節 「題辞

 

ニネベ:アッシリアの首都。女神イシュタルの神殿が古くから存在。当時の人口は百万以上だったという推定もある(「新約聖書講解シリーズ旧約9」14頁)。ヨナ書や、旧約聖書続編のトビト記の舞台でもある。    ※ 参照:聖書巻末地図1

 

エルコシュ:伝説ではニネベの北東のアル・クシュがエルコシュとされ、ナホムの墓があると伝わる。エルコシュについては、ガリラヤのカペナウム、あるいはガザ周辺という説もある。

ナホム:「慰める者」という意味。

幻:啓示。ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。

 

※ 1章2-6節 熱情の神のアッシリアの悪に対する怒り 

 

・主は熱情の神である(1:2)

ナホム書では、ヤハウェは「熱情の神」であり、義の神・審判の神として歴史に介入する神であることが明確に宣言されている。これは、神は最初の第一原因としてこの宇宙を創造した後は、すべて因果法則に任せて歴史に介入しないというアリストテレスデカルトの神に対する考え方や理神論と対照的である。神は人間に無関心で無関係な神ではなく、「主の日」つまりある特定の時間において熱情をもって歴史に介入し審判を行う存在であることが明確に述べられている。

ここでは、アッシリアに対する神の怒りと報復が宣言されている。

 

・主は忍耐してきた(1:3)

 同じ十二小預言書のヨナ書には、ナホムの100年ほど前に活動したヨナが、ニネベに対して悔い改めを勧告し、ニネベの人々が悔い改め、そのため主がニネベに対する審判を思いとどまったことが記されている。(参照:鎌田「「ヨナ書」を読む」2015年8月)

 しかし、アッシリアは、その後再び暴虐の道を歩んだ。北イスラエルを滅ぼし、南ユダ王国も圧迫した。

 主は忍耐強く、ある期間は猶予を与えるが、義の神である以上決して罪をそのまま見過ごしにすることはなく、悔い改めず神の忍耐を無にする相手に対しては時を見計らって審判を下すことが宣言されている。

参照・バルバロ訳:「主は全能ではあるが、怒ることおそく、/何ものも見逃されない。」

⇒ 忍耐強いと同時に、適切にすべてを観察し、決して見逃さないのが神の目。

 

※ アッシリアとは:

 

左・アッシリア帝国の最大版図    右・アッシリアの都の復元図

 

ナホム書はアッシリアに対する審判の預言である。ナホム書を理解するためには、アッシリアの歴史を理解しておくことが重要である。

アッシリアは、主にメソポタミア北部を本拠地とし、BC2000頃からBC609年まで、およそ1400年間存在した国である。117代の歴代国王の「王名表」が存在し、建前としては万世一系の王朝だった(実際については諸説あり)。

アッシュル神を最高神とし、正確には歴代の国王は「副王」とされ、王はアッシュル神だとされていた。他にも、女神イシュタルなどが崇拝された。宗教・神話や文化は先行するシュメール文化やバビロニアの文化を受容した。

広大な帝国を維持する行政機構が発達し、膨大な記録が今日も残っている。十万人以上の兵力を動員でき、千人・百人・五十人の部隊に分かれてそれぞれに隊長が存在した。戦車や投石器を用い、携帯食を携行し長距離の遠征を可能としていた。駅逓制度も発達した。

いくたびか盛衰を繰り返し(三度の大雌伏期)、紀元前9世紀から8世紀にかけても80年間ほど衰退期を迎えた(ちょうどヨナの時代。アダド・ニラリ三世の時のベール・タルツィ・イルマの碑文には、ナブー神への唯一神信仰をうかがわせる碑文が存在)。

しかし、紀元前8世紀半ばに登場したティグラト・ピレセル三世(在位BC745-727。別名プル、列王記下15:19)の時代に再興した。ティグラト・ピレセル三世は、職業軍人からなる常備軍を整備し、メソポタミア南部のバビロニアを450年ぶりに支配し、アッシリアメソポタミア地域一円を支配する世界帝国となった。

ティグラト・ピレセル三世は、征服した諸民族に対して強制移住政策を実施し、混血を進め、民族の同一性や文化を弱体化させアッシリアに抵抗する力を弱めようとした。ティグラト・ピレセル三世の二十年に満たない治世に総計で約四十回にわたる強制移住が行われ、各地で五十万人以上の人々が移動させられた(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』岩波現代文庫、137頁)。

その後、アッシリアは拡大を続け、アッシュルバニパルがBC668年に即位すると、最盛期を迎えた。アッシュルバニパルは、すでにアッシリアが支配していたエジプトが反乱を起こしたのを鎮圧し、BC663年にエジプトの宗教的中心地テーベ(ノ・アモン)を占領・略奪している。この時の出来事が、ナホム書第三章に描かれている(次回詳述)。

アッシュルバニパルの時に、アッシリアは最大版図を誇り、最盛期を迎え、巨大な図書館も建造された。しかし、BC627年にアッシュルバニパルが死去すると、後継をめぐり内戦や混乱が起こり、諸民族の反乱が起り、急速に衰退した(アッシリアの急速な衰退の原因については諸説あるがはっきりした定説はない。)。BC612年にはニネベがバビロニア・メディアの連合軍の攻撃によって陥落し、その三年後にわずかに残った残存勢力も完全に滅亡した。

ナホム書は、おそらくアッシュルバニパル王のアッシリアが最大版図を誇り最盛期を迎えていた頃に預言されたものであり、その後の急速な滅亡を他の誰も予測しておらず、1400年も続いたアッシリアが完全に滅亡するとは誰も思いもしていなかったという背景を理解する必要がある。

  

 

1:4 バシャンは家畜、カルメルは果物、レバノンは木材の産地として、豊かさの象徴。

 

1:5 フランシスコ会訳「山々は主の前で震えおののき、/もろもろの丘も溶け去る。/大地はその前に不毛と化し/世界とそこに住むものは見る影もなくなる。」

⇒ 荒涼とした世界への変化を述べている。 ⇒ 当時、自然破壊があった?

 

1:6 主の怒りの前には、誰も耐ええない。

 

※ 1章7節 神は悩みの日の砦   ナホム書の中心となる御言葉 (後述)

アッシリアの圧制、あるいはその滅亡の際の急速な秩序の崩壊や混乱の中においても、神が支えとなること。悪しき時代においても、神が心の砦となり魂を守ってくれること。

 

※ 1章8節  洪水  

洪水の中の悩みの砦  ノアの箱舟のように

舟の中で嵐を鎮めるキリスト マタイ8:23-27 マルコ4:35-40 ルカ8:22-25

 

参照:創世記6章、ノアの洪水。

⇒ アッシリアの粘土板に記されていた世界最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」にも、ノアの洪水と酷似した洪水神話が記されている。(ウトナピシュテムという人物が六日六晩続いた大洪水で世界が破滅した時も箱舟に乗って家族や動物たちとともに生き残り、その後、神によって永遠の命を得たことが記されている。)

しかし、ギルガメシュ自身は永遠のいのちを得ることに失敗する様子がギルガメシュ叙事詩には描かれる。聖書とギルガメシュ叙事詩は、どちらも永遠の命をテーマにしているが、結局永遠の命を得ることができないギルガメシュに対し、キリストにより誰もが永遠の命を得ることができるというのが聖書の主題である。

 

アモス5:24 「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」               エゼキエル47:1 命の水

 

 

Ⅲ、ユダとニネベへの言葉  1:9~1:14 

 

※ 1章9-11節 神による救いとベリアルを滅ぼすことの宣言 

 

1:9 フランシスコ会訳「お前たちは主に何を企んでいるのか。/主はすべてを一掃され、/悩みが二度と訪れることはない。」    (関根訳も同様の訳)

⇒ アッシリアあるいは敵(罪)が滅ぼされることと、悩みがなくなること=救いが述べられている。

 

1:10 フランシスコ会訳「絡まる茨のように絡みついても、/それらは乾いたわらのように残らず焼き尽くされる。」

⇒ 絡まる茨=敵陣 あるいは、罪による束縛。

参照:オバデヤ18節 神は罪を清め焼き尽くす炎 (出エジプト3:2-6 燃える柴)

 

1:11 「よこしまな事を謀る者」=原語「ベリヤアル」(בְּלִיָּֽעַל beliyyaal)

⇒ Ⅱコリ6:15「ベリアル」

キリストと対照をなす悪魔。不信仰。偶像。不法。生ける神と反対のもの。 

⇒ ナホム書の審判の対象が、単に歴史上のアッシリアという一つの帝国にとどまらず、サタン(ベリアル)であること。

⇒ また、それが「あなたの中から出た」と書かれているように、単に他の民族が敵だというだけでなく、罪やサタンは自分たちの中に働くものであり、それこそが問題であるという認識。 (黙示的二元論の克服)

 

※ ナホム書には、アッシリアに対しての審判のみが述べられ、ユダの罪に対しては告発されていない?

 預言書の多くは、イスラエルの周辺諸民族に対する神の審判と同時に、イスラエルの罪の告発も行われている。しかし、ナホム書は、一見、アッシリアに対する審判のみ終始宣告し、イスラエルの罪に対しては特に言及していない。この点で、アモス・ホセア・イザヤ・エレミヤなどと大きく異なることがよく指摘される。

 しかし、ナホム書においては、すでに北イスラエル王国アッシリアによって滅亡し、南ユダ王国もかろうじて奇跡的に滅亡を免れたもののアッシリアの前に風前の灯火の属国となっていたという歴史背景がある。また、マナセ王の晩年あるいはヨシヤ王の時代は、王がすでに神に従順となっていたという背景もある。さらに、すでにイスラエルの罪は多くの預言者によって指摘・告発されていたことも挙げられる。

上記の背景を踏まえた上で、ナホム書は、神の審判という見通しを人々に与え、神への信頼と解放への希望を人々に与えることに特に力点を集中し、主眼を置いていると見るべきと考えられる。また、1:11を見れば、「ベリアル」(サタン)こそが問題であり、それは人々の中、神の民の中にも働くものであるという認識がナホム書にも読み取れる。「アッシリア」は、人間の自己中心性や征服欲、内なる帝国主義の意味とも見るべき。

 

※ 1章12-13節 神の民に対する解放の宣言 

イスラエルに対する言葉。神の民に対する言葉。

くびき・鎖(縄目)からの解放。今までは神によって苦しめられたとしても、これからは二度と苦しまないこと。

⇒ 罪からの解放 キリストの十字架

 

