ユダヤ教のラビの方の御話 メモ

今日は、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの御話を聞いた。

 

ルツ記の一章と二章の途中までで、とても細かにラビの註解なども参照しつつ御話してくださり、とても面白かった。

 

質疑応答の時に、私も二つ質問した。

 

ひとつは、ルツ記のナオミの詩の中に出てくる、「楽しい」と「苦い」という言葉は、「善」(トーヴ)と「悪」(ラー)とどう関わるのか?

つまり、良いことをすれば楽しいことがあり、悪いことをすれば苦しいことがあろうという観念が多くの地域や宗教であるけれど、聖書においてはこの対応関係はどうなっているのか?

という質問をした。

 

すると、マゴネットさんが言うには、聖書には、良いことと楽しいこと、悪いこととその罰としての苦しいこと、という対応関係は、必ずしもない。

たとえば、雨は、状況によって、良いものにも悪いものにもなるし、人間にとって楽しいものにも苦しいものにもなりうる。

あまり完全にそれらが対応しているとは聖書では考えていない。

たとえば、西欧文化では、白いものは良いもので、黒いものは悪しきものだという観念があり、それが人種の差別などを生み出してきた。

本来は必ずしも正確な対応関係がないものをあまりにも人間の観念が結び付けすぎると、差別や深刻な問題が生じやすい。

という返答だった。

 

ふたつめの質問は、ルツ記一章のナオミの詩は、率直に神に対して不平不満を述べている。

聖書には、他にも、ヨブ記や詩編など、神に対して率直に不平不満を述べている箇所があるが、ルツやヨブや詩編の詩人たちは、どうしてこのように述べることができたのか?

つまり、何が質問したいかというと、一般的な日本人の観念では、神に不平不満を述べると、逆に神を怒らせてしまうという風にも考えやすいのに対し、ユダヤ人はどうしてかくも率直に不平不満を神に述べることができたのか?

不平不満を述べても罰されないという確信があったのか?

という質問をした。

 

それに対するマゴネットさんの答えは、

そのとおりだと思う。

ユダヤ人と神との関係は、いわば家族のこと(ファミリー・ビジネス)である。

親に対して率直に不平不満を言い合えるような、愚痴を言えるような感じで、ユダヤ人は安心して神に不平不満を述べる。

このことに深く関連すると思われるユダヤ・ジョークがあるので、紹介したい。

「ある時に、海辺を乳母車を押したユダヤ人の女性が歩いていると、大きな波が来て、赤ちゃんと乳母車を波がさらっていってしまった。

女性は神に、奇跡を起こして助けてください、と必死に祈った。

すると、波がもどってきて、赤ちゃんが無事に浜辺に打ち上げられて無事だった。

女性は、「ところで、帽子はどこにいったのですか?」と神に尋ねた。」

これがユダヤ人と神との関わりの秘密である。

つまり、奇跡でさえも十分でないと、神様に率直になんでも願い、祈り、不平不満を言うわけですし、そうできるわけである。

もっとも、ユダヤ人の歴史はあまりにも悲劇が多かったので、このような冗談で笑うしかなかったのかもしれない。

それと、もうひとつ考えられるのは、キリスト教では、キリストが神と人間との間に入って人間の罪を購って十字架で死んでくれたと考え、そのキリストが神ですから、あまり神様に文句やわがままを遠慮して言えなくなるのかもしれない。

一方、ユダヤ教では、ユダヤ教徒と神は直接の親子のような関係ですから、遠慮なくものが言えるのだと思う。

とのことだった。

 

とても面白い、有意義な質疑応答ができて感謝だった。

沖縄の戦争の語り部の方の御話

沖縄の戦争の語り部の石原絹子さんの貴重な御話をお聞きする機会があった。

 

石原さんは当時小学一年生で、父・母・兄・妹二人の幸せな家族だったそうである。

しかし、父は兵隊に召集され、のちに戦死したとわかったそうだ。

 

沖縄が戦場になり、具合の悪い母と兄妹たちと一緒に壕の中に逃れて隠れていたところ、日本兵がやって来て、この場で子どもを殺すか壕から出て行くかどちらかにしろと迫られ、子どもを殺されたら生きてはいけないと言って母が子どもたちと壕から出て行くことを決断した。

