自分が何を求めているのか、自分が何を求めていたのか。
人はその時はわからず、随分あとになって、それが何なのか、わかる場合もある。
私の場合、若い時から、なんといえばいいのだろうか、「いのちの根っこ」と言えばいいのだろうか、精神的な意味における「いのちの糧」といえばいいのだろうか、そういうものをずっと探し求めていた気がする。
そのために、自分なりに、古今東西のいろんな本を読んだ。
儒教や仏教や近代思想や哲学や、さまざまな古典文学も読んだ。
旅もし、いろんな人の話も聞いた。
その時に求めていたのは、要はそういうことだったのだと思う。
そして、その時々に、その時には、何か満足したような気がする時もあった。
その時々は、心の糧となる場合もあった。
しかし、その時ははっきり自覚できなかったけれど、何かしら、いつもある種の不安や、満たされない何かが、つきまとっていたような気がする。
その時、しばし満たされても、末通らない、また何かしら求めざるを得ない、そんなものがつきまとっていた。
私がなぜキリストを信じるのかというと、実は、上記の実体験からである。
というのは、キリストに触れると、なぜかはわからないけれど、末通るものを感じる。
キリストにおいて、私はいのちにはっきりと触れ、いのちの根をはっきりつかんだことを感じ、もはや魂の飢えにおける不安や満たされない末通らないものがなくなる。
これはなぜかはわからない。
しかし、私の経験上は、そうとしか言えない。
キリストにしっかりとつながる時に、深い心の平安と恵みを感じ、長らく求めていたことの答えを今ここで得ることを知るのである。
これは理屈ではなく、実験上のことである。
おそらく、同じ経験をした人々は、多くいるだろうけれど、やはりあまりうまくは説明できないのだろうと思う。
どの宗教でも救われるとか、どの道も救いにつながるということを、特に日本では言う人が多い。
そうなのかどうか、それが違うとも私には言いきれないし、よくわからないとしか言えない。
しかし、私においては、他のことではなく、ただキリストにおいてのみ、以上のとおりであったと言える。
もちろん、他の宗教や道も、なんらかの形、あるいはおぼろげな形で、キリストを指し示している場合もあり、その場合は、その意味があったと言えると思う。
旧約は、どの民族にも与えられていると思う。
そして、人が本当に求めているものは、この「いのちの根」や「いのちの糧」であり、誰もなんらかの形でこれらをそれぞれに求めて生きているのではないかと思う。
おそらくは、上記のようなことを言えば、反発を覚える人もいるのかもしれない。
しかし、なんとも不思議なことだが、私の実験上、上記のことを告白せざるを得ないし、できることなら、三十代後半になってからではなく、もっと早く、このことを知りたかったと思う。
なので、他の人にも、参考として、伝えたいとは思う。
もっとも、おそらくは、体験というものは、いかなる美味も自ら味わわねばわからないように、言葉ではなかなか伝えることができないものなのかもしれない。
それにしても、実に不思議なことは、私のように頑固でキリストを最も拒んでいたものが、このようなことを思い知るようになった不思議さである。
たぶん、たいていの人よりは私の方が頑固で、なんとかキリストなしに済まし、キリストを迂回していのちの根を求めようとし、そのためのあらゆる工夫をなしていたような気がする。
この世に奇跡があるとすれば、私のような人間が、上記のように述べるようになった、そのことのようにも思う。
ただ、上記のことを思えば思うほど、いのちの根というのは、キリストであり、キリスト教ではない、ということである。
いのちの根はキリストであり、キリスト教ではない。
世のキリスト教というものは、しばしば、むしろいのちの根に至るのを妨げてしまうことすらあるのではないかと思う。
いのちの根そのものより、何かその周りをとりかこむ、それらしきものの分厚い堆積が、いわゆるキリスト教、特にヨーロッパのキリスト教の歴史というものではないか。
そんな気がする。
なので、私は世のいわゆるキリスト教を経ずして、己の魂で直接キリストに触れることを求める。
その方法は、何も難しいことはなく、ただ聖書を読むだけである。
時には、同じ心の人々と集会を持ち、聖書を説教するのではなく講義するのを聞いて、人の話ではなく聖書の言葉を聞いて、讃美歌をうたい讃美するのみである。
その意味で、私は内村鑑三の無教会主義に、心から共感し、感謝する。
この道が与えられていることを、本当に神の恵みと思う。
山鳥の尾のように長い長い夜の後に
しずのおだまき繰り返す長い長い輪廻の中で
岩走る垂水の上の
いのちの水に出会い
私の渇きは癒された
渇いても
また癒される
尽きることのないいのちの川