マラキ書 資料(3)

『マラキ書(3) 義の太陽と十分の一の捧げもの』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、使者とメシアの到来

Ⅲ、十分の一の献げ物について

Ⅳ、神を蔑ろにする者と神を畏れる者

Ⅴ、義の太陽

Ⅵ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに             

   

 ・前回のまとめ:マラキの生涯は不明。おそらく紀元前六~五世紀頃、捕囚帰還後やや経った時代の人物。第一章では、イスラエルエドムを対照的に論じ、神がイスラエルを選び愛していることと、にもかかわらず人々が神を敬わず神に対して不誠実であることへの批判が告げられる。第二章では、レビと結ばれた命と平和の契約がないがしろにされていることへの批判と、離婚への批判が述べられ、さらに不信の言葉(善悪無用論と神無用論)が神の心を煩わせているということが告げられた。

 

□ 第三章の構成 

 

第一部 使者とメシアの到来(3:1~3:5)

第二部 十分の一の献げ物について (3:6~3:12)

第三部 神を蔑ろにする者と神を畏れる者(3:13~3:18)

第四部 義の太陽(3:19~3:24)

 

 マラキ書第三章は、大きく四つの部分に分かれる。

 

まず第一部では、道を整える使者とメシアの到来が告げられる。第二部では、十分の一の献げ物をすることが勧められ、そうすれば祝福がもたらされることが告げられる。第三部では、神を蔑ろにする者と神を畏れる者の区別が付けられ、後者は神の記憶の書に記されることが告げられる。第四部では、主の日つまり最後の審判の日と、義の太陽つまりメシアの到来が告げられ、その前に預言者エリヤが遣わされ、神と人の心の仲介をすることが告げられる。

 

 

Ⅱ、使者とメシアの到来(3:1~3:5) (旧約1476~1477頁)

 

◇ 3:1  

道を整える使者:新約聖書では、洗礼者ヨハネのことを予言している箇所と受けとめた(マルコ1:2。マルコにはイザヤ書と書いているが、実はマラキ書のこの箇所)。

 

キリスト教では、イエスのことと受けとめる。突然、やって来られる。

契約の使者:使者と主のどちらを指すか。主の新しい契約の前触れの使者ととれば前者、新たな契約を神から伝えるものととれば後者。

 

※ キリストの時代が来ようとしていることをマラキは明確に預言。神はどこにいるのか?という2章での問いに対し、使者とメシアを遣わし神は応えた。

 

◇ 3:2 

精錬:金属の純化、清めること。聖化のこと。人生はいったん信仰を得た(義認)ののちは、一生を通じて聖化の過程。神のかたちを少しずつ回復し、神の子としてふさわしい者に変えられていく道のり。(参照:ゼカリヤ13:9、神と応答する関係に入っていくこと。)

灰汁:原語のウーカボーリットは、英訳だとsoap、つまり石鹸と訳される。岩波訳脚注によれば、植物を焼いた灰には炭酸カリウムが含まれ、それにオリーブ油を加えたもので、洗剤として使われた。

 

※ キリストは、火で精錬するように、石鹸で洗うように、罪から私たちを清めて下さる。

◇ 3:3   新改訳2017:「この方は、銀を精錬する者。/きよめる者として座に着き、/レビの子らをきよめて、/金や銀にするように、彼らを純粋にする。/彼らは主にとって、/義によるささげ物を献げる者となる。」

 

協会共同訳「供え物を正しく献げる」⇒新改訳2017「義によるささげ物を献げる」 

原文ビスダカーは「義において」の意味。義において捧げる、義によって捧げる、と考えれば、神の義によって義認された人々が、みずからを生きた捧げものとして、つまり霊による礼拝や生き方によって神に捧げるということにも解釈できる。義認と聖化および義認の先行性を示すこととなる。

 

◇ 3:4  

ユダとエルサレム都市とそれ以外の人両方をすべて含むということ。東京と東京のみではない日本全体、というようなもの。

 

昔の日々にそうであったようにそれらの人々が主に喜ばれるアブラハムヤコブモーセらのように、義人として神から認められ喜ばれる存在となる。キリストを信じる私たちもまたかくの如し。

 

◇ 3:5  フランシスコ会:「裁きのために、わたしはお前たちに近づく。/ためらうことなく証人となる。/魔術を行う者、姦淫する者、偽りの誓いを立てる者、また、不正な賃金で、他国の者とやもめと孤児を虐げ、わたしを恐れない者に対して、/「わたしはためらうことなく証人となる」

 

協会共同訳「告発する」⇒フランシスコ会訳「証人となる」

 

呪術・魔術:他人を呪ったり操作しようとしたり、迷信に走り、自己中心的な欲望をラクしてかなえようとする態度に生じる罪の問題。悪霊との交わり。

 

姦淫:参照・ホセア書、マラキ2章など。聖書では結婚の神聖が重視され、また神と人間の関係を結婚にたとえ、相互に忠実で誠実で愛のある全人格をあげた関係であることを求めている。それに反する行為の問題。

 

偽りの誓い:偽証や虚偽。現代社会でも虚言虚偽や詐欺の横行。

 

寡婦・孤児・寄留者:中東地域では古代より、王が寡婦・孤児の守護者とされてきた。さらに寄留者への保護を重視しているのが旧約聖書の特徴。ヘブライ人の出エジプトの伝承がなんらかの実体験であったことが背景にあると考えられる。現代日本でも外国人就労者に対する人権侵害や劣悪な環境の問題がしばしば発生している。

 

※ 上記の罪は、聖書ではいわば神に対する罪とされ、神をないがしろにすることとされるが、これらの罪を犯しながら、にもかかわらず人々が神を恐れないということがこの節では指摘される。 ⇒ 現代日本も似たように神への恐れの欠けがちな社会ではないか。

 

 

Ⅲ、十分の一の献げ物について (3:6~3:12) (旧約1477頁)

 

◇ 3:6  神は永遠の存在であり、神を信じる人々も神によって永遠のいのちが与えられる存在であり、また神の永遠の配慮や愛の対象であること。

 

◇ 3:7  神に立ち帰れ、そうすれば神も人に立ち帰ってくださる。

参照:ゼカリヤ1:3。神は人が立ち帰れば、ただちに応答してくださる(ヨナ)。

 

◇ 3:8-10  どう神に立ち帰れば良いか? ⇒ 十分の一税の献納

 

十分の一税とは?:収穫・収入の十分の一を、レビ人・祭司に献げること。十二支族の中でレビ人だけ祭司の一族として嗣業の土地を持たず、この十分の一の捧げもので生計を立てることとなっていた。申命記民数記に規定される。新約の時代では、この十分の一税の他に、ローマ帝国人頭税や通行税を納めねばならず、庶民は重税に苦しんだ。また、中世ヨーロッパではローマ教皇庁が律法の十分の一税を根拠に十分の一税を徴収し莫大な収入を得た。

 

※ ただし、もともとの申命記の記載では、十分の一税は、レビ人や祭司などの宗教者に対する捧げものだけを意味しておらず、寄留者・孤児・寡婦に対して分配すべきものだった。つまり、同じ社会に生きる社会的弱者に対する再分配の拠出を意味していた。

 

申命記14:28-29「あなたは、三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置かなければならない。あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい。そうすれば、あなたの神、主はあなたの行った手の業すべてを祝福されるであろう。」

 

申命記26:12-15「十分の一を納める三年目に、すべての収穫の十分の一を納め終わって、レビ人、寄留者、孤児、寡婦にこれを施し、彼らが町の中で食べて満足したとき、(―中略―)あなたの聖なる住まいである天から見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが私たちの先祖に誓われたとおりに、私たちに与えてくださった土地、乳と蜜の流れる地を祝福してください。」

 

⇒ ※ ゆえに、マラキ書の十分の一の献げ物の規定も、レビ人や神殿に対するものに限られず、申命記に規定するように社会的弱者への再分配を意味していたと考えられる(両方十分の一の献げ物が祝福と関連付けて述べられている)。

 

※ 収入の十分の一を神のために奉仕している人々や社会的弱者のために献げ、再分配を行う時に、その人や社会に対して神が天の窓を開き祝福をそそぐことが約束されている。

 

※ 人は神から祝福されたいのであれば、まずは人に与えること。(参照・ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

◇  3:11-12

 

ばった:原文は「食い荒らすもの」であり、特にばったとは言及なし。ただし、ばったと受けとめるならば、参照・ヨエル1:4。

作物を食い荒らすイナゴなどを指すとも考えられるが、象徴的に受けとめるならば、人の心や魂を食い物にしたり荒廃させるさまざまな有害な情報や心ない人の態度を指すとも受けとめられる。魂に有害無益なそれらからきちんと自分の心を守っていくことの大切さ。ただし、人が自分の力で自分の心を守ることには限界がある。

 

⇒ 神はそのようなばった/食い荒らすものを𠮟りつけ、守ってくださる。

 

※ 幸せな者・喜びの地となる。

Ⅳ、神を蔑ろにする者と神を畏れる者(3:13~3:18)(1477~1478頁)

 

 3:13 参照・マラキ2:17。神を煩わせ、神にとって激しいと思われる言葉に、人間はしばしば全く無頓着で、無自覚であること。

 

 3:14-15 神への奉仕を無意味と考え、神は人間に無関心で無関係だと考える態度。また、悪人が栄え罰をまぬがれると考えること。

 神の心を最も痛める態度。

⇔ 神は人間の嘆きをきちんと目にとめ救う(出エジプト2:24-25など)。

 

□ 正直なことを言えば、マラキ3:14-15は私自身がしばしば思っていたことであり、今でも時折思うこと。ただし、14節の部分に関しては、神は人の嘆きに目をとめる慈しみ深い存在と以前に比べればはるかに感じているし思うようになった。しかし、15節の部分に関しては、世の中の権力者などを見ると、しばしばそう思うことなどもある。

 

⇒ ただし、歴史を見れば、悪や悪人は、最終的には審判を下される。

  1. ナチスドイツ、ヒトラーetc. スターリンの場合は、ヒトラーのように戦争に負けたり滅ぼされることはなかったが、臨終の時にいったん死んだと思われたのが、また起き上がり、恐怖に満ちた目で周囲を見回してから本当に死んだという逸話を考えれば、霊的には審判があったと思われる。

 

 3:16  新改訳2017「主の前で記憶の書が記された。」

 

 記録の書・記憶の書:参照・黙示録20:12「また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。」

 

□ コーランにも人々の生前の行為が記された巻物が出てき、それにもとづいて最後の審判がなされることが述べられる。仏教においても無量寿経には「神明記識」という表現で生前の行為はすべて記録され記憶され、死後はその行い(業)に従って善いところや悪いところに生まれ変わっていくと記されている。

 

◇ マラキ書のこの箇所では、主を畏れる人々が語り合えば、神が耳を傾け、記憶してくださることを告げている。

⇒ 神を畏れるとは、単に恐れるということより、心から尊敬し、愛情の誠を尽すこと(参照・マラキ1:6、父や主人よりも神を尊んでいるかどうか)。

 