※ 1章14 節 アッシリアに対する滅亡の宣告

アッシリアに対する言葉。ベリアルに対する言葉。

アッシリアが最終的に滅び、偶像も消え去ることの宣言。虚偽は歴史的に淘汰されることの宣告。あるいは、罪を最終的に滅ぼすことの宣言。

⇒ BC609年、アッシリアは最終的に滅び、二度と国が再建されることはなく、その宗教や民族の伝統も消滅した。 ⇒ ユダヤ人とその信仰がずっと存続し、イスラエルが復興されたのとは対照的。⇒ (十字架が罪を滅ぼすこと)

⇒ 本当に長く続いていくのは真実や愛や義。虚偽は滅び去る。罪は滅ぼされる。

 

Ⅳ、神は悩みの日の砦  1:7 

 

新翻訳「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり/身を寄せる者を知っておられる。」

 

フランシスコ会訳:「主は慈しみ深く、悩みの時の砦。/ご自分のもとに難を逃れる者には、み心を砕かれる。」

 

バルバロ訳:「主に希望をおく者にとって、/主はよいものであり、/危険のときの避け所である。/主のみもとに逃れる者を見守り…」

 

「恵み深く」=原語 トーヴ(tov) 英訳good  「神は善い」「主は良い方」⇒一見、この世界が不条理で悲惨に見えても、その根底にあり歴史を司る神は良い存在であるという確信・信仰。   ⇒ キリストの善意、キリストの愛

 

信仰のある者の祈りや呼びかけに対し、神は決して無視したり、無関心であることはなく、必ず耳を傾けて聞き、御心に留め、御心を砕き、配慮するという言明。

⇒ 参照:出エジプト記2:23-25 叫び声は神に届く・御心に留められる ヨナ2:8

 

※ 神が「砦」とは具体的にいかなる意味か? 砦=מָעוֹז (maoz) 英訳stronghold   

根拠地・避け所・要塞・要害・守ってくれるもの  その理由 (聖書の他の箇所)

 

1、神は守ってくれる  

詩18:3「主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。」

詩71:3 「常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」

詩91:2 「主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。」  (参照・詩121  ヨエル4:16 避け所=砦)

 

2、守り導いてくれる  

・詩31:4-5「あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き/隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。」

・詩37:39-40 「主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。/主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

 

・詩59:10-11 「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。/神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。」 → 神は先に立って進んでくれる

 

・神は動かない存在ではなく、移動して先に立って導いてくれ、後ろに回って守ってくれる存在である(出エジプト13:21-22、出エジプト14:19)。 

詩48:15 「死を越えて、私たちを導いて行かれる」 終わりまで砦となる存在。

 

3、義の神として敵を裁く 

詩9:10「虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。」(←詩9:5「あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。」)

 

・詩94:22「主は必ずわたしのために砦の塔となり/わたしの神は避けどころとなり/岩となってくださいます。」(←94:23「彼らの悪に報い/苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。わたしたちの神、主よ/彼らを滅ぼし尽くしてください。」)

 

4、主は光  

・詩27:1 「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。」 

⇒ 主の存在そのものが光となって照らしてくださるので、人生の指針となり、希望を与え、砦となってくれる。  (参照・詩119:105 ヨハネ8:12)

 

5、力の源  詩28:8 主は力、砦、救い  ⇒ 神は力の源なので、砦となる。

・詩28:8(フランシスコ会訳)「主はわたしたちの力、油注がれた者を救う砦。」

エレミヤ16:19「主よ、わたしの力、わたしの砦」   詩18:2-3

 

6、必ずいつも共にいてくれる   

・詩46:2「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」、46:8「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」、46:12「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」 → 必ず共にいる存在 (参照:マタイ1:23 インマヌエル)

 

必ず応答してくれる神  

・詩9:11「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」→詩9:10

 

苦難の中にあって呼びかけることができる存在  

・詩43:2「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。」 詩89:41

 

主の慈しみが支えてくれる・砦となる 

・詩94:18-19 「「足がよろめく」とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。/わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。」

→ 詩94:22「主は必ずわたしのために砦の塔となり/わたしの神は避けどころとなり/岩となってくださいます。」

、主は歌  詩118:14「主はわたしの砦、わたしの歌。/主はわたしの救いとなってくださった。」   (参照:出エジプト15:2)

※ 歌が人の心の支えとなること。 例:アンブロシウスの最初の讃美歌、映画「望郷の鐘」における満州からの引揚者や残留孤児における「ふるさと」、日本海上の船の上でのハティクヴァ、公民権運動における”we shall overcome”、黒人霊歌「深い河」。

※ イザヤ25:4-5 神は「弱い者の砦」であり、「暴虐な者たちの歌声を低くされる。」

神は、小さい者・弱い者にとって本当の支えとなり「歌」となり、横暴な者の歌や騒ぎは鎮める。 ⇒ 長い目で見ると、良い歌が残り、悪い歌は残らない。

 

※ 砦とはキリストのこと ゼカリヤ9:12「希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。」 ゼカリヤ9:9 ろばに乗って王(メシア)が来る  (参照 詩8:3 乳飲み子)

砦=キリスト キリストに帰ることこそ、本当の魂の砦を得ること、砦に帰ること。

※砦⇒勇気 参照:ハリエット・タブマン(1821-1913)、絵本『ハリエットの道」  

⇔ アッシリアサルゴン2世(110代)、シン・シャル・イシュクン(116代)

※ イザヤ27:5「そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」 

⇒神を歌・砦とすること=神との和解 キリストの十字架の贖いを信じること

 

・詩73:26 「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが/神はとこしえにわたしの心の岩/わたしに与えられた分。」 ⇒肉や心ではなく、神とつながるプネウマのみ変わらぬもの (参照:Ⅰテサロニケ5:23)

エレミヤ9:22‐23 誇るべきは主を知ること。Not 知恵・力・富

 

箴言14:26-27「主を畏れれば頼るべき砦を得、/子らのためには避けどころを得る。/主を畏れることは命の源/死の罠を避けさせる。」

 

Ⅴ、おわりに 

 

※ ナホム書から考えたこと 

 

・ナホム書は、その最盛期において事前にアッシリアの滅亡を預言した。その後の急速なアッシリアの滅亡により、神の預言の真実と、歴史の主権者は神であることをナホム書は証した。そのことは、当時の人々にとって実に驚愕すべきことであり、それゆえにナホム書が長く大切に語りつがれ聖書に加えられたのだと思われる。

世俗権力のいかなる強大な力も、それが不義のものであり続ける限り、必ず最終的には審判を受ける。虚偽は滅び去り、真実のみが存続していく。それらのことをナホム書は教えてくれる。

と同時に、単に歴史上のアッシリアという一つの固有の存在だけではなく、「ベリアル」つまりサタンをアッシリアの奥に見ており、またそれが単にアッシリアだけにとどまらず、人間の内部に働くものであることを、ナホム書が指摘していることが、今回丹念に読むことでわかった。ナホム書は、ベリアル(罪)を滅ぼす神の業の宣言であり、その意味で、キリストの福音の到来を他の預言書と同じく預言している。(次回ナホム2:1)

 

・最近の世界においては、アメリカにおけるトランプ政権や、欧州各国における極右の台頭など、今後の世界の見通しについて暗い影を落とす要素が多々見受けられる。今後、アメリカが誤った政策を実行し、急速に衰退して世界の秩序が混乱する可能性もある。

しかし、神を信じる者にとっては、神が悩みの日の砦となり、勇気の源となり、歴史の根底には神の善意や導きや義の審判があり、必ずベリアル(罪)は滅ぼされていくという見通しを持つことができる。全て変わりゆく世界の中で、変わらないもの・真のよりどころを持つことができることを、ナホム書は教えてくれる。

 

※ ナホム書 第一章七節 (神は悩みの日の砦)

טֹ֣וב יְהוָ֔ה לְמָעֹ֖וז בְּיֹ֣ום צָרָ֑ה וְיֹדֵ֖עַ חֹ֥סֵי בֹֽו׃

トーヴ・ヤハウェ

レマオウズ・ベヨウム・ツァーラー・

ヴェヨデーア・ホーセ・ボウ

 

「主は善い方であり、

悩みの日の砦である。

主のもとに避難する者を

主は知ってくださる。」

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、新翻訳パイロット版、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年

・黒崎幸吉編『𦾔約聖書略註 下』、下山忠夫「ナホム書」

・『新聖書註解 旧約4』いのちのことば社、千代崎秀雄「ナホム書」、1974年

・『ライフ人間世界史 第13巻メソポタミア 』タイム社、1968年  (他多数)

オバデヤ書 資料

「オバデヤ書 ―『エドム』への審判と隣人への倫理」 資料

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、第一部 「エドムに対する審判とその理由」 1~16節

Ⅲ、第二部 「イスラエルの勝利」 17~21節

Ⅳ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに

 

オバデヤ書:十二小預言書のひとつ。成立年代は不明。旧約聖書中、わずか一章だけから成る唯一の書。エドムに対する審判とイスラエルの勝利が描かれる。

  

・オバデヤとは誰か?:オバデヤ書以外の聖書記述中情報がなく、詳しいことは一切不明。オバデヤという名前の意味は、「ヤハウェの僕」という意味。同名の人物は、聖書にしばしば登場するが(列王記上18:3-4など)、預言者オバデヤと同一人物とは同定できない。

 

オバデヤの時代背景:オバデヤが生きた時代は不明である。全く王の名が出てこない。エルサレムが異国に侵略された時に、エドムが傍観したことへの批判が本文中にあるため、以下の時代の可能性が指摘されている。

 

① ユダの王ヨラムの時代(BC849‐842)

② エミレヤとほぼ同時代かそれ以前(BC627‐586)

③ バビロン捕囚直後(BC586後)

 

①説の根拠:ペリシテ人とアラブ人が王宮を略奪した出来事(歴代誌下21:16‐17)をオバデヤ書中のエルサレム略奪の出来事だと考える。その場合、オバデヤ書は十二小預言書中最古、記述預言書中最古のものとなる。

 

②説の根拠:エレミヤ49:14-16にオバデヤ書と酷似の箇所があり、もしエレミヤがオバデヤ書を引用したとすれば、エレミヤより前に成立していると考えられる。

③説の根拠:バビロニアによるエルサレム占領をオバデヤ書中のエルサレム略奪の出来事と考え、同書をその時のエドムの態度への批判と考える。

 

ただし、エルサレム略奪の出来事を未来の預言と考えれば、必ずしもオバデヤと同時代の出来事と考える必要はなく、どの時代に書かれたかは不明である。前2世紀の作品・旧約聖書続編の「シラ書」に十二人の小預言者の言及があるので、この時期にまでは遅くとも成立。(シラ書49:10)

 

十二小預言書はもともとは一巻の巻物におさめられ、一まとまりの内容として意識されていたという説がある。この説に立てば、アモス書の次、ヨナ書の前にオバデヤ書は配列され、十二小預言書中四番目に記載されてきたことは、オバデヤが比較的早い時代の預言者と意識されていたものだとも推測される。十二小預言書の中でも前半六つはアッシリアの時代、後半六つがそれ以後のバビロン捕囚や捕囚後の時代のものという配列を考えれば、アッシリアの時代のものと受けとめられてきたと考えられる。オバデヤ書の想定する出来事がアモス1:11と同様のことを記述していると考えれば、アモスとほぼ同時代とも考えられる。

 ただし、アモス書の次に配列されたのは、アモス書の末尾がエドムについての預言であったため、同じくエドムへの審判預言であるオバデヤ書が配置されたとも考えられる。

 

 オバデヤ書の特徴と読み解くためのポイント 

 

① ただ一章からなる旧約聖書中最短の書。

 ただ一章からなり、十二小預言書の中ではもちろん、旧約聖書中最少の分量。内村鑑三は「書の長短はその書の価値に何の関係なきこと」と述べ、むしろ短い書の方が真理をよく理解し自家薬籠中にするために良いことを指摘している。

 

② 「エドム」は何を意味するのか?

