石坂和という人のこと

どのような人かは全然知らなくて、そしてその人生を詳しく調べる術も今となってはないのかもしれないけれど、ある短い文章を通じて、とてもその人から深い感動を与えられることが、しばしば人生にはあると思う。

 

「石坂和」という人について、最近、そんなことがあった。

塚本虎二の著作集の続第五巻に所収の「病床の聖書研究」というごく短い文章によって、その人のことをはじめて知った。

そもそも、ふりがなが打っていないので、名前の読み方もわからない。

 

同文章によれば、1959年に三十歳で亡くなられたとのことだから、推定すると1929年頃、昭和五年頃の生まれだろうか。

だとすれば、とても長命であれば、今でも生きておられる可能性があったと思う。

早くに世を去られたので、今はこの世に記憶する人ももうほとんどいないのかもしれない。

長野の屋代町というから現在の千曲市東部の人だったそうである。

 

塚本の短い文章によれば、石坂和という人は、十二歳ぐらいから病気のために床に臥し、学校は小学校だけしか行けなかったそうだ。

しかし、塚本虎二の本を愛読し、その影響で聖書研究を志すようになり、独学でラテン語ギリシャ語、ヘブライ語、さらにはアラビア語の本まで買い求めて勉強し、「勉強だけがたのしみ」の様子だったのことだった。

丹念に塚本虎二の雑誌『聖書知識』を読み、抜粋のノートをたくさんつくっていたという。

 

三十歳で天に召されたので、その聖書研究は、何か形となって世に本などの形で出されることは何もなかった。

 

しかし、何か、その話を読んだ時に、私は深い感動を覚えざるを得なかった。

 

塚本虎二が「神の前ではそれが、君の信仰と共に光り輝いていることであろう。」と文章を結んでいたけれど、そのとおりだと思う。

 

詩人の水野源三や、松本清張が『「或る小倉日記」伝』で描いた田上耕作と、その人生は相通じるものがあるように思える。

しかし、彼ら以上に何も世の中に目に見える形では何も残さず、ほとんど誰も知ることがなかった生涯だったろう。

塚本虎二が短い一文を書き残さなければ、私もぜんぜん知らずに終わっただろうと思う。

 

だが、山本周五郎の「人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という言葉を、これほど証している人も、珍しいように思える。

人の目にはわからなくても、神の目にはどれほど尊い一生だったかわからない。

 

また、御本人が思う存分聖書を研究できるように本を買って環境を整えた御両親や御家族の愛に深く胸を打たれる。

 

もし、ご近所の方などで知っておられる方がいれば、お墓の場所など教えて欲しいと思うが、時の経った今はそれももはや知る人もいないのかもしれない。

しかし、天には今もそのいのちは輝いているように思える。

 

 

 

 

終わりの日に純真であること

昨夜、塚本虎二訳の新約聖書を読んでいたら、こんな箇所があった。

「そしてわたしが祈っているのは、
あなた達の愛がますます御心の(実践のための)知識とあらゆる道徳的知覚とにおいて成長し、
あなた達が本質的なものの判別ができるようになり、
こうしてイエス・キリストによ(って生じ)る義の実に満ちて、
キリスト来臨の日に純真であり申し分のないものとなり、
すべての栄光と栄誉とが神に帰するに至るようにということである。」

(ピリピ人へ 1:10)


「純真であり申し分のないもの」というところに、はっとさせられた。

つまり、終わりの日に、純真な者であることが、聖書では一番願われているということである。

(原語 ειλικρινεις (エイリクリネイス)は英訳だと"pure"と訳されることが多く、混じりけなく、太陽の光にあてたときに、合成化合物ではない、純粋なものとわかるもの、という意味らしい。)

私が知っている長年聖書を学んできたお年寄りの方々は、そういえば、とても純真な方が多い。
世間的な立場や地位は関係なく、年をとって最も尊いことは、年をとった時に純真であることのように思える。
世間を見ていると、年をとってあまり純真ではないお年寄りも多く、むしろ年を重ねるごとに純真さを失っていくのが一般的な世間の傾向であることを考えれば、聖書の学びのひとつの意義は、年をとった時に純真になるということにあるのかもしれない。

人生の目的や意味は、終わりの日に、純真で、申し分のないものとなること。
富や名誉や肩書ではない。

そう思うと、何かとても心が晴れやかになるような気がする。

ゼカリヤ書 資料(10)

 

『ゼカリヤ書(10) 神の祝福と平和の種』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神の一方的救済の宣言

