『ゼファニヤ書(下) ―神の愛による新生』 資料

『ゼファニヤ書(下) ―神の愛による新生』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、人の罪と神の審判(3:1~3:8)

Ⅲ、残りの者(3:9~3:13)

Ⅳ、新生と救い (3:14~3:20)

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

   

 

 

前回のあらすじ ゼファニヤ書の第一章と第二章:

ゼファニヤ書は、おそらく紀元前640-621年頃、ヨシヤ王の治世の初期に活動したゼファニヤの預言をまとめたものである。ヨシヤ王の申命記改革に先立ち、かつおそらくはその改革になんらかの影響を与えたと考えられる。

ゼファニヤ書冒頭には、他の預言書には見られない四代前までの家系図が書かれている。四代前の先祖のヒズキヤはヒゼキヤ王のことと考えられる。一方、ゼファニヤの父の名前であるクシは、エチオピアを指すクシュのことと考えられ、エチオピア人とユダヤ人の混血だったとも推測される。王家に連なる名門出身でかつ異邦人の血も引く複雑な環境にゼファニヤは育ったと推測される。

ゼファニヤ書第一章・第二章では、のちのレクィエムの「怒りの日」の詩のもとともなる、神の審判が描写される。「酒の澱の上に凝り固まっている者」つまり神が自分の人生には関係ないと頑なになっているものには、最終的には裁きが行われると告げられる。

 と同時に、「義と謙遜」の呼びかけがなされ、義と謙遜を求める人は神によって匿われ守られることが述べられる。審判の告知は、なんとか悔い改めさせて、人々を滅亡から免れさせようとするためのものであった。

 

 

※ 「ゼファニヤ書の構成」

 

第一部 神の審判の告知 第一章~第二章(1:1~2:15) ⇒ 前回

第二部 神と共に生きるようになる希望 (3:1~3:20) ⇒ 今回

 

⇒ 今回の第三章では、第一・二章における「義と謙遜」の呼びかけと悔改めを踏まえた上での、新生の喜びが告げられる。神が人の中に働き、「愛によって新たにする」新生と救いが告げられる。

 

・第二部(第三章)の構成 

 

1、人の罪と神の審判(3:1~3:8)

2、残りの者(3:9~3:13)

3、新生と救い (3:14~3:20)

 

ゼファニヤ書後半の第二部は、大きく三つの部分に分かれる。まず、第二章までの前半と同様に、人の罪と主の日の審判が三章冒頭で告げられる。そののち、神への信仰を与えられた「残りの者」の存在が指摘される。さらに、それらの信仰が与えられた残りの人々には、新生と救いが恵まれ、幸福が回復されることが告げられる。

 

 

Ⅱ、人の罪と神の審判(3:1~3:8)

 

◇ 3:1~3:5 人の罪と神の呼びかけ

 

3:1 三つのわざわい

反逆:神に背くこと。神の律法に違反すること。 ⇔回心

汚れ:エゼキエル23:30 聖書では、偶像崇拝が汚れをもたらすと述べる。(偶像=神ではないものを神とすること。価値観の倒錯。ex.金銭、権力)

暴虐:弱者に対する抑圧や人の権利の蹂躙など。

 

3:2 「四つの罪」 

① 神の声・呼びかけを聞かない

② 戒め(律法)を受け入れない。

③ 主を信頼しない。

④ 神に近づこうとしない。

 

⇒ ※ 逆に言えば、「神の呼びかけに耳を傾け、耳を澄まし、神の戒め(新約で言えばお互いに愛し合うことなど)を受け入れて実践し、神を信頼し、神に近づこうとすること」の四つの実践が人には求められており、正しい生き方と言える。

  1.  ミカ6:8「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」

 

※ ただし、原文は「声」とのみあり、「神の声」と限定していない。さまざまな人や自然の現象などを通じて、多様な形で、神の声や呼びかけがなされていると見るべき。

参照・口語訳の当該箇所:「これはだれの声にも耳を傾けず、懲らしめを受けいれず、主に寄り頼まず、おのれの神に近よらない。」

 

3:3、4  社会の上層部・指導者たちの腐敗

・役人・裁判官・預言者・祭司の不正

・現代で言えば、政治家や官僚、裁判官や警察、知識人たちが、社会正義をおろそかにし、自分たちの保身や利益のために虚偽や偏向を恥じない様子。

 

3:5  常に呼びかけている神・良心

腐敗した社会や人々の中にあっても、神は常にその中にいて、常に正しく、朝ごとに公正の光を放ち人々を照らしていることが述べられる。

(新共同訳では見出しに「エルサレムの罪と贖い」とあるが、本文中には必ずしもエルサレムと明示されていない。前後の文章から見れば、異邦人も含めて、全人類が対象の箇所と考えられる。)

 