 

その時、食べ物をすべて置いて行けと言われて、かろうじて持っていた水と塩も置いていった。

 

人の肉片が飛び散る戦場を逃げ惑ううちに、母と兄とはぐれ、やっとの思いで探し出すと、すでに二人とも死んでいた。

 

そして、背中におぶっていた一才の妹も冷たくなって死んでいたことに気付いた。

 

そのあと、すぐ下の妹も、砲弾の破片が胸に刺さって失血が続き、水が欲しいと言いながら亡くなった。

 

もう死にたいと思い倒れていたところを、米軍の衛生兵に救助され、祖母に再会した。

 

祖母は、生きなければならない、私たちがみんなを弔わなければならない、と言った。

 

母は戦争が終わったら幸せな家をまたつくることを、兄は本が好きで医者になることを、すぐ下の妹はお菓子屋さんになることを夢見ていた。

 

といった御話で、聞きながら、涙を禁じ得なかった。

十五年戦争の総決算が沖縄戦だったとおっしゃっていたが、あまりにも悲惨な戦争だったとあらためて思わざるをえなかった。

 

石原さんは、戦争を作り出すのも人間だが、平和を作り出すのも人間であり、戦争をやめるのも人間だとおっしゃっていた。

平和の実現は、すでにできあがっているものではなく、人間の意志や忍耐や叡智でつくりあげていくものだともおっしゃっていた。

正しく伝えることが生き残った者の責務で、過去を学ぶことが将来を見据えることにつながるともおっしゃっていた。

 

そして、伊丹万作の、以下の言葉を引用されていた。

 

「いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかったとしたら、今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまり、だますものだけでは戦争は起らない。

だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そして、だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた、国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。」

 

本当に、重い、忘れてはならぬ思いや言葉の数々と思う。

 

石原さんは最後に、小さな善意の輪を広げて大きくしていくこと、どんな小さなことでも隣人に愛を行うことを、御話されていた。

本当に、今日は貴重な御話を聞くことができて、感謝だった。

御著書も今日手に入れたので、あとでしっかり読もうと思う。

雑感 ユダヤ教について

 

ユダヤ教やユダヤの歴史をいろいろ追っていて、いまいちよくわからないことがある。

 

というのは、キリストの十字架の話である。

 

どうもいまいちよくわからないのは、あれは本当にユダヤ人のしたことだったのだろうか。

 

もちろん、本当にそうした出来事があったのだろうとは思うのだけれど、いまいち、腑に落ちない。

 

というのは、ユダヤ教は中世において事実上死刑制度を廃止していたほど、人の生命を慈しみ大切にする宗教だからである。

しかも裁判に関しては複数の証言を必要とすることを規定するほど、極めて冤罪に対して慎重な法律や文化を持つ人々だった。

 

中世や近代のユダヤ教の教えや説話の数々に触れるたびに、その寛容や知性に驚嘆するばかりで、中世キリスト教の独善性や偏狭さよりはるかに明晰で開かれた豊饒な精神文化を感じる。

 

キリストを十字架にかけたのが、中世のキリスト教徒だったと聞けば、さもありなんと納得のいく気もするのだが、(あるいは近代の原理主義だったと聞くならば納得するのだが)、どうも、中世ユダヤ教や近代のユダヤ系の知識人を見る限り、なんともキリストを十字架にかけたユダヤ人とは似ても似つかないものを感じるのである。

 

新約聖書の中で、中世や近代のユダヤ人に最も近いタイプの人を見いだすとすれば、それはたぶん、ガマリエルだと思う。

ガマリエルがユダヤの人々の先祖だというのは極めて納得がいく。

しかし、カヤパたちはどうにも似ても似つかない気がして首をかしげる。

当時のユダヤ教の人々の中で、ガマリエルのような人々だけが生き残り、そうした人々の系譜がその後続いていったということなのだろうか。

 

あるいは、中世のユダヤ教は、ヨーロッパや中東におけるマイノリティとしての環境の中で生み出されたものであり、マイノリティの場合は人間は謙虚になり鍛えられてすぐれた寛容や知性を持つに至るが、ユダヤほどの人々でも、かつてマジョリティであった時には、時にはキリストの十字架につながるようなメンタリティを持ってしまった時代もあったということなのだろうか。