Ⅲ、祝福と信仰  

Ⅳ、福音と異邦人の救い

Ⅴ、平和の種について

Ⅵ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

 

   

 

・前回までのまとめ:

ゼカリヤ書=捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言。第六章までに八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、そのうえで祭司(ヨシュア。新約から見れば万人祭司の予表)の戴冠が告げられた。さらに、断食を神のために行っているかが問われ、かつてユダヤの民が神から離れ社会正義を行わず神の裁きの対象となったことが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ることおよび八つの幻 (第一章~第六章前半)

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)

真実と正義の勧め① 断食と社会正義(第七章)

☆真実の正義の勧め② 神による救済  ⇒   ※ 今回

 

□ 第八章の構成 

 

第一部 神の一方的救済の宣言 (8:1~8:8)

第二部 祝福と信仰   (8:9~8:17)

第三部 福音と異邦人の救い (8:18~8:23)

 

 第八章では、神の側からの一方的な救済が告げられる。さらに、神から祝福が与えられ、異邦人にも神への信仰が広がることが記される。

まず第一部では、神がエルサレムを回復し、平和が訪れることが告げられる。

第二部では、平和の種が蒔かれ、ぶどうのように実り、何も恐れる必要はなく、神の祝福にふさわしく生きるべきことが告げられる。

第三部では、断食の日が喜びの日に変わり、異邦人も神の民となりたいと思う様子が描かれる。

 

Ⅱ、神の一方的救済の宣言 (8:1~8:8) (旧約1463-1464頁)

 

◇ 8:1  万軍の主の言葉が臨んだ:聖書は神の言葉。無限に深い。

7章からのつながりではあるが、一方的に神が以下の内容を告げる。

 

◇ 8:2 神の熱情

 

シオン:エルサレムの神殿の丘一帯の呼称。転じてエルサレム全体、さらにはイスラエル全体を指す。

 

妬み:別訳「熱情」。原語はカンナー。妬みとも熱情とも訳され、他との関係を排する熱情的な愛を指す。

憤り:ケマー。激怒とも「熱」とも訳される。

岩波訳「わたしは大いなる情愛をもってシオンに激しく愛を注いだ。/また大いなる怒りをもってシオンに激しく愛を注いだ。」

新共同訳「わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。」

cf.新改訳2017「ねたむほど激しく愛し」

 

⇒ 2節は、妬みや憤りというよりも、ユダヤの民の苦境に対して神が悶えるような熱い愛情を持っている様子を示している。

cf.アモス11:8d「私の心は激しく揺さぶられ/憐みで胸が熱くなる。」

 

◇ 8:3 主の一方的な帰還とエルサレムの回復

神の側の一方的な民への愛による帰還と回復が告げられる。

ここでの「エルサレム」は、字義通りにも解されるし、新約の光に照らするならば神の民=エクレシアを指すとも考えられる。

 

◇ 8:4-5 お年寄りと子ども

神の祝福と平和の象徴。戦争などにおいて最も犠牲となるのは両者で、お年寄りと子どもが幸せに暮らせる世の中は平和である証拠。

 

◇ 8:6  一方的な神の救済は、人の目には不思議と見えても、神にとっては不可能なことではない。神の全知全能により、最も困難な人の魂の導きや救済も可能となる。

 

◇ 8:7-8  全地の民が救われ、神の民となる

捕囚や離散の民が救われること。新約の光に照らせば、全世界の異邦人も神の民となること。

cf.ホセア2:1 ロ・アンミ(わが民ではない者)⇒「生ける神の子ら」

 

真実と正義 ⇒ 信仰と義 によって神が人々を救う。

 

 

Ⅲ、祝福と信仰   (8:9~8:17) (旧約1464-1465頁)

 

◇ 8:9-11  神殿再建以前は報いがなかったこと

cf.ハガイ1:4-11、同2:15-17 

 

・ハガイ書には神殿再建前は収穫が僅かだったことが記されている。9節の「預言者たち」は、ハガイのことを念頭に置いていると思われる(およびゼカリヤ自身)。

・神殿再建前は、収穫や報酬が乏しく、安全もなかった。

・しかし、神殿再建の基が定まった今、報いがない時代は終わった。

☆「神殿を再建するための基」とは

⇒ ゼカリヤの時代においては、再建中のエルサレム神殿の基礎工事のことであるが、新約の光に照らせば「隅の親石」であるキリストのこと。

⇒ キリストに出会う前は、人生に甲斐がなく、報いや手ごたえが感じられないむなしかった人生や、安心が持てなかった人生が、キリストに根差す時に、甲斐があり大きな報いがあり、安心できるものになること。

