トビト記 資料

『トビト記 神の恵みと導き』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、トビトの失明とサラの結婚にまつわる出来事

Ⅲ、トビアの旅と結婚と帰還

Ⅳ、神への讃美とトビトの勧め

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに             

     

(左:レンブラント 中央:ヴェロッキオ 右:レンブラント

 

トビト記とは旧約聖書続編の一つ。おそらく紀元前二世紀頃に書かれたと推定される。現在はギリシャ語およびラテン語の写本しか残らないが、アラム語のテキストが最初に存在していたと推定されている。アッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされた後の捕囚の人々の物語のため、おそらく北イスラエル王国の流れを汲む人々に伝わった伝承。トビトが失明し、その息子のトビアが旅をし結婚をして無事に帰還し、トビトの目も癒されることが記される。天使・ラファエルが人間に姿を変えてトビアと旅を共にし、犬も同行する等が記され、聖書中でも物語色豊かな精彩に富んだ特色ある箇所となっている。

 

旧約聖書続編とは旧約聖書ギリシャ語訳である『七十人訳聖書』(セプトゥアギンタ)に含まれているが、ヘブライ語原文が存在しなかったため、プロテスタントによって外典に区分された文書。カトリックでは今でも正典(第二正典)として聖書に含めている。

 『七十人訳聖書』はおそらく紀元前3世紀から紀元前2世紀末に成立したもので、伝説ではエジプトのプトレマイオス朝プトレマイオス2世の勅命で72人のユダヤ教長老が72日間別々の部屋で翻訳し、持ち寄ってみたらすべての語句が細部まで一致していたと伝わる。ヘレニズム時代およびローマ帝国時代はギリシャ語が国際語として流通し、『七十人訳聖書』はギリシャ語翻訳でありながらヘブライ語聖書に匹敵する権威を有した。

新約聖書の時代、キリスト教徒が聖書として参照し、引用したのは『七十人訳聖書』だった。新約聖書そのものもギリシャ語で書かれたが、引用される旧約聖書の文章もギリシャ語の『七十人訳聖書』だった。

しかし、ユダヤ戦争(66-70年)後に、ヤムニア村に集まったファリサイ派の学者たちがユダヤ教再建のためにさまざまな決議を行っていく中で、ヘブライ語原文を有する現在の旧約聖書39文書のみが正典とされ、『七十人訳聖書』のギリシャ語訳のみが存在する文書群は聖書から外された。

このヤムニアの決定はユダヤ教の決定であり、キリスト教はなんら拘束されないものだったため、キリスト教カトリック)の聖書には『七十人訳聖書』に含まれヤムニアの決定で外されたトビト記などの現在「旧約聖書続編」あるいは「旧約外典」とされる文書が聖書として含まれ続け、ヴルガタ訳(カトリック教会で正典とされたラテン語訳聖書)にも含まれた(ヴルガタ訳の中心となったヒエロニムス自身は第二正典をあまり重視していなかったが、ヒエロニムスより古い訳の第二正典部分がヴルガタ訳に収録された)。

しかし、ルターが宗教改革を起こし、プロテスタントが起こる過程で、ヘブライ語原文を重視する人文主義の影響もあり、プロテスタント旧約聖書をヤムニアの決定と同じく39文書とすることとし、第二正典部分は聖書から外されることとなり、カトリックにおける第二正典部分は「旧約聖書外典」として区分されることになった。しかし、プロテスタントの聖書においても、19世紀までは「読めば有益な書物」として巻末に付録として付されるのが通例だった(ジェームズ欽定訳にもアポクリファとして附録のような形で続編部分が収録されている)。だが、19世紀以降、聖書普及のために大量に聖書が配布される時代に「外典」は姿を消した。内村鑑三もトビト記には全く言及していない。

のちに、プロテスタントカトリックが共同で聖書の日本語訳として出版した『新共同訳』や『協会共同訳』においては、「旧約聖書続編」として第二正典・旧約外典部分が収録されることになった。(参照・加藤隆『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(大修館書店、1999年))

 