⇒ 主を畏れる・愛する者たちが互いに語り合うとは、エクレシア(集会・教会)のこと。信仰は孤立したものではなく、エクレシアにおけるコイノニア(交わり)が重要。エクレシアにおいて神の霊は働くし、神は覚えて記憶してくださる。

 

 3:17  

神の宝となる:「宝の民」(申命記7:6、同14:2、同26:18)。

母親がたとえ赤ん坊を忘れることがあったとしても神は忘れず、その名を手のひらに刻み愛してくださる(イザヤ49:15-16)。

 

子を憐れむように神は憐れんでくださる:神の子となり、神がわが子と同様に慈しんでくださること。参照・Ⅰヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。」

 

 3:18  正しき者/悪しき者、神に仕える者/仕えない者、神を畏れる者/畏れない者、の区別をきちんと知ること。

 

 前者には祝福が、後者には滅びが、それぞれ訪れることを知ること。(参照・マタイ5:3~12「幸いなるかな」(Μακάριοι)

 

 

Ⅴ、義の太陽(3:19~3:24)(旧約1478頁)

(マラキ3章の19節以下は、新改訳2017やNIVでは第4章とされている。)

 3:19  主の日=最後の審判の日。 

 

 3:20  義の太陽

 

バルバロ訳「だが、私の名を恐れるものには、正義の太陽が昇り、その翼には、救いがある。おまえたちは、小屋にいる小牛のようにとびだして跳ねまわるだろう。」

 

フランシスコ会「しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、/正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。/お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳び踊る。」

 

※ 太陽は、人の心をあたため、生かすことのたとえと思われる。また、神の慈愛が誰にでも等しくそそがれること、および闇の中でも輝く命の光を現していると思われる。義の太陽=人々に義を与えるキリストの十字架の愛。

 

マタイ5:45b「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

 

ヨハネ1:3-5「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」

 

その翼には癒し・救いがある:親鳥が卵やひなを翼であたためるように、神は人を愛し、守り、育む(参照・マタイ23:37)。

 

牛舎の子牛のように踊り出て跳ねまわる:喜びのたとえ。参照・ハバクク3:18-19。

聖書には800回以上喜べや楽しめなどの喜びの言葉が書かれている(『愛少女ポリアンナ物語』)。

「喜びなさい。大いに喜びなさい(χαίρετε καὶ  ἀγαλλιᾶσθε)」(マタイ5:12)

 

 3:21 主の日には裁きがあり、悪は踏みつけられる。

 

 3:22 律法の想起。律法の精神であるところの、神を愛し隣人を愛し、神のかたち・似姿として、聖なる者となり生きること。

参照・マタイ5:18「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。」

  

 3:23 主の日が来る前に預言者エリヤが再び来る:新約聖書では、洗礼者ヨハネがこの主の日の到来の前にやってくる再来のエリヤだと受けとめている(マルコ9:12-13)。

  

 3:24 預言者エリヤは、神(父)の心を人(子ら)に向け、人の心を神に向ける、仲立ち・仲介を行う存在。人類の滅亡を避け・防ぐために活動する。

 

 神と人との間をつなぎ、キリストのことばや教えを人々に伝え、人々の罪を神にとりなし、祈る人は、いわばエリヤのような存在。

 

⇒ 日本にも、多くのそのような人々が現れたのではないか。内村鑑三、塚本虎二、矢内原忠雄、三谷隆正、高橋三郎、吉村孝雄、その他・・・。

そのありかたはさまざまなで、働き方は千差万別でも、人々の心を神に向けさせ、神と人との間をとりなそうとして生きた・生きる人々に対しては、エリヤに対するように敬意を払って大切にすべき。

 

 

Ⅵ、おわりに 

 

マラキ書三章から考えたこと

 

・神が私たちを洗い清め精錬してくださる。義認ののちの聖化にあずかることのありがたさ。

 

・十分の一の献げものは、レビ人に対する再分配であるのと同時に、寄留者・孤児・寡婦など社会的に弱い立場にある人への再分配であったこと。また、そうした人に与える行為が、祝福の雨を降らすきっかけとなること。

 

・人の人生は神の目の前にあり、記憶の書にとどめられること。義人と悪人の区別とそれぞれの最終的な結果の区別と認識の重要性。

 

・主が義の太陽であり、命の光で、照らしあたためてくださることのありがたさ。そのありがたさや感謝に、おのずと十分の一の捧げものなどをすること。

 

十二小預言書全体の学びを通して

 

・六年ほどかけて、十二小預言書をすべて読み通す。集会の皆様と神に感謝。

 

・北イスラエル滅亡の前から、南ユダのバビロン捕囚や捕囚帰還後までの、紀元前八世紀から紀元前四世紀頃の、おそらくは少なくとも三百年ぐらいの間に、十二人の預言者がそれぞれに異なる立場や時代から行った預言。それぞれの時代背景の面白さ。列王記・歴代誌・エズラ記・ネヘミヤ記との関連。

 

・と同時に、それぞれの時代背景や預言者たちの個性の違いとともに、明らかに一つの神聖な霊の発動を感じさせる、密接な関連性と一貫性。

 

・聖書は一つの有機体であり、どの箇所でも深く読めば聖書全体とつながり、聖書全体を読むことにつながる。聖書には一つも無駄なところはなく、どの箇所も深い神の御心をうかがうための貴重な箇所となりうる。

 

・聖書の他の箇所と比較した時、十二小預言書は、社会正義の重視(アモス、ミカ)が顕著に見られるところが特徴と思われる。

・また、絶望的な状況においても決して絶望せず喜んで生きていく姿(ハバクク、ヨエル)、再建への意志(ハガイ)、受難のキリストについての明確な預言(ゼカリヤ)、悪への怒り(オバデヤ、ナホム)、最後の審判への明確な意識(マラキ、ゼファニヤ)、神との愛(ホセア)、神がイスラエルを超えてあらゆる民族や動物を愛していることへの明確な告知(ヨナ)も印象深い。

・これらは、社会的な正義感を持たず、己れ一人だけの安心や安逸を求める態度とは異なり、また時代に絶望して無気力に陥る態度とも異なる。神の御心がいかなるものであるか、聖書全体を正確に読み、読み誤ったりすることがないようにするためには、十二小預言書は極めて重要な内容と思われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。

マラキ書 資料(2)


『マラキ書(2) 父なる神との命と平和の契約』 

 

Ⅰ、はじめに
Ⅱ、祭司への警告
Ⅲ、離婚への批判
Ⅳ、主を煩わせる不信の言葉
Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに             
    

 
・前回のまとめ:マラキの詳しい生涯については全く不明。おそらく紀元前六~五世紀頃、捕囚帰還後やや経った時代の人物。第一章では、イスラエルエドムを対照的に論じながら、神がイスラエルを選び愛していることと、にもかかわらず人々が神を敬わず神に対して不誠実であることへの批判が告げられる。全世界の人々は本当は真実の神をそうとは知らずに礼拝しており、その中には清らかで誠実なものもあるというのに、選ばれたイスラエルの民が神に対して嫌々ながら傷のある捧げものしか捧げないことに対する神の怒りが告げられた。

 

□ 第二章の構成 

第一部 祭司への警告(2:1~2:9)
第二部 離婚への批判 (2:10~2:16)
第三部 主を煩わせる不信の言葉(2:17)

 

◇ マラキ書第二章は、大きく三つの部分に分かれる。
まず第一部では、レビと結んだ契約が「命と平和」だったのに、祭司たちが神の命令に違反し人々をつまずかせ、命と平和につながらない方向に律法を偏って用いたことへの神の怒りが示されている。
第二部では、父なる神から造られたはずの人々が互いに愛し合わないこと、特に妻を裏切り異教に走る人々に対する神の怒りが告げられ、自分の霊に気を付けるべきことが示される。
第三部では、善悪の区別を無効と主張したり、神の裁きはないと主張する人々が、神を煩わせていることが示される。


Ⅱ、祭司への警告(2:1~2:9) (旧約1474~1475頁)

 

◇ 2:1  

祭司:旧約の時代では、レビの子孫の人々が祭司や祭司長に就任していた。新約の時代では、キリストに救われた人は皆祭司(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。ルターが万人祭司説をもう一度明確に取り上げ、無教会はこれを継承。

 

◇ 2:2 

神に栄光を帰す:聖書においては、神を神として認めて、自分の罪を悔い改め、神に感謝し畏敬の思いを持って生きること。一方、神に栄光を帰さないことは、傲慢や神への反逆につながる(サムエル上6:5、使徒12:23、黙示録14:7など)。

協会共同訳「祝福を呪いに変える」 ⇒ 岩波訳「あなたがたの至福を呪う」
※ 岩波訳脚注「至福(祝福)を呪う行為とは、祝福を呪いに変えるという意味であるが、人が祝福と思っている至福の事実が実は神の前においては呪われた事態であるということを暗示する。」 ⇒ 表面的な繁栄や安逸がしばしば滅びへの道であること。

※ 祝福と呪い:聖書は神の祝福(命)と呪い(死)のどちらを選択するかを人に促す。
申命記11:26「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。」
同30:19「私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。」
→ キリストにつながれば命が与えられ、神から離れれば罪の報いとしての死が定められているということが、聖書の告げること。

※ 神を神と認め、命の源としてつながることをどれだけ大切にするか。心に留めるかどうか。


◇ 2:3   協会共同訳「子孫を責める」 ⇒ 「腕を切り落とす」(七十人訳。関根訳やフランシスコ会訳はこちらを採用。)

※ エゼキエル書18章の「父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということは絶対にないという明言を考えれば、この箇所は「子孫を責める」ではなく「腕を切り落とす」と読む方が正しいと考えられる。

※ 「腕を切り落とす」とは、祭司として人を祝福する権能を果たせなくなることであり、要するにその職務権限を取り上げるということ。

汚物=糞尿のこと。
投げ捨てられる:神殿や聖なる場所の外に捨てられるという意味か。


◇ 2:4  協会共同訳「契約を保つため」 ⇒ 岩波文庫・関根正雄訳「契約が終わる」

※ 岩波文庫の関根訳の註釈では、契約を保つという肯定的な意味で多くの場合受け取っているが、否定的に受け取らないと前後の文脈が通じないとしている。

※ ただし、なんとかして命と平和を人々に与えたいと神が熱望し、そのために厳しい裁きも行うという意味に受け取れば、契約を保つために裁きの命令を下すということも意味が通るとも考えられる。

◇ 2:5  「命と平和」

レビ:ヤコブの子の一人、レビの子孫。祭司の家系。
→ レビ記:儀式や犠牲の捧げ方を主に規定しているが、16章ではアザゼルの羊による贖いについて記している(キリストの予表)。また、19章では、「聖なる者となりなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」などの旧約全体、さらには聖書全体の精神を示している。

※ レビの子孫が神の祭司となるという契約、あるいはレビ記の内容は、「命と平和」を与えるものだったとこの箇所ではまとめられている。

※ 当初はレビびとたちは神への心からの畏敬をもって祭司のつとめを果たし、レビ記の規定を守っていた。

◇ 日本の歴史において、「命と平和」を求めたはずの決まりごとには何があり、どうなったか?
・十七条憲法 → 和が必ずしも現実には貴ばれないことが多く、源平合戦南北朝や戦国時代などが長く続く。
五箇条の御誓文 → 「天地ノ公道ニ基ク」ことも「万機公論ニ決ス」ることも、昭和初期になると無視され、軍部の暴走により破滅的な戦争へ。
日本国憲法 → 平和主義・基本的人権の尊重・民主主義は本当に大切にされているのか?