オバデヤ書は「エドム」に対する審判の預言である。「エドム」をどう受けとめるかで、後世の我々にとって重大な示唆に富むものとなる。

矢内原忠雄は、「オバデヤ書のエドムに対する生気溌剌たる敵愾心は、これを『世俗精神』に対する敵愾心として読むとき、我らにとりて不滅の光輝を発揮する。」(全集13巻659頁)と指摘し、「エドム」を単に歴史上の一民族としてではなく、無神論や物質至上主義を指したものとして受けとめている。

 

③ 隣人の苦境を傍観することの問題

オバデヤ書が「エドム」を批判し、神の審判があるとする理由は、11-14説に述べられるとおり、隣人の苦境を傍観するエドムの態度である。単に民族的憎悪を述べているのではなく、隣人への倫理の問題として読む時、新約と大きく関わる内容となる。

 

※ 「オバデヤ書の構成」

 

第一部 「エドムに対する審判とその理由」 1節~16節

第二部 「イスラエルの勝利」 17~21節

 

・オバデヤ書は、審判と希望という預言書に通底するテーマが短い文章の中に集約されている。その文章は緊迫し痛切である。矢内原忠雄は「短刀の鋭さと珠玉の閃きが認められる」とオバデヤ書について述べている。

        

         

Ⅱ、第一部 「エドムに対する審判とその理由」 1節~16節 

 

※ 1節 「題辞

オバデヤ:「ヤハウェの僕」「主を礼拝する者」「主に仕える者」を意味する。

:ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。 「オバデヤへの啓示。」(関根訳)

使者:天使のことか?エドムに対する闘いを諸国民に呼びかける。

 

エドム: 

ユダ王国の南東に位置していた国。死海の南からアカバ湾(エツヨン・ゲベルまで。聖書巻末地図2を参照)を領域とし、東西南北の交易ルートにあたり、経済的に繁栄した。ヤコブの兄・エサウの子孫とされる。首都はセラ(のちのペトラ)。ボズラやテマンが重要な都市・地域。

聖書にはエドム人は兄弟であり「いとってはならない」とも記されているが(申命記23:8)、出エジプトの際モーセたちの通行を邪魔したことも記録される(民数記20:18)。ダビデによって征服されたが、のちに独立。バビロニアエルサレムを占領した時に、傍観、さらにはバビロニアに加担したことが聖書に記述される(詩編137:7、エゼキエル25:12)。新約聖書に登場するヘロデ大王はエドム(イドマヤ)出身。

   

左図:分裂王国時代の周辺地図   右図:ペトラの遺跡

 

内村鑑三は、エドムの神名が聖書に一切伝わらないことを指摘し、無神論的・物質主義的で、宗教への関心が乏しかったであろうことを指摘し、イスラエルとの対照性を論じている。

(参考・異教の神々:バアル(フェニキア、カナン一円)、モロク(フェニキア、アンモン)、アシュトレト(フェニキア、ペリシテ)、アシェラ(アッシリア、中東一円)、ダゴン(ペリシテ)、ケモシュ(モアブ)、ミルコム(アンモン))

創世記25章にも、エサウがパンとレンズ豆の煮物を得るために、弟のヤコブに長子として神から祝福される権利を譲ってしまうことが描かれており、神の祝福を求めるヤコブと物質主義的なエサウの性格が対照的に描かれている。

古くから経済や文化は発達し、イスラエルよりも早くに王政を確立し、エドムの東部であるテマンは知恵者を輩出する地域として誉れ高かった。ヨブ記に登場するヨブの友人のエリファズはテマン人であり、因果応報の道理を主張した。

エドムは、バビロニアに征服されローマの支配下に加わったのち、歴史から消滅した。

 

※ 3-4節 傲慢 

 エドムの「傲慢」さが問題とされている。神を無視し、神を無関係と思って生き、それでも自らを安全と思い、隣人に冷淡に生きていることが問題とされている。

 内村鑑三は、貧者が助け合うのに対し、経済的に豊かである金持ちは、しばしば感覚が鈍くなり、愛情がなくなり、冷淡な人間となってしまうことを指摘している。

 

 岩の裂け目:ペトラの遺跡に見られるように、エドムは堅固な岩の中に要塞都市を築いていた。

 星の間の巣からも引き降ろす:イザヤ14:12-15では、明けの明星が天空から落とされたことが記され、サタン・堕天使のことを記している。オバデヤ書のこの箇所の表現はイザヤ書を連想させ、エドムの傲慢さが、サタンと相通じるものだったことが述べられている。

 なお、エレミヤ49:16は、オバデヤ書のこの箇所に酷似。エレミヤ49:18ではソドムとゴモラのようにエドムが滅亡すると述べられる。

 

※ 5-6節 エドムに対する哀歌 

5-6節の「いかに~だろうか」という形式、およびヘブライ語の3+2の型の韻律は、哀歌の形式だと注釈書は指摘する(ティンデル聖書注解34頁)。つまり、オバデヤはエドムの滅亡を喜んでいるわけではなく、むしろ悲しんでいる。

 ぶどうの取り残しの実:寄留者・孤児・寡婦のためにぶどうをつみ尽くしてはならないことが律法の規定にある(申命記24:21)。エドム人が寄留者のようにみじめな境遇になること、あるいは取り残しの実すら残らない悲惨な境遇になることの指摘。

 6節では、根こそぎに略奪されることが述べられている。

 

※ 7節 同盟国や盟友の裏切り 

参照・同盟国・盟友の裏切り:第二次大戦末期のソビエト関ケ原小早川秀秋カエサルにおけるブルータス、本能寺の明智光秀

「お前のパンを食べていた者」:原文は「パン」のみ。「パン」を言葉・教えと理解すれば、偽りの教えや言葉が罠となったという意味に理解できる。

新共同訳「それでも、お前は悟らない。」:岩波訳「本人はそれに気づかずにいる」(脚注・原文「彼には理解力がない、英知がない」)⇒ 理解力や英知が消えてなくなってしまう。

 

※ 8-9節 知恵や軍事力が滅ぼされる 

 テマンは知者を輩出する土地と当時されていたようである(エレミヤ49:7)。しかし、その「知恵」はエドムの滅亡をなんら食い止めることができず、むしろその滅亡の原因となった。世俗的な知恵はかえって神から離れる原因となり、神から離れた知恵は滅亡の原因となることを内村鑑三は指摘している。エドムが頼みとする世俗的な知恵や軍事力はなんら滅亡を防ぐ助けとならなかった。

 参照:ヤコブ3:13-18「神から出た知恵」と「地上の・この世の・悪魔から出た知恵」

⇒ 日本は前者を軽んじ、後者ばかり追い求めていないか?(受験偏重や利潤第一主義)

 

※ 10-11節 不法への傍観・加担への審判 

不法:岩波訳「暴虐」、関根訳「暴逆」、フランシスコ訳「暴力」。

エルサレムが占領・略奪されるときに、その行為に加担したこと、あるいは積極的に加担しなくても「離れて立って」傍観していたことが、審判の対象となる原因とされている。

⇒ いじめ・難民の問題における傍観者の問題

「くじ引き」:マルコ15:24 

 

※ 12-14節 隣人の苦境を傍観してはならない 

隣人の「悩み」「災い」を傍観することを禁じる神の誡命。

 

参照・申命記22:1-4 同胞の牛また羊が迷っているのを見たら、見てみない振りをしてはならない。

創世記4:9 人はすべて兄弟・隣人の「番人」であるべき。責任をもって配慮するべき。

ゼカリヤ7:9「互いにいたわり合い」 ヤコブ2:15-16  アモス5:11 

 

参照・傍観しなかった事例:エルトゥールル号の遭難救助(1890年(明治23年))と、イラン・イラク戦争における日本人の海外脱出をトルコの航空機が行ったこと。

マリア・ルス号の苦力の救助(1872年(明治5年))。

日本も、311では、平成23年3月22日時点で約130カ国、その後平成28年11月までに163カ国から支援を受けた。

 

難民・難民申請・国内避難民の総計は国連難民高等弁務官事務所の推計で6530万人(2016年6月時点)。世界の113人に1人以上。難民の半数以上がシリア、アフガニスタンソマリアの3カ国だけで占められている。

 

参照・ナチスの時代におけるユダヤ難民: 各国はユダヤ難民の入国をしぶり、イギリスはパレスチナへの移住の制限を厳しく設定し、海外に脱出できないユダヤ難民が続出した。

デンマークは国王や政府がユダヤ人をかばい、中立国スウェーデンに無事に逃した。オランダでは、ユダヤ人迫害政策に市民が反対してゼネストが起き、軍隊が鎮圧。ブルガリアでは、反ユダヤ人政策を政府も国民も拒否し、殺戮を回避した。

しかし、フランスのヴィシー政府やルーマニアハンガリーウクライナポーランドセルビアクロアチアバルト三国などでは、ナチス協力者が多かった。

日本では、杉原千畝・小辻節三らがユダヤ難民の救出に尽力した。

(シェインドリン『物語ユダヤ人の歴史』中央公論社、232-234頁)