個人的な思い出:私の家族が生前、レンブラントの絵の影響でトビト記を愛読。西洋の絵画には多くのトビト記をテーマにした絵画が存在し、西洋のキリスト教世界においてトビト記が長く愛読されてきたことをうかがわせる。

 

□ トビト記の構成 

 

第一部 トビトの失明とサラの結婚にまつわる出来事(1:1~3:17)

第二部 トビアの旅と結婚と帰還 (4:1~12:22)

第三部 神への讃美とトビトの勧め(13:1~14:15)

 

第一部では、アッシリアの捕囚となった北イスラエルの民の一人であるトビトが、いかに正しく生きた人物であったかが語られる。また、遠くの友人に預けていたお金を除く全財産を失ったことや、失明し、妻とケンカをする様子が描かれる。さらに、のちにトビトの息子・トビアの妻となるサラが、遠く離れた地において、七回結婚しようとして初夜を迎える前に婚約者が悪魔のために死んでしまい、召使にののしられて悲嘆にくれ、神に祈る様子が描かれる。

第二部では、トビトが友人に預けていた大金を返してもらうための旅にトビアが出かけることになり、人間に姿を変えた天使・ラファエルと一緒に旅をすることになる。旅の途中、魚の内臓を入手し、サラの家を訪れ、魚の内臓の香りで悪魔を撃退し、サラと結婚し、無事にトビトの友人からも大金を返却してもらう。無事に帰宅したトビアをトビトは喜んで迎え、魚の内臓からつくった薬でトビトの目も癒される。

第三部では、神へのトビトの讃歌が記される。さらに、アッシリアの滅亡が近いのでニネベから出てメディア地方に逃れることをトビトがトビアに勧め、トビアがそれを実行し、アッシリアの滅亡を見届けたことが記される。

 

 

※ トビト記はどのような物語なのか?そのテーマは?

 

・トビト記は、一見、アッシリア支配下の苦しい状況においても、常に神の教えを守り、正しく生きていたにもかかわらず失明したトビトを、神が天使を通じて助け、癒した物語のように読める。また、サラも、何の落ち度もないのに、悪魔によって七回も結婚する直前に相手が死んでしまうという悲劇に陥っていたのを、トビアと無事に結婚できるように天使が助けてくれたように読める。

また、魚の内臓からつくった薬が、悪魔を追い払い、トビトの失明を癒したというのは、それだけ見れば、荒唐無稽な物語のように見える。

 

⇒ しかし、これから見ていくように、実はトビトもサラも、他人に対してやや厳しく傲慢なところがあり、罪人に過ぎないことをトビト記はさらりと記している。また、そうであるにもかかわらず、その悲しみや祈りを、神がきちんと聞き、見守り、天使を通じて一方的な恵みを与えたことが記される。

 トビト記に出てくる「魚」については、「魚」は初期教会の歴史においてキリストを現すシンボルとなったことを踏まえて読むと、深い霊的な味わいがあると思われる。トビト記はキリスト以前、少なくともその百数十年以上前に書かれた書物であるにもかかわらず、キリストの香りが悪魔を退散させ、人生のパターンを変化させ、魂を癒し、魂の目を開かせることを預言した書物だと受けとめることができる。ユダヤ教の、しかもヘレニズム時代に描かれた書物であるにもかかわらず、実はとてもキリスト教的な内容を含んだ書物と思われる。

 

⇒ 上記二つのことを念頭に、トビト記を読んでみたい。

 

 

Ⅱ、トビトの失明とサラの結婚にまつわる出来事(1:1~3:17) (続1~7頁)

 

◇ 1:1-2 題辞

 

トビト:聖書の他の箇所に登場せず。その先祖たちの名前もトビト記にのみ登場する。最も遡った先祖のアシエルの名前は、ナフタリではなくシメオンの子孫として歴代誌上4:35に名前は出てくるが、ナフタリ支族だとするとトビトの先祖はこれとは別人。

 

シャルマナサル:シャルマネゼル5世(B.C.727-722)のこと。北イスラエル王国の首都サマリアを包囲し、陥落させ、イスラエルの人々を捕囚として連れ去った(列王記下17章)。しかし、シャルマネゼル5世本人も、サルゴン2世によって王位を簒奪され、殺害されたと今日の考古学では考えられている。

