SEALDsについてのドキュメント映画「わたしの自由について」を見て

昨夜、近くで、SEALDsについてのドキュメント映画「わたしの自由について」が上映されたので、見に行ってきた。

 

明るく楽しそうな様子が印象的だった。

 

「民主主義には声をあげる不断の努力が必要」というメンバーのひとりの奥田さんの言葉も心にのこった。

 

あと、SEALDsの研修(?)で、外国人の先生が、何かを人にインタビューしたり質問することに関して、「ただ単に質問するのではなく、相手に敬意を持つことが大切です。個人としての相手に敬意と関心を持ち、人間として良い関係を築いていこうとすることが、インタビューや質問をするに際して大事な心構えです。」ということを言っていて、なるほどなぁと思った。

 

思うに、SEALDsのメンバーの周囲には、そういうことを教えてくれる、良い大人が今までに多数いたのだろうなぁと思う。

 

奥田さん等のあのスピーチの能力を見ても、一朝一夕に身に着くものではなく、愛真高校などの教育があってのものだったんだろうなぁと思った。

 

若者のひたむきさや楽しそうな様子が、いつの間にやらまぶしく映る年齢に自分もなってしまったようだけれど、こういう若者たちがいた時に、くさしたり居眠りしたりする大人の側ではなく、良い助言やサポートができる側にできれば自分も将来なりたいものだと思った。

 

あと、昨日の会場には、I先生も来られていて、こういう場には欠かさず足を運んでおられるその姿勢に頭が下がる思いがした。

 

高校の先輩のMさんにもばったり会って、しばしいろいろ話して楽しかった。

 

映画の中、もうひとつ心に残ったのは、SEALDsのメンバーの若者のひとりが、「平和こそが誇り」だということを述べていたことだった。

 

平和を守っていくには、それぞれの人が自分の日常生活をしっかり築いて守っていくことと、なんらかの特別な場において声をあげていくことと、両方大切なのだろうけれど、いずれの立場においても平和を誇りに思う、そうした感性は、とても大事なのではないかと思った。

 

この先、昨年の夏に盛り上がったこうした思いや流れが、どうなっていくのかはわからないけれど、平和を誇りに思い、憶せずに声をあげる心は、いろいろ形を変えながらも、絶えることなく続いていって欲しいものだと思った。

 

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雑感 イスラムとキリスト教について

 

イスラムについて語ることができるほどイスラムについて私は詳しくないのだけれど、若干の思考の整理のためにキリスト教と比較してみたい。

 

私が実際に接したことがある限り、イスラムは大変素晴らしい。

日本には、歴史的に見た場合、イスラムはあまりなじみがないのだけれど、最近はだいぶモスクもできたみたいだし、ムスリムも増えてきたようである。

ほんの少しの範囲だが、私が実際に接したムスリムの人々は、とても誠実で知的で寛大で優しい印象を受ける。

 

特に、ムスリムのすぐれた点は、その対話や問答の能力である。

もちろん、すべてのムスリムがそうだというわけではないのだろうけれど、私がいろんな質問をさせてもらった神学者の人々は、誰も非常に明晰な知恵の持ち主だった。

 

それに、イスラムの良いところと思われるのは、信者間の平等が徹底していそうなところである。

文字通り、あらゆる人種や民族の人々が、仲睦まじくフレンドリーにオープンに接しているのを見ると、イスラムってのは大したものだなぁと感じる。

 

徹底した一神教という点でも、合理的でとても好ましく思われる。

 

では、キリスト教と比較した場合、どこが異なるのだろうか。

 

これは言うまでもなく、キリストの贖いの有無だろう。

 