 

なんともよくわからないが、極めて悲劇的に思うのは、実際はカヤパよりもガマリエルのような人々であった中世や近代のユダヤの人々が、しばしばキリストを十字架にかけたカヤパたちのようなイメージでとらえられて、いわれなき暴力や迫害を受け続けたというのは、なんとも心の痛むことである。

 

あるいは、キリストの十字架の出来事について大胆に想像や妄想を働かせるならば、聖書の記述よりも、はるかにローマのコミットメントがあの出来事にはあったのではないかとも、思ったりもする。

ピラト個人はあのとおりだったのかもしれないが、もっと別にローマの意向や力学が働いたということはなかったのだろうか。

 

とはいえ、十字架の出来事は、やはりあったのだろう。

 

一民族の性格は、しばしば、時の流れや環境の変化によって、著しく変わることもあるのだろうか。

 

奇妙なことだが、中世以降のヨーロッパにおいて、キリストを迫害するユダヤ人たちの姿は、実はユダヤ人ではなくてキリスト教徒が最もよく似ており、ユダヤ人たちがしばしばキリストの受難の似姿となっていたように思う。

 

イザヤ書53章を、ユダヤ人の中には、特定の人物やイエスのことではなくて、ユダヤ民族全体の運命の預言と受けとめる人もいるようだが、それもある意味、あながち的外れではない気もする。

 

 

ユダヤ教のラビの方の御話

先日、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの講演がS大であったので聞きに行ってきた。
テーマはユダヤ教と同性愛についてだった。

一般的に男色の罪で滅ぼされたとされるソドムの物語は、実は聖書の中では必ずしも男色が原因だったかははっきりとせず、そうとも解釈できるが、違うかもしれないこと。

レビ記には男色が死に値する罪と書かれているが、中世のユダヤ教のラビたちは、実際的にはその規定を現実には用いず、事実上死刑を行っていなかったこと。

現代においては、ユダヤ教内部で同性愛についてより寛容な改革的な試みや動きが起こってきたこと。

同性愛に対する偏見や敵意は、しばしば反ユダヤ主義と結託して、ナチスなどのような形で歴史的には生じてきたこと。

神の似姿としていかなる人も造られている以上、同性愛の人もまたそのようにみなすべきであるし、同性愛者とレッテルを貼らず、具体的にひとりの人間としてその人と出会い、その苦労や思いや人生に触れた時に、抽象的なレッテル貼りとは異なる自分の視野が開けること。

などなどの御話だった。

質疑応答の時に、私も拙い英語で、
「なぜユダヤ教のラビたちは中世において、男色に限らずその他のことも含めて、死刑を取り除くように努めたのか、実質的に死刑を廃止するように努め、極めて死刑に対して慎重だったのか。
日本は未だに現代でも死刑制度があるが、中世においてユダヤ教がそのような態度だった理由は何か?」
ということを質問してみた。

それに対するマゴネットさんの答えは、以下のようなものだった。

「大きく二つの理由があると思います。

ひとつは、ユダヤ教のラビたちは中世において、単なる宗教家ではなく、ユダヤ共同体内部の法律や司法の担い手であり、つまり弁護士として自分たちを意識していました。
ですので、弁護士として、具体的な出来事を詳細に検討し、極めて慎重に法を適用するという意識や作法を持っていました。

もう一つの理由は、聖書を全体の精神や他の箇所と照らし合わせて読むというラビの流儀です。
聖書の言葉は神の言葉である以上、極めて問題のあると思われる箇所も、ラビたちは無視することや廃止することはできませんでした。
しかし、ラビたちは、聖書の中にも極めて問題的な箇所があるという意識は強く抱いており、それらの箇所を単に字面だけで受けとめるのではなく、他の聖書の箇所と照らし合わせて解釈することを積み重ねてきました。
つまり、神が慈しみ深い存在である以上、そして神は慈しみ深い存在だとユダヤ教の伝統では受けとめてきたわけですが、そうであるならば、その観点から、あらゆる聖書は読まれるべきだということになります。
したがって、その箇所だけを切り取れば極めて厳しい刑罰や残酷な記述があったとしても、生命を大切にし慈しむという神の精神の観点から、死刑に対して極めて慎重に用心深く対処することになり、実質的にはさまざまな慎重な適用や条件を多数課すということで、実際には全く死刑が行われないという道を開いていきました。
このことについて詳しいことは、また別の機会に御話したいと思います。」