 

◇ 2:6-7  真実の言葉、平和と正しさ、多くの人々を過ちから立ち帰らせる。知識を守り、人々に真実を伝える。

⇒ 祭司のあるべきありかた。と同時に、万人祭司の立場に立てば、キリスト者すべてのあるべきありかた。

※ 市民、知識人もそのようにあるべきか。

 

◇ 2:8  道を踏み外し、人々をつまずかせ、神に背く。

※ このような者とならないようにすることが、最も注意を要すること。

※ 残念ながら、現代日本にもこのような種類の知識人やマスコミや政治家がしばしばいるのでは。
 ⇒ 歴史的に見た場合、昭和初期の日本やドイツにもこの類が多く存在。


◇ 2:9  道を守らず、偏って律法を教える罪
 
※ 新約の時代、多くの律法学者やファリサイ派の人々が、非常に些末な偏った律法の使い方をして、多くの人々を差別し苦しめ、イエスはそのことを叱り対立した。そのうえ、彼らは偏った律法の観点からイエスを十字架に架けた。

⇒ 律法全体の精神を忘れ、些末で煩瑣な細部にこだわる時に、人間はかえって道から外れてしまう(律法全体の根幹は、神を愛し、人を愛すること)。
⇒ この「偏り」を正そうと努めたのがイエスだった。

※ 我々の時代もまた、さまざまな偏り(利潤第一主義や効率や過剰な自己防衛やゆがんだ愛国心など)によって道から外れることがしばしば起こっていないか。

□ 第一部を通して:神を神と認めて神に栄光を帰し、命と平和につながる神の御言葉を守ることの大切さ。

 


Ⅲ、離婚への批判(2:10~2:16) (旧約1475~1476頁)

 

◇  2:10  父なる神

 

・人間は皆唯一の父なる神から造られた兄弟であるのに、なぜ互いに裏切るのか、ということ。 
・一般的には、イエスが神を父(אבא)と呼び、神と親しく交わる道を開いたと言われるが、マラキには神を父と呼ぶ姿勢がすでに現れている(マラキ1:6も参照)。
→ 現代においても、父なる神から造られた存在とお互いを思って助け合って生きることがどれだけ実現できているか。むしろ、その逆も多いのではないか。

 

◇ 2:11-12  異教の信者との婚姻の問題

 

・バビロン捕囚から帰還したのち、ユダヤの民の間で、自分の妻を離婚し、周辺の他民族(カナン人、アンモン人、モアブ人、エジプト人など)の異教の信者の女性と再婚し、異教やその習俗を取り入れる人々が一定数いたと推測され、そのことに対する批判をしている箇所と考えられる(参照:エズラ9章、ネヘミヤ13章)。エズラ記やネヘミヤ記では、それらの他民族との結婚が批判され、厳重に戒められ、外国人の追放が行われたことが記されている。

・現代から見れば、極めて偏狭な自民族中心主義のようにも見えるが、当時においては男性優位の社会であり、女性が夫に死に別れたり離婚されることは生活上大変な困難がその女性に降りかかることであった(ルツ記や新約聖書など参考)。また、民族が違うことは宗教の違いを意味しており、他民族との婚姻は宗教の混乱や偶像崇拝多神教の混入を意味していた。さらに言えば、当時のカナンの周辺の宗教においては、バアルやモレクなどの神への人身御供の儀式が行われるなど、他宗教が極めて残酷で、人間の欲望のために人間を犠牲にして憚らない種類のものもあったことは注意を要する。
⇒ マラキのこの批判は、ユダヤ人の女性の保護のためと、偶像崇拝多神教の混入を防ぐことの、二つの目的を同時に含んでいたと思われる。

たとえ彼が主に供え物をしたとしても:他民族との混血や異教の混入が進んだからと言って、ユダヤの人々がヤハウェを完全に捨てたわけではなく、ヤハウェと周辺諸民族の多神教の神々を両方とも崇拝する折衷的なものになることが多かったと推測される。そのような混淆主義的状態で、都合良くヤハウェにも供え物を捧げて祈ったとしても、ヤハウェは唯一の真実の神である以上、応じないということ。唯一の神は誠実な信仰を求め給う(これは婚姻にもたとえられる。参照:雅歌、ホセア書、エフェソ5:21~33)。

 

◇ 2:13 誠実な信仰の伴わない儀式や祈りは空しい

 

※ ただし、困った時の神頼みが必ずしもいけないというわけではないと思われる。唯一の真実の神に立ち帰るのであれば、困った時の神頼みであっても、むしろ神を依りたのむことを、神は良しとされる(詩編、サムエル記等々参照)。ただし、唯一の真実の神に立ち帰らず、偶像崇拝多神教との混淆の中で、己の欲望をかなえるためにだけ都合の良い祈祷をし、しかも品行が改まらず離婚や姦淫を行う場合は、そのような祈りを神が受け取ることはないということ。

 

◇ 2:14 前節の理由:若い時の妻を裏切ったから 

 

参照:「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、寝床を汚してはなりません。神は、淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです。」(ヘブライ13:4)

※ ここは字義通り、結婚の神聖と離婚の罪を説いているとも思われる。ただし、雅歌やホセア書やエフェソ5:21~33を踏まえて考えれば、神と人間との関係、神とエクレシアとの関係を言っていると読むこともできると思われる。

◇ 日本の離婚件数:20万9000件(2019年)、およそ三組に一組が離婚。


◇ 2:15  

 

岩波訳「ヤハウェは一つのものとして創造し、肉と霊を与えたではないか。その一つのものとは何か。子孫が神を求めること〔ではないか〕。あなたがたは自分の霊に気をつけるがよい。―あなたの若いときからの妻を裏切ってはならない―」

※ 非常に難解な箇所。岩波訳脚注によれば、「肉」の原語は「残りの者」であり、「残りの者と霊を彼のものとした」が原文の直訳。

※ 「一つのものとして創造」とは何を意味するのか。おそらく、「神のかたち」のことではないか。

創世記1:27「神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。」

→ 人間は本来、神の「かたち」(ツェレム)として創造され、かつ夫婦として互いに助け手となり一つとなるように創造された。
→ しかし、罪により、神から離れて、神の「かたち」が歪んでしまい、一夫多妻制や正式な婚姻によらない放縦な関係や離婚がはびこるようになり、神を愛さず隣人を愛さず、利己的な欲望によって他人を虐げたり神に反逆する傲慢な存在になってしまった。

⇒ しかし、神のかたちを見失い、歪めて喪失してしまっていた人類のもとに、「神のかたち」であるキリスト(コロサイ1:15)がやって来て、受肉し、十字架の贖いによって人類を救う道を開いた。
⇒ キリストという神のかたちを見て、キリストが本当に正しいと信じていれば、神のかたちを回復する道をすでに歩み始めている。
⇒ キリストを神のかたちと認識できるのは、すでに信仰があるため。キリストの側で十字架の贖いによってすでに私たちの罪を贖ってくださっているので、そのことを信じれば、神に近づくことができ、神のかたちの回復への道を歩み始めることができる。

※ 聖書全体を通して言われることは、人間が神のかたちとして創られ、しかし罪によって神のかたちがゆがめられ失われてしまったことと、キリストによって神のかたちが示され、信じる者は神のかたちを回復していくということ。

⇒ 神の子孫とは、神のかたちを求めるアダムの子孫、キリストによって神の子となったもの、という意味か。

あなたがたは自分の霊に気をつけるがよい:神のかたちの回復の道を歩んでいるか、喪失の道を歩んでいるか、祝福か呪いか、命か死か、どちらの道を選択しているかに自覚的であること。

⇒ 若い時の妻を裏切らない。神を裏切らない。


◇ 2:16  神は離婚を憎む

 

・自分の霊に気をつける。配偶者を裏切らない。神を裏切らない。

c.f. 四書の『大学』:「修身斉家治国平天下」 

・自分の霊に気を付け、家庭をきちんと愛し整えてこそ、その先に社会の平和もあるし、神との誠実な交わりもある。

※ ただし、女性の地位が古代と現代では異なり、離婚が即座に生活の困窮に直結するとは必ずしも限らない時代となった。また、異教の混入が問題となった古代イスラエル現代社会ではかなり背景の文脈が異なる。離婚が必ずしも一概に否定されるべきかどうかは、必ずしも一般化はできない場合もあるかもしれない(DVの問題など)。ただし、現代においても、個別具体的な例外は除くとして、一般的には結婚は尊重されるべきであるし、ゆえによく熟慮して行われるべき事柄と思われる。しかし、究極的には、結婚は神の配慮と計画によるものとも思われる。

 


Ⅳ、主を煩わせる不信の言葉(2:17)(旧約1476頁)

 

主を煩わせる言葉と、それに無自覚な人々。

① 悪はすべて神から認められており、悪人も神から喜びとされている、という主張。善悪無用論。
② 神は裁きを行わず、この世の問題や歴史の進行に神は関わらないという主張。神無用論。

 

※ ①は、日本においては平安時代の天台本覚思想など、わりとよく現れる思惟形態。また、本来の法然親鸞の教えは違うとしても、その教えを誤解した人々(一念義)にも見られる。善悪の区別をつけず、善悪の区別をつけることを嫌がる。『老子』そのものの正確な読解ではないとしても、俗流老荘思想にもこの傾向は見られると思われる。

⇒ 聖書の神は、悪を罰し、善を愛する。(「善を求めよ、悪を求めるな」(アモス5:14)。罪や悪は、それ自体として認められることはない。
⇒ ただし、人間が悔い改めて神に立ち帰り、なんらかの贖いがなされる場合は、罪が帳消しになる。
⇒ 新約においては、キリストの十字架によって罪が贖われたことを信じれば、信じた者は義とされる。しかし、これは格別の恩恵であり、罪を悔い改めず神への立ち帰りもなく、善悪の区別や罪への心の痛みを持たない者は、罪や悪の中に沈む危険性が極めて高い。罪の結果は苦と死であることが聖書には示されている。
⇒ 罪を罪と認識し、悔い改めるところに、恵みがあり、命の道がある。ただし、通常の人間は罪を認識できず、悔い改めることができない。救いが先行して、はじめて少しずつ人間は罪を認識し、悔い改めることができるようになる。
⇒ キリストの生涯を見て、その教えや生き方に倣うときに、それとの隔たりにおいて、人間は罪というものを少しずつ認識でき、悔い改め、神のかたちを回復していくことができるのではないか。