 

日本国内においても、相対的貧困家庭の子どもは六人に一人。剥奪指標の調査によれば、学校の行事や家族旅行が一切できず、進学や人とのつながりもままならない子どもが一定の割合いるという。

 

※ 15-16節 主の日における因果応報 

主の日:ヨエル1:15、2:1、4:18  神が歴史に介入する時

 

行いの報いが自分に降りかかる

同害報復の原理:レビ記24:17-22   エレミヤ50:15、50:29  黙示録20:12-13

 

内村鑑三は、第一次世界大戦において、かつてポーランド分割を行ったロシア・オーストリア・ドイツの三つの帝国が破滅したことを、神の審判として指摘している。

 

(ただし、詩編103:10-14は、信仰のある者に対してはその罪や悪に従って報いるわけではない主の慈しみが明記されており、仏教やテマン人エリファズの自業自得の因果応報論だけではないところが聖書の重要なところだと思われる。)

 

飲んで存在しなかった者のようになる:神の怒りの杯を今度はエドムの人々が報いとして飲むことになる。哀歌4:21 エドムに対し「お前にもこの杯は廻って来るのだ。」

泥酔した姿が、生命が取り去られた死体のようになることの比喩として述べられている。

 

⇒ しかし、人類の罪に対する主の怒りの杯は、代わりにイエス・キリストゲッセマネで飲み、十字架に架かった。(マルコ14:36)

 

・第一部を通しての感想 

 

・ エドムの傲慢・隣人の苦境への傍観が、その経済力や要塞や同盟関係や知恵や軍事力にもかかわらず、神によって裁かれることが印象的。神の前には、富や世俗的な知恵は何の役にも立たないこと。そして、実際、イスラエルは今も存続しているのに対し、エドムは消滅してしまったこと。

・ 隣人の苦境に対し傍観を禁じる言葉が、大変印象的。この精神を実際に実行したのがイエス・キリストであり、「善いサマリア人」(ルカ10:25-37)。

・因果応報だけの論理でいえば、裁かれるべき自分が、神の怒りの杯をキリストが代わりに引き受け、十字架の贖いをしてくださったおかげで、業によらない救いが与えられていることのありがたさ。そうであればこそ、できる限り隣人への倫理を忘れないことの大切さ。

 

Ⅲ、第二部 「イスラエルの勝利」 17~21節 

      

 

※ 17-18節 神の民の勝利 

シオンの山・ヤコブの家:イスラエルのこと。神の民のこと。失地を回復し、奪還。

火・炎:神の霊のこと。出エジプト3:2-6 燃える柴。 使徒言行録2:3

⇒ 「神の国」が「地の国」に最終的に勝って実現すること? 他人に冷淡で無神論的・物質主義的なエドムの生き方ではなく、神を愛し隣人を愛する神の民の生き方が広まること。

 

※ 19-20節 イスラエルの領域の回復 

聖書巻末地図5および2を参照。

ネゲブ:「南」、ヘブロンより南方の放牧地帯。カデシュ・バルネアやベエル・シェバ周辺。

シェフェラ:低地。地中海沿岸の平野とユダの山岳地帯との中間の丘陵地帯。

ギレアドヨルダン川東岸の一帯、および町。ホセア6:8では悪を行う者の住みかと指弾されている。

サレプタフェニキアの町。ガリラヤよりも北の、シドン人の町。エリヤは飢饉の時にこの町の寡婦の家の客となり、死んだ子どもを祈りによって復活させた(列王記上17:8-24)。

セファラド:正確な場所は不明。サルディス、ボスフォラス、スペインなどの説がある。

⇒ 捕囚となっていた人々が帰還し、イスラエルが領域を回復し、さらに隣接する南北の地域に拡張する預言。

⇒ 内村鑑三は、ユダヤ人の精神活動が、世界中に広がっていく預言と受けとめている。

 

※ 21節 神の国の実現 

救う者たち:関根訳・岩波訳「救われた者たち」。岩波脚注「原語は「救い主、救う者」の複数形。七十人訳に従って読み替えてある。」

⇒ エクレシア(シオンの山)に、福音によって救われた者たちが集まることと、その救われた者たちは同時に救う者でもあるということか? 救い手(ネヘミヤ9:27 士師たち)

 

王国は主のものとなる:新改訳・フランシスコ訳「王権は主のものとなる」

詩編22:28-29、詩編47:7-8、ダニエル書7:13-14、ミカ4:7、ゼカリヤ14:9、ルカ1:32-33、黙示録11:15、黙示録19:6 ⇒ キリストが人類の王となる。神の国の実現。

 

参照・アウグスティヌス:「神の国」と「地の国」

終末の日における神の国の実現。 

 

隣人に冷淡な物質主義・無神論 ➡ 隣人の苦境を決して放置しない隣人愛と神への愛を持った人々からなる世界。

 

・第二部を通しての感想 

・ 神の精神(火・炎)が、冷たい物質主義の心(エドムのわら)に燃え移って、いつか全面的に実現するという預言は、大変救いとなる素晴らしいものと思われた。

・ オバデヤ書には、アウグスティヌスの言葉を借りれば「神の国」と「地の国」、あるいは神とサタンの闘いという聖書を通底するテーマが貫いている。「エドム」という言葉を単に歴史的な一民族のことと考え、「本書はいわば憎悪の歌である。」(聖書辞典358頁)と単純に切って捨てるのは、大変もったいないことであり、神の審判への信頼や希望、および隣人への倫理を教えてくれる貴重な書と思われる。

 

Ⅳ、おわりに 

 

◇ オバデヤ書の聖書全体の中での重要性

・仮にヨラム王の時代の預言者だと考えれば、十二小預言者中最古の預言者、最古の記述預言者ということになる。

・「エドム」つまり無神論的・物質主義的な世俗主義への批判として、精彩に富んでいる。

・隣人の苦境を見捨ててはならないという聖書の教えが最もよく書き込まれている。

・神の審判への信頼と希望を呼び覚ましてくれる。

・極めて短いので読みやすく理解しやすく、覚えやすい。十二小預言書のいわばエッセンス。

 

※ オバデヤ書から考えたこと:

・日本は近年、自己責任ということを強調し、隣人への責任や配慮よりも、能率や利潤第一主義や自分自身の生き残りを追求してきた。しかし、それは本当に正しかったのだろうか?

 奥田知志牧師は、自己責任というのは関わりを持たないための言いわけであり、自分の安全や安心を求めるほど人は絆から遠ざかる、自己責任論をつきつめると社会は崩壊する、助けてと率直に言い合うことができる、関わり合いのある、ホームのある社会をいかにしてつくっていくかが大事ではないかと指摘していたが、そのとおりと思う。

 人は神の前に立って自らの人生の責任を持ち、行為の責任が問われることも一方で大事なことであり、そのこともオバデヤ書は明記しているが、と同時に、人間同士の関係は傍観や無責任であってはならず、相互の配慮を必要とし、神からもそのように求められているというのが、オバデヤ書および聖書の隣人愛の倫理と言えると思われる。

 

※ オバデヤ書 第十二節 (隣人への倫理)

 

וְאַל־תֵּ֤רֶא בְיֹום־אָחִ֙יךָ֙ בְּיֹ֣ום נָכְרֹ֔ו וְאַל־תִּשְׂמַ֥ח לִבְנֵֽי־יְהוּדָ֖ה בְּיֹ֣ום אָבְדָ֑ם וְאַל־תַּגְדֵּ֥ל פִּ֖יךָ בְּיֹ֥ום צָרָֽה׃

 

 

ベアル・テーレー・ベヨウム・アヒーハー・

ヨウム・ノホロウ・

ベアル・ティシュマー・リブネー・イェフダー・ベヨウム・オーブダム・

ベアル・タグデル・ピーハー・ベヨウム・サラー

 

「兄弟が不幸に見舞われる日に

お前は眺めていてはならない。

ユダの人々の滅びの日に

お前は喜んではならない。

その悩みの日に

大きな口をきいてはならない。」

 

 

「参考文献」

 

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

内村鑑三「オバデヤ書の研究」全集31巻所収、岩波書店、1983年

矢内原忠雄「オバデヤ書の大意」全集13巻所収、岩波書店、1964年

・デイヴィッド・W・ベーカー著、清水武夫訳『ティンデル聖書注解 オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書』いのちのことば社、2006年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年

「ナオミの詩について(ルツ記から)」

「ナオミの詩について(ルツ記から)」


「ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(ルツ記 第一章 二十、二十一節)


ナオミ(ダビデの曾祖母の姑)のこの詩について、私は長い間さして気にも留めてこなかった。しかし、今は大事なことを教えてくれる詩と思っている。

そのきっかけは、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの御話だった。今年の六月、「どうしてナオミはこの詩のように率直に神に対して不平不満を訴えることができたのですか?」と質問する機会があった。

すると、「ユダヤ人における自分と神との関係は、いわば家族の中の事柄。子が親に対し文句を言ったりケンカをしたりするようなもので、相手の愛情を信頼しきっているからこそ、思いきった文句も言える。」との答えだった。

そして、こんな小話を紹介してくれた。ある時、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて浜辺を散歩している女性がいた。すると、大きな波が来て、ベビーカーごと赤ちゃんを海にさらっていってしまった。女性は嘆き悲しみ、天を仰いで助けを祈った。すると、もう一度波がやって来て、なんと赤ちゃんが浜辺にそっと打ち寄せられ、無事だった。女性は赤ちゃんを抱きかかえると、「ところでベビーカーは?」と天に向かって言った。

それぐらいとことん遠慮なく、神に不平不満を述べ、お願いすることができる。これがユダヤ人と神との関係だ。との答えを聞いて、私は目からウロコが落ちる気がした。

日本人には、人生において、文句を言わず、じっと耐えていくのが良いという考え方があると思う。いかに人生で悲しいことがあろうと、不条理があろうと、文句を言わず、むしろ自分の非を反省し生きていった方が良いという考え方が。

私は、家族の病気や死があった時にも、どうもそのような思いこみが強かった。そして、納得のいかない形容しがたい思いを抱えて生きてきた。

しかし、今は、わかった。ナオミのように、率直に神に文句を言ってみたかったし、言って良かったのだと。そして、神はそのことに怒ったりすることなく、必ず受けとめて、愛をもって報いてくださるのだと。そして、そのような神は、ただ聖書の神だけなのだと。

