イスラムについて語ることができるほどイスラムについて私は詳しくないのだけれど、若干の思考の整理のためにキリスト教と比較してみたい。
私が実際に接したことがある限り、イスラムは大変素晴らしい。
日本には、歴史的に見た場合、イスラムはあまりなじみがないのだけれど、最近はだいぶモスクもできたみたいだし、ムスリムも増えてきたようである。
ほんの少しの範囲だが、私が実際に接したムスリムの人々は、とても誠実で知的で寛大で優しい印象を受ける。
特に、ムスリムのすぐれた点は、その対話や問答の能力である。
もちろん、すべてのムスリムがそうだというわけではないのだろうけれど、私がいろんな質問をさせてもらった神学者の人々は、誰も非常に明晰な知恵の持ち主だった。
それに、イスラムの良いところと思われるのは、信者間の平等が徹底していそうなところである。
文字通り、あらゆる人種や民族の人々が、仲睦まじくフレンドリーにオープンに接しているのを見ると、イスラムってのは大したものだなぁと感じる。
徹底した一神教という点でも、合理的でとても好ましく思われる。
では、キリスト教と比較した場合、どこが異なるのだろうか。
これは言うまでもなく、キリストの贖いの有無だろう。
おそらく、キリストの贖いの有無という違いを除けば、キリスト教とイスラムはそれほど違いはなく、むしろ共通点が多い気がする。
一神教だし、聖書の預言者の多くを尊重している点も同じである。
同じく、ユダヤ教から派生したという歴史を持っている。
唯一の神との人格的応答という特徴を持っている点で、人類の歴史の中で言えば、キリスト教とイスラムはその母体のユダヤ教とともに稀有なものであるし、ユダヤ教が少数の民族の範囲にとどまったのに対し、一神教を世界中に広めたという点で、キリスト教とイスラムは双璧であろう。
それに、イスラムにおいても、イエスはキリスト(メシア)ではないとしても、預言者としては極めて尊敬されている。
しかし、決定的にキリスト教とイスラムが異なるのは、キリストの贖いの有無である。
イエスは、イスラムにおいてはあくまで預言者であり、人間に過ぎない。
イスラムにおいては、神と人間の仲保者はおらず、各自が直接神と結びついているとされる。
それに対し、キリスト教では、キリストの贖いにおいてはじめて人間は神と和解し、神の前に義とされると考える。
キリスト教においては、キリストは単なる預言者ではなく、十字架の贖いにおいて万人の救いの道を開いた、神の御子であり、神そのものである。
思うに、あまり罪の意識が存在しないと言われる日本においては、実はキリスト教よりイスラムの方が相性が良いのではないかと思われる。
キリストの十字架の贖いや原罪についてはよくわからないが一神教が正しいと思う人はしばしばいるようだけれど、そういう人は、イスラムだったらフィットするのではなかろうか。
実は、私も、はたして自分が十字架の贖いや原罪というものが、どれほど自分がわかっているのか、非常にあやふやである。
ともすれば、実は自分はあんまりわかっていないのではないかと思われる。
というのは、多くの日本人の御他聞にもれず、私も、それほど自分が悪人とは思わないし、むしろ良い人間なのではないかと思って生きている気がする。
それほど立派かどうかは別にして、そこそこ良い部類で、お天道様に恥じることはないような気がする。
たまに落ち込んだ時は自分は悪人だと思うこともあるが、また忘れて、ほどほど良い人間のつもりで生きている。
原罪というのも、わかったようなわからないような、落ち込んだ時は真剣にわかったような気になるが、そうでない時はほとんど忘れていることではある。
それでは、私はキリスト教を捨てて、イスラムに帰依するべきなのか、帰依できるのか、というと、どうもそうでもない気がする。
十字架の贖いや原罪がはっきりわからないとしても、何かしら、そこに真実があるような気はする。
それに何より、この世の中で本当に信じることができるのは、キリストの愛だけだという気がする。
十字架が贖いなのかどうかは、いまいちはっきりわからないほどに信仰があやふやな私ではあるが、十字架が愛の極致であることは疑いなくはっきりわかる。
そして、とかく愛にそむいて生きている自分が、十字架を思うたびに、生き方をはっと省みさせられる、そのつど翻えさせられるのも、まぎれもない事実と思う。
キリストを通じてのみ、神の全き愛に触れることができ、神の心とは何かということを知ることができる。
だが、そうは思うのだけれど、あまり罪が深くなく、悩みも深刻ではない人は、おおらかなイスラムで十分に救われるような気がする。
キリスト教でなければ人は決して救われないかどうかは、私は正直よくわからない。
おそらく、ムスリムの多くの人は、さほど悩みもなく、おおらかに良く生きていけるような気がする。
ただ、私がイスラムで救われるかどうかは、これまた正直よくわからない。
案外と、その道にどっぷりつかれば、救いやよろこびはあるのかもしれない。
ただ、いろんな縁で、自分の場合はキリスト教だったというまでのことだし、キリストがいてくれて良かったなぁと思う。
それはたぶん、自分の煩悩が深いからと思う。
原罪というといまいちピンとこず、よくわからなくなるが、イスラムでは救われない程度に自分が煩悩の多い人間だと考えると、なぜ自分がイスラムではなくてキリスト教なのか、よくわかる気がしてくる。
思うに、アラブやアフリカの人は、一般的にまともでおおらかな人が多く、そこまで煩悩が深くなかったのではなかろうか。
一方、欧米は、極めて性質の悪い人間や煩悩の多い人間が多く、尋常一様では救われないだけの悪性常にやみがたい人が多かったため、キリスト教が広まったような気もする。
そうこう考えると、仮に観無量寿経の上品と中品と下品の三品、あるいは九品でたとえるならば、ユダヤ教が上品あるいは上品上生の人に向けた道で、イスラムが中品あるいは中品上生や中品中生に向けた教え、そしてキリスト教は下品、ないし下品下生に向けた道ということになろうか。
どうもそう考えると、よくわかる気がする。
ユダヤの613の戒をすべて守るのはなかなか難行であろうし、イスラムの六信五行はユダヤほど難しくもなく並みの人ならば守ることができるのかもしれないが、並みであることは必ずしもすべての人には難しいことだろう。
一方、キリストの贖いの無条件の救いによって、はじめて救われる人も多いだろう。
特に、物質文明にどっぷりつかった末法の欧米や日本においては。