 

※ ②の神は世界に関わらず、無用だという考え方は、理神論や無神論に顕著に見られ、科学万能の近現代には多く見られる思惟形態。唯物論や現実主義をもって自任する人はこの類が多いと思われる。しかし、その場合は、神の審判を信じないので、道徳や良心を喪失してしまう場合がある(c.f.スターリンヒトラーなど)。また、人生やこの世界の前途に絶望してしまう場合もあると思われる。
⇒ 神の計画や裁きがあると信じる時に、人は最終的には正義が執行され、この世界は良くなるという楽観論と根源的希望を持ちうると思われる(ロマ8:28)。

☆ キリストという全き善・神のかたちを見ることにより、善悪が何かを私たちは本当に知ることができ、また、キリストを信じることにより、神の愛と計画と裁きを信じて、楽観的に希望を持って生きることができる。これに対し、善悪無用論や神無用論は、神の御心を痛め、かつ自分自身の人生を荒廃させてしまう危険性が高い。


Ⅴ、おわりに 


マラキ書二章から考えたこと

・神の御言葉は「命と平和」を人に与える。これにつながること。
・祭司は「多くの人々を過ちから立ち帰らせ」てこそということ。つまりキリスト者にとっては、自分一人の信仰や満足だけではなく、この社会において他の人々の歩む道に心を配り、過ちから命と平和に立ち帰らせることが務めであり、求めるべきことということ。
・父なる神のもと、すべての人は助け合い慈しみ合うべき存在であること。

 


「参考文献」
・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。
ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。
・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。

小さな群れと神の国

 

 私は、毎週の集会や、全国の集会などで、「神の国」を実感してきました。私にとっては「神の国」は、まずは理屈ではなくて、感じるものでした。聖書にも、神の国は言葉を超えた力や喜びを実感するものと示されています(1コリ4:20、ロマ14:17)。

 しかし、その一方で、聖書は理性や識別力も大切にしています。聖書の語句に尋ねながら、神の国とは何かを考えてみたいと思います。

 

1、神の国とは

神の国とは「場所や領土の意味ではなく、神が王として恵みと力とをもって支配されること」です(協会共同訳聖書文末用語解説25頁)。神の国は、マルコ、ルカに頻出する用語であり、マタイでは同じことがしばしば「天の国」と、ヨハネでは「永遠の命」と表現されています。

エス使徒の宣教の中心は神の国を述べ伝えることでした(マルコ1:15など)。また、新約聖書の時代において「神の国」という用語は、ローマ皇帝の支配との対照において、また諸霊の支配からの解放において、強調された言葉でした。

 

2、神の国はすでに来ているのか、これから来るのか?

 新約聖書を読むと、神の国はすでに来ていると明記されている箇所があります。「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」(ルカ11:20)。

 その一方で、神の国は未来に到来するものだと記されている数多くの箇所があります(マタイ6:10など)。キリスト再臨の終末の日に、神の国は完全に実現すると聖書には記されています。

 また、神の国は人々の中にあると記されている箇所もあります(ルカ17:20-21)。神の国はすでに到来していると同時に、未来において完全に実現する、さらには神に信頼する人々の中にある、ということが聖書からは読み取れます。

 

3、神の国に入ることは難しいのか?

  神の国に入ることは難しいと思われる箇所が、聖書には多数あります。狭い戸口から入らない人(ルカ13:22-30)。金持ち(マタイ19:24)。宴会に招かれているのに用事で忙しい人(ルカ14:15-22)。「主よ、主よ」と言うだけの人(マタイ7:21)。これらの人々は神の国に入ることが難しいとされています。また、新たに生まれなければ、霊によって生まれなければ、神の国には入れないとも記されています(ヨハネ3:3、同3:5)。

 

4、神の国に入ることは簡単なのか?

 

 その一方で、神の国に入ることは簡単なことのように思える箇所もあります。神を愛し、隣人を愛することが大切だとわかっている人は「神の国から遠くない」(マルコ12:32-34)。キリストを信じた徴税人や娼婦(マタイ21:28-32)。子ども、および子どものように神の国を受け入れる人(マルコ10:14b-15)。貧しい者(ルカ6:20)。これらの小さな人々は神の国に入れると明記されています。(「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32))

 これらの記述から、キリストを素直に信頼する人は神の国に入ることができると言えます。一方、素直にキリストを信じない人(金の力をよりたのみ、世の中の用事にいそがしい人)は神の国に入ることが難しいとされています。

信仰に辿り着くこと自体が、とかく神から逃れようとする傾向を持っている人間にはしばしば困難を伴います。私自身がそうでした。しかし、いったん素直にキリストを信じる信仰を得れば、ただ信仰のみで救われるということを聖書は伝えています。

 

5、神の国を来たらせ、実現するにはどうすればいいのか?

エスは悪魔の三つめの試み(神殿から飛び降りること)を拒絶しました(ルカ4:9~12)。これは、奇跡によって人々に力を見せつけ、速やかに神の国を建設しろという悪魔の勧めに対する拒絶でした。ただ神を信頼し、奇跡や派手なことをするのではなく、神の御心(神に信頼し、神を愛し、隣人を愛すること)を地道に日常の中で行うこと。これが神の国の実現のために主イエスが選んだ道でした。

 それは一見、迂遠な長くかかる道のように思えます。しかし、神の国は神の力により人が知らないうちに成長していくと聖書には明記されています(マルコ4:26-32)。ただ主イエスという良き羊飼いを信頼すれば、主が正しい道へと導き、恵みで満たしてくださいます(ヨハネ1:16、詩編23編)。

ただ主イエスの福音を信じれば、私たちはすでに神の国の一員であり、神の国が終末に向けて完成していく中で、時に自分にはわからない時にも、なんらかの役割を担い、意味のある人生を送っています。

小さな群れ(=見えざるエクレシア、無教会)に神の国はすでに始まっています。恐れることなく、神に信頼し、神を愛し、隣人を愛して、平信徒として聖書を共に学びつつ、日常を地道に生きれば、その先に神の国の完成もあるということに、心から感謝し、讃美したいと思います。

 

 

童話『星のひとみ』について

 

昨日、ひさしぶりに図書館に行ったら、予約していた本はまだ来ておらず、ぶらりとしていたら、絵本のコーナーに『星のひとみ』という絵本があった。

https://www.ehonnavi.net/ehon/120482/%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%BF/

 

このトペリウスという人が原作の物語は、物語をほとんど忘れてしまっていたのだけれど、小さい頃に読んだかすかな記憶があった。

私が小さい時に読んだのとは絵は違っていて、三年ぐらい前に出版された絵本だけれど、おそらく私が昔読んだ話だと思った。

 

それで、手に取って読んでみた。

 

話は、やや悲しい話といえばいいのか、雪の中に置き去りにされていた子どもが、親切な人に引き取ってもらったが、あまりにも澄んだ瞳を持つその子を、一家のおかみさんがけむたく思い、旦那さんが出稼ぎに行っている間に雪山に捨てに行ってしまい、あとで探したが見つからなかった、という物語である。

漠然とだけど、なんとなくそんな物語を小さい頃にたしかに読んだ記憶がある。

 

それで、ネットで調べてみたが、「チャイルド絵本館」というシリーズに、たしかにこのトペリウス原作の絵本で『ほしのひとみ』という絵本が昭和56年に刊行されており、その表紙も見覚えがあった。

 

他のいくつかの絵本に比べて、やや暗くて物悲しい物語だったので、あんまり読むことはなく、妹と、この話は悲しいから読むのをやめておこう、などと話した会話をかすかに覚えている。

たぶん、私が五つか六つの頃だったろう。

 

いま大人になって読んでみて思ったのは、一見日本の昔話にもよくある継子いじめの物語のようでもあるけれど、この物語は、無力な神の子と人間の罪という、極めてキリスト教的なモチーフを描いているように思えた。

ただ、そういう単純な図式や括り方を越えて、何か名状しがたい何事かがあるので、ずっと絵本や童話の名作として繰り返し語り継がれて、読み継がれているのだろうと思う。

 

トペリウスは「フィンランドアンデルセン」と呼ばれているそうで、19世紀フィンランドを代表する児童文学やさまざまな文学作品を書いた作家だそうである。

日本語にも他にもいくつか翻訳があるようである。

そのうち、読んでみたいものだと思う。

 

 

マラキ書 資料(1)

 

『マラキ書(1) 神の選びと人の供え物』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、イスラエルエド

Ⅲ、正しい礼拝

Ⅳ、供え物について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

             

 

マラキとは:マラキ書は十二小預言書の一つ。マラキという名前は「主の使者」という意味なので、個人名ではなく無名の預言者の預言という説もある。個人名だとした場合も、マラキの詳しい生涯については全く不明。預言の内容から、おそらく第二神殿完成後の時代で、エズラやネヘミヤと同時代、もしくはややその前の時代と考えられる。したがって紀元前515年以降、紀元前458年よりも前頃の預言者と考えられる。全三章で、内容は祭司の捧げる犠牲のありかたや民の婚姻や献金のありかたが律法に違反していることを批判し、終末の日に義の太陽が昇ることや、預言者エリヤが再び遣わされることを預言している。福音書では、マラキ書のエリヤの預言がバプテスマのヨハネによって成就されたとしている(マタイ11:14、同17:11-12)。

 

□ 第一章の構成 

 

題辞  (1:1)

第一部 イスラエルエドム(1:2~1:5)

第二部 正しい礼拝(1:6~1:14)

 

 マラキ書第一章は、大きく二つの部分に分かれる。

まず第一部では、イスラエルエドムを比較し、神がイスラエルを選び愛したことが告げられる。

第二部では、祭司たちが神を心から大切に思わず、汚れたパン・傷などのある動物を犠牲に捧げていることが批判され、神はそのような供え物は受け取らないことが告げられる。また、主が全地の神であり、諸国民に敬意をもって礼拝されていることが告げられる。

 

 

Ⅱ、イスラエルエドム(1:1~1:5) (旧約1473頁)

 

◇ 1:1  題辞

 

託宣:原語はマッサ。重荷の意味。イスラエルの人々にとって重荷ともなりうる真実の言葉。

 

マラキ:主の使者、という意味。七十人訳では個人名ではなく、主の使者全般を指す意味に受けとめている。ユダヤ教の伝承やキリスト教では一般的に個人名として受けとめられてきた。詳しいことは一切不明。

 

◇ 1:2 

 

新改訳2017 1:2a「わたしはあなたがたを愛している」 原語は特に時制はないので、現在形に訳すことが可能。(ただし英訳の多くは現在完了形で訳している)。

 