 

ティスベ:ティシュベと同じとすれば、エリヤの出身地(列王記上17:1)でギルアド(ヨルダン川東)の一部。ケデシュはガリラヤの一部(巻末地図4参照)。アセルはアシェルと考えると、その北とすればケデシュの南という記述と矛盾。フォゴルは不明。おそらく、ガリラヤの、ケデシュの南周辺の事かと考えられるが、正確な位置は不明。

 

◇ 1:3~22  律法を守るトビト

 

 トビトは「真理と正義の道」を歩み、ナフタリ支族がダンの黄金の子牛を崇拝していた間も、エルサレムの神殿に通い、十分の一の献げ物を行い、孤児・寡婦ユダヤ教に改宗した人たちに施しを行い、祖父の没後は祖母を大切にした。また、ハンナと結婚し、トビアという男の子が生まれ、アッシリアの捕囚となった後も異邦人の食べ物を食べず食物規定を守った。貧しい人々に衣食を配った。

トビトはシャルマナサル王のお気に入りとなり、王の必需品を購入する役人となり、財産を築き、その一部の10タラントン分の銀貨をメディア地方にいる友人のガバエルに預けた。(1タラントン=6000デナリオン。1デナリオンが1日分の賃金とされるので、単純に1万円と考えれば、1タラントン=6千万円。10タラントン=6億円。)

 しかし、センナケリブ(在位B.C.705-681)が南ユダ王国の攻撃に失敗し退却してくると、腹いせでユダヤの捕囚の人々を殺戮した時に、トビトは殺された人々を手厚く埋葬した。それがセンナケリブの怒りに触れ、トビトはお尋ね者となり、財産を没収された。

 トビト記には記されていないが、シャルマネザル5世の後はサルゴン2世がシャルマネザル5世から王位を簒奪して即位しており、サルゴン2世の息子がセンナケリブである。センナケリブバビロニアを征服しバビロンを破壊し、ニネベへの遷都を行ったが、南ユダ王国エルサレム包囲中に息子に暗殺された(列王記下19章)。

その後、トビトの甥アヒカルが混乱を鎮めて王となったエサルハドンの宰相となり、トビトは無事にニネベに戻れることができた。

 

(※ アヒカル:古代アッシリアの格言集を残した賢者。20世紀初頭にエジプトで発見されたパピルスに記された「賢者アヒカルの言葉」は、筑摩世界文学大系第一巻『古代オリエント集』にもその翻訳が収録されている。アヒカルはエサルハドン王の宰相だったが、甥の讒言で窮地に陥ったことや、王の前で生き残るための知恵を格言にしたことが記されている。その格言の中のいくつかは、旧約聖書箴言と共通の内容を持つ。(旧約聖書箴言は、賢者アヒカルの言葉のみでなく、エジプトの格言集「アメンエムオペトの教訓」などとも共通内容が見られる。おそらく、トビト記の作者は「賢者アヒカルの言葉」を愛読していたと考えられる。) 参照:「賢者アヒカルの言葉」

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/cicada/ahikar.html

 

 2:1~13 妻とのケンカ

 

 ニネベの自宅に帰ったトビトは、貧しい人々に施しをしようと思い、広場で殺されているイスラエル人の埋葬を行う。近所の人々にまた同じことをしていると嘲笑される。

 その後、庭で寝ている時に、雀の糞が目に落ちてきて、トビトは失明する。四年間失明の状態が続き、兄弟やアヒカルたちが心配して世話をするものの、失明は癒えなかった。

 妻ハンナは、織物の仕事で日銭を稼いでいたが、ある時に雇い主が山羊をプレゼントしてくれたので連れて帰ると、トビトは盗んだものだと決めつけて怒りだし、ハンナは「あなたの憐みはどこへ行ったのですか。どこにあなたの正義があるのですか。これであなたという人が明らかになりました。」と言う。

 

 3:1~6 トビトの神への祈り(愚痴?)