大略、以上のようなものだった。

ディテールを大切にし慎重に法を適用するということと、同時にテキストの全体の主旨や精神を大事にしてその観点から部分を解釈するという中世ユダヤの伝統的な二つの観点は、非常に興味深いし、素晴らしいものと思った。

にしても、もうちょっと英語のリスニングや会話能力を鍛えておかないといけないなぁと今日はあらためて痛感した。
次回はもうちょっと流暢にやりとりができるようにがんばろう。

SEALDsについてのドキュメント映画「わたしの自由について」を見て

昨夜、近くで、SEALDsについてのドキュメント映画「わたしの自由について」が上映されたので、見に行ってきた。

 

明るく楽しそうな様子が印象的だった。

 

「民主主義には声をあげる不断の努力が必要」というメンバーのひとりの奥田さんの言葉も心にのこった。

 

あと、SEALDsの研修(?)で、外国人の先生が、何かを人にインタビューしたり質問することに関して、「ただ単に質問するのではなく、相手に敬意を持つことが大切です。個人としての相手に敬意と関心を持ち、人間として良い関係を築いていこうとすることが、インタビューや質問をするに際して大事な心構えです。」ということを言っていて、なるほどなぁと思った。

 

思うに、SEALDsのメンバーの周囲には、そういうことを教えてくれる、良い大人が今までに多数いたのだろうなぁと思う。

 

奥田さん等のあのスピーチの能力を見ても、一朝一夕に身に着くものではなく、愛真高校などの教育があってのものだったんだろうなぁと思った。

 

若者のひたむきさや楽しそうな様子が、いつの間にやらまぶしく映る年齢に自分もなってしまったようだけれど、こういう若者たちがいた時に、くさしたり居眠りしたりする大人の側ではなく、良い助言やサポートができる側にできれば自分も将来なりたいものだと思った。

 

あと、昨日の会場には、I先生も来られていて、こういう場には欠かさず足を運んでおられるその姿勢に頭が下がる思いがした。

 

高校の先輩のMさんにもばったり会って、しばしいろいろ話して楽しかった。

 

映画の中、もうひとつ心に残ったのは、SEALDsのメンバーの若者のひとりが、「平和こそが誇り」だということを述べていたことだった。

 

平和を守っていくには、それぞれの人が自分の日常生活をしっかり築いて守っていくことと、なんらかの特別な場において声をあげていくことと、両方大切なのだろうけれど、いずれの立場においても平和を誇りに思う、そうした感性は、とても大事なのではないかと思った。

 

この先、昨年の夏に盛り上がったこうした思いや流れが、どうなっていくのかはわからないけれど、平和を誇りに思い、憶せずに声をあげる心は、いろいろ形を変えながらも、絶えることなく続いていって欲しいものだと思った。

 

http://www.about-my-liberty.com/

雑感 イスラムとキリスト教について

 

イスラムについて語ることができるほどイスラムについて私は詳しくないのだけれど、若干の思考の整理のためにキリスト教と比較してみたい。

 

私が実際に接したことがある限り、イスラムは大変素晴らしい。

日本には、歴史的に見た場合、イスラムはあまりなじみがないのだけれど、最近はだいぶモスクもできたみたいだし、ムスリムも増えてきたようである。

ほんの少しの範囲だが、私が実際に接したムスリムの人々は、とても誠実で知的で寛大で優しい印象を受ける。

 

特に、ムスリムのすぐれた点は、その対話や問答の能力である。

もちろん、すべてのムスリムがそうだというわけではないのだろうけれど、私がいろんな質問をさせてもらった神学者の人々は、誰も非常に明晰な知恵の持ち主だった。

 