ナオミは飢饉を逃れて渡っていったモアブの地で、夫と二人の息子を病気で亡くした。その嘆きはいかばかりだったろう。そして、その悲しみや怒りを、神との関わりの中で受けとめ、率直に詩で表現した。

しかし、神は、ナオミの詩に、決して怒らなかった。むしろ、慰めと祝福をそそいだ。周知のとおり、このあと、ナオミの家族ははかりしれない神の恵みを受け、ダビデを生み、主イエスの養父ヨセフを生みだす家系となった。

ナオミは、うつろになって戻ってきたベツレヘムの地で、のちに満たされた。マラ(苦い)と思っていた人生は、ナオミ(快い)となりうることを証した。主は、ナオミやルツを決して見捨てず、ボアズと出会わせた。

ボアズとルツの子である祖父・オベドを通じ、ダビデはナオミのことをよく聞いて育ったことだろう。オベドは、ルツが産んだが、実質的にはナオミが育てたことがルツ記に記されている。ナオミの詩と物語をよく聞いて育ったダビデは、率直にどのようなことも神に吐露し、祈る人生を歩むことができるように育った。だからこそ、神にかくも愛された。ダビデの人生と詩篇の源には、冒頭の素朴なナオミの詩があるのだと思う。

聖書の中にルツ記があるのは、ダビデの意向によると思われる。そうでなければ、誰がこの物語を伝えたろう。そして、ナオミの亡くなった夫・エリメレクや息子のマフロンとキルヨンも、ルツ記を通じて、人々の記憶に永遠に生き続けることとなった。

ナオミは、冒頭に引用した詩では嘆いていたが、のちにルツ記の中でこう言っている。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」(ルツ記 第二章 二十節)。しばしば、苦しみを通し、深い淵に立って、人ははじめて神に問いかけ、呼びかける。神の思いは時に人にはわからないが、そこで向き合った神は、必ず愛をもって応えてくださる。そして、苦しみの中で信仰を得た時、自分のみでなく、先立った家族も、自分とともに、神の惜しみない慈しみの中に入っていく。

思えば、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)」(マルコによる福音書 第十五章 三十四節)と率直に神に述べられた。そして、復活の栄光を得た。信仰の恵みにより、私たちは、イエスやナオミのように、神とどんな時も率直に関わって生き、神と共に歩むことができる。神の民であることに感謝。

鎌田柳泓「心学五則」を読んで

先日、鎌田柳泓の「心学五則」を読んだ。
 
鎌田柳泓は、江戸後期の石門心学の思想家で、ダーウィンの数十年前に進化論を唱えたとも言われる独創的な思想家である。
 
いろいろたくさん著作を書いているようで、私はまだ心学五則ぐらいしかしっかり読んだことはないのだけれど、心学五則はとても面白かった。
 
日本思想体系の四十二巻の『石門心学』に収録されているので、図書館などがあればわりと入手しやすいと思う。
 
心学五則とは、持敬・積仁・知命致知・長養の五つの基本的な原則のことで、これに基づいて生きることを説き、それぞれについてわかりやすく説明してある。
 
持敬とは、よく注意して慎んで生きること。
日常のさまざまなことにきちんとよく気付いて自覚的に生きること。
さらに言えば、偏った気持ちを持たずに、公正公平を心がけることである。
 
積仁とは、仁、つまり愛情を持って生きること。
具体的には、怒ったり、悪い言葉を使ったり人をののしったりせず、人に親切に、施しなどをして生きて行くことである。
この人生を、愛を実践する場として生きることである。
 
知命とは、天命や運命を知って安んじること。
鎌田柳泓が言うには、知命には主に二つある。
ひとつは、人生には浮き沈みや良い時と悪い時とがあり、そのことを心得て一喜一憂せず、避けられぬことは落ち着いてしっかり引き受けて行くということである。
と同時に、持敬と積仁を実践していれば、つまりよく慎んで注意して、そして愛をもって生きていれば、どんどん幸運や良い結果が生じていくし、逆もまたしかり、ということを知ることである。
この二つを知って、心安んじて生きていくことである。
 
致知とは、持敬の工夫を深めて、観心、つまり心の思いをひとつひとつ常によく観察して気付きをもって生きていると、だんだんと心が清まり、虚明無著、つまり清らかな明るい心になるそうで、その工夫と実現のことである。
森羅万象は一真の妙なる働きであり、つまり心の奥底の虚明とつながって自分の心やあらゆる現象もあるので、この虚明をしっかり認識してこれに沿って生きることができるように、心の観察と心の浄化に努めることである。
 
長養とは、虚明の状態をよく守り育てていく存養と、自分の心を観察してよく反省して誤りを正していく省察の二つ、つまり存養・省察が長養である。
心を存養・省察によって磨いていくと、ますます心は光明を放つようになる。
 
といったことが書かれている。
 
なかなか面白い、江戸時代の日本人の思想のひとつだと思う。
 
なるべく私も心がけたいことだなぁと思う。

元旦の計

一年の計は元旦にあり、ということで、今年の目標をつくってみた。

 

・古くて新しいこと、時間が経っても変わらない真実を大切にして、古典をしっかり読むこと。

・「今と今から」を大切にすること。

・なるべく早め早めに準備すること。

・「人一人ハ大切ナリ」。なるべく接する学生や、知人・友人一人一人にきちんと向き合うこと。

・慈悲と感謝と尊敬の気持ちを一日の中でなるべく多く持つように心がけること。

・多くの方が自分のために祈ってくださっていることを忘れず、日々少しでも誰かのために祈る時間を持つこと。

・毎日少しでもストレッチや運動や瞑想を欠かさないこと。

 

これらを通じて、「良い心のかたち」(kusala sankhâra)をつくっていくことを心がけたいと思う。

 

あと、できれば、ほんの少しでも、時間ができた時にギリシャ語とヘブライ語をちょっとだけでも勉強して、聖書を少しでも原文で読めるようになりたいなぁと思う。

 

 

 

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

 

『「ヨエル書」を読む ―神に立ち帰る』資料 

『「ヨエル書」を読む ―神に立ち帰る』資料 

 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、第一部 「いなごの襲来」 

Ⅲ、第二部 「神への立ち帰り」 

Ⅳ、第三部 「回復と救済」

Ⅴ、第四部 「主の日の審判」 

Ⅵ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに

 

ヨエル書:十二小預言書のひとつ。成立年代は不明。いなごの襲来、悔い改め、神の霊がそそぐこと、主の日等について述べてある。全四章。のちに使徒行伝の中でペテロがヨエル書を引用し、聖霊がすべての人に下るというヨエルの預言がペンテコステにおいて成就したことを述べている。

  

・ヨエルとは誰か?:ヨエル書以外の聖書記述中情報がなく、詳しいことは不明。父親の名前はペトエル。ペトエルもヨエルも何者か不明。父の名が伝わっていることから、父の名が伝わらないミカと異なり、貧しい庶民ではなく、おそらくは一定の身分や教養のある階層の出身と考えられる。ペトエルという名前は「神を広めよ」という意味なので、祭司や神殿に関連した人物だった可能性が考えられ、ヨエル自身もそう考えられる。

 

ヨエルの時代背景:ヨエルが生きた時代は不明である。ホセア・アモス・ミカなどは、彼らが生きた時代の王の名が記されているために時代が確定できるが、ヨエル書本文には全く王の名が出てこない。本文中にも、名前のみならず、なぜか王に関する記述が全く存在しない。そのため、以下の時代の可能性が指摘されている。

 

① ユダの王ヨアシュの時代(BC835‐796

② バビロン捕囚が終わった後の時代(BC400‐180頃)

③ バビロン捕囚直後 (BC六世紀後半~五世紀半ば)

 

①説の根拠は、アハズヤ王の死後、母のアタルヤが権力を握り、ヨアシュが祭祀ヨヤダにかくまわれて神殿に隠れ住んでいた時代(列王記下11章)だとすれば、王についての記述がなくても不自然ではないからである。その場合、アモスやホセアやヨナが生きたヤラベアム二世(BC786‐746)の時代よりも古い年代となり、ヨエルは十二小預言者中最古の預言者、最古の記述預言者ということになる。

②説の根拠は、本文中にギリシャ人についての記述があるので、ヘレニズム期以降と推定されるため。しかし、イオニア人(ギリシャ人)の奴隷貿易の歴史についてはアレクサンドロスの数世紀前にさかのぼる文書が見つかっている。(アラン・ハバード、26頁)

③説は、「主の日」の黙示的な内容や、ユダとエルサレムの苦境、エレサレム城壁についての言及(を再建後のものと受けとめるならば)、他の預言者であるイザヤ・エゼキエル・ゼパニヤ・オバデヤからの引用とみられる語句があること、ヨエルがエドムの荒廃を将来のものとしているのに対し、マラキはエドムの荒廃を過去のこととしているので、マラキよりも以前の時代と推定できることが根拠である。ティンデル注解、フランシスコ訳解説は③説をとっている。

・しかし、十二小預言書はもともとは一巻の巻物におさめられ、一まとまりの内容として意識されていたという説がある。この説に立てば、ホセア書の次、アモス書の前にヨエル書が配列され、十二小預言書中二番目に記載されてきたことは、ヨエルがかなり早い時代の預言者と意識されていたものだと推測される。十二小預言書の中でも前半六つはアッシリアの時代、後半六つがそれ以後のバビロン捕囚や捕囚後の時代のものという配列を考えれば、アッシリアの時代のものと受けとめられてきたと考えられる。

 

ヨエル書に登場する「いなご」を軍隊の比喩と考えれば、差し迫るアッシリアの軍勢を預言したものとも考えられる。

①説のヨアシュ王の時代、あるいはやや下って紀元前八世紀頃の時代の人物と考えると、「主の日」について、「終りの日」・「終末の日」を意味するものとして「主の日」について言及した最初の預言者ということになる。

 

 

 ヨエル書の特徴と読み解くためのポイント 

 

 

① 簡潔で短い内容。

 十二小預言書の中でも、比較的短い分量。ホセア・アモス・ゼカリヤらに比べるとかなり短い。しかし、内容的には整然とした構成を持ち、「災いから希望へ」・「神への立ち帰り」という十二小預言書に通底するテーマが最も明瞭に現れている。

 

② 「いなご」とは何か?