 

 妻の言葉を聞き、悲しんだトビトは、神を讃え、神の前に悔い改める一見殊勝な言葉を述べたあとで、自分はもう死んだ方がいいので、地上から解放し、死なせてくれと神に祈る。「私が耳にするのは、不当な辱めの言葉」だと主張する。

 

※ ⇒ 失明し、妻からののしられ、トビトが悲しんでの祈りではあるが、トビトの祈りは正当だろうか? 妻に濡れぎぬを着せて、反撃を受けたら、死にたいと神に祈るとは、あまり立派なこととは思われない。

 ⇒ トビト記は、一見トビトを非の打ちどころのない、律法を守る義人として描き、トビト自身も自分でそう思っていることを描いているが、実は妻に濡れ衣を着せ、反撃されると嘆き悲しみ、神に死を祈る、わりと身勝手で愚かな様子もさりげなく描いている。

 

 

 3:7~15 エクバタナにおけるサラの出来事と祈り

 

メディアのエクバタナ:巻末地図6参照。現在のイランのハマダーン。古代において繫栄した大都市。

 

 サラは、それまでに七回婚約して結婚しようとしたが、悪魔アスモダイのために、初夜を迎える前に相手の男性が死んでしまい、未だに独り身だった。

 サラに鞭で打たれた召使から、夫たちを殺したのはサラであり、なぜ自分を鞭打つのか、夫たちと同様に死ねばいいのに、といった内容のことを言われて、ひどく傷つく。しかし、自殺すると父親が悲しむと思い、神に自分の命を取り去るように祈る。

 サラは自分の清らかさを強調し、辱めの言葉への怒りや悲しみを述べ立て、これ以上生きても何にもならないと神に訴える。

 

 ⇒ トビト記は一見、サラが何の落ち度もないのに婚約中の男性に次々と死なれて、そのうえ召使に辱められてかわいそうだと思わせる。しかし、よく読むと、そもそも召使をサラが鞭で打ったので、召使が反撃してののしったことになっている。それに対してサラはひどく傷つき、神に対して命を取り去るように祈っているが、これははたして正しい態度なのか?

 サラがなぜ召使を鞭で打ったのか理由は記されていないが、特にたいした理由がないのだとすれば、あるいは八つ当たりだとすれば、主人としての傲慢さや弱い立場の人への冷淡さが性格としてあるように思われる。

 

 3:16 神の計画: 

トビトとサラの祈りは神に「同時に聞き入れられた」。人間は一度に一つの事しか聞けないが、神は全能なので、同時にすべての人の祈りを聞く。二人を癒すために、天使ラファエルが遣わされた。

 

ラファエル:カトリックではガブリエルとミカエルとともに三大天使とされる。しかし、前二者が新約聖書に登場するのに対し、ラファエルは新約には名前は登場しない。ヘブライ語で「神は癒される」という意味。

 

 

Ⅲ、トビアの旅と結婚と帰還 (4:1~12:22) (続7~22頁)

 

◇ 4:1~20 トビトの教訓

 

 トビトはガバエルに預けていた金を思い出し、トビアに取りに行かせることにする。その前に、トビトはさまざまな人生の教訓をトビアに伝える。

 

・母親を大切にし、神を覚え、正しく生き、施しをすること。身持ちを正しくし、同族と結婚し、怠惰にならず、使用人には賃金を速やかに支払うこと。酒にふけらないこと。思慮深い人々の助言を重んじ、神をほめたたえること。

 

「子よ、何をするにも注意を払い、すべての行為を節度あるものにしなさい。自分が嫌なことは、ほかの誰にもしてはならない。」

 

⇒ トビト記は、ユダヤ人の子弟に人生の教訓や生き方を教え諭す機能もあったと思われる。

 

◇ 5:1~22 天使ラファエルとの出会いと旅の準備

 

 旅立ちに際し、トビアの同行者を求めると、天使ラファエルがそうとわからないように普通の職探しをしているアザリアという人の姿で現れて、同行することになる。

 

 ラファエル(アザリア)は、「あなたに多くの喜びがありますように」「元気を出すのです。間もなく神があなたを癒してくださいます。元気を出すのです。」と優しい言葉をかけ、トビアへの同行も申し出る。それに対し、トビトは、自分は死人同然だといじけたことを言う上に、ラファエル(アザリア)の出自にこだわり、尋ね続ける。