 

「勇気を出せ」 ⇒ キリストに出会えば、恐れを克服でき、勇気が出る。

 

◇ 8:12   平和の種、ぶどうの木とその実り、天の露

 

※ 平和と実りがもたらされるようになるという意味だが、新約の光に照らした場合、メシア預言であり、深い意味のある個所。本資料Ⅴ節にて検討。

 

◇ 8:13 祝福となる

・かつては呪いの対象だった者が、救われ、祝福の対象となる。キリストを信じれば、律法の呪いから贖われ、神の祝福の対象となる。

 

「恐れてはならない。勇気を出せ」:キリストを信じる者には、絶望はない。必ず全知全能の神の導きと支えがある。

 

「勇気を出せ」⇒ バルバロ訳「手を強くせよ」、関根訳「しっかりせよ」

 

◇ 8:14-15 災いから幸いを下すことに神が転じる

 

「幸い」⇒ バルバロ訳「良いことをくだそうと決めた」 

原語「ヤタブ」=良い、喜び、喜ばせる

 

cf.創世記のヨセフの言葉「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)

⇒ 神は悪いことを良いことに変え、災いを幸いに変える。(ex.コロナも)

 

内村鑑三「患難の配布」:

「…各自に臨む患難は、その人にとり必要欠くべからざる患難である。彼を潔め、彼を錬(きた)え、彼をして神の前に立ちて完全なる者と成らしむるために、ぜひとも臨まねばならぬ患難である。(略)各自の欠点を補うために、特殊の患難を要するのである。患難は前世の報ではない。来世の準備である。刑罰ではない。恩恵である。我は我に臨む特殊の患難によりて楽しき神の国に入るべく磨かれ、また飾られ、完成(まっと)うせらるるのである。しかれば、人は何人も彼に臨みし患難を感謝して受くべきである。」

 

⇒ 災いを通して神に立ち帰り、神に出会う。その時、神は再び幸いを下してくださる。患難や試練も、喜びや平和も、どちらも神の恵みであり、感謝して受けるべきというのが聖書の教え。

ユダヤ教はバビロン捕囚を経たからこそ成立し、キリスト教ローマ帝国の迫害を経たからこそ成立した。無教会主義も、内村鑑三や塚本虎二らをはじめ、各自の人生における患難を経て成立してきた。)

 

「恐れてはならない」:試練を通じて神に立ち帰り、神とつながった以上は、無用に恐れる必要はなく、神に力づけられ勇気づけられ歩んでいくべき。

 

◇ 8:16-17  なすべきこと

 

真実を語り、真実を行う。 ⇒ 「エメット」=「ピスティス」 神の真実を知り、信じること、つまり「信仰」を語り、「信仰」を行うこと。

平和の裁き = 平和をもたらす正義を行うこと。神との間にキリストの信仰によって平和を得、キリストの平和を得たら、地の塩・世の光となって、この世の平和と正義に努める。正義に基づく平和。

 

8:16b フランシスコ会訳:「互いに真実を語り、城門では真実と平和をもたらす正しい裁きを行え。」

 

人に対して悪をたくらんではならない:搾取、抑圧、不当な攻撃などを他人にしない。これらを心でも言葉でも行為でも行わない。他人にして欲しくないことはせず(トビト4:15)、人にして欲しいことを行う(マタイ7:12)。

 

・偽りの誓いを求めてはならない

8:17c岩波訳「あなたがたは偽りの誓いを愛してはならない。」

 

⇒ 偽りの誓いを自分がしない、という意味にも受けとめることができるが、偽預言者や誤った宗教の振りまく偽りの約束や偽りの誓いにだまされないようにすることを指しているとも考えられる。 (聖書の真実の約束を信じる)

 

Ⅳ、福音と異邦人の救い (8:18~8:23) (旧約1465頁)

 

 

◇ 8:18 神の言葉:ゆえに聖書の言葉はどこでも無限に深い。

 

◇ 8:19 以下の歴史にちなんだ断食 

 

第四の月:タムーズの月。太陽暦6-7月。紀元前586年のこの月の9日にバビロニアの軍隊がエルサレムの城壁を突破した。(列王記下25:3-4)。

 

第五の月:アブの月。太陽暦7-8月。紀元前586年のこの月の7日に、バビロンの軍勢によって神殿と王宮が焼き払われ、城壁破壊。(列王記下25:8)。

 