⇒ 人間の良心には、常に神の呼びかけがあり、誰にでも心を澄ませばわかるはずの道理や正義があるはずということ。

⇒ ただし、神の呼びかけに背を向けているうちに、鈍感になり、良心が曇って来ると、「酒の澱の上に凝り固まったもの」(ゼファニヤ1:12)のように頑なになってしまう。

 

参照:箴言1:20、21 

「知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。/雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。」

 

箴言8:1~3 

「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。/高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち/城門の傍ら、町の入口/城門の通路で呼ばわっている。」

 

⇒ 常に呼びかけている良心の声や神の呼びかけを聞くためには「静かにささやく声」(列王記上19:12)に耳を澄ますこと。ゼファニヤ1:7、ハバクク3:20、イザヤ30:15。

& 日頃から聖書を学び、聖書を読み、講話等を聴くこと。

 

 

◇ 3:6~3:8 神の審判

 

3:6 諸国の民への審判

「諸国の民」つまり、神を信じない人々は歴史の審判を通じて滅びる。

 

3:7 残りの者は断ち切られない

新改訳2017「わたしは言った。/『あなたはただ、わたしを恐れ、/戒めを受け入れよ。/そうすれば、/わたしがこの都をどれほど罰しても、/その住まいは断ち切られない。/確かに彼らは繰り返してあらゆる悪事を行ったが。』」

⇒ 新改訳の解釈だと、諸国の民に対する審判が行われても、神を信じている人々(後述の「残りの者」)は「断ち切られない」つまり生き残り続けるというメッセージになる。この方が新共同訳よりわかりやすい?

 

3:8 証人としての神

新共同訳「獲物」 ⇒ 他の訳「証人」 (七十人訳による)

 

新改訳2017  3:8a 「それゆえ、私を待て。/―主のことば―/わたしが証人として立つ日を待て。」

 

口語訳 3:8 「主は言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立って、証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、もろもろの国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを/ことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむわたしの怒りの火に/焼き滅ぼされるからである。」

 

⇒ 神は「証人」であり、正しい「証言」をし、義に照らした裁きを実行する。

 

 

Ⅲ、残りの者(3:9~3:13) 

 

・前節(3章前半)に続く3章中盤では、「清い唇」が与えられた「残りの者」について述べられる。

 

□ 3:9 「清い唇」と諸国の民

 

・聖書においては、潜在的にはすべての人類は神を知り、讃えている(マラキ1:11、ロマ1:19~20)とされる。かつ、将来的には、すべての人には神の霊がそそがれ(ヨエル3:2)、すべての人が神を讃美することが願われている(詩編117編)。

 

・しかし、と同時に、聖書においては、人は、聖霊がそそがれないと、神への信仰を持つことができず、神の御名を呼ぶことができないとされている。

 

※ 参照

Ⅰコリ12:3b聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」

・ロマ8:15、ガラテヤ4:6 神を父と呼ぶことができるのは、神が送った霊による。

・イザヤ6:4~6:7 汚れた唇 ⇒神の火による清め ⇒「見よこれがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(イザヤ6:7)

 

「諸国の民」つまり異邦人にも「清い唇」が与えられる、つまり神への信仰が与えられることが、ゼファニヤ書のこの箇所には明示されている。

(cf. 新約における異邦人の救い)

 

※ 3:9冒頭「その後」:十字架の後のことか?異邦人に神の霊がそそがれるのは、キリストの磔刑後。

 

個々の人生で言えば、「その後」とは、人生における苦しみや挫折や試練のことか。3:8で述べられた審判は、個々の人生にもありうる。苦しみを経たのち、やっと人には「清い唇」が与えられ、神の御名を素直に呼ぶ信仰が与えられる。

 

※ 3:9b「一つとなって」:直訳は「一つの肩になって」(新改訳2017脚注)

⇒ すべての人が肩を組み合って一つになる。

 

 

□ 3:10 クシュの川の向こうから

 

前回見たように、ゼファニヤは王族の血を引くとともに、異邦人であるエチオピア人の血も引いていた(ヒゼキヤの子孫であり、クシの子)。

クシュ(エチオピア)の向こうからも神を信じ礼拝する者が来る、という表現は、ゼファニヤにとっては他人ごとではない、自分自身を指し含める意味を持っていたと思われる。

 

余談:1980年代、エチオピアユダヤ人が飢饉や内戦から逃れるためにイスラエルに飛行機で亡命・移住した。小さい頃、たまたま飛行機の中でそのニュースの映像を見て、到着した空港で神にひざまずいて感謝する人々の様子に強い印象を持った思い出がある。

 

□ 3:11 恥とおごりが除かれる

 

新共同訳「勝ち誇る兵士」 ⇒ 他の訳「おごり高ぶる者」

3:11b 新改訳2017 「そのとき、わたしがあなたのただ中から、/おごり高ぶる者どもを取り除くからだ。」

3:11 口語訳「その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。」

 

