徳川家広さんの講演を聞いた。
徳川さんは、徳川宗家、つまり徳川将軍家の十九代目。
たしかに、恰幅が良くて温厚そうな、徳川家康のイメージによく似ている感じの方だった。
関ヶ原の戦いや幕末に関して、巷間とはかなり違う切り口の面白い御話をいろいろしてくださった。
また、元和偃武は徳川家康の平和宣言であり、そのために緻密な計画や政策を工夫していたという御話や、日本国憲法はある意味元和偃武をもう一回行ったものであり、何も占領軍の押し付けではなくて日本にはもともと平和主義があったこと、などなどを御話されていて、面白かった。
「あの日本国憲法を貴族院で通したのは私のおじいちゃんの徳川家正でした」、とおっしゃり、戦後の日本国憲法を強く支持し誇りに思っている様子は印象的だった。
質疑応答の時間に、せっかくの機会なので、私も、
「たしかに徳川幕府の平和というのは評価すべきものだったと思いますが、今日御話に触れられなかったもう一つの側面の、切支丹弾圧について、どう思われますか?」
と質問してみた。
それに対して、徳川さんは、以下のように答えてくれた。
「戦国時代、キリスト教の宣教師が来た時に、お金も女も美少年も何も欲しがらない彼らの様子を見て、どうやら本当に自分たちの教えを真剣に信じているらしいと、当時の日本人たちは驚き、感動したようです。当時の仏教の僧侶は、多くが堕落していたり、あまり真剣ではなかったのでしょう。
また、釈迦が王子で、孔子が自分自身は低い身分にもかかわらず身分制を肯定擁護したのに対し、イエス・キリストが貧しい大工の子で、そして貧しい人々のために生き、十字架にかけられて死んだということに、当時の日本人は驚き、大きな印象を受けたようです。
ですので、キリスト教を信じない人でも、当時の多くの日本人が、イエスは立派な人だと思ったらしいです。
家康も、本人自身はそれほどキリスト教や外国に対して抵抗感はなく、むしろかなり後の時期までメキシコとの貿易を模索したりしていました。
おそらくは、家康自身の意志というよりも、朝廷や公家や神社・仏教の勢力が、家康に切支丹弾圧を迫ったのではないでしょうか。
おそらく1603年頃に、征夷大将軍の位をとるか、メキシコとの貿易をとるか、家康に選択を迫ったのだと思います。
私自身は、「人の一生は重荷を背負いて遠き道をゆくが如し」の家康の言葉の「重荷」とは、イエス・キリストの十字架のことだと思っています。」
とのことだった。
特に最後の言葉は、かなり意外な御答えだった。
面白い御話を聞くことができて、感謝。