第七の月:ティシュリーの月。太陽暦9-10月。10日がヨム・キプール(大贖罪日)。また、同月3日はバビロン陥落直後に総督ゲダルヤが暗殺された(エレミヤ41:18、列王記下25:25)。

 

第十の月:テベットの月。太陽暦12月―1月。紀元前588年のこの月の10日にバビロニア軍のエルサレム包囲が開始(列王記下25:1)。

 

※ これらの断食が「歓喜と喜び」に変わり、「恵み溢れる定めの祭り」となる。

 

⇒ ゼカリヤの時代においては、バビロン捕囚の苦難の歴史が終わり、神殿再建と復興が進み、人々が平和に喜んで暮らせるようになること。

 

⇒ 新約の光に照らせば、律法から福音の時代になること。喜びのない形式的な宗教から、永遠のいのちを得た喜びに満ちた宗教に変わること。

 

⇒ 新約における「宴会」、祝祭。明るく楽しく生きること。

 

「真実と平和を愛せよ」:神を愛し、隣人を愛すること。神の真実の教えに聞き従い、平和をつくる。平和の種を自らの心に育て、他の人々にも平和の種を蒔く。神の救済と祝福を信じた人がなすべきこと、生き方。

 

※ この箇所は、ゼカリヤ7章における断食を続けるべきかとの問いに対する答え。つまり、断食の有無ではなく、「真実と平和」に生きること、つまり神と結びついた生きた信仰の喜びに満ち、神との平和さらには隣人との平和(社会正義)を実現することが告げられている。これらは神の一方的な救済と、それに対する信仰によって実現する。

 

◇ 8:20-23  異邦人が神の民となる

 

・「多くの民、強い諸国民」「あらゆる言語の諸国民」が主を尋ね求め、神の民と一緒に行きたい、と言う。

 

⇒ 異邦人に福音が伝わること。全世界に神の教えが伝わり、人々が神を信じるに至ること。

(ゼカリヤの時代ではほとんど考えられなかったこの預言は、今日はかなりの程度実現し、成就している。

cf.世界の宗教人口割合:キリスト教24億5千万(約33%)、イスラム17億5千万(23.6%)、ユダヤ教1千455万(0.2%)、ヒンズー教10億2千万(13.7%)、仏教5億2千万(7%)。一神教信仰の割合は世界人口の半数を超えている(ゼカリヤの時代には全世界のほとんどは多神教だった)。

 

⇒ ただし、「平和の種」が本当に世界に広がっているかは検討の余地がある。キリスト教一神教が世界に広がったとは言っても、形式的な生命のない信仰に堕してしまっている場合も多い。無教会主義こそ日本に芽生えた天来の「平和の種」であり芽であり、今後世界に育て、広げることが望まれる。

 

※ この第八章までで、ゼカリヤ書の前半部分は終わりである。第九章から第十四章は、ゼカリヤ本人の預言だとすれば、このあと四十年ほど経ってからなされた預言だと推測される(別人の預言だとする「第二ゼカリヤ」説もある)。

第九章から十四章は、非常に具体的なメシア預言がなされる。

 

Ⅴ、平和の種について (ゼカリヤ書8章12節)  

    

・ゼカリヤ書8章12節は一種のメシア預言と考えられる。

 

岩波訳:「平和の種〔が蒔かれ〕、/葡萄の木はその実を結ばせる。/大地はその作物をもたらし/天はその露を降らせる。/わたしは、この民の残りの者たちに、/これらすべてのものを、/受け継がせる。」

 

※「種」も「ぶどうの木」も、新約聖書において、イエスのたとえ話に登場。

 

◇ 平和の種:ゼラ・ハッシャローム。平和・平安の種・子孫。神と人との間の平和の種子(原因)と考えれば、神の言葉・神の国のこと、キリストのこと。

 

※ 平和ヘブライ語「シャローム」。単なる争いのない状態ではなく、完全、安全、幸福の充満の意味を含む(『聖書思想事典』)。

平和とは、ゼカリヤ書においても、正義に基づく(7章・8章)、城壁のない・非武装・非暴力のもの(2章)であり、罪が神の贖いによってなくなっている状態(3章)、神の意志と一致した平和(6章)。

新約聖書においてパウロは、キリストの贖いによって人は罪を処分し神との間に平和を得ることができると説いた。

 

※ 種新約聖書には、いくつかの種のたとえがある。

 