⇒ 悔改め、神に向き直る回心を果たした人の人生からは、恥とおごりが取り除かれる。(おごりの除去は、一生を通じて行われる)。

 

□ 3:12 「残りの者」

 

関根訳3:12~13a「わたしは君の中に/心低くへり下る民を残す。/彼らはヤハウェの御名に頼り/イスラエルの残りの民となろう。」

(この箇所、松村さんによる朱線あり。)

 

※「残りの者」:ミカ5:6-7、ミカ7:18、イザヤ10:20、ヨエル2:32、エレミヤ23:3など。聖書の随所には、「残りの者」が記され、不信の時代や人々の中にあっても、神への誠実な信仰を持ち続ける少数の人々とその救いが記される。(2017年の無教会全国集会で石原艶子さんが「残りの者」と何度かつぶやいていたのが印象的だった。)

 

余談:ユダヤ教のタルムードには「ラメッド・バブニック・ツァデキーム」(三十六人の義人)という伝承がある。いつの時代も三十六人の匿名の義人がいて、世界を支えており、これらの義人なくしては世界は崩壊するという。残りの者は、必ずしもそこまでハードルの高いものではないかもしれないが、残りの者や匿名の義人が、この世界を支えているのだと思われる(cf.地の塩・世の光)。

 

□ 3:13 残りの者は誠実に生き、安全に生きる。

⇒回心した「残りの者」の生き方は誠実。神はその人たちを養い、安全にする。

 

 

Ⅳ、新生と救い (3:14~3:20)

 

□ 3:14 喜べ:参照・フィリピ4:4 Ⅰテサロニケ5:16 聖書全篇の特徴

 

□ 3:15 主は裁きを退け、その人の中にいる。恐れるな。

⇒ キリストの十字架の贖いにより罪が消え、もはや神の怒りによって裁かれないこと。義認。

& 神がその人の心の中に入り、導くこと。聖霊。 

& 恐れることはない、「恐れるな」、というメッセージ。創世記15:1、ヨエル2:21、ダニエル10:19、聖書全篇を貫くメッセージ。

 

◇ 新生の告知 3:16-17 

 

神が信仰を持つ人のただ中にいること。導いて勝利を与えること。愛によって新生を与え、その人の存在そのものを神が愛し喜ぶことが告げられる。

 

フランシスコ会

「その日には、エルサレムに向かって人々は言う、/「シオンよ、恐れるな、力を落とすな。/お前の神、主はお前のただ中におられる、/救いを与える勇者が。/主は、お前の故に喜び楽しみ、/その愛をもってお前を新たにし、/祭りの日のように、お前の故に喜びの声をあげられる」。」

 

口語訳

「その日、人々はエルサレムに向かって言う、/「シオンよ、恐れるな。/あなたの手を弱々しくたれるな。/あなたの神、主はあなたのうちにいまし、/勇士であって、勝利を与えられる。/彼はあなたのために喜び楽しみ、/その愛によってあなたを新にし、/祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。

 

バルバロ訳

「その日、エルサレムでは、/こういわれるだろう、/「シオンよ、恐れるな、/失望するな。/神、主はお前のうちにおられる。/主は助けを下す勇士であり、/喜びのうちに、おまえのことを楽しみ、/愛のうちにおまえを新しくつくりなおし、/おまえについて、喜び勇まれる。」

 

関根訳 (3:16~18a)

「その日エルサレムに向かって言われる、/シオンよ、恐れるな、/君の手を弱くするな。/君の神ヤハウェは君の只中で/救いを賜う勇者である。/彼は大いなる喜びをもて君を喜び/その愛を新たにする。/大いなる歓喜をもって君を悦び/再会の日のようにされる。」

 

岩波訳

「その日には、エルサレムに対して人は言う、

『シオンよ、恐れるな。/力を落としてはならない。/あなたの神ヤハウェはあなたの只中におられる、/救いをもたらす勇者が。/ヤハウェはあなたのことで大いに喜び、/その愛によって〔あなたを〕新たにし、/あなたのことで歓声を上げ小躍りされる』と。」

 

※ ただし、 「新たにし」の箇所は、マソラ本文の原語は「黙らせる」・「沈黙し」となっている。七十人訳ギリシャ語訳)においては「新たにし」となっており、上記の多くの訳は、七十人訳に従っている。新改訳2017や文語訳では「黙らせ」=「安らぎ」として、以下の訳。

 

新改訳2017

「その日、エルサレムは次のように言われる。/「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。/あなたの神、主は、あなたのただ中にあって/救いの勇士だ。/主はあなたのことを大いに喜び、/その愛によってあなたに安らぎを与え、/高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。」

 