おそらく、キリストの贖いの有無という違いを除けば、キリスト教イスラムはそれほど違いはなく、むしろ共通点が多い気がする。

一神教だし、聖書の預言者の多くを尊重している点も同じである。

同じく、ユダヤ教から派生したという歴史を持っている。

唯一の神との人格的応答という特徴を持っている点で、人類の歴史の中で言えば、キリスト教イスラムはその母体のユダヤ教とともに稀有なものであるし、ユダヤ教が少数の民族の範囲にとどまったのに対し、一神教を世界中に広めたという点で、キリスト教イスラムは双璧であろう。

それに、イスラムにおいても、イエスはキリスト(メシア)ではないとしても、預言者としては極めて尊敬されている。

 

しかし、決定的にキリスト教イスラムが異なるのは、キリストの贖いの有無である。

イエスは、イスラムにおいてはあくまで預言者であり、人間に過ぎない。

イスラムにおいては、神と人間の仲保者はおらず、各自が直接神と結びついているとされる。

それに対し、キリスト教では、キリストの贖いにおいてはじめて人間は神と和解し、神の前に義とされると考える。

キリスト教においては、キリストは単なる預言者ではなく、十字架の贖いにおいて万人の救いの道を開いた、神の御子であり、神そのものである。

 

思うに、あまり罪の意識が存在しないと言われる日本においては、実はキリスト教よりイスラムの方が相性が良いのではないかと思われる。

キリストの十字架の贖いや原罪についてはよくわからないが一神教が正しいと思う人はしばしばいるようだけれど、そういう人は、イスラムだったらフィットするのではなかろうか。

 

実は、私も、はたして自分が十字架の贖いや原罪というものが、どれほど自分がわかっているのか、非常にあやふやである。

ともすれば、実は自分はあんまりわかっていないのではないかと思われる。

 

というのは、多くの日本人の御他聞にもれず、私も、それほど自分が悪人とは思わないし、むしろ良い人間なのではないかと思って生きている気がする。

それほど立派かどうかは別にして、そこそこ良い部類で、お天道様に恥じることはないような気がする。

たまに落ち込んだ時は自分は悪人だと思うこともあるが、また忘れて、ほどほど良い人間のつもりで生きている。

原罪というのも、わかったようなわからないような、落ち込んだ時は真剣にわかったような気になるが、そうでない時はほとんど忘れていることではある。

 

それでは、私はキリスト教を捨てて、イスラムに帰依するべきなのか、帰依できるのか、というと、どうもそうでもない気がする。

 

十字架の贖いや原罪がはっきりわからないとしても、何かしら、そこに真実があるような気はする。

それに何より、この世の中で本当に信じることができるのは、キリストの愛だけだという気がする。

十字架が贖いなのかどうかは、いまいちはっきりわからないほどに信仰があやふやな私ではあるが、十字架が愛の極致であることは疑いなくはっきりわかる。

そして、とかく愛にそむいて生きている自分が、十字架を思うたびに、生き方をはっと省みさせられる、そのつど翻えさせられるのも、まぎれもない事実と思う。

キリストを通じてのみ、神の全き愛に触れることができ、神の心とは何かということを知ることができる。

 

だが、そうは思うのだけれど、あまり罪が深くなく、悩みも深刻ではない人は、おおらかなイスラムで十分に救われるような気がする。

キリスト教でなければ人は決して救われないかどうかは、私は正直よくわからない。

おそらく、ムスリムの多くの人は、さほど悩みもなく、おおらかに良く生きていけるような気がする。

 

ただ、私がイスラムで救われるかどうかは、これまた正直よくわからない。

案外と、その道にどっぷりつかれば、救いやよろこびはあるのかもしれない。

ただ、いろんな縁で、自分の場合はキリスト教だったというまでのことだし、キリストがいてくれて良かったなぁと思う。

それはたぶん、自分の煩悩が深いからと思う。

原罪というといまいちピンとこず、よくわからなくなるが、イスラムでは救われない程度に自分が煩悩の多い人間だと考えると、なぜ自分がイスラムではなくてキリスト教なのか、よくわかる気がしてくる。

 