① 種まきのたとえ マルコ4:1-7、および同4:13-20 ルカ、マタイ

 

種=神の言葉。

 

四種類の人。聞くだけの人。聞いても一過性の熱で終わる人。この世の心配や富や快楽に妨げられる人。全身全霊をもって神の言葉を愛し、神の言葉をよく守る人。

② 成長する種のたとえ マルコ4:26-30

種がおのずと成長するように、神の国は成長する。神の力、神の育て。

 

③ からし種のたとえ マルコ4:30-32 マタイ、ルカ

神の国はとても小さなものから、大きく育つ。

 

⇒ 種は神の言葉・神の国、さらに言えばイエス・キリスト御自身であり、その生涯と死と復活。このキリストの種を心にいただくことで、私たちは永遠のいのちを得、復活の希望と喜びにあずかる。(Ⅰコリ15:36-44。種は死と復活のたとえでもある。ヨハネ12:24 一粒の麦の譬え)

 私たちは聖書の言葉=平和の種をよく学び、よく聞いて守る(種まきのたとえの第四番目の種類の人)時によく収穫を得ることができる。また、そこに神の力・神の育てが働き、小さな信仰や小さな存在も、おのずと大きなものへと育てられる。

 

・私たちは蒔いたものを刈り取る。

 

ガラテヤ6:7-9「思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。/自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。」

 

Ⅱコリ9:6「つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。」

 

⇒ ゆえに、聖書の言葉を自分の心に蒔く努力と、他の人々にも蒔く努力をすべき。ただし、それを育てるのは、②の成長する種のたとえにあるように、あくまで神の力・神の育て。

 

⇒ 神に信頼し、あまり結果を期待せず、せっせと種を蒔くことが重要。

 

コヘレト11:3「風を見守る人は種を蒔けない。/雲を見る人は刈り入れができない。」

 

コヘレト11:6「朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな。/うまくいくのはあれなのか、これなのか/あるいは、そのいずれもなのか/あなたは知らないからである。」 

 

⇒ キリストへの真実の信仰を持つ人は、キリストの贖いによって神との間に平和を得ている。そのような人は、他の人との関係にも平和をもたらす。

 

ヤコブ3:8「義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。」

 

◇ ぶどうの木:キリスト=ぶどうの木(ヨハネ15:1-17)。

 

キリストというぶどうの木につながって、はじめて枝である人は実を結ぶことができる。

大切なことは神の愛に「留まる」(メノー)こと。

人間の側がなすべき努力は、ただ神の愛に留まることのみ。

神の愛に留まり、神の命じるとおりに隣人を愛する時に、私の人生は実り豊かなものになる。

 

天の露:神の恵みのこと。神が与える命のこと。

 

cf.ホセア14:6「私はイスラエルにとって露のようになる。/彼は百合のように花を咲かせ/レバノン杉のようにその根を下ろす。」

cf.創世記27:28、申命記32:2、同33:28、イザヤ26:19

 

⇒ 平和の種を自分の心や人々に蒔き続け、神の愛に留まる人には、天の露・神の恵みがそそがれ続ける。

 

残りの者:平和の種・ぶどうの木に留まること・天の露は「残りの者」が受け継ぐ。

ゼカリヤの時代においては「残りの者」とはバビロン捕囚から生き残った者。

新約の光に照らせば、信仰を持つ者。

全ての人が神の愛の対象であるが、実際に救われるのは「残りの者」で相対的に少数者。

 

  1. ミカ5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ハガイ1:12、イザヤ28:5

 

ロマ11:5 塚本虎二訳「だから、同じように今の世にも、恩恵の選びによる残りの者がある。」

 

⇒ 残りの者は神の恩恵の選びによる。神の恩恵による選びのありがたさ。

 

※ 上記のことは全て神からの一方的な恵み。

 

Ⅵ、おわりに  

 

ゼカリヤ書八章から考えたこと

 

・神の一方的な恩恵のありがたさ。

 

・また、神の恩恵によって得た平和の種(平和の福音(塚本訳「使徒のはたらき」10:36))を、自分の心に蒔き続け、大切に守り、また他の人にも蒔き続けることの大切さ。

 

・あまり結果は期待せず、神の力と神の育てに信頼して、平和の種を蒔き続けると、天の露・恵みに遇うのではないかと思われる。

 

・イエスや、その周辺のほんの小さな最初の集いが、今や全世界にキリストを信じる人々に育っていることへの改めての驚き。

 