それに、イスラムの良いところと思われるのは、信者間の平等が徹底していそうなところである。

文字通り、あらゆる人種や民族の人々が、仲睦まじくフレンドリーにオープンに接しているのを見ると、イスラムってのは大したものだなぁと感じる。

 

徹底した一神教という点でも、合理的でとても好ましく思われる。

 

では、キリスト教と比較した場合、どこが異なるのだろうか。

 

これは言うまでもなく、キリストの贖いの有無だろう。

 

おそらく、キリストの贖いの有無という違いを除けば、キリスト教イスラムはそれほど違いはなく、むしろ共通点が多い気がする。

一神教だし、聖書の預言者の多くを尊重している点も同じである。

同じく、ユダヤ教から派生したという歴史を持っている。

唯一の神との人格的応答という特徴を持っている点で、人類の歴史の中で言えば、キリスト教イスラムはその母体のユダヤ教とともに稀有なものであるし、ユダヤ教が少数の民族の範囲にとどまったのに対し、一神教を世界中に広めたという点で、キリスト教イスラムは双璧であろう。

それに、イスラムにおいても、イエスはキリスト(メシア)ではないとしても、預言者としては極めて尊敬されている。

 

しかし、決定的にキリスト教イスラムが異なるのは、キリストの贖いの有無である。

イエスは、イスラムにおいてはあくまで預言者であり、人間に過ぎない。

イスラムにおいては、神と人間の仲保者はおらず、各自が直接神と結びついているとされる。

それに対し、キリスト教では、キリストの贖いにおいてはじめて人間は神と和解し、神の前に義とされると考える。

キリスト教においては、キリストは単なる預言者ではなく、十字架の贖いにおいて万人の救いの道を開いた、神の御子であり、神そのものである。

 

思うに、あまり罪の意識が存在しないと言われる日本においては、実はキリスト教よりイスラムの方が相性が良いのではないかと思われる。

キリストの十字架の贖いや原罪についてはよくわからないが一神教が正しいと思う人はしばしばいるようだけれど、そういう人は、イスラムだったらフィットするのではなかろうか。

 

実は、私も、はたして自分が十字架の贖いや原罪というものが、どれほど自分がわかっているのか、非常にあやふやである。

ともすれば、実は自分はあんまりわかっていないのではないかと思われる。

 

というのは、多くの日本人の御他聞にもれず、私も、それほど自分が悪人とは思わないし、むしろ良い人間なのではないかと思って生きている気がする。

それほど立派かどうかは別にして、そこそこ良い部類で、お天道様に恥じることはないような気がする。

たまに落ち込んだ時は自分は悪人だと思うこともあるが、また忘れて、ほどほど良い人間のつもりで生きている。

原罪というのも、わかったようなわからないような、落ち込んだ時は真剣にわかったような気になるが、そうでない時はほとんど忘れていることではある。

 

それでは、私はキリスト教を捨てて、イスラムに帰依するべきなのか、帰依できるのか、というと、どうもそうでもない気がする。

 

十字架の贖いや原罪がはっきりわからないとしても、何かしら、そこに真実があるような気はする。

それに何より、この世の中で本当に信じることができるのは、キリストの愛だけだという気がする。

十字架が贖いなのかどうかは、いまいちはっきりわからないほどに信仰があやふやな私ではあるが、十字架が愛の極致であることは疑いなくはっきりわかる。

そして、とかく愛にそむいて生きている自分が、十字架を思うたびに、生き方をはっと省みさせられる、そのつど翻えさせられるのも、まぎれもない事実と思う。

キリストを通じてのみ、神の全き愛に触れることができ、神の心とは何かということを知ることができる。

 

だが、そうは思うのだけれど、あまり罪が深くなく、悩みも深刻ではない人は、おおらかなイスラムで十分に救われるような気がする。

キリスト教でなければ人は決して救われないかどうかは、私は正直よくわからない。

おそらく、ムスリムの多くの人は、さほど悩みもなく、おおらかに良く生きていけるような気がする。

 