思うに、アラブやアフリカの人は、一般的にまともでおおらかな人が多く、そこまで煩悩が深くなかったのではなかろうか。

一方、欧米は、極めて性質の悪い人間や煩悩の多い人間が多く、尋常一様では救われないだけの悪性常にやみがたい人が多かったため、キリスト教が広まったような気もする。

 

そうこう考えると、仮に観無量寿経の上品と中品と下品の三品、あるいは九品でたとえるならば、ユダヤ教が上品あるいは上品上生の人に向けた道で、イスラムが中品あるいは中品上生や中品中生に向けた教え、そしてキリスト教は下品、ないし下品下生に向けた道ということになろうか。

 

どうもそう考えると、よくわかる気がする。

ユダヤの613の戒をすべて守るのはなかなか難行であろうし、イスラムの六信五行はユダヤほど難しくもなく並みの人ならば守ることができるのかもしれないが、並みであることは必ずしもすべての人には難しいことだろう。

一方、キリストの贖いの無条件の救いによって、はじめて救われる人も多いだろう。

特に、物質文明にどっぷりつかった末法の欧米や日本においては。

 

 

佐々木征夫 『草平君の選んだ学校 愛真高校日誌』を読んで

 

佐々木征夫著『草平君の選んだ学校 愛真高校日誌』という本を読んだ。

島根県にある少人数教育を徹底する、キリスト教にもとづいたユニークな教育を行う小さな高校、愛真高校について取材した本である。

 

なんといえばいいのか、今の日本が忘れてしまった大切なものが、この学校の教育と、この学校に関わっている人々にはあるとひしひしと感じさせられた。

とても読みやすい、わかりやすい文章で、深いメッセージの数々に、この本を読んでいて、率直に、感動させられた。

 

この本の中に出てくる当時の愛真高校の校長先生をされていた先生には、私も以前直接お会いしたことがあり、本当に誠実な暖かな御人柄と風格を存じ上げているのだけれど、この本を読んであらためて、本当にすばらしい方だなぁと思った。

また、この本の中に出てくる、愛真高校の姉妹校の独立学園の卒業生のある方にも、直接お会いしたことがありかねてより敬愛していたけれど、今まで知らなかったエピソードがこの本にいくつか載っていて、そうだったのかとあらためて尊敬させられた。

 

この本の中で紹介されていた、桝本華子先生の、お孫さん達への遺言の、

 

「立派な人にならなくてもいいから、真実に生きる人になって欲しい。

有名な人にならなくてもいいから、どんな人にもやさしい人になって欲しい。

金持ちにならなくてもいいから、貧しい人の友となって欲しい。

そして最後に、人を赦せる人になって欲しい」

 

という言葉は、胸打たれた。

 

また、佐藤理事長の、

 

「人間の中には、神から与えられた素晴らしいものがあること。

百歳にして童心を失わないような生き方をして欲しいこと。

この世は究極的には善と、正義と、美の勝利で終わること。

そしてそのためには“犠牲”が必要であること」

 

というメッセージも、考えさせられた。

 

創立者の高橋三郎先生の、

 

「人との優劣を競ったり、人の評価によって上下の差別をするようなことは、一切いたしません。

みんな、神様にとってかけがえのない子どもですから“互いに尊重し合う”」

 

という精神は、本当に貴重と思う。

 

世の腐敗を防ぐ“地の塩”を育てる教育を実践している、本当に貴重な学校だとこの本を読んでいて思われた。

縁がなくて自分は行くことができなかったが、機会があれば、自分の身の周りの人に勧めてあげたいと思う。

 

人は何のために生きるか。

平和をつくり、貧困をなくすため。

何のために勉強をするのか。

他の人々を幸せにするため。

 

そう思える子どもたちを育てることができる場所が、愛真高校以外にも、日本中に増えて欲しいと思う。

 

 

 

