メフィボシェテのこと

今日は、聖書の研究会で、H先生がサムエル記下の9章あたりの、メフィボシェテの話をしてくださった。

メフィボシェテは、ヨナタンの息子で、五歳の時に高い所から落ちて足を悪くして、生涯歩行が不自由だったという。

サウルとヨナタンがペリシテとの戦争で戦死し、ダビデが台頭し、サウル王家が滅びた後は、田舎でかくれるように暮していた。

ダビデは、若い時のヨナタンとの友情を思い出し、ヨナタンの息子がまだ生きていると知って探し出して、メフィボシェテに所領を与え、常に自分の側に置き、自分の王子たちと同様にいつも自分の食事の時は一緒に食事をするようにしたという。
メフィボシェテは、「死んだ犬」のようだった自分をダビデ王が顧みてくださった、と素直によろこび、感謝したという。

しかし、のちにアブサロムの反乱が起こった時、メフィボシェテの家来がダビデに対してメフィボシェテを讒言し、ダビデはメフィボシェテの所領をすべてその家来に与えることを決めた。

アブサロムの反乱の鎮圧後、ダビデが復権し、エルサレムに帰還し、メフィボシェテに再会すると、メフィボシェテはアブサロムの乱が起こってからひげを剃らず、衣服も変えずに、ずっとダビデの無事を祈っていた様子だった。

なぜ自分に付き従わなかったのかとダビデに尋ねられると、メフィボシェテは自分は歩けないので、ろばにのってついていこうとしたけれど、家来にだまされてついていけなかった、しかし、言い訳はしないのでダビデ王が望むようにしてください、と述べ、謀反の心がないと悟ったダビデは、メフィボシェテに所領の半分を戻そうとするが、メフィボシェテはダビデとともにいられるだけで良いので、所領は要らないと言った、という。

ここまでの話は、私も以前聖書を読んだ時に記憶があったのだけれど、そこから先、私はどうも聖書を読み間違えていた。

というのは、そのあとに、ややこしい話で、サウルの息子で同名のメフィボシェテ、つまりヨナタンの息子のメフィボシェテの叔父のメフィボシェテが、ダビデ王の治世の末期に殺害される話が出てくるので、私はてっきり、このヨナタンの息子のメフィボシェテは結局最後は殺されたと勘違いし、なんとかわいそうな人だろうと思っていた。

しかし、これは別人で、ヨナタンの息子のメフィボシェテは無事に生き残ったようである。
それのみか、歴代誌下の八章三十四節に、このメフィボシェテの息子のミカから、多くの子孫が繁栄してずっと続いて増えていった話が載っていた。

その歴代誌の記述は、以前読んだ時に、どうも結びつかずに読み飛ばしてしまっていたみたいで、聖書にはきちんとメフィボシェテの子孫の繁栄が描かれていたことを、今日はじめて知って、とても安心し、うれしい気がした。

そうこう考えると、ダビデは、いろいろ欠点もあったとしても、芯のところではやっぱり人情に厚く、良い立派な人物だったんだろうなぁと思う。

思えば、ダビデとメフィボシェテの関係は、イエスと人との関係のようなもので、私たちも死んだ犬のようなものが、なんの功績もないのに、一方的にイエスの恩恵で救われたようなものである。
しかし、メフィボシェテのように謙遜でも柔和でもなく、とかく恩知らずになりがちで、何かあれば文句ばかり言うものであるが、そう思うと、メフィボシェテという人は、本当にすごい人物だったのだなぁと思う。

旧約聖書には、ときどき、あんまりメジャーではないけれど、実は教わるところの大きいこういう人物についての記述があるよなぁ。

なぜ私は無教会主義キリスト教なのか

自分はなぜ無教会主義キリスト教なのだろうかと、ふと自問してみた。

これといって、特に理由がなく、たまたま、という気がする。

教会について私はほとんど知らないし、詳しくないので、教会と無教会を比較して、ということは私にはできない。

たまたま、キリスト教に興味を持って、どこかで勉強しようと思った時に、近くに無教会の集会があった、というだけのことである。

つまり、教会に行かず、無教会というのは、たまたま、という気がする。

しかし、その後もずっと無教会の集会に通っていることを考えると、要は自分にとって居心地が良いのだと思う。

私は教会のことはほとんど知らないのだけれど、今現在教会に所属している方や、あるいはかつて教会に所属していた方から、教会の人間関係についての悩みを聞いたことがある。