ヨエル書冒頭では未曾有のいなごの襲来が述べられる。「いなご」をどう受けとめるかで、後世の我々にとっても重大な示唆に富むものとなる。

 

③ 「立ち帰る」(シューヴ)=悔い改めにおける内面的契機の強調

「神に立ち帰ること=悔い改め」は、聖書を通底したテーマ(申命記30:2-3)。

ヘブライ語ではシューヴ(שׁוּב)。ギリシャ語には二つの用語がある(『聖書思想事典』参照)。

epistrephō(ἐπιστρέφω) エピストレフォー : 生活・品行の改善

metanoia(μετάνοια) メタノイア : 内面の悔い改め

ヘブライ語のシューヴはどちらも含むが、アモスやミカにおいては個人の生活態度の改善や社会全体の変革が強調されている。ホセアは、神との愛という内面的契機を重視しつつも、偶像崇拝の除去という点で実際の生活態度の悔い改めも強く迫る。

それに対し、ヨエルは、エピストレフォーではなくメタノイアを強調したと言える。シューヴの思想の歴史の中で、エピストレフォーと区別されたメタノイアの契機を抽出し、強調した最初の預言者?

 

④ 神の霊が万人にそそがれるという預言

儀式や神殿や聖職者を必要とせず、直接各人が神の霊と結びつくという点で、プロテスタントや無教会主義の先駆。

 

⑤ 「主の日」の二重の意味

ヨエルは「主の日」という言葉を以下の二重の意味で用いている。

①近い将来に起こる、あるいは現に起こっている、主が歴史に介入する日。

②終末の審判の日。

前者については二章で、後者については四章で主に言及している。①の意味での使用はアモスにも存在するが、②の意味はダニエルや新約聖書の黙示録を先取りするものと言える。また、二重の意味で使用している点で独特の歴史のとらえ方がある。

 

※ 「ヨエル書の構成」

 

第一部 いなごの襲来 1章1節~2章11

第二部 神への立ち帰り 2章12節~17

第三部 回復と救済 2章18節~3章5

第四部 主の日の審判 4章1節~21

 

・ヨエル書は、四部構成で、起承転結、正確に言えば「起転承結」の緊密な構成となっており、文章もすぐれた修辞や表現に富む。

         

 

Ⅱ、第一部 「いなごの襲来」 (11節~211節) 

 

※ 1:1 「題辞

ヨエル:主は神、ヤハウェが神、という意味の名前。ペトエルについては前述。

 

※ 1:2-3 「体験者による記憶の継承」

未曾有の体験を、子々孫々に伝えることを命じている。 ⇒記憶の継承の大切さ。

(ただし、ヨエル書の「いなご」襲来について、聖書の歴史記述は存在しない。)

 

※ 1:4-20 「いなごの襲来と被害」

 

◆ いなご:英訳locust 正確には、バッタ。サバクトビバッタトノサマバッタ

〈孤独相〉から〈群生相〉に突然変異する。群生相になると、1㎢あたり五千万の個体が群生する場合がある。別名・飛蝗、それによる被害を蝗害といい、古代より中東や中国で猛威を振るい、20世紀に入ってからもアメリカ・中国・フィリピン等で甚大な被害を与えた。

(c.f. パール・バック『大地』⇒同作品でもいなごは悔い改めのきっかけ。)

日本では、享保の大飢饉が、いなごとウンカのために起こったと言われている。(1732年夏に起こった享保の飢饉では、福岡藩の人口の五分の一、約七万人が餓死したと言われる。一説には人口の三分の一が餓死。中洲川端や桜坂、万行寺や徳正寺や顕乗寺などに、享保の飢饉の時に亡くなった人々を供養するための飢え人地蔵と呼ばれる地蔵菩薩像が現存。幕府は福岡藩のために救援米を十三万六千石送ったが、福岡藩は優先的に家中の武士に分け与え、飢えた庶民には五万三千石しか分け与えず、残りの八万三千石の米を人口比率で言えば圧倒的に少ない武士たちだけで独占し、武士は一人も餓死しなかったという。)

 

・聖書においては、いなごは、出エジプト記10章においてエジプトに対する「十災」のひとつとして登場する。また、レビ記11:22では食用可能な昆虫として言及される。

 

・申命記28章15節:「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。」同38節、呪いの実現の一つ:「畑に多くの種を携え出ても、いなごに食い尽くされて、わずかの収穫しか得られない。」

⇒ 古代イスラエルにおいては、いなごの襲来は神の怒りや呪いの実現と考えられていた。

  

・1:4  いなごの四つ種類 (ハバード、48頁)正確には、各種の単語は、はたして「いなご」を意味するのか、あるいは「いなご」だとしてどの成長段階なのか、不明。

ガーザーム:「かみつく」

アルベ:「増やす」

イェレク:「跳び虫・ばった」「なめるもの」

ハーシール:「破壊者」「とどめをさすもの」

(1:4 バルバロ訳「ガザムが残したものは、いなごが食った。/いなごが食い残したものは、エレクが食った。/エレクが食い残したものは、ハジルが食った。」)

 

⇒ いなご、あるいはその他の何かによって、災厄や悪がかみつき、増え、なめつくし、破壊する様子を現している。

・1:5 関根訳「覚めて泣けよ、酒に酔う者」今まで現実を直視していなかった人々が、災難や危機に際してやっと目を覚ますこと。また、現実を直視して目を覚ますことの勧め。

・1:6 「一つの民」:

いなごは本当にいなごなのか、あるいは民族や軍隊の比喩なのか?

(参照:士師記6:5と7:12では、アマレク人など敵対する民族の数の多さを「いなご」のようだと比喩で表現している。)

 

※ 三つの学説

① 1章のいなごと2章のいなごは、共に実際のいなごを意味する。

② 1章のいなごは実際のいなご、2章のいなごは軍隊を意味する。

③ 1章、2章ともに、「いなご」は比喩である。

 

※ ③の比喩説の場合(あるいは②の半分)、いなごは何を意味するか?

1、アッシリア。(ナホム3:15~18では、いなごをアッシリアの比喩に使用。)

2、四つのいなごは、それぞれ、アッシリアバビロニアセレウコス朝シリア、ローマ

3、病気(なんらかの感染症、ペスト、結核など)

4、人の心をむしばみ傷つけ害する言葉や教えや情報(軍国主義、唯物主義、弱肉強食主義、カルト宗教、性的・暴力的な表現の氾濫など)

5、黙示録9章に出てくる、アポリオンから派遣される人間のみを攻撃する「いなご」。(「蝗は無神唯物の文化の霊であり、その毒は偶像崇拝である。」(矢内原忠雄全集9巻467頁)

6、飢え。(物質的・精神的)。

7、飢えや病気や貧困による死。

8、ヨハネ黙示録第六章の白・赤・黒・青の馬(=キリスト・戦争・飢饉・疫病)。

 ⇒ 実際のいなご説と合せて、比喩説をそれぞれの立場で参考にすることは可能。

 

・1:7 「ぶどうの木」・「いちじくの木」

中東における最も重要な果物。比喩としてとらえる場合、ぶどうの木はイスラエル(ホセア10:1、詩編80)。新約においては、ぶどうの木はキリスト(ヨハネ15章)。いちじくは、しばしば律法やバプテスマのヨハネ、あるいはファリサイ人のたとえ。⇒「いなご」の襲来により、新約と旧約の御言葉が危機に瀕する?(アモス書7章、第一の幻と第二の幻)

 

・1:9 「献げ物の穀物とぶどう酒」=「素祭と灌祭」が絶たれたことの意味

素祭:ミンハー。農耕的な供え物。レビ記二章。

灌祭:ぶどう酒を神に捧げた。

ともに、日常的に神の恵みに感謝し、神との関係を持つために行われていた祭儀。のちのキリスト教のミサにおけるパンとぶどう酒に類似。

つまり、「いなご」の襲来の結果、神との通常の交わりを維持することができなくなったことの衝撃と歎きを述べている。10節はその理由としての大地の荒廃が述べられている。

115 「主の日」  (主が歴史に介入する日、時)

ヨエルは、今現在やって来ている「いなご」の襲来という危機において、主が歴史に介入している時間を見ている。その上で、四章における終末の日としての「主の日」を展望している。つまり、終末としての「主の日」を、今現在起こっている「主の日」を通して感じとり、注意を促している。二重の「主の日」の構造となっている。

⇒ 今やって来ている災厄を「主の日」とし、終末の日の「主の日」の部分的な実現と感じとること。

 

・1:18 「なんという呻き家畜はすることか」

動物も戦争や飢饉の際は人間と共に、人間以上に苦しむ。(上野動物園のゾウ、マイケル・モーパーゴ『戦火の馬』、高橋よしひろ銀牙の犬たち』等)

環境汚染においても、動物が真っ先に甚大な被害に苦しんだ。(水俣病の魚、猫等)

 

・1:19、20 「火」・「炎」 ⇒ 2:1~3

諸説あり:旱魃、いなごを燃やすための火、戦火etc.。

 

 

※ 2:-11 「いなごの襲来としての主の日」

 

(一章においては、今現在やって来ている「いなご」の被害について。二章ではこれから近い将来にやってくる「いなご」の被害が描かれている。)

 

・2:3  「いなご」の来襲: エデンの園 ⇒ 荒れ野 (徹底した破壊のイメージ)

 

・2:4―5 「軍馬のように」「戦車のような」:仮にこの「いなご」が軍隊の比喩だとすると、なぜこのような比喩を使っているのか説明がつかないという指摘もある。

 

・2:9 「盗人のように窓から入りこむ」:気付かぬうちに静かに忍び寄る、という意味?病気や放射能、あるいは死そのもの?