草平君の選んだ学校―愛真高校日誌 | 佐々木 征夫 | 本 | Amazon.co.jp


イフタールの夕食会

今日は、イフタールの夕食会のお誘いのメールをNさんよりいただいていたので、行ってきた。

イフタールというのは、イスラムの断食明けのことで、その時の夕食会はムスリムにとってとても大切な喜びだそうである。

今日のイフタールは一般の人向けに、大きな会場で行われていた。

 

記念の講演として、Oさんという日本人でムスリムの方がラマダーンについて御話してくださり、それも興味深かった。

ラマダーンは第九の月という意味で、断食に相当する言葉はサウムというそうである。

また、サウムは正確に言えば、断食のみでなく、断水や争いをやめることや性行為の禁欲も含めるそうで、「斎戒」と訳す方が適切だそうだ。

サウムによって、イスラムは、食べなければお腹が減るし、日没の後に食事する時にはとてもよろこびを感じるという、人間の原点にラマダーンの時期に立ち帰り、人種や民族を超えてその点で深い連帯や絆を実感するそうである。

 

質疑応答の時間もあり、ある方がOさんに、「なぜ神はシリアの難民問題などを放置するのか、この世に神がいるならばあの難民問題どう受けとめれば良いのか?」というなかなかヘビーな質問をされて、それに対するOさんの答えは、とても興味深かった。

大略、以下のような御話だった。

 

「ある何冊かの著作もあるキリスト教徒の人は、同様の疑問を持ち、結局、世界の不条理な問題に対して神は何をしているのかということに絶望し、キリスト教の信仰を捨ててしまったという話を聞いたことがあります。

この問題に対して、イスラムでは、このように考えます。

イスラムでは、ラマダーンの断食(サウム)も、収入の2.5%を必ず共同体や貧しい人のために用いるというザカート(喜捨)も、どちらも人間はお互いに助け合うべきだという理念に基づいて行われています。

つまり、人間は自分のためだけでなく、お互いに助け合うべく創造されており、そして本来は、この世界は十分豊かなすばらしいものとして神に創造されており、人間が正しくお互いのために助け合えば、充分にやっていけるものだとイスラムでは考えます。

したがって、もし難民問題や困っている人々がいるならば、それは、人間の側が十分に神に対して忠実ではなく、お互いに助け合っていないからそのような問題が生じていると考えます。

もし、本当に難民問題が大変な問題だと認識しているのであれば、抽象的に考えて神がどこにいるのかという問いを持って無力感に陥り信仰を捨てるのではなく、自分に何ができるのか、自分が何をできているのか、ということをイスラムでは問うべきと考えます。

自分が本当に神に忠実に生きているか、自分がこの問題に対して何ができるか、そして何ができているか。

神は自分にそのような問いを持つだけの力と、何かができるための力を自分に与えてくれています。

そうであるならば、その力を正しく人を助けるために用いることが大切です。

もしそうしていないならば、それは、神ではなく自分たち人間の側の問題です。

イスラムではこのように、この問題に対して、ご質問や先にあげた例とは、問いの立て方が違ってきます。

このように違う問いの立て方をすることにより、先の問いの仕方とは異なる行動や生き方が導かれ、信仰を失うのではなく、より信仰が正しく強まっていく方向に進むことができると考えます。」

 

と、大略、以上のような御答えで、なるほどと思った。

イスラムは本当に明晰な知恵があるなぁと、今回もあらためて感心した。

 

そのあと、食事のおごちそうが振る舞われて、混ぜご飯やカレーが出て、とてもおいしかった。

また、思いもかけず、知人も来ていて、食事しながらいろいろ話して楽しかった。

ウズベキスタンからの留学生のS君にも会って、メッカに行ったことがあるかと尋ねると、まだないけれど、いつかお金を貯めて両親を連れて巡礼に行きたいと言っていて、親孝行だなぁと感心した。

 Nさんにもひさしぶりに御挨拶できて良かった。

 