 「どのように愛してくださったのか?」という民の質問。

⇒ 神の愛への疑い。背景としては、神殿再建後もイスラエルの経済的困難や格差や祭司の堕落などがあったことによると考えられる。人々が目に見える成功や経済的繁栄に固執したことに起因するとも考えられる。

 

※ ヤコブを愛し、エサウを憎んだ。

関根訳文末脚注では、愛したというのは「選んだ」こと、憎んだというのは「選ばなかった」という意味を非神学的に表現したものと解説している。

創世記において、イサクの二人の息子のうち、長子のエサウではなく、次男のヤコブが神の祝福を受け、イスラエルの先祖となったという故事にもとづく。また、イスラエルが神によって選ばれ、エサウの子孫のエドムは選ばれなかったことを告げている。

 

エドユダ王国の南東に位置していた国。死海の南からアカバ湾(エツヨン・ゲベルまで。聖書巻末地図4および5を参照)を領域とし、東西南北の交易ルートにあたり、経済的に繁栄した。ヤコブの兄・エサウの子孫とされる。首都はセラ(のちのペトラ)。ボズラやテマンが重要な都市・地域。

聖書にはエドム人は兄弟であり「忌み嫌ってはならない」とも記されているが(申命記23:8)、出エジプトの際モーセたちの通行を邪魔したことも記録される(民数記20:18)。ダビデによって征服されたが、のちに独立した。バビロニアエルサレムを占領した時に、傍観し、さらにはバビロニアに加担したことが聖書に記載されている(詩編137:7、エゼキエル25:12)。新約聖書に登場するヘロデ大王エドム(イドマヤ)出身。

 内村鑑三は、エドムの神名が聖書に一切伝わらないことを指摘し、無神論的・物質主義的で、宗教への関心が乏しかったであろうことを指摘し、イスラエルとの対照性を論じている(「オバデヤ書の研究」全集31巻)。

 

 

◇ 1:3   エサウ(の子孫のエドム)の国土の荒廃

 

 関根訳巻末脚注によれば、ナバテヤ王国がエドムを攻撃し、エドムが衰退したことを指すとも考えられるとしている(紀元前3~2世紀頃のこと)。ただし、もしそう考えればマラキ書の時点では必ずしも実現していない。のちの時代を予言したものか。あるいは、紀元前5世紀のマラキの時代に、なんらかの理由によるエドムの衰退があったと考えられる。

 

◇ 1:4  エドムの再建の努力は水泡に帰すこと

 

 神の真実や愛にもとづかない努力は、水泡に帰す。

エサウは神の祝福を受ける長子の権利よりもパンとレンズ豆の煮ものを優先した(創世記25:27-34)。その子孫のエドムも、物質主義的で無信仰的だったと考えられる。

金銭欲や世俗的な利益に駆られ、自己中心的に生きて努力しても、それらは必ずしも成功せず、成功したとしても長続きせず、神の祝福を受けられない。神を愛し、隣人を愛してこそ、長期的な成功も神からの祝福もある。

 

◇ 1:5 神はイスラエルの境を越えて偉大

 

 主(ヤハウェ)は、単なるユダヤ人だけの神ではなく、天地を創造し全世界を支配する神であること。したがって、当然イスラエルエドムも含めて、あらゆる民族が神の御支配のもとにあり、神に心が向かず神をおろそかにする民族は衰退する。

 

 

※ 神の一方的な選びの愛を、マラキ書第一章の第一部(1~5節)は告げている。これは、選ばれなかった人々に対して、一見酷にも思える。しかし、これは神の不正ではなく、神の側の自由な意志による愛であり、神の憐みであることが新約では告げられている(ロマ9:10-18)。

 

⇒ むしろ、キリストを信じる者は、自分が神の側の一方的な選びと愛の対象であることをこそ思い、感謝すべきか。

 

※ 現代において、エドムは歴史上の記述と若干の考古学的遺物を残すのみで消滅しているのに対し、ユダヤの民は現在も存続し、イスラエル国家は再建され、聖書は世界中に多大な影響を与え続けている。

 

※ 個人の人生においても、神に選ばれて信仰を得た私たちは、喜びと感謝を持って永遠の命・神の国に連なる人生を生きていくことができるが、それに対し、心が闇に閉ざされてしまった多くの人々が荒んだ人生を送ったり、自死に陥ったりすることを考えると、神の選びの不思議に粛然とならざるを得ない。

 

※ 本来的に言えば、すべての人は神の愛の対象であるが、本人のかたくなな心が神の愛を拒絶すると考えるべきか。しかし、同様にかたくなで拒絶していた自分が神に導かれ信仰を得たことを考えれば、選びの不思議さとしか言いようがない。

 

※ 神を素直に信じるまでの道のりにおいて苦難や困難を人はしばしば経るものであることを考えれば、エドムのように今現在において苦難を味わう人も、それらをきっかけとして神を求めるようになれば、神の選びに与ると思われる。

 

 

Ⅲ、正しい礼拝(1:6~1:14) (旧約1473~1474頁)

 

◇ 1:6  父や主君に対するような尊敬を神に向けているかどうか

 

・父なる神、主なる神と言いつつ、本当に父のように大切に思い、主君のように仕えているのか?という問い。

 

・神は私の生命を創造してくださった存在であり、生みの親とも言える。また、神はその命令に従うべき存在であり、そういった意味では仕えるべき主君に該当する。生命を創造した根源として敬い、その命令には従順に従うべき。

 

・東洋においては、父母に対しては「孝」が、主君に対しては「忠」が古来より大切にされた。かつての日本人の孝や忠ほどの思いを、私たちは神に対して日ごろ持っているか。

(c.f. 吉田松陰「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」、「吾今 国の為に死す、死して君親に背かず、悠悠たり天地の事、鑑照 明神に在り」)。

(c.f. 玉木文之進旧宅で聞いた「志」と「孝」の話)。

 

◇ 1:7-8 汚れたパン、傷などのある動物

 

主の食卓:マラキにおける主の祭壇を指す言葉。

 

レビ記22:19-20「受け入れられるためには、牛や羊や山羊は欠陥のない雄でなければならない。欠陥のあるものを決して献げてはならない。そのようなものは受け入れられない。」

 

申命記15:21「また、もし初子が足や目にひどい傷を負っている場合は、あなたの神、主にいけにえとして献げてはならない。」

 

申命記17:1「あなたは、いかなる欠点であれ、欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主に、いけにえとして献げてはならない。それはあなたの神、主が忌み嫌われることである。」

 

⇒ 律法では欠陥や欠点のあるものは神へのいけにえの供え物としてはならないと定められている。

 

「総督に献上してみよ」⇒ 皮肉。当時のイスラエルはペルシア帝国の支配下にあり、ペルシア帝国から派遣された総督が統治していた。

⇒ ペルシアから来た総督や、ローマから来た総督に献上できないようなものを、神に献上していいのかという問い。近現代の日本で言えば、GHQの元帥やアメリカの駐日大使にプレゼントしても喜ばれないようなものを神に捧げていいのかという問い(c.f. 五円玉や十円玉の賽銭etc.)

 

 

◇ 1:9  神の憐みを求めることと自業自得の道理

 

 神が受け入れてくださらなくなるのは、自分自身が招くこと。しかし、神の憐みを求めれば、神は赦してくださる。

 

◇  1:10  祭壇は虚偽の礼拝しかないならば閉じた方が良い

 

 神への敬意の伴わぬ形骸だけの儀式を行うぐらいであれば、神殿の戸を閉じて誰も来ない方が良いということ。

 形骸化した儀式ではなく、霊と真実をもって礼拝が行われる時に(ヨハネ4:24)、神はその人々のことを喜びとしてくださる。

 

 

 1:11  神は全地で敬われている

 

 「至るところでわが名のために香がたかれ、清い供え物が献げられている」

 

⇒ マラキが預言をしていた当時は、ヤハウェを信仰していたのはイスラエルユダヤ人たちぐらいで、全世界のほとんどは多神教だった。

 ゆえに、この箇所が意味するのは、①キリスト教が全世界に広がることの予言、②キリスト教のみならずイスラム教などによる一神教の普及の予言、とも受けとめることができる。

 しかし、③全世界のあらゆる民族やあらゆる宗教は、それと知らず、ヤハウェを信じ敬っている場合があり、そのことをヤハウェも認めている、という意味に解釈できる。 (c.f. 古代中国における「天」。儒教の影響により、広瀬淡窓の「敬天」思想などが江戸期の日本にも見られた。また、仏教の中にも浄土教阿弥陀仏信仰は一神教的要素も見られる。素朴なアニミズム神道のようなものにも、それと知らずに神を敬う気持ちにつながるものがこめられている場合もありうるか。一方、それらは単なる偶像崇拝にも堕しやすい。(ロマ1:20-23)。

 

 ③の意味に受けとめるならば、仮に主を信じる宗教に属していたとしても、それが単なる形式に堕し、霊と真実による礼拝でないものであれば、神から拒絶され、各地の異教の中の純粋で心からの熱意や敬意を伴ったものの方が神の目から見た時に受け入れられているという意味に解釈できる。

 

 1:12-13 祭司たちの愚痴

 

 祭司たちが、民に対して主を軽んじているとののしるが、祭司たち自身が主を軽んじていると主は怒っているという意味か。

 また、主を礼拝することを、「わずらわしい」と感じることは、主をながいしろにすること(毎日曜日の主日礼拝や日々の信仰をわずらわしいとして、ないがしろにしているかいないか)。

 

 1:14 偽りに対する呪いと、主が諸国民の間で畏れられていること

 

 欠陥のないものを捧げると誓いながら、偽るものは呪いの対象となるべきことが述べられている。

 その理由として、主は王であり、諸国民の間で恐れられていること、つまりこの世界を支配している存在であり、敬意を持って接すべきことが述べられている。

 

 

Ⅳ、供え物について

 

 レビ記などでは、たしかに動物の犠牲を捧げることが極めて重視されており、マラキ書も一見するとその律法の遵守を強調しているように受けとめられる。

 

 しかし、以下に見るとおりマラキに先行する旧約の諸預言書において、すでに動物の犠牲は重視されていない。

 

ホセア6:6「私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。/神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない。」

 

アモス5:22「たとえ、焼き尽くすいけにえを献げても/穀物の供え物を献げても/私は受け入れず/肥えた家畜の会食のいけにえも顧みない。」⇒公正と正義の重要性

 

イザヤ1:11「主は言われる。/あなたがたのいけにえが多くても/それが私にとって何なのか。/私は、雄羊の焼き尽くすいけにえと/肥えた家畜の脂肪に飽きた。/私は、雄牛や小羊や雄山羊の血を喜ばない。」

 

エレミヤ7:21-23、いけにえより神の声に聞き従えと説いている。

ミカ6:6-8、いけにえは喜ばず、公正を行い慈しみを愛し神と共に歩むことを主は求めているとしている。

 

ゆえに、マラキ書は、表面的に字義通りに読めば律法通り欠陥の無い犠牲を捧げるように説いているように読めるが、先行するいけにえを重視しない神の言葉を考えると、より奥深い比喩的な意味に解釈することもできる。