 

・2:11 「主の声」:主の意志の実現としての「主の日」

 

・第一部を通して 

・ 非常にリアルな描写。恐怖をかきたてる「いなご」による襲撃の様子の描写。

・ 未曾有の「いなご」の襲来による被害と、その出来事や体験を記憶に留めるべきだという主張、および近い将来にもっと大きなそれらが起こりうることの警告がなされている。

 

 

Ⅲ、第二部 「神への立ち帰り」 (212節~17節) 

 

 

※ 関根訳 21213a 「立ち帰りのことば」(※ヘブライ語原文は末尾に記載)

「しかし今でも遅くない、とヤハウェは言われる、

心をこめてわたしに帰れ、

断食して嘆き悲しめ。

衣でなく心を裂き

君たちの神ヤハウェに帰れよ。」

 

・口語訳:「主は言われる、/「今からでも、あなたがたは心をつくし、/断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。/あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。/あなたがたの神、主に帰れ。」

・文語訳:「されど、エホバ言いたもう、今にても汝ら、断食と哭泣(なげき)と悲哀(かなしみ)とをなし、心をつくして我に帰れ。汝ら衣を裂かずして心を裂き、汝らの神エホバに帰るべし。」

 

・「立ち帰る」(シューヴ)のは、「今」。(人生で一番大切な時は、今と今から。)

・「自分は今までの人生の方向が間違っていたことを認めます。自分は今まで罪につかえこの世につかえ肉の情欲につかえてきたものでありましたが、今日以後はキリストにつかえ神につかえ義につかえてまいります」(矢内原忠雄キリスト教入門』166頁)

・それが外面的なことではなく、内面的なことであるべきこと。

・砕けたる心(詩編34:19、ルカ18章10~14の徴税人。悔い改めの詩編:6、32、38、51、102、130、143)⇒ 自らのこととして悔い改める。「アッタ・ハーイーッシュ」(サムエル記下12:7) ⇒ メタノイアとしてのシューヴ

・「泣き悲しんで」 ⇒ 悲しみがきっかけとなって「立ち帰る」。

神の御心にかなった悲しみ=救いに通じる悔い改め

第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

 

※ 「悲しみ」の意味

矢内原忠雄:「悲しみは永遠の窓であります。悲しみから見た人生に永遠の薫(かおり)があります。この世にこびり着いて離れ難き人の目を、神に向かい永遠に向かって開くものは悲しみであります。悲しみの無い人は俗人であると言って憚りません。もし人の人たることが永遠を慕い、永遠の生命を得ることにありとすれば、悲しみは人生の祝福であります。」(矢内原忠雄「かなしみ」、『矢内原忠雄全集 第十四巻』326頁)

⇒ ヨエルたちは、「いなご」の襲来の悲しみを通じて、メタノイアとしてのシューヴ、つまり永遠に目を転じ、永遠を慕うことができるようになった。

 

・「断食」:ヨナ3:7等。このヨエル書の箇所では、文字通りの断食を意味すると思われる。しかし、のちに「断食」の意味は深められ、イザヤ58やゼカリヤ7章では、形式的な断食ではなく、悪による束縛・くびきを断ち、貧しく苦しんでいる人々を助ける社会正義のことを「断食」と呼んでいる。ヨエルの「断食」をこの意味に受け取れば、アモスやミカと同じ内容にもつながる。後世の我々は断食の意味を広く深く受けとめることも可能。

(政池仁は、「正しき思い、明るい心」で生きることを自らに課すことが「断食」だと神への深い祈りの中で思い至っている。「パラクレートス」290号参照。)

 

※ 他の聖書箇所を踏まえれば、ここでの「悲しみ」は「立ち帰り」のきっかけを、「断食」は「立ち帰り」の結果としての行為を、それぞれ意味していると思われる。

 

※ 213 「主は恵みに満ち・・・」 イスラエルの希望の根拠となる神観

参照:出エジプト34:6‐7

「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」」

 

⇒ この出エジプト記の箇所は、詩編においても、主の恵みを待ち望む根拠となっている。

文語訳・詩篇130:5「我、エホバをまち望む。わが霊魂はまちのぞむ。われはその聖言(みことば)によりて望みをいだく」 その御言葉=出エジプト34:6‐7の上記箇所。

ヨエル2:13も、この箇所を思い起こし、神の「思い直し」を望んでいる。

(神の「思い直し」については、出エジプト32:14やアモス7:3、アモス7:6を参照)

⇒ 「立ち帰り」と、神の慈愛に対する「信頼」は、一組となっている。

※ 214 私が「シューヴ」する(立ち帰る)時に、神も「シューヴ」する?

「あるいは、主が思い直され」=岩波訳「誰が知り得よう、彼が立ち帰り、思い直して、・・・」

 

⇒ 穀物とぶどう酒(素祭と灌祭)、祝福が残る。⇒ 神との通常の交わり、御言葉の回復。

 

・2:15、16 民全体に「立ち帰り」が呼びかけられている。

⇒ 単に個人の内面のみの立ち帰り・悔い改めにとどまらず、民全体・社会全体に悔い改めを呼びかけている。 個人⇒全体のメタノイア。(参照・バプテスマのヨハネ

 

・2:16 「花婿・花嫁」 なぜここに出てくるのか?

古代イスラエルにおいては、新郎は兵役義務や公務を免除されていた。

申命記24章5節:「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」

⇒ したがって、通常はいかなる公務も免除されている人であっても例外なく、集会に集まり、神への立ち帰りに参加せよ、という意味。あるいは、祝い事の自粛を厳しく命じている。厳粛に民族全体で神に立ち帰ることを勧めている。

 

・2:17 主への嘆願 の背景

参照:列王記上8:37~39、歴代誌下6:28~30 では、ソロモンが神に対して、いなご等が発生した場合にも、イスラエルの民が、心に痛みを覚え祈るなら、罪を赦し、こたえてください、と祈っている。

それに対し、ソロモンの夢の中で神が答えて、以下のように語ったとされている。

歴代誌下7:13~14「わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」

⇒ 心の痛み(悔い改めに通じる悲しみ)を持って神に祈れば、必ず神が聴いてくださるという確信。信頼。

 

※ 以上、第二部では、「立ち帰り」について述べられている。

ただし、ここで問題が生じる。第二部と第三部の関係はどうなっているのか?

 

※ 「私が立ち帰ったから、神が思い直してくださる」のか?

・ヨエル書の文章を読むと、一見、人の側の神への立ち帰りが、神の人への「立ち帰り」・「思い直し」をもたらし、第三部でこれから述べるような回復と救済をもたらしたように読める。人が立ち帰れば、神が罰を思い直す(立ち帰る)という構造になっているように読める。(マラキ3:11には、人が立ち帰って立ち帰りにふさわしい行動をすれば、神がいなごを滅ぼすことが述べられている。)

・しかし、ヨエル書には、ホセア書において批判される偶像崇拝や、アモス書やミカ書で批判されている社会の不正義が一切書かれていない。いきなり、いなごの襲来が記されているだけで、前提となる民の側の罪は一切書かれていない。

 

・これから見る第三部にも、別に悔い改めて立ち帰ったから赦された、とは書かれておらず、2:18では、「ヤハウェはご自身の国を熱愛し、その民を憐れまれた。」(岩波訳)とのみ記されてつながっている。

 

・したがって、申命記にあるように、なんらかの神への背きの罰としていなごの襲来があったようにも受けとめることができるが、むしろ、第三部にこれから述べられる祝福を与えるために、神がまず人の側に立ち帰ることを促すために「いなご」(悲しみ)を送ったようにも読める。つまり、罰するためでなく、(悲しみという)祝福をもたらすために。

 

矢内原忠雄:「悲しみの経験ある人でなければ、『悲哀(かなしみ)の人』キリストを知ることはできません。そして永遠の生命を得ることが人生最大の幸福であるとしますれば、キリストを知ることがすなわち最大の幸福なのであります。悲しみはキリストを知る門であります。ですから悲しみは神の恩恵であります。」(前掲書331頁)

 

・ホセア書においては、ホセア11:8―9で、人の側の悔い改めや行いに関係なく、神の側で一方的に人の苦しみを憐れみ心を動かすことと、ホセア13:14で神の側が一方的に人間を死から贖い出すことが宣言されている(新共同訳ではなく関根訳だとその点が明瞭。前々々回「ホセア書を読む」資料参照)。

したがって、ホセア書の次にヨエル書が来ているという配列を重視し、ホセア書の内容を受けてヨエル書を読み解くのであれば、ヨエル書における「立ち帰り」は「罰」の結果ではなく、むしろ神の側の「愛」や「贖い」が先行したものであり、「祝福」であると受けとめることができる。 ※「罰」ではなく「悲しみ」(という祝福)。

 

⇒ まず先に神の側のゆるし、神の愛、神の側からの働きかけがなければ、人は立ち帰ることができないのではないか?(参考:九重集会での川島重成先生の御話。および哀歌5:21)

⇒ 第三章の「神の霊が万人にそそぐ」ことは、記述の順番では「立ち帰り」のあとになるが、実は神の霊がそそいでいるからこそ、立ち帰ることができたのではないか?

※ 上記のことに留意して第三部を読むと・・・。

Ⅳ、第三部 「回復と救済」 (218節~35節) 

 

※ 21827 「豊かさの回復」

 

221 関根訳「地よ、恐れるな、/かえって喜びたのしめ、/まことにヤハウェは大いなることをされた。」

⇒「恐れるな」(アル・ティラ):創世記15:1、イザヤ43:1、エレミヤ30:10、ダニエル10:19、ルカ2:10、ルカ12:7、ルカ12:32、黙示録1:17等)

⇒「喜び踊れ」(ギーリー・ウーセマーヒー、ギルとサマッハ)岩波訳「喜び、歓べ」(英訳(rejoice and glad):詩編2:11、32:11、96:11、97:1、149:2、イザヤ35:1、49:13、65:18、66:10、ゼファニヤ3:14)

「喜びなさい」:マタイ5:12、ルカ10:20、Ⅱコリ13:11、フィリピ2:18、3:1、4:4、Ⅰテサロニケ5:16) ⇒ 一説には、聖書には八百回喜びなさいと書かれている。

⇒ 聖書に通底する「恐れるな」「喜べ」のメッセージがヨエルにも響き渡っている。

 

・損害の何年分も償われる。豊かな大地が回復する。イスラエルのうちに神がいることを人々は知るようになる。いちじくとぶどうの豊かな実りの回復。

・神の愛に満ちた、豊かさに満ちた人生の実現。

・いちじくとぶどうを旧約と新約の御言葉のことと解釈すれば、これらの箇所も、単なる物質的な回復や物質的な祝福ではなく、霊的な意味にも受けとることができる。神に立ち帰ったのち、豊かに御言葉が与えられることと解釈できる。

 

⇒ その証拠のひとつは、2:23における「義の教師」の言及である。

 

・2:23 岩波訳:「…彼はあなたがたに、義に従って秋の雨を与え、あなたがたに冬の雨を、もとのように、秋の雨と春の雨も降らせて下さった。」

口語訳:「主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、」

⇒ 関根訳「間違いなく雨を与え」、フランシスコ訳「救いの雨」。ハモーレ・リツダーカーアラム語訳やヴルガタ訳では、「義の教師」としている。

 

⇒ つまり、この箇所は、「義の教師」が与えられる、という訳が可能。雨が言及される中で唐突だという説もあるが、秋の雨と春の雨=旧約の御言葉と新約の御言葉が与えられるという意味ととれば不自然ではない。(アモス書前々回レジュメ(7章、第一の幻)参照。)

⇒ 「義の教師」はクムラン・エッセネ派死海文書で登場する、メシア的な人物に使われる言葉。

・ただし、この箇所は、物質的な豊かさの回復の意味に受け取っても十分に素晴らしい箇所と思われる。そのうえで、義の教師や精神的な糧も与えられていると受けとめることも可能と思われる。

 

※ 315 「霊的祝福」

 

・すべての人に神の霊がそそがれる。

・誰もが、預言・夢・幻によって神のメッセージを受けることができるようになる。

・奴隷にも神の霊がそそがれる。つまり、身分は一切関係なく、平等である。

⇒ 神と個人の直接的な関係と、万人の平等という驚くべき内容が主張されている。

(神の霊がそそがれる以上、当然「奴隷」も尊い存在ということになる。人権の根拠。)

 

⇒ 使徒行伝2:15~21 ペンテコステに際して、ペテロのヨエル引用

「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。・・・」

(参照:ゼカリヤ12:10においても、聖霊が人々にそそがれることの預言がある。)

 

・3:3 「血と火と煙の柱」 十字架? きのこ雲? 「しるし」

 

・3:5 「主の御名を呼ぶ者は皆救われる」 ⇒ 主を信じてその信仰を告白する人は、主の日においても救われる。残りの者には、逃れ場がある。

 

 

※ 「立ち帰り」と「神の霊のそそぎ」と「御名を呼ぶ」ことの関係はどうなっているのか?