イスラムも、なかなか面白いなぁと思う。

以前、いただいてまだきちんと読めてないイスラム教関連の書籍も、またあらためてきちんと読んでみたいと思った。

原田正治『弟を殺した彼と、僕』を読んで

原田正治『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)を読み終わった。

いわゆる「半田保険金殺人事件」について、被害者の遺族の方が書いた本である。

 

同事件とその犯人だった長谷川敏彦さんについては、大塚公子著『「その日」はいつなのか。―死刑囚長谷川敏彦の叫び』(角川文庫)という本もある。

ただ、そちらはあくまで第三者が書いた本だったのに対し、この本は被害者遺族の当事者の方の本だけに、とても重たい、しかし、なんといえばいいのか、適切な表現かはわからないが、感動させられる本だった。

おそらく、著者の原田さんが率直に、赤裸々に、自分の思いを述べておられるから胸打たれるのだと思う。

 

著者の原田さんは、弟さんを殺害された。

はじめは犯人の長谷川さんを憎み抜くが、さまざまな出来事や時の経つうちに、長谷川さんと手紙のやりとりをするようになり、そしてついに面会する。

また、ひょんなきっかけから、死刑廃止運動にかかわるようになる。

そのことを、著者はみずから「人間のわざを超えた瞬間」(118頁)があったと述べているが、たしかに読んでいてそのように感じさせられた。

 

著者の原田さんは、長谷川さんに生きて償って欲しいと思うようになり、また、実際に会って話がしたい、そのことを続けたいと思い、長谷川さんの死刑に反対し、法務大臣にもその要請をする。

しかし、ある時、唐突に長谷川さんは死刑執行されてしまう。

被害者の感情を口実に死刑を正当化するのはおかしいし、そんなことをしてはならないと、この本を読んでいて思わずにはいられなかった。

 

また、この本を読んで、原田さんとその御家族の苦労、また長谷川さんの御家族の悲劇を読んで、決して人を殺してはならないとあらためて思わずにはいられなかった。

また、死刑も避けた方が良いのではないかと考えさせられた。

 

「「赦す、赦さない」も人間の掌中に置いてはいけない。」(256頁)という原田さんの言葉は本当に重い、大切な言葉と思った。

 

それにしても、著者の原田さんの苦労ははかりしれない。

当初は交通事故として処理され、一年数カ月経ってから殺人事件だったと判明し、保険会社から交通事故として最初に支払われた千四百万円の保険金を返還してくれと言われ、四百万円分だけ免除されたが、結局一千万円分は他から借金などしてなんとか工面し返還し、その後その借金の返済のため随分苦労したこと。

のちに死刑反対を実名でメディアに出て訴えたところ、無言のいたずら電話のいやがらせを随分受けたこと。

などなどを読むと、どうして被害者の遺族がこんな苦労をこの上しなければならなかったのかと、なんともやるせない気持ちになった。

 

犯罪被害者の感情や救済について、また、死刑囚との面会について、死刑制度について、考えさせられる貴重な一冊と思う。

少なくとも、被害者遺族の感情を口実に、実際に被害者の遺族の気持ちに具体的に寄り添うことなど何もしないのに、死刑制度を支持したり主張したりするのは、大きな間違いではないかと、この本を読んで思わざるを得なかった。

 

弟を殺した彼と、僕。 | 原田 正治, 前川 ヨウ | 本 | Amazon.co.jp

 

若干の考察 名古屋と福岡の比較

先日、名古屋を訪れた。

名古屋について論じるほどの知識は何もないのだけれど、旅して印象的だったことがある。

それは、名古屋の気前の良さである。

 

ひつまぶしを食べる時も、薬味はいくらおかわりしても無料である。

 

これは、名古屋の人にとっては当たり前のことなのかもしれないが、福岡であれば、確実にいかに少額であろうと、薬味のおかわりの時には課金しそうな気がする。

 