 

⇒ 実際、 新約聖書では、供え物、犠牲について、単なる動物の犠牲ではなく、信仰を持つその人自身の人生や霊こそが真実のいけにえであり供え物であることが明記されている。

 

ロマ12:1「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」

 

ロマ6:13「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」

 

ロマ6:19「あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。」

 

 つまり、欠陥や傷のある霊や人生としてではなく、霊と真実をもって神を礼拝し、神の前に神の御心にかなうように努め、自分の身と人生を神に捧げることこそ、真の供え物であるということである。

 

 とはいえ、罪にまみれた私たちは、欠陥のない、傷の全く無い供え物を捧げることは困難である。しかし、キリストの十字架の贖いを信じれば、全きキリストの義の衣を私たちは着せていただくことができる(ロマ13:14、ガラテヤ3:27)。すでにキリストが永遠の贖いをなしとげたので(ヘブライ9:12)、もはや私たちはすでに贖われ、神の目から見た時に、全き義の存在とみなし、キリストを通して、キリストと同様に全き義を認めていただくことができる。

 ゆえに、私達は安心してこの身このままで神に身をゆだね、この身を捧げ、自分のできる範囲で、力いっぱい神を愛し、隣人を愛し、この人生を神に捧げれば良い。

 

 

Ⅴ、おわりに 

 

マラキ書一章から考えたこと

 

・神からすでに選ばれ愛されているのに、そのことに気づかず、ろくに誠意をこめて神を礼拝もせず、自らの人生を神に捧げる意識も乏しく、適当に生きていることの多かったわが身のこれまでのありかたを反省させられた。

 

・と同時に、神からすでに選ばれ、信仰が与えられていることの選びの不思議をあらためて思った。神の選びの不思議を思えば、あれこれ不満に思うこともなく、素直に感謝して安心して、あるがままの自分で、できる範囲でできる限りを心いっぱい力いっぱいに生きれば良いとあらためて教えられた。

 

・全世界の全民族が主に清い供え物をしているという預言の壮大さと美しさ。

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。

ゼカリヤ書 資料(16)

『ゼカリヤ書(16) 日常が聖なるものになる』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、主の日の到来

Ⅲ、救いと刑罰

Ⅳ、日常が聖なるものとなる

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

(左:ルオー「聖書の風景」、右:ミレー「晩鐘」)

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十三章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、八章までにおいては八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と異邦人の救済が告げられた。九章以降はおそらく前半から四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ったメシアが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応える方であることが告げられた。第十一章では、偽りの牧者の批判を通じて真の牧者のあり方が示された。第十二章では、メシアの受難を通して神の霊が人々にそそがれることが告げられた。十三章では、残りの者が精錬され救われることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九~第十四章(※十四章)

 

□ 第十四章の構成 

 

第一部 主の日の到来(14:1~14:5)

第二部 救いと刑罰(14:6~14:19)

第三部 日常が聖なるものとなる(14:20~14:21)

 

 ゼカリヤ書第十四章は、主の日の到来を告げ、主の日における救いと刑罰を告げる。さらに、最終的に日常と聖なるものとが統合され、宗教を商売とする者がいなくなり、聖職者なき平信徒の世界が実現することが告げられる。

まず第一部では、主の日つまり終末の時・再臨の時に、神がみずから神の民のために戦い、審判を実施することと、神の民と異邦人との垣根を取り去ることが告げられる。

第二部では、主の日において神が光であり、いのちの水の源となり、唯一の主となることが告げられる。その一方で、神に反抗する人々には疫病や腐敗が臨むことが告げられる。

第三部では、すべての人々が日常に使う鍋が神の聖なるものとなることが告げられ、神殿に宗教を商売とする者がいなくなり、完全なる宮清めが実現し、日常と宗教の垣根がなくなり、平信徒の日常生活がそのまま聖なるものとなることが実現することが告げられる。

 

 

Ⅱ、主の日の到来(14:1~14:5) (旧約1470~1471頁)

 

◇ 14:1  主の日: 神が歴史に介入する日。ゼカリヤ14章では、特に終末の日・キリスト再臨の最後の審判の日のこととも考えられるが、再臨のみならず初臨の時の預言も含まれているように思われる。

 

岩波訳「見よ、ヤハウェの日が来る。/〔その日には〕あなたの只中であなたから掠奪した物が分配される。」

 

※ 1節後半は、十字架上のキリストの衣服が奪われて分配されたことを預言しているとも思われる。

あるいは、2節と同様、歴史上の、あるいは未来における、イスラエルおよび神の民が略奪にあった出来事を指すと考えられる。

 

◇ 14:2  エルサレムと諸国民の戦いと残りの民

 

神の民と神の民に対して敵愾心を燃やす人々の戦い。その結果として、略奪や性暴力や捕囚など悲惨な出来事が生じること。戦争や侵略に伴う略奪や性暴力は過去の歴史においてもさまざまな地域や歴史において生じてきた(c.f. 日本における朝鮮半島の植民地化や従軍慰安婦の問題 etc.)。これらはごまかされることなく、主の目のもとにある。しかし、いかなる苦難があろうと残りの民は絶えることなく続き、神によって守られ保たれる。

 

◇ 14:3   

 

岩波訳「しかし戦いの日に、かつてご自身が戦いに出た日のように、ヤハウェは進み出て、これらの諸々の国民を攻撃する。」

 

 神御自身が神のために戦ってくださり、暴虐や不条理を正してくださる。

 

◇ 14:4  オリーブ山に主が立ち、オリーブ山が裂けること

 

オリーブ山:エルサレムの東側に位置する山。エルサレムの市街地より数十メートル高い程度なので、それほど格別に高い山というわけでもなく、古来よりオリーブ畑となってきた。マタイ24:3、ルカ21:37、同22:39には、最後の日々においてイエスがオリーブ山で過ごし、祈りを捧げたことが記されている。

 

 オリーブ山が裂けるとは?

 

 地震による大規模な地殻変動が起こることを預言しているとも考えられるが、象徴的に受けとめるのであれば、エルサレムと周辺の地域とを隔てる垣根、つまり神の民と異邦人を隔てる垣根が取り去られてなくなることを指すと考えられる。(c.f.神殿の至聖所の幕がキリストの十字架の贖いによって裂かれ、神と人とを隔てるものがなくなったこと(マタイ27:51))。

 

◇ 14:5  地震と主の到来と聖者

 

ウジヤ王の時の地震ウジヤ(アザルヤ)は南ユダ第十代国王で在位は紀元前783年から742年頃。その時代の大地震は、アモス書1:5にも言及されている。現代の地質学者の研究によれば、おそらく少なくともマグニチュード7.8、あるいはマグニチュード8.2ほどの地震が当時あったとのことである。("Amos's Earthquake: An Extraordinary Middle East Seismic Event of 750 B.C." International Geology Review 42 (2000) 657–671. wikipedia英語版より孫引き)。

 

岩波訳「わが山々の谷は塞がれる。/山々の谷が中腹にまで届くからである。/ユダの王ウジヤの時代の地震によって塞がれたように、/塞がれるであろう。/わが神ヤハウェが来られる。/すべての聖なる者たちがあなたと共にいるであろう。」

 

※ 協会共同訳のように受けとめれば、主に人々が逃れるという意味に、岩波訳のように受けとめるならば、人々を隔てる谷も塞がれて自由に人が行き来することができるようになる、という意味と受けとめることができる。

 

※ そのうえで、主がやって来てくださり、聖なる者たち、つまり天使や、神に従って歩んだ過去や同時代の聖なる人々も、神とともにやって来る、自分と一緒にいてくれるようになる。

 

 

Ⅲ、救いと刑罰(14:6~14:19) (旧約1471~1472頁)

 

◇ 14:6~7  夕暮れ時になっても、光がある。

 

岩波訳「その日には、/光がなく、/寒さと氷があり、/それはたった一日であるのに、/―その日はヤハウェに〔のみ〕知られている―/昼も夜もなく、/夕方の時になっても、光がある。」

 

 主の日を初臨と受けとめればキリストの十字架の時のこと。再臨と受けとめれば、終末の日には光もなく凍るように寒い、黄昏の時代となることが預言されている。

しかし、そのような黄昏(東洋で言えば末法、澆季)の時においても、「義の太陽」(マラキ3:20)であり、「光」(ヨハネ1:3-5)であるキリストを仰げば、光を見失うことはなく、光に照らされて生きていくことができる。

 

◇ 14:8  命の水

 

 ヨハネ4:5-26、ゼカリヤ13:1、黙示録7:17、同21:6、同22:1、同22:17、エゼキエル47:1-12など。

 キリストのいのちの水は、全世界に、いかなる時にも、そそがれ続ける。

 

◇ 14:9  主が王となり、唯一の神の名となる。

 

 エフェソ4:6「すべてのものの父なる神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられます。」

 

 エフェソ1:8-10「神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。」

 

 万物は霊的な仕方でキリストの御支配のもとにあるが、それが全面的に顕現するのが終末の日。キリストの御支配が宇宙にあまねく行き渡るというのが聖書の世界観・歴史観

 

◇  14:10-11  すべての地が平地となり、その中でエルサレムが高くそびえ、二度と悲惨な滅ぼし合いがなくなり、エルサレムは安らかに宿る。安住の地となる。  ⇒ 平和と神の民・神の国

 

 14:12~13 腐敗と混乱

 

 神に敵対する人々には足・目・舌が腐る疫病がもたらされる。つまり、自らの立つ基盤と、ものの見方と、言葉が腐敗していくことそれ自体が神の罰であり、神に敵対する結果であることが示されている。また、そのような人々は内部で対立し、混乱することが指摘されている。

 

 14:14-15  宗教の腐敗とそれに対する審判

 

フランシスコ会訳「ユダもエルサレムに対して戦い」(岩波訳脚注も参照)。

この意味に受け取った場合、エルサレム神の国・神の民)に対し、敵対し戦う者がユダ(神の民)の中にも生じるという意味かと思われる(c.f.イエスを処刑した大祭司や律法学者たち)。

腐敗した宗教は、しばしば巨万の富を自らに集め蓄積する(中世のローマ教会など)。これらは疫病により、刑罰を受ける。

 

 14:16-19 すべての民が仮庵祭を祝うようになる。

 

 エルサレムと敵対し、エルサレムを攻撃した人々のうち、生き残った者は皆、主に礼拝し、仮庵祭を祝うようになる。

 ⇒ 神に敵対した人々も、神の民となり、神の恵みに感謝するようになる。神はいかなるものも滅びることを欲さず、なるべく生かし、命を与えようとする。そのうえで、神の恵みに感謝できるように導く。

 

仮庵祭ユダヤ三大祭の一つ(他は過越祭と七週祭)。収穫祭、神の恵みへの感謝の祭りとしての性格を持つ。

 