 ラファエルは「なぜ家系を知る必要があるのですか」と言うが、これは家系や出自にこだわらない神や天使の価値観と、それらにこだわるトビトをはじめとした人間の価値観の対照性を示しているようにも思われる。ラファエルは、トビトに合わせて、自分がトビトと同じ部族の良い出自であることを伝えると、トビトは喜ぶ。

 

ハンナは息子トビアの出発を悲しみ、なぜ行かせるのか、金より命が大事ではないかとトビトに言う。トビトは心配するな、きっと無事だと言う。

 ⇒ あとでなかなか帰ってこないトビアを心配し、トビトは悲嘆にくれるので、この時の楽観性は何だったのかとも思われるが、一般的に父親は子どもが旅立つのを送り出すことに積極的で、母親は心配のあまり消極的になりがちな傾向を描いているとも思われる。

 

◇ 6:1~9  犬、魚

 

犬:トビアは、天使ラファエル(アザリア)と、犬と一緒に旅立った。犬が、ペットとして物語中に出てくるのは、聖書中この箇所のみと思われる(箴言などで、譬えにはしばしば登場する)。

 おそらく、天使とともに、犬(ペット)は神の愛や恵みの象徴。共に人生という旅をしてくれて、神の愛を送ってくれる存在(トビト記11章4節に無事に一緒に帰宅することが記される)。

 

:川で捕まえた魚をトビアはラファエルの指示通り捕まえ、胆嚢・心臓・肝臓を薬として保存し、身は焼いて食べて塩漬けにした。

 魚の心臓・肝臓は悪魔退散に、胆嚢は目の回復に良いと告げられる。

 

 6:10~7:17  トビアとサラの出会いと婚約

 ラファエル(アザリア)はトビアに、エクバタナに住むサラの話をし、結婚相手に勧める。トビアはサラが七人も結婚予定相手に死なれたことを恐れるが、ラファエルは魚の肝臓と心臓の香りで悪魔を退散できるので安心するように励ます。

 サラの父ラグエルと母エドナは、トビアとラファエル(アザリア)を歓迎し、サラとの結婚にも同意する。エドナはサラに「娘よ、元気を出しなさい。天の主が、お前の悲しみを、喜びに代えてくださるように。娘よ、元気を出しなさい」と言って送り出す。

 

 8:1~3 魚の肝臓と心臓の香りで、悪魔を追い出す。

 

 8:4~9a トビアとサラの祈り 

 (実は私の結婚の時の誓詞の一部分はここを踏まえて作成)

 

 8:9b~21 ラグエルはトビアが生きていることに感謝の祈りをし、婚礼の宴を開く。

 

 いったい「魚」とは何なのか?

ギリシャ語の魚=ΙΧΘΥΣ (イクチュス) 

 

初期キリスト教の教会においては、ローマ帝国の弾圧下において、「魚」がキリストのシンボルや暗号として用いられた。

 

ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ

エスス・クリストス・セウー・ヒュイオス・ソテール

 

 このそれぞれの頭文字をとると、ΙΧΘΥΣ(魚)となるためである。

 

トビト記が書かれたのはイエスの生誕や十字架上の死の二百年ほど前であるが、聖書が神の霊によって書かれ、旧約聖書の数々がイエスを預言していることを考えれば、キリスト教信仰の立場からは、トビト記がイエスをこのような形で預言していると考えても良いのではないかと思われる。

 つまり、「キリストを知る知識の香り」(Ⅱコリント2:4-16)は、悪魔を退散させるということであり、その象徴的表現や予表ということである。

 魚の心臓と肝臓とは、キリストの心を心として歩み、自らの肺腑とし人生の肝とする時に、その人はキリストの香りを放ち、悪魔を近づけさせないということと思われる。

 

 では、悪魔アスモダイとは何なのか?

