今日は、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの御話を聞いた。
ルツ記の一章と二章の途中までで、とても細かにラビの註解なども参照しつつ御話してくださり、とても面白かった。
質疑応答の時に、私も二つ質問した。
ひとつは、ルツ記のナオミの詩の中に出てくる、「楽しい」と「苦い」という言葉は、「善」(トーヴ)と「悪」(ラー)とどう関わるのか?
つまり、良いことをすれば楽しいことがあり、悪いことをすれば苦しいことがあろうという観念が多くの地域や宗教であるけれど、聖書においてはこの対応関係はどうなっているのか?
という質問をした。
すると、マゴネットさんが言うには、聖書には、良いことと楽しいこと、悪いこととその罰としての苦しいこと、という対応関係は、必ずしもない。
たとえば、雨は、状況によって、良いものにも悪いものにもなるし、人間にとって楽しいものにも苦しいものにもなりうる。
あまり完全にそれらが対応しているとは聖書では考えていない。
たとえば、西欧文化では、白いものは良いもので、黒いものは悪しきものだという観念があり、それが人種の差別などを生み出してきた。
本来は必ずしも正確な対応関係がないものをあまりにも人間の観念が結び付けすぎると、差別や深刻な問題が生じやすい。
という返答だった。
ふたつめの質問は、ルツ記一章のナオミの詩は、率直に神に対して不平不満を述べている。
聖書には、他にも、ヨブ記や詩編など、神に対して率直に不平不満を述べている箇所があるが、ルツやヨブや詩編の詩人たちは、どうしてこのように述べることができたのか?
つまり、何が質問したいかというと、一般的な日本人の観念では、神に不平不満を述べると、逆に神を怒らせてしまうという風にも考えやすいのに対し、ユダヤ人はどうしてかくも率直に不平不満を神に述べることができたのか?
不平不満を述べても罰されないという確信があったのか?
という質問をした。
それに対するマゴネットさんの答えは、
そのとおりだと思う。
ユダヤ人と神との関係は、いわば家族のこと(ファミリー・ビジネス)である。
親に対して率直に不平不満を言い合えるような、愚痴を言えるような感じで、ユダヤ人は安心して神に不平不満を述べる。
このことに深く関連すると思われるユダヤ・ジョークがあるので、紹介したい。
「ある時に、海辺を乳母車を押したユダヤ人の女性が歩いていると、大きな波が来て、赤ちゃんと乳母車を波がさらっていってしまった。
女性は神に、奇跡を起こして助けてください、と必死に祈った。
すると、波がもどってきて、赤ちゃんが無事に浜辺に打ち上げられて無事だった。
女性は、「ところで、帽子はどこにいったのですか?」と神に尋ねた。」
これがユダヤ人と神との関わりの秘密である。
つまり、奇跡でさえも十分でないと、神様に率直になんでも願い、祈り、不平不満を言うわけですし、そうできるわけである。
もっとも、ユダヤ人の歴史はあまりにも悲劇が多かったので、このような冗談で笑うしかなかったのかもしれない。
それと、もうひとつ考えられるのは、キリスト教では、キリストが神と人間との間に入って人間の罪を購って十字架で死んでくれたと考え、そのキリストが神ですから、あまり神様に文句やわがままを遠慮して言えなくなるのかもしれない。
一方、ユダヤ教では、ユダヤ教徒と神は直接の親子のような関係ですから、遠慮なくものが言えるのだと思う。
とのことだった。
とても面白い、有意義な質疑応答ができて感謝だった。