・平和の種とは、第一義的には福音のことであるが、日本に特殊な文脈でやや応用して言えば、戦後の平和主義や憲法九条とも受けとめることができると思う。いかに日本における平和の種を大事に守り、育み、伝えていくか。

 

 

「参考文献」

 

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)など。

・『塚本虎二著作集 第三巻』

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数  

エルカナの話

聖書というのは不思議な本で、以前読んだ時はまったく印象に残らなかった箇所が、ある時にはとても心に響く場合がある。

 

サムエル記上の一章の、エルカナとハンナの会話は私にとってそうだった。

 

なかなか子供が生まれず悲しみ嘆くハンナに対し、夫のエルカナが「この私はあなたにとって十人の息子にもまさるではないか」と言って慰める箇所である。

 

はたして、これが慰めになるのかよくわからないし、自分でそう言っているのも、ある種のボケなのか、なかなか面白い箇所だが、以前はぜんぜん覚えてもいない箇所だった。

 

似たような状況なので、とても印象に残る箇所となった。

 

で、泣いている妻に、この話をわかりやすく伝えて、このセリフを言ってみた。

やっと笑ってもらえた。

 

たぶん、エルカナは、冗談が好きで、ユダヤ・ジョークが得意だったのかもしれない。

 

妻にとって私が十人の子にまさるかどうかはわからないが、妻が私にとって十人の子にまさる、かけがえのない存在であることは間違いない。

子ができるかどうかは、神の御業なので、信じて待つことにして、妻がいるだけで十分幸せで感謝していることは、これからも折に触れてしっかり伝えていきたいと思う。

 

信仰とは、神の愛と全能を信じて待つこと。

聖書のおかげで、いろんな笑いや知恵や忍耐を気分を切り替えて持つことができ、待つことができるのは、本当にありがたいことだと思う。

塚本虎二訳新約聖書

今日、塚本虎二訳新約聖書を通読し終わった。
あとがきも含めると1000頁を超える。
この本は、四年前に亡くなったM・Tさんからいただいた。
ところどころは読んだことがあったけれど、きちんと通読したことがなかったので、最近ちょっとずつ読んで、やっと読破することができた。
 
聖書にはいろんな訳があるけれど、塚本訳は最もぬくもりのある、平明でかつ深い、名訳と思う。
とても読みやすく、かつ深い味わいがある。
塚本虎二が一生をかけて長い時間をかけて翻訳しただけのことはあると思う。
 
そして、この翻訳の背後には、塚本虎二の著作集の正続合わせて十八巻が註釈として控えている。
特に、イエス伝全八巻は、福音書の部分の最良の注釈書である。
エス伝も、半分ぐらいは読んだけれど、まだきちんと読めてないところもあるので、またちょっとずつ読んでいきたい。
 
以前、Sさんから、若い時に塚本虎二の聖書講話を何度か直接聞いたことがあり、わずか一節か二節を一時間以上の一回の講話で解説し、しかもそれがとてもすごい熱量のあるもので、日本の和歌なども引用しながら、本当に熱くすばらしいものだった、という思い出話をお聞きしたことがある。
 
いつか正続著作集も通読したいと思うし、この塚本訳新約聖書も、折々にまた読み返したいと思う。

ゼカリヤ書 資料(9)

 

『ゼカリヤ書(9)断食と社会正義 ―その行いは神のためか』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、断食についての問答

Ⅲ、社会正義と神の審判

Ⅳ、断食について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    (左図:ベテル  右図:バビロン捕囚)

 

・前回までのまとめ:ゼカリヤ書=捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言。第六章までに八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、そのうえでメシア(若枝)と祭司の意志が一致し平和となり、祭司(ヨシュア。新約から見れば万人祭司の予表)が戴冠させられることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は七章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ることおよび八つの幻 (第一章~第六章前半)

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)

☆真実と正義の勧め① 断食と社会正義(第七章) ⇒ ※ 今回

真実の正義の勧め② 神による救済 

 

□ 第七章の構成 

 

第一部 断食についての問答 (7:1~7:7)

第二部 社会正義と神の審判 (7:8~7:14)

 

 第七章では、断食が誰のために行うものであるか、さらには本当に神が喜ぶ宗教的行為とは何であるかが問われ、神から離れ社会正義に大きく背いていた南ユダ王国がそれゆえに滅亡したことが記される。

まず前半の第一部では、断食についてベテルからの使いが質問し、それに対してゼカリヤを通じて神が答えることが描かれる。

次に、後半の第二部では、多くの預言者を通じてかつて告げられた社会正義を、再度ゼカリヤを通じて神が告げる。この神の意志に背いていたために神の審判が行われユダヤが滅亡し離散したことが告げられる。