 

何か実際に悪魔という霊的な実体がいると考え、そうした存在がサラの婚約者を殺害したと見ることもできる。多くの現代人は、悪魔はおとぎ話上の存在と受けとめがちであるが、何らかの霊的な実体で、目に見えないところで我々に悪しき影響を与える存在がおり、そのことを記しているとも考えられる。

 

その一方で、トビト記のここで言うところの悪魔、つまり、サラの結婚予定者が繰り返し死んでしまう出来事は、人生におけるなんらかの負のパターン、罪の影響による悪いパターンのようなものを指しているとも考えられる。

 ジョン&ポーラ・サンフォード『変革され続けるための鍵』(マルコーシュ・パブリケーション、2018年)という本には、曽祖父・祖父・父が皆39歳の時に死んだ男性の話や、家族の男性が必ず事業に失敗してしまう人や、アル中で暴力的な男性ばかりを相手に選ぶ女性が何代にも渡って続いている家族を持つ女性の事例を挙げ、トビト記のサラの結婚予定相手が次々に死んだことと重ね合わせて考察している(同書290頁)。

 何らかの罪やネガティブな心の傾向の結果が、家族の数世代に渡って繰り返され、似たような悲劇や失敗を繰り返すパターンが大なり小なり存在することは、しばしば見られると思われる。しかし、そうしたパターンを、キリストの心を心として生きれば、打ち破り、幸せになることができるということを、トビト記のこの箇所は示していると思われる。

 

 

◇  9:1~6 ラファエル(アザリア)が、婚礼の宴の途中であるトビアの代理に、証文を持ってトビトの金を預けているガバエルのもとに行き、ガバエルを連れて婚礼の宴の席に戻り、預けていた金も無事に受け取る。

 

 

◇  10:1~11:16 予定の日が過ぎても帰宅しないので、トビトとハンナは悲嘆にくれた。トビアはエクバタナから出発することにし、ラグエルエドナはトビアとサラを祝福して送り出す。トビアは、「どうか両親が生きているかぎり、彼らを尊び敬うように御導きください」と祈り、サラの両親も自分の両親同様に大切にすることを目指し、神に祈る。

 トビアはアザリア(ラファエル)とともに無事に帰宅し、ハンナは抱きしめて迎える。トビアは早速、トビトの目に息を吹きかけ、魚の胆嚢を塗る。すると、トビトは目が見えるようになる。トビトは神を讃える。

 

「神がほめたたえられますように。その大いなる御名はほめたたえられますように。神のすべての聖なる天使もほめたたえられますように。神の大いなる御名によって、私たちが守られますように。すべての天使がとこしえにほめたたえられますように。」

 

⇒ 神とともに、天使もほめたたえている、聖書中めずらしい箇所。

 

 トビトはサラと出会い、サラとその家族たちを祝福し、神に感謝する。祝福と喜び。アヒカルたちもやって来て共に祝う。

 

   

 

◇  12:1~21 トビトとトビアは、アザリア(ラファエル)に感謝し、持ち帰った金額の半分(つまり3億円相当)を報酬として渡そうとする。しかし、ラファエルは、正体を明かし、トビトが死者を埋葬したことをきちんと見ており、記録していたことを告げ、天に昇っていく。

 

 「いつも神をほめたたえていなさい。神があなたがたのためにしてくださった数々の恵みを、すべての生きとし生けるものの前で感謝し、人々が神の御名をほめたたえ、賛美するようにしなさい。神の言葉を、畏敬の念をもってすべての人々に示し、神に感謝することをためらってはなりません。」

「日々、神をほめたたえ、賛美の歌を献げなさい。」

「さあ、地上で主をほめたたえ、神に感謝を献げなさい。」

 

 ⇒ ラファエルによる賛美の勧め。慈善や正義も勧めるが、特に賛美を勧めている。

 

 

Ⅳ、神への讃美とトビトの勧め(13:1~14:15)(続22~26頁)

 

 13:1~18  神への賛美 トビトは、ひたすら神を讃美し、エルサレム(霊的に受けとめるならばエクレシア(教会、集会))を賛美する。

 

 14:1~11 トビトの最後の勧め

 

 トビトはナホムの預言を引きつつ、アッシリアの滅亡が近いことをトビアに告げ、ニネベから出てメディアの地方に逃れることを勧める(史実では、エサルハドンの孫の代にアッシリアは滅亡する)。

 