無教会はその点、私にとっては、人間関係の苦労はゼロであり、ほどほどの距離感で極めて居心地が良い。
私の通っている集会の方々は、皆非常によくできた方ばかりなので、もちろんストレスゼロである。
たぶん、教会の方が濃密な人間関係があるのかもしれないけれど、無教会はその点で程よい気がする。

それと、たぶん、私は無教会の現在いる人々が好きだし、今までの無教会の歴史の人々が好きなんだと思う。
おそらく、教会にも良い人や立派な人はいるだろうし、歴史的にも多くのそうした人がいるだろうから、他の教会に行っていたらそこで同様のことを思っていたのかもしれない。
ただ、たまたま最初に行ったのが無教会だったせいか、私にとっては、そう感じるし、内村鑑三矢内原忠雄などの無教会の歴史を今まで形作ってきた人々が、本当に心から尊敬できる人だというのも大きな理由である。

内村鑑三、藤井武、斉藤宗次郎、塚本虎二、三谷隆正、黒崎幸吉、浅見仙作、南原繁矢内原忠雄、政池仁、鈴木弼美、高橋三郎などの無教会の先達の方々は、もちろん私は直接はお会いしたことがない、すでに昇天した方ばかりなのだけれど、その存在を思うだけで胸が熱くなるものを感じる。
これらの多くの人々が、日露戦争日中戦争第二次世界大戦をリアルタイムに批判し、節義を貫いたというのは、他の宗教宗派にめったに見られない、無教会の栄光の歴史だと思う。

なんといえばいいのか、流れ星銀牙の言葉を借りるならば、私にとってそれらの人々は「奥羽の戦士」であり、伝説の英雄である。

無教会の集会に行っていると、それらの人々にリアルタイムに接したことがあるお年寄りや、あるいはその孫や親族にあたる方がいて、それらの伝説上の人々の在りし日の話を聞けるのも、とてもありがたいことだと思う。

そういえば、内村鑑三については、私は、ずっと以前から、関心はあった。
キリストを信じる気になる前から、何か、内村の言葉だけは、本当のことを言っているという予感がした。
二十代前半の頃、人生に苦しみもがいていた時に、いくたびか、内村の著作を読んだりしたことがあった。
その頃は、キリスト教を信じていたわけではなかったけれど、それらも遠い伏線だったように思う。

他にも何か理由はあるのだろうかと自問してみると、無教会が自分にしっくりくる一つの理由は、たぶん、バタ臭くないところ、つまり、西洋的過ぎないところだと思う。

西洋渡来のキリスト教や教会宗派は、どうしても西洋の文化や歴史を色濃く反映する。
それが良さでもあり、悪さでもあろうと思う。

私の場合、あんまり西洋っぽすぎるのはどうにもニガテなので、シンプルに、欧米を経由せずして直接聖書に触れるという、日本に始まった無教会主義が、肌に受け入れやすかったのだと思う。

西洋の膨大な神学や歴史を経由しなくても、ストレートに聖書に触れることができるというのは、無教会主義の良さだと思う。

日本人の心で、大和魂で、西洋を経由せずに、直接聖書に触れる。
それが私にとって無教会がしっくりくる大きな理由と思う。

もっとも、各自が必要に応じて西洋のキリスト教の歴史の遺産を活用するのは、それはそれで素晴らしいことと思う。

あと、もう一つの理由は、無教会は教会の建物などを持たないために、維持費が安く済むため、経済的な負担がなく、これといって組織として社会事業を行うわけでもないので、その手伝いに駆り出されることもないということである。
教会の話で、けっこう献金が高いという話や、いろんな奉仕やボランティアに駆り出されて大変という話を聞くことがある。
むろん、それが喜びになる場合もあるのだろうけれど、私には、それらの教会であればハードルが高すぎて無理っぽかった気がする。

あとは、他の理由として、これは、教会と無教会を分ける決定的な点なのだけれど、洗礼や聖餐式がないということではないかと思う。
儀礼や儀式で救われるというのが、どうも私はピンとこない。
もちろん、儀礼や儀式で救われるという人はそれで良いと思うのだけれど、私自身に関しては、である。
なので、洗礼や聖餐式を行わず、儀礼や儀式をとっぱらい、聖書に直に学ぶという無教会主義が、教会の教えよりも、自分には納得がいった、ということなのだと思う。