ひつまぶしの薬味だけから、名古屋は気前が良いと思うのは、早計に過ぎると言う人もいるだろう。

 

しかし、私の印象が間違いないと思うのは、地下鉄におけるトイレの設計である。

 

福岡では、改札口を入ってからしか、トイレは存在しない。

したがって、切符を購入した人しかトイレは利用できない。

 

しかし、名古屋の地下鉄は、すべて改札口の外にトイレが設計してある。

つまり、切符を買っていない人まで、誰でも利用できるのである。

 

かつ、名古屋の交通の便利さは、福岡から見るとうらやましい限りである。

地下鉄が基本的に一本しかない福岡と比べて、東山線名城線など、いくつもの地下鉄が機能的に走っている。

その上、地上の道路もきわめて広々としていて、片側五車線の道路まである。

 

また、名古屋では、道路におそらくはかつての路面電車の駅だったところが、バス停の駅として残されており、人が安全に乗降車できるスペースが気前よく確保されている。

福岡のせせこましくやたら危険な道路やバスとはえらい違いである。

 

名古屋が便利なのか、福岡が不便なのか。

人口二百数十万以上の大都市名古屋と、せいぜい百数十万の福岡では規模や財政が違うからとはいえ、この違いはなんであろうか。

 

それと、ざっと見たところ、名古屋は名古屋嬢というのであろうか、福岡ほど化粧の濃くないシンプルな美女が極めて多い気がする。

福岡も、全国からかわいい女の子が多いと言われているし、たしかにそうでもあるのだが、福岡の女性はたいてい気が強そうであるし(そして実際にその多くは気が強すぎるし)、やたらチークを塗ったくって化粧が濃い目なのに対し、名古屋嬢は程よくシンプルでしかも優しそうでとても良い気がした。

 

あと、おそらくはもともと裕福な地域なのだろうか、江戸期や明治期の豊かさをうかがわせる建築や美術品も多いし、そうした土地柄のせいか、どの人も基本的に幸せそうな、のびっとした印象を受ける気がする。

それと比べて、福岡はなんというか、たしかにやたら能天気な楽しげな人が多いのは事実としても、随分とみみっちくて貧しげな気がする。

江戸期や明治以後の豊かさも随分違ったのだろう。

 

福岡の場合、たとえばデートをしても、女性はいかにして男性に全額おごらせるか、男性の側はいかにして割り勘に持ち込むか、見えざる暗闘が常に行われている気がするが、聞くところによると、名古屋ではお互いに自分が支払おうとする良風美俗が存在しているそうである。

なんとうらやましいことか。

 

また、海老フライも名古屋のものは非常に大きいことに驚いた。

気前よく上等な良い海老をフライにするのだろう。

福岡の海老フライははるかに小さいのは、お店がさもしいのだろうか、それとも少しでも安く買おうとする客の側のせいなのだろうか。

 

考えてみれば、江戸期の大名の多くは、濃尾平野の出身であった。

織田・豊臣・徳川にくっついて、濃尾平野出身者の多くが大名となり、したがって明治期の華族にもそうした人が多かった。

そのうえ、明治期以降は企業家で成功した人も多い。

それと比べて、福岡はさして偉くなった人も多くはなく、石炭成金が若干いた程度ではなかったろうか。

おそらく、江戸期も、御三家のひとつとして徳川から優遇され信頼されていた尾張徳川と異なり、外様大名の中でも関ケ原で天下を狙っていた黒田藩は常に徳川から疑惑と猜疑の目で見つめられ、いささかものびっとすることはできなかったろう。

また、濃尾平野の豊かさを背景にした尾張藩と比べて、福岡は土地も狭く、開発も早くから限界に達し、経済的には表高の差異以上の差異があったのではなかろうか。

 

名古屋には戦前の素敵な洋館が数多く残っているのに対し、福岡はなんと少ないのだろう。

空襲で焼けたかどうかもあるのかもしれないが、そもそも空襲の前にも、かなりその数に違いがあったのだろう。

 