ただ、私がイスラムで救われるかどうかは、これまた正直よくわからない。

案外と、その道にどっぷりつかれば、救いやよろこびはあるのかもしれない。

ただ、いろんな縁で、自分の場合はキリスト教だったというまでのことだし、キリストがいてくれて良かったなぁと思う。

それはたぶん、自分の煩悩が深いからと思う。

原罪というといまいちピンとこず、よくわからなくなるが、イスラムでは救われない程度に自分が煩悩の多い人間だと考えると、なぜ自分がイスラムではなくてキリスト教なのか、よくわかる気がしてくる。

 

思うに、アラブやアフリカの人は、一般的にまともでおおらかな人が多く、そこまで煩悩が深くなかったのではなかろうか。

一方、欧米は、極めて性質の悪い人間や煩悩の多い人間が多く、尋常一様では救われないだけの悪性常にやみがたい人が多かったため、キリスト教が広まったような気もする。

 

そうこう考えると、仮に観無量寿経の上品と中品と下品の三品、あるいは九品でたとえるならば、ユダヤ教が上品あるいは上品上生の人に向けた道で、イスラムが中品あるいは中品上生や中品中生に向けた教え、そしてキリスト教は下品、ないし下品下生に向けた道ということになろうか。

 

どうもそう考えると、よくわかる気がする。

ユダヤの613の戒をすべて守るのはなかなか難行であろうし、イスラムの六信五行はユダヤほど難しくもなく並みの人ならば守ることができるのかもしれないが、並みであることは必ずしもすべての人には難しいことだろう。

一方、キリストの贖いの無条件の救いによって、はじめて救われる人も多いだろう。

特に、物質文明にどっぷりつかった末法の欧米や日本においては。

 

 

佐々木征夫 『草平君の選んだ学校 愛真高校日誌』を読んで

 

佐々木征夫著『草平君の選んだ学校 愛真高校日誌』という本を読んだ。

島根県にある少人数教育を徹底する、キリスト教にもとづいたユニークな教育を行う小さな高校、愛真高校について取材した本である。

 

なんといえばいいのか、今の日本が忘れてしまった大切なものが、この学校の教育と、この学校に関わっている人々にはあるとひしひしと感じさせられた。

とても読みやすい、わかりやすい文章で、深いメッセージの数々に、この本を読んでいて、率直に、感動させられた。

 

この本の中に出てくる当時の愛真高校の校長先生をされていた先生には、私も以前直接お会いしたことがあり、本当に誠実な暖かな御人柄と風格を存じ上げているのだけれど、この本を読んであらためて、本当にすばらしい方だなぁと思った。

また、この本の中に出てくる、愛真高校の姉妹校の独立学園の卒業生のある方にも、直接お会いしたことがありかねてより敬愛していたけれど、今まで知らなかったエピソードがこの本にいくつか載っていて、そうだったのかとあらためて尊敬させられた。

 

この本の中で紹介されていた、桝本華子先生の、お孫さん達への遺言の、

 

「立派な人にならなくてもいいから、真実に生きる人になって欲しい。

有名な人にならなくてもいいから、どんな人にもやさしい人になって欲しい。

金持ちにならなくてもいいから、貧しい人の友となって欲しい。

そして最後に、人を赦せる人になって欲しい」

 

という言葉は、胸打たれた。

 

また、佐藤理事長の、

 

「人間の中には、神から与えられた素晴らしいものがあること。

百歳にして童心を失わないような生き方をして欲しいこと。

この世は究極的には善と、正義と、美の勝利で終わること。

そしてそのためには“犠牲”が必要であること」

 

というメッセージも、考えさせられた。

 

創立者の高橋三郎先生の、

 

「人との優劣を競ったり、人の評価によって上下の差別をするようなことは、一切いたしません。

みんな、神様にとってかけがえのない子どもですから“互いに尊重し合う”」

 

という精神は、本当に貴重と思う。

 

世の腐敗を防ぐ“地の塩”を育てる教育を実践している、本当に貴重な学校だとこの本を読んでいて思われた。

縁がなくて自分は行くことができなかったが、機会があれば、自分の身の周りの人に勧めてあげたいと思う。

 

人は何のために生きるか。

平和をつくり、貧困をなくすため。

何のために勉強をするのか。

他の人々を幸せにするため。

 

そう思える子どもたちを育てることができる場所が、愛真高校以外にも、日本中に増えて欲しいと思う。

 

 

 

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