他の理由として、無教会は、儀式的なところは極めてラディカルだけれど、教義的には非常にコンサバティブなところがある気もする。
三位一体や使徒信条などの古くからのキリスト教の根幹の部分には忠実なのも、私の性にあったのだと思う。
あんまり近代的な教義やユニテリアンのようなものでは、私は救われないので、古き福音の、十字架の贖いをしっかりと説き、証する、その点では極めて古風な無教会の風格が、一番しっくりきたのだと思う。

ただ、いろいろ、理由は考えられるし、以上のようなことが考えられるけれど、やっぱり、一番大きな理由は、たまたま、だったような気がする。
たぶん、各人が各自に一番しっくりくる宗派や教会に所属すればそれが一番良いのだと思うし、思うに、それはある種の召命であり、神の導きなのだと思う。

無教会も教会も、見える教会としては別のものであり別の組織であり別の要素もあるが、見えざる教会、つまり目に見えないエクレシアとしては、キリストの体の一部をなすという点で、等しく同じであり、相違点よりも共通点が多いのだと思う。
ただ、若干の歴史や流儀が違うというだけのことであり、仲良く互いの祝福を祈りあえばそれでよいのだと思う。
そして、たまたま、その人が導かれたところに、それぞれ通い、礼拝を守ればそれで良いのだと思う。

思うに、無教会としては、教会からこぼれ落ちた人や、キリスト教と未だに縁のない人たちに向かって、つまり日本の人口の九割以上を占めるノンクリスチャンに向かって、わかりやすく福音の精神を伝えることが、その使命なのだと思う。

もっとも、その方法は、何も声高に伝えることではなく、今までの無教会の先達の方たちがしてきたように、自分自身の日常の生き方を通して、奇をてらわず気負うことなく、淡々と、キリストの雰囲気を言葉ではなく身をもって伝え、広げていくことなのだと思う。

私は無教会にめぐりあえてよかった。
そのことをしみじみ主に感謝する。

Mさんの告別式

昨日は、Mさんの告別式に参列してきた。

八十六歳だった。

 

Mさんは無教会主義のキリスト教の集会を長く主催されていた。

もともと秋月藩の武士の家系の方だったそうで、県庁に長く勤務されていた。

 

弔辞を、大学時代からの親友だった大阪の大きな病院の院長だった方と、かつて児童施設にMさんが勤務していた時にお世話になったという方と、Mさんによって夫婦そろって信仰に導かれたという集会の九十六歳の方と、Mさんのお孫さんの、四人が述べられていた。

聞きながら、Mさんは本当に幸せな人生だったのだろうなぁと思った。

 

Mさんの奥さんも本当に良い方で、今日は車椅子で来ておられたし、Mさんの娘さんとその旦那さんがまた本当に良い方で、Mさんに本当によく孝養を尽して最善の介護をされていたし、お孫さんも本当に良い御嬢さんで、なかなかこれほど仲睦まじい家族はあんまり今日日ない気もする。

 

また、もう何十年も前のことなのに、県庁時代に児童施設や養護施設の関連の仕事をしていた時にゆかりのあった方々が、感謝の思いから告別式に来会し、あるいは弔電を打って来ていたのは、本当に稀有なことだと思う。

 

信仰を通じた終生の友に多く恵まれていたことも、本当に稀有なことだったと思う。

 

Mさんは中学生の時に敗戦を迎えたそうで、世の中の価値観が一変する中で、矢内原忠雄が戦前・戦中・戦後と一貫して変わらないことを述べていたことに大きな驚きと感動を覚えたそうである。

それで、矢内原忠雄やその師であった内村鑑三の無教会主義キリスト教に共鳴するようになり、もともとはキリスト教には反発を覚え嫌っていたそうだけれど、回心してクリスチャンになったそうである。

大学生の時から無教会の集会に集うようになり、以後六十年間、ずっと集会に参加し、のちに主催されてきたそうだ。

 

外形的なことを言えば、質素な暮らしの、平凡な公務員だったかもしれないけれど、世にこれほど幸せな人生は、めったになかったのかもしれない。

それはきっと、キリストへの信仰というゆるぎない土台の上に、人生を歩み、築いていったからだったのだろう。

 

Mさんが老人ホームに入る時に、それまで面識のなかった私に、三谷隆正全集や矢内原忠雄全集や矢内原忠雄の『嘉信』の復刻版の全巻など、貴重な無教会主義キリスト教関連の書籍をたくさんくださった。

生涯かけて、しっかり読んでいきたいと思う。

 

ユダヤ教のラビの方の御話 メモ

今日は、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの御話を聞いた。

 

ルツ記の一章と二章の途中までで、とても細かにラビの註解なども参照しつつ御話してくださり、とても面白かった。

 

質疑応答の時に、私も二つ質問した。

 

ひとつは、ルツ記のナオミの詩の中に出てくる、「楽しい」と「苦い」という言葉は、「善」(トーヴ)と「悪」(ラー)とどう関わるのか?