 

Ⅱ、断食についての問答 (7:1~7:7) (旧約1462頁)

 

◇ 7:1  預言の日時

 

ダレイオス王の治世第四年:紀元前518年。第一章の預言から二年が経過。

第九の月、キスレウの月の四日:現暦では12月7日。キスレウの月は太陽暦の11月―12月に相当し、ハヌカ祭が行われる月。

主の言葉がゼカリヤに臨んだ:聖書は神の言葉。無限に深い。

 

◇ 7:2 ベテルからの問い

 

ベテル:エルサレムの北16キロの場所(聖書巻末地図③参照)。「神の家」という意味の地名。ヤコブエサウを逃れていく時に天に達する階段の夢を見た場所(創世記28:10-22)、のちに神の命により祭壇を築いた(創世記35:1-15)。預言者サムエルが巡回する地の一つでもあった(サムエル記上7:16)。のちに北イスラエル王国のヤラベアム王が黄金の子牛を置き、偶像崇拝の中心地となった。アモスと対立した祭司アマツヤの拠点でもあり、アモス・ホセア・エレミヤらからベテルを中心とする誤った信仰や祭儀のあり方は批判された。捕囚解放後も重要な宗教的拠点として存在していたようである。

 

サル・エツェル:サルは「将軍」、エツェルは「宝物」の意味。人名。将軍エツェルという意味か。

レゲム・メレク:人名。レゲムは「友人」という意味。「王の友人」という称号だという説もある。

 

※ ベテルからサル・エツェルとレゲム・メレクとその従者が派遣された。七十人訳は、ダレイオス王がこれらの人々をベテルに派遣した、となっている。

⇒ ベテルの祭司たちがエレサレム神殿にいるゼカリヤたちに神の意向を尋ねるために使者を派遣したという意味か。(七十人訳であれば、ダレイオス王あるいはペルシア帝国の行政官が、エルサレムにいるゼカリヤたちに神の意向を尋ねるためにこれらの人々を派遣したということになる)。

 

◇ 7:3 第五の月の断食を継続すべきかについての問い

 

祭司たちと預言者たち:大勢、複数の人々が再建中のエレサレム神殿におり、その人々に使者は尋ねた。が、答えたのはゼカリヤ。常に神の言葉を預かるのは一人ないし極めて少数の人々。

 

第五の月:アブの月。太陽暦7-8月。紀元前586年の第五の月の7日に、バビロンの軍勢によってエルサレムが陥落した(列王記下25:8)。

 

※ 長年行ってきたようにこれからも断食すべきか?

⇒ この問いの背後には、もう十分に断食による悔い改めや償いは行ったという気持ちや、すでに紀元前538年にバビロン捕囚から解放されて二十年が経過し、エルサレム神殿も順調に再建され(この二年後に完成)、もはや断食は不要ではないかという考えがあったと思われる。しかし、なお神の怒りへの恐怖や危惧があり、神の意向を預言者に問おうとしたということと思われる。

 

◇ 7:4 主の言葉が臨んだ

 

ゼカリヤに神の言葉が臨んだ。聖書は神の言葉。神は問えば、なんらかの形で(預言者を通じて、聖書を通じてetc.)必ず答えてくださる。

 

◇ 7:5  七十年の断食とその内実についての問い

 

第七の月:ティシュリーの月。太陽暦だと9-10月。ユダヤ暦だと、この第七の月の最初の日が新年となり、ロシュハシャナーという正月が祝われる。また、この月の10日がヨム・キプール(大贖罪日)であり、一日間断食をする日となっている(レビ記16:29、同23:26-32)。15-21日は仮庵の祭りが行われる。

また、同月3日はバビロン陥落直後に総督ゲダルヤが暗殺されたことを記念し断食する日となっている(エレミヤ41:18、列王記下25:25)。

 

※ つまり、エルサレムがバビロンによって陥落した歴史を嘆く断食と、ゲダルヤの断食あるいはヨム・キプールの断食を5月と7月に行い、七十年間嘆いてきたが、の意味。

 

七十年間:エレミヤが預言したバビロン捕囚の期間(エレミヤ25:11-12、同29:10、歴代誌下36:21)。ゼカリヤ書1:12にもミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使いが、もう七十年も憤っておられます、と神に言っている。

 

バビロン捕囚(第二次)=紀元前587年。神殿再建の完成=紀元前516年。

(第一次バビロン捕囚=紀元前597年。ハガイやゼカリヤに預言が臨んで神殿再建に再び立ち上がった年=紀元前520年。)

 

※ 本当に神のために断食したのか? ⇒ 断食については第三節で考察

 

⇒ 神を思わず、ただ形式的に断食をしても、意味がないのではないか?