 

・ヨエル書の文章の順序としては、「立ち帰り」→「神の霊のそそぎ」→「御名を呼ぶ」という順番になっている。

しかし、キリストを主と告白し、神を父と呼べるのは、聖霊の働きだと新約は述べている。(フィリピ2:11~13、ガラテヤ4:6)。

それを踏まえれば、むしろ「神の霊のそそぎ」があったからこそ、「立ち帰り」が可能となり、「御名を呼ぶ」ことができるようになったと読むことができる。

もしその読み方をするのであれば、ヨエル書の第二部と第三部、つまり二章十二節以下から三章にかけては、同時に起こっていることと考えることができる。

 ⇒ 立ち帰り・神の霊のそそぎ・御名を呼ぶことは、同時だし、神の働きによる。

Ⅴ、第四部 「主の日の審判」 (41節~21節) 

 

※ 4115 「最後の審判

 

41 岩波訳:「まことに見よ、ユダとエルサレムの囚われ人を帰らせる、その日、その時に、」

(新共同訳「繁栄の回復」が、岩波訳・文語訳だと「帰還」の意味の言葉となっている。)

 

・ヨシャファトの谷:神の審判の谷。エルサレムとオリーブ山の間のケデロンの谷という説もある。 

ディアスポラ、土地が奪われたこと。

・人身売買、奴隷貿易

(参照:アフリカの黒人奴隷。フレデリック・ダグラス自伝には、海外の伝道団体に聖書を寄付するために黒人の赤ん坊を売り払ってお金をつくる南部の奴隷主人についての言及がある。また、朝鮮半島の植民地化や従軍慰安婦などの過去の歴史の罪科を直視しないことを考えれば、日本にとって決して無関係なことではない。)

⇒ 罪は、必ず神によって審判される。   

(罪に対する正義の審判があるという観念の薄いことが日本文化の特徴(吉村孝雄先生))

 

・4:10 「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」 ミカ4:3―5およびイザヤ2:4とちょうど正反対の言葉。

⇒ ミカとイザヤの言葉が、イスラエルの民に言われているのに対し、ヨエルのこの箇所はヨシャファトの谷に集まるイスラエル以外の敵の民たちに対して言われている。挑発的に彼らの敵意や軍国主義を揶揄している表現。したがって、神の本意は、ミカとイザヤの中のヨエルとは正反対の表現の中に、非戦論・平和主義の中に、あると考えられる。

 

・4:13 鎌、刈り入れの時  黙示録14章、マルコ4:29、ルカ10:2、イザヤ63:3

審判。(福音書イザヤ書を踏まえれば、鎌は準備の整った義人の魂を神の国に迎えること、酒ぶねを踏むことが悪に対する審判)

⇒ 黙示録における最後の審判と通底する内容。

 

※ 41621 「救い」

 

・4:18 岩波訳「ヤハウェの家から泉が湧き出て、シッティム(※アカシアの木)の流れを潤す。」

⇒ 主の家から泉が湧き出る。

ヨハネ4:14、エゼキエル47章、ゼカリヤ14:8、雅歌4:15、黙示録7:17、黙示録21:6、黙示録22:1、黙示録22:17 :いのちの水) ⇒ ヨエル書にも通底。

 

※ 421 は、新共同訳の「復讐」とは正反対の意味の諸訳が存在する。「赦し」の意味にこの箇所をそれらの訳は受け取っている。

関根訳「わたしは今まで罪なしとしなかった/彼らの血を罪なきものとしよう。」

・フランシスコ訳脚注(マソラ本文)「わたしは罰しなかった彼らの血を罰しないでおく」

ジェームズ欽定訳:“For I will cleanse their blood that I have not cleansed:”

・New Living Translation “I will pardon my people's crimes, which I have not yet pardoned; "

Naqah=clean。 ここは、新共同訳の「復讐をする」ではなく、むしろ関根訳等のように、罪のゆるしと受け取るべきと思われる。 ⇒ 救い、赦し。

 

※ 上記の解釈に立ち、ヨエル書を救いや赦しに引きつけて読めば、十字架の贖い・キリストへの信仰によって魂にいのちの水が湧きだし、罪がゆるされ、神の霊がそそがれる、ということをヨエル書は預言しているということになる。

(ただし、歴史的に見て、復讐の審判が行われる主の日を希求したものとみることも可能。矢内原忠雄「復讐の神」(全集九巻680頁)=紊乱された神の秩序の回復。)

 

※ いずれにしろ、ヨエル書の第四部では、終りの日にイスラエルの人々が「帰還」し、「最後の審判」がヨシャファトの谷で行われ、主を神だと知った人々には、いのちの水が湧きだすことが明確に描かれている。

 

 

Ⅵ、おわりに 

 

◇ ヨエル書の聖書全体の中での重要性

 

・仮にヨアシュ王時代の預言者だと考えれば、十二小預言者中最古の預言者、最古の記述預言者ということになること。

 

・シューヴ(立ち帰り)の内容において、それまでは外面の行動の重視に力点が置かれていた中で、特に内面における契機を重視し、のちの「メタノイア」につながる内容を説いたこと。

・「主の日」を二重の意味で用い、「最後の審判」の思想を最も早く打ち出していること。

 

・神の霊が万人にそそがれるという、神と個人の直接的関係と万人の平等を明確に預言していること。

 

 

※ ヨエル書から考えたこと:

 

・日本は、敗戦や311、さかのぼれば享保の飢饉などのさまざまな出来事を、ヨエル書が冒頭に述べるようにきちんと記憶を継承し、体験を語り継いできたのか?

 日本は、敗戦においてすら、立ち帰り・悔い改めが不徹底だったのではないか?(昭和四十九年「荒野」第六十一号 白毛子「懺悔と悔改め」参照。)

 

・「主の日」を二重の意味に受けとり、今起こっている問題や災厄から類推して終りの日をリアルに感じ取るという姿勢と、最後の審判において義が貫徹されるという信頼の姿勢の、この二つの姿勢を持つことをヨエル書から学ぶことができるのではないか?特に日本にはこの二点が欠けているのではないか?

 

・神の霊が万人に平等に降るというヨエルの預言は、神と人との直接的な関係と万人の平等を明確に示しており、ルターの万人祭司主義を先取りするものであり、さらには無教会主義の根拠となるものと思われる(矢内原忠雄「一人一教会」)。聖職者や組織を媒介にしなくても、個人は神に直接結びつき、神から救いを受け取ることができるという意味で、ヨエル書は無教会主義の根底をなす。

 

・「断食」を深く広い意味で受けとめて、社会変革の意味だと受けとめるとしても、まずは個人の「悲しみ」の体験にもとづいた切実な神への「立ち帰り」が必要だということがヨエルから学ぶ貴重なメッセージ。「立ち帰り」→「断食」(社会変革)の順番。

 

・ただし、ヨエルの場合、「立ち帰り」が個人に始まるとしても、個人に止まることなく、民族全体に呼びかけられているものであることも注目すべきことと思われる。ヨエルや洗礼者ヨハネ、そして主イエスは、個人の内面の救いや隠遁にとどまらず、「立ち帰り」を広く人々に呼びかけるものであったこともあらためて確認されること。

 

・冒頭がいなごの襲来のため、ヨエルには深刻な悲哀に満ちたイメージが当初はあったが、「立ち帰り」以後の、圧倒的に豊饒な祝福に満ちたイメージこそ、ヨエルの真骨頂と思われる。「悲しみ」は「永遠の窓」であり「祝福」である。

※ ヨエル書 第二章十二~十三節 (立ち帰りのことば)

 

 וּבְמִסְפֵּֽד׃ וּבְבְכִ֖י וּבְצֹ֥ום בְּכָל־לְבַבְכֶ֑ם עָדַ֖י שֻׁ֥בוּ נְאֻם־יְהוָ֔ה וְגַם־עַתָּה֙

וְאַל־בִּגְדֵיכֶ֔ם  לְבַבְכֶם֙ וְקִרְע֤וּ

 

ウェガム・アッター・ネウム・アドナイ・シューヴ・アダイ・ベホーッル・レバッヘム・ウベッソウム・ウビッヒィー・ウビミシュペッド・

ヴェキールー・レバブヘム・ヴェアール・ビグデヘム

 

「しかし今でも遅くない、

ヤハウェは言われる、

心をこめてわたしに帰れ、

断食して嘆き悲しめ。

衣でなく心を裂き

君たちの神ヤハウェに帰れよ。」

 

 

 

 

 

 

「参考文献」

 

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・アラン・ハバード著、安田吉三郎訳『ティンデル聖書注解 ヨエル書、アモス書』いのちのことば社、2008年

・黒崎幸吉編『𦾔約聖書略註 下』、藤本正高「ヨエル書」

・『新聖書註解 旧約4』いのちのことば社鈴木昌「ヨエル書」、1974年

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

矢内原忠雄全集9巻、14巻、岩波書店、1963年

矢内原忠雄キリスト教入門』中公文庫、2012年