つまり、良いことをすれば楽しいことがあり、悪いことをすれば苦しいことがあろうという観念が多くの地域や宗教であるけれど、聖書においてはこの対応関係はどうなっているのか?

という質問をした。

 

すると、マゴネットさんが言うには、聖書には、良いことと楽しいこと、悪いこととその罰としての苦しいこと、という対応関係は、必ずしもない。

たとえば、雨は、状況によって、良いものにも悪いものにもなるし、人間にとって楽しいものにも苦しいものにもなりうる。

あまり完全にそれらが対応しているとは聖書では考えていない。

たとえば、西欧文化では、白いものは良いもので、黒いものは悪しきものだという観念があり、それが人種の差別などを生み出してきた。

本来は必ずしも正確な対応関係がないものをあまりにも人間の観念が結び付けすぎると、差別や深刻な問題が生じやすい。

という返答だった。

 

ふたつめの質問は、ルツ記一章のナオミの詩は、率直に神に対して不平不満を述べている。

聖書には、他にも、ヨブ記や詩編など、神に対して率直に不平不満を述べている箇所があるが、ルツやヨブや詩編の詩人たちは、どうしてこのように述べることができたのか?

つまり、何が質問したいかというと、一般的な日本人の観念では、神に不平不満を述べると、逆に神を怒らせてしまうという風にも考えやすいのに対し、ユダヤ人はどうしてかくも率直に不平不満を神に述べることができたのか?

不平不満を述べても罰されないという確信があったのか?

という質問をした。

 

それに対するマゴネットさんの答えは、

そのとおりだと思う。

ユダヤ人と神との関係は、いわば家族のこと(ファミリー・ビジネス)である。

親に対して率直に不平不満を言い合えるような、愚痴を言えるような感じで、ユダヤ人は安心して神に不平不満を述べる。

このことに深く関連すると思われるユダヤ・ジョークがあるので、紹介したい。

「ある時に、海辺を乳母車を押したユダヤ人の女性が歩いていると、大きな波が来て、赤ちゃんと乳母車を波がさらっていってしまった。

女性は神に、奇跡を起こして助けてください、と必死に祈った。

すると、波がもどってきて、赤ちゃんが無事に浜辺に打ち上げられて無事だった。

女性は、「ところで、帽子はどこにいったのですか?」と神に尋ねた。」

これがユダヤ人と神との関わりの秘密である。

つまり、奇跡でさえも十分でないと、神様に率直になんでも願い、祈り、不平不満を言うわけですし、そうできるわけである。

もっとも、ユダヤ人の歴史はあまりにも悲劇が多かったので、このような冗談で笑うしかなかったのかもしれない。

それと、もうひとつ考えられるのは、キリスト教では、キリストが神と人間との間に入って人間の罪を購って十字架で死んでくれたと考え、そのキリストが神ですから、あまり神様に文句やわがままを遠慮して言えなくなるのかもしれない。

一方、ユダヤ教では、ユダヤ教徒と神は直接の親子のような関係ですから、遠慮なくものが言えるのだと思う。

とのことだった。

 

とても面白い、有意義な質疑応答ができて感謝だった。

沖縄の戦争の語り部の方の御話

沖縄の戦争の語り部の石原絹子さんの貴重な御話をお聞きする機会があった。

 

石原さんは当時小学一年生で、父・母・兄・妹二人の幸せな家族だったそうである。

しかし、父は兵隊に召集され、のちに戦死したとわかったそうだ。

 

沖縄が戦場になり、具合の悪い母と兄妹たちと一緒に壕の中に逃れて隠れていたところ、日本兵がやって来て、この場で子どもを殺すか壕から出て行くかどちらかにしろと迫られ、子どもを殺されたら生きてはいけないと言って母が子どもたちと壕から出て行くことを決断した。

 

その時、食べ物をすべて置いて行けと言われて、かろうじて持っていた水と塩も置いていった。

 

人の肉片が飛び散る戦場を逃げ惑ううちに、母と兄とはぐれ、やっとの思いで探し出すと、すでに二人とも死んでいた。

 