しかも、名古屋は東京にも京都大阪にも近いのに対し、福岡のなんと遠いことか。

 

福岡が仮に名古屋よりも良さそうな点があるとすれば、韓国や中国に近いという点かもしれないが、そんなに一般市民がしょっちゅう海外旅行を普通はするわけでもない。

玄界灘の海の幸に恵まれているという点は、たしかにあるかもしれないが、伊勢湾もなかなか良さそうではある。

 

多くの天下人や大名を輩出した愛知と、もともと貧しい成り上がりの小大名の黒田がやって来てなんとか徳川の圧迫のもとで生き残ってきた福岡とは、歴史の上でも影と日向ぐらいの差がある気がする。

 

なんともはや、名古屋のうらやましきことよ。

 

しかし、私は、ひがみやみみっちさもひっくるめて、福岡が好きである。

仮に名古屋人になくて、福岡人や九州人にあるものがあるとすれば、それはこのひがみやみみっちさもひっくるめた、剽悍で狷介なところだけかもしれない。

 

とはいえ、剽悍なことが良いとは一概には言えないだろう。

戦時中、大阪や名古屋の師団の兵隊の戦死率は、福岡や熊本の連隊や師団に比べて圧倒的に少なかったと聞いたことがある。

福岡や熊本の兵隊は、馬鹿正直に突撃の命令で勇んで突撃しバタバタ戦死したが、大阪や名古屋の兵隊は適当に上官の命令を聞き流して面従腹背でうまくやったと。

日露戦争でも、九州と東北ばかりが特におびただしく戦死したそうである。

 

気前の良さや適度な知恵について、福岡は、名古屋に見習った方が良いのかもしれない。

また、交通網の整備については、少しは真剣に見習ってほしいものだとしみじみ思う。

 

 

武祐一郎 「雪国の小さな高校―基督教独立学園校長7年の歩みから」を読んで

 

 

世の中に、こんな学校が本当にあるんだと、

読んでいて、とても驚き、そして感動した。

本書は、山形県の小国というところにある、独立学園という高校についての本である。

 

その地域は、かつては日本のチベットと呼ばれた、相当な山奥だそうである。

内村鑑三が若い時に、外国人の伝道者が一度も訪れたことのない地域に伝道に行きたいと願い、その地域に行きたいと願ったが、諸般の事情で果たせなかったそうである。

それで、後年、自分の弟子にその夢を話したところ、政池仁や鈴木弼美らが実際に伝道に赴き、特に鈴木はみずから東大の職をなげうってその地域に移り住み、そして独立学園をつくったそうである。

 

一学年二十名程度の少人数教育を貫き、農業の実習や、聖書の特講などにも重きを置くそうである。

六千字以上の論文や、スピーチや感話の体験も積ませるそうで、自らの頭で考え行動する独立人の養成を主眼にしているそうだ。

受験教育には背を向け、個の自立や養成をこそ目指す教育を目指しているそうである。

 

入学時に校長と結ぶ契約が四カ条あるそうで、男女交際の禁止などなかなかすごいが、案外こういった決まりがあった方が、高校時代も楽しいのかもしれない。

 

神を恐れるのは学問のはじめ、ということで、謙遜つまり自らの無知を自覚することや、真理を愛すること、つまり虚偽を排する精神の涵養を重視しているそうである。

 

また、音楽教育にとても力を入れてきたそうで、戦後間もない頃からコーラスなどに大変力を入れてきたそうだ。

 

私も、このような高校を知っていて、縁があれば、こういう学校に行きたかった気がするし、もしそうだったらだいぶ人生も違っていたのかもなぁと思う。

 

もっとも、本書や、著者の書物を通じて、その教育や精神の一端をうかがい知ることができるのは、幸いなことだと思う。

 

 

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