主に礼拝しない者には、雨(神の恵み)が降り注がなくなり、疫病や刑罰が臨む。  

⇒ これは、神による一方的な罰というより、神から離れたことによりその人の霊が枯渇し、自ら苦しむようになることを意味していると思われる。

 

※ 神を信じる者には光といのちの水が、神から離れる者にには腐敗と霊的な枯渇と苦しみがもたらされることを告げている。最終的には、生き残るすべての人々が主を礼拝するようになるという預言。

 

 

Ⅳ、日常が聖なるものとなる(14:20~14:21)(旧約1472頁)

 

◇ 14:19-20 馬の鈴、鍋が聖なるものとなる。

 

馬の鈴:馬は当時戦争の主要な手段で、騎兵や戦車に欠かせないものだった。ゆえに、馬の鈴が聖なるものとなるということは、軍や兵器にではなく、馬が神の御心にかなった平和な用途に使われるという意味。

 

※ 神殿の鍋と祭壇の鉢も、馬の鈴と同様に「主の聖なるもの」と刻まれる。

つまり、宗教の礼拝も、真実の宗教と礼拝に基づくものとなり、単なる形骸化や形式化が退けられる。

 

※ エルサレムとユダの鍋がすべて聖なるものとなる。 ⇒ 神殿以外の、すべての人が日ごろ日常の食生活に用いている鍋が、すべて主の聖なるものとなる。日常と宗教が断絶し、聖なるものと俗なるものが分離し、聖職者と世俗の人とが分離してきた宗教の歴史に終止符が打たれて、平信徒の日常生活がそのまま聖なるものとなる。

(c.f. ボンヘッファーの「聖書のこの世的・非宗教的解釈」、宗教的人間として生きるのではなく、ただの人間として生き、罪や死のみでなく生の只中で神を必要とし神と共に生きる。)

 

※ 神殿に商人はいなくなる。⇒ イエスの宮清め(ヨハネ2:13-22、ルカ19:45-46)。宗教を金儲けや商売の道具とする人がいなくなり、宗教を金儲けの手段とする聖職者がいなくなる。日常の中で宗教の真実に生きる平信徒だけになる。

 

☆ 参照:内村鑑三「聖俗差別の撤廃」(聖書之研究340号、昭和三年)

 

「聖俗差別の撤廃である。そのことは階級差別の撤廃の場合において往々見るが如き、貴族が下落して平民となることがあってはならない。平民が向上してすべて貴族となることでなくてはならぬ。聖が俗化することではない、俗が聖化することである。聖ならざる者なきに至ることである。人生そのものが伝道事業となることである。聖職と称して神に仕うるための特別の階級が撤廃せられて、すべての信者が聖職となることである。すべての職業が聖業となることである。我らはこの理想に向って進むのである。」

 

 

Ⅴ、おわりに 

 

ゼカリヤ書十四章から考えたこと

 

・日常が聖なるものとなること、俗の聖化、聖俗差別の撤廃、聖書の非宗教的解釈ということが、ゼカリヤ書14章の末尾、ゼカリヤ書全体の結論であることに深い感銘を受けた。聖職者を持たず平信徒によって続いて来た無教会は、まさに聖俗差別撤廃の神の御経綸の中にあることにあらためて思い至った。

 

・神を信じていれば、夕暮れ時でも光があり、いのちの水が湧き、雨が降り注ぐ。何も恐れることはなく、神の御経綸に安心し、聖書を学び、歩んでいけば良いということ。

 

 

ゼカリヤ書全体を読み通して

 

・少しずつゼカリヤ書を学んできたが、これは到底私一人ではできなかったことであり、集会があってこそであり、また遠方より励ましてくださった大阪のMさんや徳島のNさん等々、多くの方々のおかげであり、心より感謝。

 

・ゼカリヤ書はメシア預言の書であり、イエスにおいて的中し成就しているさまざまな預言を記していることには、あらためて驚いた。罪の赦しとメシアの受難による救いを明確に預言しており、イザヤ書とともに旧約中の新約とでも言うべき内容。旧約でありながら、行いではなく信仰のみの書である。

 

・また、そうしたメシアによる救いが、神の壮大な計画の中に位置づけられており、歴史を通して神の経綸が実現し、いかなる暗い時代や困難な時にも必ず神の恵みと救いがあることをさまざまな形で告げ知らせているのがゼカリヤ書の内容であることが、今回学んでいてよくわかった。

 

・そのようなメシアと神の経綸への信仰(信頼)の上で、人間が真実と平和に努めるべきことと、日常が聖なるものとなるよう歩むべきことをゼカリヤ書は示している。そのことに、今回学んでいて深く感銘を受けた。

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年、他多数。

ゼカリヤ書 資料(15)

 

『ゼカリヤ書(15) 残りの者の精錬』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、開かれた泉

Ⅲ、偶像と偽りの預言者の除去

Ⅳ、牧者の受難と残りの者の精錬

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

  

(左:パオロ・ヴェロネーゼ「イエスとサマリヤの女」、右:ヨルダン川の源流にあるバニアスの滝)

 

前回までのまとめ:前回までにゼカリヤ書の第十二章までを学んだ。ゼカリヤ書は捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃から)のゼカリヤの預言で、八章までにおいては八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、神の一方的な救済と異邦人の救済が告げられた。九章以降の後半はおそらく前半からおよそ四十年以上の歳月が流れてからの預言であり、第九章ではろばに乗ったメシアが告げられた。第十章では神は恵みの源であり、祈りに応える方であることが告げられた。第十一章では、偽りの牧者の批判を通じて真の牧者のあり方が示された。第十二章では、メシアの受難を通して神の霊が人々にそそがれることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九~第十四章(※十三章)

 

□ 第十三章の構成 

 

第一部 開かれた泉(13:1)

第二部 偶像と偽りの預言者の除去 (13:2~13:6)

第三部 牧者の受難と残りの者の精錬(13:7~13:9)

 

 ゼカリヤ書第十三章は、泉(=いのちの水)が人々に開かれ、偽りが取り除かれ、苦難を通して精錬された残りの者が、神の民となることを告げている。

まず第一部では、前の十二章の内容を受けて、人々の罪と汚れを清めるための泉(=キリスト)が開かれたことが告げられる。

第二部では、偶像と偽りの預言者たちが取り除かれることが告げられる。

第三部では、神の牧者の受難と、それをきっかけに残りの者たちが神の手に支えられ、精錬され、真実の神を神とする神の民となることが告げられる。

 

 

Ⅱ、開かれた泉(13:1) (旧約1470頁)

 

岩波訳「その日には、ダビデの家とエルサレムの住民たちのために、一つの泉が、罪と不浄のための泉が、開かれる」

 

※ ゼカリヤ書十三章一節は、前の十二章の内容(メシアの受難を通じて神の霊が人々にそそがれること)を受け、罪と汚れを清めるいのちの水が人々に開かれることを告げている。したがって、前の十二章と内容的には連続したもので、本来は十二章とつなげて読むべきだとする訳や解説書もある。しかし、十三章全体の内容(=人々が神の民となること)を的確に冒頭にまとめた内容とも言える。

 

◇ 13:1

 

その日: 神が歴史に介入する「主の日」。福音が告げられた日や終末の日とも考えられる。あるいは、ひとりひとりの人が自分自身としてイエスと出会った時、信仰を得た時、またそれからのその時その時の人生とも受けとめることができる。

 

ダビデの家とエルサレムの住民: 旧約の意味で考えれば、ダビデ王家と一般のエルサレムに住民ということ。政府と一般国民といった意味。あるいは、新約の立場からすれば、メシアを信じる人々の集いであるエクレシアとその構成員という意味に受けとめることができる。

 

罪と汚れ: 罪はヘブライ語で「ハッター」で、ギリシャ語のハマルティアと同様に的外れ、道を踏み外すという意味。汚れは「ニッダー」で、避けるべきもの、不浄のもの、といった意味(道徳的なものだけでなく、女性の月経などに対しても用いられている)。

 新約を踏まえて考えれば、神に背き神から逃れようとする人間が持つ傾向(=原罪)が根本的に取り除かれると同時に、道徳的な個々の行為における悪や罪も徐々に取り除かれ神の似姿に変えられていくこと。さらには、社会における慣習や因習において浄/不浄とされている根拠のない差別が取り除かれ、それらが気にならずに人を愛せるようになることも含むか。

 

清める: 原文にはなし。協会共同訳の脚注aを参照。直訳は「罪と汚れのための一つの泉が開かれる。」 意訳すれば、罪と汚れを清めるためと考えて間違いない。罪と汚れの中にいる私たち人類のために、キリストが十字架にかかり罪の贖いを成し遂げ、清めてくださったこと。キリストにより罪から洗われる(Ⅰヨハ1:7)。

 

: いのちの水が湧き出ること。

 

 参照 エゼキエル36:25-26「私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める。あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

 

・エゼキエル47:1-12 神殿から湧きだし、癒し、命の木を育む泉。

・ヨエル4:18 「主の家から泉が湧き出て」

・エレミヤ2:13(神は)「命の水の泉」

・「命の水」ゼカリヤ14:8、黙示録7:17、同21:6、同22:1、同22:17

 

サマリアの女と井戸 ヨハネ4:5-26

「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ4:14)

ヨハネ6:35「イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」

 

※ キリストは「命の水」の湧きだす泉である。キリストの受難・十字架の贖いを通して、人は神と再び親しく交わることができるようになり、神のいのちと通い、永遠のいのちを恵まれることとなった。このことを、ゼカリヤ書13章1節は明確に預言している。この泉は、身分の貴賤は関係なく、社会的に有力かどうかは関係なく、誰に対しても開かれている。罪や汚れを清めるための泉はすでに開かれ、各自がキリストに立ち帰り、日々に命の水を飲み、命のパンを食べ、聖書の言葉に触れて生きていく道が開かれている。(ただし、そのような人は少数であることが13章の後半には記されている。)

 

 

Ⅲ、偶像と偽りの預言者の除去 (13:2~13:6)(旧約1470頁)

 

◇ 13:2   偶像・偽りの預言者・汚れた霊を取り除くこと

 

その日になると:主の日、あるいは各自が信仰を得た日。神が介入する日、神に立ち帰る日。

 

偶像: 旧約の時代においては、異教のなんらかの彫刻や形態を伴う像のことだが、神以外のものを神とすることが偶像崇拝であり、必ずしも彫像とは限らないと思われる。現代社会においては、金銭、国家、学歴などのなんらかの権威、特定の権力者やなんらかの指導者などの個人などがしばしば偶像化され、偶像崇拝の対象となっている。近代日本における過度の天皇崇拝も一種の偶像崇拝と言える。⇒ そうした誤って神以外のものを神とする態度が取り除かれることの重要性。

 

預言者: ここでは、真実の預言者ではない、偽りの預言者のことを指す。信実の神の言葉ではないものを、神のことばとして告げること。(参照、:エレミヤの時の偽預言者ハナンヤ(エレミヤ28:15)、アモスを弾圧した祭司アマツヤアモス7:10~17)。他にもエレミヤ23:16-17、エゼキエル13:8など。)