そして、背中におぶっていた一才の妹も冷たくなって死んでいたことに気付いた。

 

そのあと、すぐ下の妹も、砲弾の破片が胸に刺さって失血が続き、水が欲しいと言いながら亡くなった。

 

もう死にたいと思い倒れていたところを、米軍の衛生兵に救助され、祖母に再会した。

 

祖母は、生きなければならない、私たちがみんなを弔わなければならない、と言った。

 

母は戦争が終わったら幸せな家をまたつくることを、兄は本が好きで医者になることを、すぐ下の妹はお菓子屋さんになることを夢見ていた。

 

といった御話で、聞きながら、涙を禁じ得なかった。

十五年戦争の総決算が沖縄戦だったとおっしゃっていたが、あまりにも悲惨な戦争だったとあらためて思わざるをえなかった。

 

石原さんは、戦争を作り出すのも人間だが、平和を作り出すのも人間であり、戦争をやめるのも人間だとおっしゃっていた。

平和の実現は、すでにできあがっているものではなく、人間の意志や忍耐や叡智でつくりあげていくものだともおっしゃっていた。

正しく伝えることが生き残った者の責務で、過去を学ぶことが将来を見据えることにつながるともおっしゃっていた。

 

そして、伊丹万作の、以下の言葉を引用されていた。

 

「いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかったとしたら、今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまり、だますものだけでは戦争は起らない。

だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そして、だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた、国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。」

 

本当に、重い、忘れてはならぬ思いや言葉の数々と思う。

 

石原さんは最後に、小さな善意の輪を広げて大きくしていくこと、どんな小さなことでも隣人に愛を行うことを、御話されていた。

本当に、今日は貴重な御話を聞くことができて、感謝だった。

御著書も今日手に入れたので、あとでしっかり読もうと思う。

雑感 ユダヤ教について

 

ユダヤ教やユダヤの歴史をいろいろ追っていて、いまいちよくわからないことがある。

 

というのは、キリストの十字架の話である。

 

どうもいまいちよくわからないのは、あれは本当にユダヤ人のしたことだったのだろうか。

 

もちろん、本当にそうした出来事があったのだろうとは思うのだけれど、いまいち、腑に落ちない。

 

というのは、ユダヤ教は中世において事実上死刑制度を廃止していたほど、人の生命を慈しみ大切にする宗教だからである。

しかも裁判に関しては複数の証言を必要とすることを規定するほど、極めて冤罪に対して慎重な法律や文化を持つ人々だった。

 

中世や近代のユダヤ教の教えや説話の数々に触れるたびに、その寛容や知性に驚嘆するばかりで、中世キリスト教の独善性や偏狭さよりはるかに明晰で開かれた豊饒な精神文化を感じる。

 

キリストを十字架にかけたのが、中世のキリスト教徒だったと聞けば、さもありなんと納得のいく気もするのだが、(あるいは近代の原理主義だったと聞くならば納得するのだが)、どうも、中世ユダヤ教や近代のユダヤ系の知識人を見る限り、なんともキリストを十字架にかけたユダヤ人とは似ても似つかないものを感じるのである。

 

新約聖書の中で、中世や近代のユダヤ人に最も近いタイプの人を見いだすとすれば、それはたぶん、ガマリエルだと思う。

ガマリエルがユダヤの人々の先祖だというのは極めて納得がいく。

しかし、カヤパたちはどうにも似ても似つかない気がして首をかしげる。

当時のユダヤ教の人々の中で、ガマリエルのような人々だけが生き残り、そうした人々の系譜がその後続いていったということなのだろうか。

 

あるいは、中世のユダヤ教は、ヨーロッパや中東におけるマイノリティとしての環境の中で生み出されたものであり、マイノリティの場合は人間は謙虚になり鍛えられてすぐれた寛容や知性を持つに至るが、ユダヤほどの人々でも、かつてマジョリティであった時には、時にはキリストの十字架につながるようなメンタリティを持ってしまった時代もあったということなのだろうか。

 

なんともよくわからないが、極めて悲劇的に思うのは、実際はカヤパよりもガマリエルのような人々であった中世や近代のユダヤの人々が、しばしばキリストを十字架にかけたカヤパたちのようなイメージでとらえられて、いわれなき暴力や迫害を受け続けたというのは、なんとも心の痛むことである。

 

あるいは、キリストの十字架の出来事について大胆に想像や妄想を働かせるならば、聖書の記述よりも、はるかにローマのコミットメントがあの出来事にはあったのではないかとも、思ったりもする。