「さあ、子らよ、あなたがたに命じる。真実をもって神に仕え、神の意に適うことをしなさい。あなたがたの子どもたちに正義と慈善の業を行わせ、彼らが神を覚え、どんなときにも真に、力を尽くして神の御名をほめたたえるように教えなさい。さあ、わが子よ、ニネベから出て行くのだ。いつまでもとどまろうとしてはならない。」

 

 14:12~15  その後のトビア

 

 トビアは、トビトとハンナの死後、サラとともにメディアの地に移り、エクバタナでラグエルらとともに住み、ラグエルエドナに孝養を尽した。トビアは117歳まで生き、アッシリアの滅亡を見届けた。

 

「ニネベとアッシリアの子らに対して神がなされたすべてのことのゆえに、トビアは神をほめたたえた。彼は息を引き取る前に、ニネベに起こったことを喜び、とこしえにいます主なる神をほめたたえた。」

 

⇒ これがトビト記の結び。しかし、トビアのこの反応でいいのだろうか?

捕囚の民がセンナケリブらによって虐殺されたり、トビトが苦労したことを思えば、トビアがアッシリアに深く恨みを抱き、神が裁きを下したことを喜ぶ気持ちはわからなくもない。

しかし、ヨナ書においてニネベの滅亡を惜しみ、回避しようとし、ニネベの市民や動物たちを愛していることを告げた神の慈愛と比べて、トビアはやや民族的に偏狭な心を持ち、アッシリアの滅亡とその中で苦しんだであろう人々に対して冷淡過ぎる印象も受ける。

のちに、バビロン捕囚やユダヤ戦争でアッシリア同様にユダヤの民が滅亡していったのをもし目撃したならば、トビアはこのような他人事の態度をとることはできたのだろうか。

 

⇒ トビトやサラやトビアは、全体としてはよく律法を守り、善人であるにもかかわらず、ところどころ家系や出自にこだわり、自民族中心的で他に冷淡な性格が顔をのぞかせる。ゆえに、旧約聖書続編は、まだ新約聖書のような完全な隣人愛を教える高い啓示の段階には達していないものと言って良いように思われる。

 

⇒ にもかかわらず、天使ラファエルを通して、神は一方的にトビトやトビアとサラに愛と恵みを示し、その良いところを見て、悪いところを責めなかった(しかし、記録はした)。

 

神の一方的な恵みと、それに対する人間の側の応答として、行いよりも讃美を主に強調するという点で、トビト記は旧約から新約への過渡期の、まさに旧約聖書続編と呼ぶにふさわしい、かなり新約に近づいた内容を持つものと言えると思われる。

 

Ⅴ、おわりに 

 

トビト記から考えたこと

 

・天使を通じて、神が癒しや愛を人間に伝えること。また、天使はしばしば、人間の姿をとり、現れること。

 私の人生を振り返った時に、しばしば神や天使が、なんらかの人を通して、助けてくれたり、導いてくれたことがあったように思われる。

 

・キリストの心を心として、キリストの香りを放つように生きる時に、悪魔も恐れるに足らず、悪魔を退散させ、人生のパターンを変えることができる。

 

・トビト記は細部を読むと、実はトビトやサラやトビアが、あまりたいしたことのない罪人の一人であることを記しており、にもかかわらず祈りがきちんと聞き届けられ、神の愛と導きが一方的に与えられていることが記されていることに、今回読んでいて気づかされた。

 

・神の愛や導きや恵みに応答するための人間の側がすべきことは、まず第一に感謝と讃美であり、その他の善行や行為は二次的なものであること。

 

・トビト記で興味深いのは、犬が旅を共にする存在として登場すること。ここでの犬は、人生という旅を共にしてくれる、神の恵みや愛の象徴と思われる。

 

・トビト記は、一見、天使や魚や悪魔といった荒唐無稽な内容の物語のようでありながら、象徴的に神の導きや恵みを解き明かした、極めて霊的に深い物語。読めば有益な書物。ゆえに、旧約聖書の正典とは位置づけないとしても、プロテスタントにとっても旧約聖書続編は学び、味わうに値する文書群であり、今後もっと読まれ、取り上げられることが多くなることが望ましいと思われる。

 

 

「参考文献」

 

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳

・その他の参考文献は資料の文章中に記載。