 

 今の時代においても、虚偽を告げる新興宗教の指導者や精神世界系の著作家は多い。また、現代社会においては、偽りの情報や予測を告げる知識人や政治家を含めて考えて良いとも思われる(参照:2006年12月22日、安倍首相(第一次内閣)は、吉井英勝議員の原発事故の可能性に対する質問主意書ヘの答弁の中で全電源喪失はいかなる場合もありえないと答え、対策を講じなかった。その結果、2011年3.11の全電源喪失による福島第一原発事故を防げなかった。)

 

汚れた霊: 新約聖書では、イエスが汚れた霊にとりつかれた人々を癒し、解放したことが記され、弟子にもその権能を与えたことが記されている(マタイ10:1)。今日でも、精神的な悩みや疾患に苦しむ人は多い。その理由はさまざまとは思われるが、罪に起因するものや、心の傷に起因するもの、正しい考えを知らず神との関係や交わりが欠如していることによる霊の枯渇などがありうる。これらを癒し、正し、神との関係を回復すること。

 

◇ 13:3 父母が偽りの預言者咎め

 

バルバロ訳「だれかが、ふたたび預言しようとすると、その人を生んだ父と母が、その人に向かっていうだろう、「おまえはこれ以上生きてはならぬ。主のみ名をつかって、偽りをいったのだから」と。そして、生みの父と母は、預言したという理由で彼を刺すだろう。」

 

通常、他のすべての人が見捨てても、最後まで見捨てず愛するのが親。その親ですら、恥じて、罰する。

⇒ これはむしろ、肉親というよりも、親の心である神の苦悩と痛みを比喩的にあらわしている箇所とも受けとめられる。

 

※ 律法では、偽の預言や占いは禁じられている。

 

申命記13:4「あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。」

 

申命記13:6預言者や夢占いをする者は、死ななければならない。そのような者は、あなたがたをエジプトの地から導き出したあなたがたの神、主に背くように語り、あなたを奴隷の家から贖い出したあなたの神、主が歩むように命じられた道から外れるようにあなたを仕向けるからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。」

 

申命記13:10-11「あなたはその者を必ず殺さなければならない。殺すには、まずあなたが手を下し、それから他のすべての民が手を下しなさい。その者を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出したあなたの神、主から、あなたを引き離そうとしたからである。」

 

申命記18:20「ただし、預言者が傲慢にも、私の命じていないことを私の名によって語ったり、他の神々の名によって語ったりするならば、その預言者は死ななければならない。」

 

⇒ 現代の指導者や知識人やマスコミは、真実を語ることの大切さと、偽りを語った場合の罪の重さを、これほど重く受けとめているだろうか?

 

 

◇ 13:4

 

前節で父母に刺されるとは書いてあったものの、4節以下では偽預言者は死んでおらず。親の心で接してくれる神や実際の親が、心を貫くほどに叱ってくれた、という意味か。

にもかかわらず、反省していなかった偽預言者は、自分の預言が外れたことにより恥をかく。(c.f. 1999年の世界滅亡、2012年の世界滅亡、等々。)

 

毛皮の外套預言者の服装だった。(参照:列王記下1:8)

⇒ 着なくなる。⇒ ①偽預言者だったことを恥じて、もう偽りの預言者であることをやめる。 ②世間の指弾を恐れて、預言者とわかる服装をせずに、わかりにくい服装や恰好に偽装する(現代であれば背広を着て、似非科学の装いをするなど)。 おそらく②か。

 

◇ 13:5 偽預言者の言いわけ①

 

バルバロ訳「むしろ、彼らは、おのおのこういうだろう、「私は、預言者ではない、私は、地を耕すものである。幼い時から地で働いてきたのだから」。」

 

⇒ 自分の言葉に責任を負わない姿勢は、現代社会の政治家や知識人にもしばしば存在する。自分の言葉に責任を持てず、人々の指導者たる責任が持てない者は、口舌を糧とせず地道に働くべきで、社会や他人を騙すべきではない。

 

 13:6 偽預言者の言いわけ②

 

バルバロ訳「もしだれかが、「あなたの体にある傷は、なんですか」と言ったとしたら、彼は、こう答えるだろう、「これは、私を愛している人人の家で加えられた傷である」と。」

 

□ バアルの信者たちには恍惚状態でお互いの体を傷つけあう習慣が存在していた。それを踏まえての記述か。

列王記上18:28「彼らは大声を張り上げ、自分たちの習わしに従って、剣や槍で身を傷つけ、血を流すまでに至った。」

 

あるいは、自分の責任だとあくまで認めず、神や親による罰だということも認めず、自分以外の誰か他の人に責任を転化しようとする姿勢を指していると思われる。

 

※ 現代社会にも偽りの指導者・偽りの預言者は多い。容易にだまされないように、自分自身の頭で考え、判断することが重要。(参照:フィリピ1:9「知る力と見抜く力」(新共同訳))

 

 

Ⅳ、牧者の受難と残りの者の精錬(13:7~13:9)(旧約1470頁)

 

◇ 13:7  牧者は打たれ、羊は散らされる

 

☆ この箇所は、イエスが自らの受難と弟子のつまずきを預言する時に引用している。(マルコ14:27、マタイ26:31)

 

関根訳「剣よ、覚めてわが牧者に立ち向かえ、わが分身なるその人に、と万軍のヤハウェは言われる。私は牧者を打ちに打ち/その羊を散らす、それからわが手を/小さき者に向ける。」

 

ここは「私の牧者」なので、ゼカリヤ11章の偽りの牧者ではなく、真実の牧者、つまりメシアと受けとめるのが妥当。メシアの受難と、弟子のつまずきの預言。

 

※ 協会共同訳「怒りの手」の「怒りの」は原文にはない(脚注eを参照)。「小さき者」をことのほか愛する主の御心を考えれば、メシアの受難とその後の弟子たちのつまずきを通して、なお人々を愛し、神の子としようとする「愛の手」が差し伸べられたと受けとめるべき。

 

◇ 13:8 残りの者

 

バルバロ訳「全地は、こうなる―主のお告げ―、そこにいる三分の二は、まったく滅ぼされ、三分の一は、残りのものとして残される。」

 

参照:エゼキエル5:12、黙示録8:7-12、同9:15

 

※ 三分の一は、実際の割合というよりは、過半数の多数派ではなくて少数派という意味か。エリヤの時は神に忠実な者としては七千人が残された(列王記上19:18)。真実の信仰の人は常に少数派。無教会は常に少数派。

 

キリスト教は常に少数者の宗教であって、それが多数となったときには、既に真のキリスト教でなくなっているからである。」

「無教会主義は永遠の少数党である。しかし、ここにその純真さがあり、戦闘力があり、真剣さがある。」

(「無教会主義の将来」『塚本虎二著作集続 第七巻』449、450頁。)

 

※ 日本では、憲法改正は三分の二以上の議員の賛成によって発議可能となっており、言い換えれば三分の一以上の人々が反対すれば憲法は改正できない。 戦後、55年体制下においては、おおむね自民党が三分の二弱、社会党が三分の一強程度の議席保有し、憲法改正を防いできた。政治や社会において、三分の一強の人々が平和や格差是正をしっかり願っていれば、かなりの程度自由や平和が実現できるとも思われる。

 

⇒ なぜキリスト者は少数派なのか。これは現実が示していることであって、あまり理由はないとも思われる。世の中の価値基準や誘惑になびきやすいのが人間の常なので、多数派はある程度は世に流されるのは仕方がないのだと思われる。一方、福音が救う対象が全ての人であることは忘れてはならない。(「すべての福音」『塚本虎二著作集続 第七巻』195-197頁。)

 

※ 少数の「残りの者」が、義人となり、神に救われる。(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 13:9 残りの者が精錬され神の民となる

 

精錬:聖書には、苦難を経て、罪や汚れが取り除かれ、神の御心にかなう信仰と生き方に変えられることを、しばしば金属の精錬にたとえている。

 

箴言17:3「銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。」

 

箴言27:21「銀の精錬にはるつぼ、金には炉。/人は賛美する口によって精錬される。」

 

イザヤ48:10「見よ、私はあなたを精錬したが/銀としてではない。/私はあなたを苦難の炉の中で試みた。」

 

ダニエル12:10「多くの人々が清められ、純白にされ、精錬される。悪人は悪をなすが、悪人は誰も理解しない。しかし、悟りある者たちは理解する。」

 

エズラ記(ラテン語)16:74「その時、金が火によって精錬されるように、私に選ばれた人々が、試練の中であらわになってくるだろう。」

 

⇒ 苦しみは人間にとって嫌なことだが、人生の苦難は、神に立ち帰るためにある。試練は、精錬され、信仰を得、キリストに倣った生き方になるためにある。(私の個人的なことを言えば、苦しみや悲しみがなければ聖書を読むようになり、神に立ち帰ることはなかったと思われる)。

 

彼は私の名を呼び、私は答える: 主は呼べば答える神(詩編91:15)。聖書全篇を通して、神に呼びかけ、祈れば、神が応えることが示されている。聖書の神は人格神であり、人と対話する神であり、単なる法則や理念や原理ではない(参照:マルティン・ブーバー『我と汝』)。

 

彼はわが民、主はわが神: 参照:ホセア2:25。キリストの十字架の贖いを信じる者は神の子となり、神の民となる。そうした人は、主に「わが神」と呼びかけることができる。これはしばしば、人生の苦難を通して、精錬されることによって、神に立ち帰り、可能となる(c.f. 放蕩息子の帰還、ペテロの慟哭と主への立ち帰り)。

Ⅴ、おわりに 

 

ゼカリヤ書十三章から考えたこと

 

・主が命の水の湧き出る泉であることが、新約のみでなく、ゼカリヤ書13章に明確に示されていることにあらためて感銘。キリストが命の水の湧き出る泉であることは、不思議と実感として各自がわかることだと思う。

 

・ゼカリヤ13:7をイエス自身が引用していたことと、イエスがゼカリヤ書を深く読み込み、暗唱していたことにあらためて思い至った。

 

・聖書における偽りの預言に対する厳しさにあらためて思い至った。現代人は真実を重んじ、偽りの言葉を避けようとする責任感や良心がこれほどにあるのか省みさせられた。

 

・主は小さき者を愛し、手を伸ばして守り支えてくださる。(参照:「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32))。

 

キリスト者は少数派であり、少数で良い。少数でも地の塩・世の光がいれば、世の中の腐敗はある程度防がれる。

 

・人生の苦しみや試練は、それらを通して精錬され、真実の信仰を得、キリストの生き方に近づくためにある。苦難は信仰を得た時、また信仰に生きる時に、無意味な苦しみではなく、意味のある精錬となる。

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、新改訳2017、英訳NIV、英訳ホルマン訳など。

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『塚本虎二著作集続 第七巻』聖書知識社、1984年。

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年。

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年。

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年。

他多数。