ピラト個人はあのとおりだったのかもしれないが、もっと別にローマの意向や力学が働いたということはなかったのだろうか。

 

とはいえ、十字架の出来事は、やはりあったのだろう。

 

一民族の性格は、しばしば、時の流れや環境の変化によって、著しく変わることもあるのだろうか。

 

奇妙なことだが、中世以降のヨーロッパにおいて、キリストを迫害するユダヤ人たちの姿は、実はユダヤ人ではなくてキリスト教徒が最もよく似ており、ユダヤ人たちがしばしばキリストの受難の似姿となっていたように思う。

 

イザヤ書53章を、ユダヤ人の中には、特定の人物やイエスのことではなくて、ユダヤ民族全体の運命の預言と受けとめる人もいるようだが、それもある意味、あながち的外れではない気もする。

 

 

ユダヤ教のラビの方の御話

先日、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの講演がS大であったので聞きに行ってきた。
テーマはユダヤ教と同性愛についてだった。

一般的に男色の罪で滅ぼされたとされるソドムの物語は、実は聖書の中では必ずしも男色が原因だったかははっきりとせず、そうとも解釈できるが、違うかもしれないこと。

レビ記には男色が死に値する罪と書かれているが、中世のユダヤ教のラビたちは、実際的にはその規定を現実には用いず、事実上死刑を行っていなかったこと。

現代においては、ユダヤ教内部で同性愛についてより寛容な改革的な試みや動きが起こってきたこと。

同性愛に対する偏見や敵意は、しばしば反ユダヤ主義と結託して、ナチスなどのような形で歴史的には生じてきたこと。

神の似姿としていかなる人も造られている以上、同性愛の人もまたそのようにみなすべきであるし、同性愛者とレッテルを貼らず、具体的にひとりの人間としてその人と出会い、その苦労や思いや人生に触れた時に、抽象的なレッテル貼りとは異なる自分の視野が開けること。

などなどの御話だった。

質疑応答の時に、私も拙い英語で、
「なぜユダヤ教のラビたちは中世において、男色に限らずその他のことも含めて、死刑を取り除くように努めたのか、実質的に死刑を廃止するように努め、極めて死刑に対して慎重だったのか。
日本は未だに現代でも死刑制度があるが、中世においてユダヤ教がそのような態度だった理由は何か?」
ということを質問してみた。

それに対するマゴネットさんの答えは、以下のようなものだった。

「大きく二つの理由があると思います。

ひとつは、ユダヤ教のラビたちは中世において、単なる宗教家ではなく、ユダヤ共同体内部の法律や司法の担い手であり、つまり弁護士として自分たちを意識していました。
ですので、弁護士として、具体的な出来事を詳細に検討し、極めて慎重に法を適用するという意識や作法を持っていました。

もう一つの理由は、聖書を全体の精神や他の箇所と照らし合わせて読むというラビの流儀です。
聖書の言葉は神の言葉である以上、極めて問題のあると思われる箇所も、ラビたちは無視することや廃止することはできませんでした。
しかし、ラビたちは、聖書の中にも極めて問題的な箇所があるという意識は強く抱いており、それらの箇所を単に字面だけで受けとめるのではなく、他の聖書の箇所と照らし合わせて解釈することを積み重ねてきました。
つまり、神が慈しみ深い存在である以上、そして神は慈しみ深い存在だとユダヤ教の伝統では受けとめてきたわけですが、そうであるならば、その観点から、あらゆる聖書は読まれるべきだということになります。
したがって、その箇所だけを切り取れば極めて厳しい刑罰や残酷な記述があったとしても、生命を大切にし慈しむという神の精神の観点から、死刑に対して極めて慎重に用心深く対処することになり、実質的にはさまざまな慎重な適用や条件を多数課すということで、実際には全く死刑が行われないという道を開いていきました。
このことについて詳しいことは、また別の機会に御話したいと思います。」

大略、以上のようなものだった。

ディテールを大切にし慎重に法を適用するということと、同時にテキストの全体の主旨や精神を大事にしてその観点から部分を解釈するという中世ユダヤの伝統的な二つの観点は、非常に興味深いし、素晴らしいものと思った。

にしても、もうちょっと英語のリスニングや会話能力を鍛えておかないといけないなぁと今日はあらためて痛感した。
次回はもうちょっと流暢にやりとりができるようにがんばろう。