文語訳

「その日にはエルサレムに向いて言うあらん。懼(おそ)るるなかれ、シオンよ。汝の手をしなえ垂るるなかれと。/なんじの神エホバ、なんじの中(うち)にいます。彼は拯救(すくい)を施す勇士(ますらお)なり。彼なんじのために喜び楽しみ、愛の余りに黙し汝のために喜びて呼(よば)わりたまう。」

 

新改訳2017や文語訳だと、信仰のある人が安らかに静かになること、あるいは神がその人に対して一切罪を問わず感無量で抱擁すること、の意味となる。これらも前述イザヤ30:15等と相通じる内容で味わい深い。

 

※ しかし、この箇所は、七十人訳に従って解釈すると、新約聖書における新生をはるかに先取りし告知していることになり、新生と解した方が深く味わわれると思われる。

 

□ 3:18~19

主のもとに再び呼び集められ、「苦しめていたもの」=罪が滅ぼされ、幸福が回復される。

 

口語訳3:18-20

「「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない。/

見よ、その時あなたをしえたげる者を/わたしはことごとく処分し、/足なえを救い、追いやられた者を集め、/彼らの恥を誉にかえ、/全地にほめられるようにする。/

その時、わたしはあなたがたを連れかえる。/わたしがあなたがたを集めるとき、/わたしがあなたがたの目の前に、/あなたがたの幸福を回復するとき、/地のすべての民の中で、/あなたがたに名を得させ、/誉を得させる」と/主は言われる。」

 

Ⅴ、おわりに  

 

・新生について若干の考察

 

ゼファニヤ書第三章十六、十七節では、上記に見たとおり、「愛によって新たに生まれ変わること」が告げられていた。

 

新約聖書においては、この愛による新生が極めて重視され、より詳しく明確に告げられていく。

 

※ 参照:新約聖書における新生についての告知

 

ヨハネ3:3 (ニコデモとの問答)

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」」  (および同3:6-8)

 

ガラテヤ6:15

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」

 

Ⅱコリ5:17

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 

エフェソ4:24

「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

 

コロサイ3:10

「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」

 

テトス3:5

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」

 

※ 新生とは、キリストと結びついて、新しく創造されること。

 

※ 第一のアダム(古い人、外なる人)から第二のアダム(キリスト、新しい人、内なる人)へ (矢内原忠雄「創世記研究」『矢内原忠雄全集第十巻』)

 

旧約においては待望や希望だったこと(詩編51:12「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」 哀歌5:21「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」)が、新約においてはキリストの聖霊がそそがれることで実現したと告げられる。

 

キリストと結びついた霊としての部分、「内なる人」、「新しい人」は、キリストと結びつくことで、日々に新しくなる。

 

Ⅱコリ4:16

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」

 

ガラテヤ2:20 

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

 

・高橋三郎は、人の新生の基礎は、キリストによる罪の赦しに触れ、神によって義とされた者に対する神の絶対的肯定を絶対的に信頼し、神の大いなる肯定・神の愛に支えられることと述べている。かつ、神の栄光を「見る」ことによって「主と同じ姿に変えられていく」ということを指摘している。

(高橋三郎「新しい生命」『挫折と新生』教文館、1975年、114-133頁)

 

・ルカ6章平地の説教やマタイ5~7章の山上の垂訓やヨハネ15章の訣別遺訓のような教えは、人間の頭からは決して出てこない。天上から来たもの。これらと結びついて、人は日々に新しく生きうる。(参照・ロマ12:2)

 

※ ただし、回心や新生にも、おそらく一気に劇的に変わる場合と、少しずつ変わる場合があると思われる。古い人と新しい人は通常混在・共存。移行も人によってプロセスが異なる。

パウロタイプとペテロタイプ。(頓悟と漸悟)

 

・私の場合を言えば、そんなに一気に何か変わったわけではなく、少しずつ変えられ、それも今のところ大して立派な人間になったことなどはなく、今もゆっくりと継続中のプロセスなのだと思う。

・ただし、かつてはこの世の中の出来事や自分の人生を考えると、悲観的になりやすかったのが、不思議とキリストを信じるようになってから、根底の部分で楽観的になり、希望を持つことができるようになった。

 

・また、ゼファニヤ3:16、17の箇所が、神が信仰を得た人の存在を喜び、「喜びの歌をもって楽しまれる」と記していることは、ルカ15章の見失った羊や無くした銀貨を見つけるたとえや、放蕩息子の帰還と通じる内容。讃美歌を私たちが喜んで歌っている時は、神も喜んで歌っておられるのだと思われる。

 

新共同訳・ゼファニヤ書3:16-17

「その日、人々はエルサレムに向かって言う。

「シオンよ、恐れるな

力なく手を垂れるな。

お前の主なる神はお前のただ中におられ

勇士であって勝利を与えられる。

主はお前のゆえに喜び楽しみ

愛によってお前を新たにし

お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」」

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、新改訳2017、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数