 

◇ 7:6  断食や飲食が神のためか自分のためか

 

岩波訳:「まことにあなたがたは食べて飲むが、あなたがたが食べて、飲んでいるだけではないか」。

 

⇒ 主のために断食したり飲食すること、主のために生きることが重要なのに、そうではなく、自分のために断食などの宗教的行事を行ったり、飲食したり、自分のために生きても、それは本当の宗教とは無関係。(参照ロマ14:6)。

 

※ もともと、ヨム・キプールの断食や、安息日の仕事の禁止も、神に心を向け、神との対話の時間を過ごすためだった。形式的に断食や宗教的行為を行ったり、自分のためにそれらを行っても、神は少しも評価しない。

 

⇒ 神のためか?自分のためか?

⇒ あらゆる宗教的行為や、もっと言えば人生の生き方や行いのひとつひとつが、神を向いているのか、神のためか、それとも自分を向いていて、自分の利益や欲望のためか。

(c.f. 日本の民間信仰の「断ち物」。願掛けのための酒断ち、タバコ断ちなど。)(c.f. ルター『キリスト者の自由について』26節、自分自身のための行いは信仰で十分、その他の行いは自由な愛をもって隣人に仕えるためにある。)

 

◇ 7:7 平穏な時にすでに呼びかけられていた神の言葉

 

ネゲブ:「南」という意味。南のユダの荒野地帯の呼称。(c.f.詩編126:4)

シェフェラ:「低地」。中央山地と対比し、山のすそ野から海岸平野にかけての地域の呼称(参照:オバデヤ19。⇒ネゲブはエドムと隣接地域、シェフェラはペリシテと隣接地域)。

⇒ エルサレムの首都周辺も、そこから遠い国境地帯も、どちらにも人が多く住んでいたかつての平穏な時に、神が預言者を通して呼びかけた言葉が、以下の言葉。

 

:断食という宗教的行為も、形式だけでは意味をなさず、動機が自分のためであれば神は喜ばない。断食・宗教的行為が神のため、神に向かうものであるかどうかが重要であり、神が人に問う最も肝要なポイントである。

 

 

Ⅲ、神が告げる義と審判 (7:8~7:14) (旧約1463頁)

 

◇ 7:8   神の言葉がゼカリヤに臨んだ

 

⇒ かつての預言者たちを通じて伝えられた内容と同様の神の言葉が、あらためてゼカリヤにも臨んだ。以下は神の言葉であり、無限に深い意味がある。

 

◇ 7:9   真実と慈しみ、公正と憐れみ

 

岩波訳:「万軍のヤハウェはこう言われた、/「公義と真実とをもって裁け、/お互いに相手に、慈しみと憐れみによって、/業をなせ。」

 

公正:「ミシュパト」(正義)

真実:「エメット」(誠実、忠実)

慈しみ:「ヘセッド」(恵み、愛情、誠実)

憐れみ:「ラハム」(ラハミーム) 「ラヘム」(子宮)と同じ語源で、母親が胎内の子どもを慈しみ憐れむように神が人を憐れむ気持ち。転じて人と人との間にも期待されている心。

 

※ 神は真実と慈しみの方。参照:詩篇117:2

 

※ 繰り返し、預言者を通じて語られた神のメッセージ。

 

アモス書5章 貧しい人々を踏みつけにすることを批判し、「善を求めよ、悪を求めるな」と告げ、宗教的儀式ではなく、社会正義を求めている。

アモス5:24「公正を水のように/正義を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」

 

・ミカ書3章、6章 公正を強調し、貧しい人々を抑圧する支配者たちを批判。

ミカ6:8「人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」

 

・ホセア6:6「私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。/神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない。」

 

イザヤ1:17「善を行うことを学べ。/公正を追い求め、虐げられた者を救い/孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ。」

 

エレミヤ22:3「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。」

 

※ 新約聖書でも慈しみ(ヘセッド)と真実(エメット)は、神の愛と信仰(アガペーとピスティス)として、繰り返し根幹をなすものとして語られる。

参照 ルカ3:11 ヨハネ、下着や食べ物を分かち合う勧め。

マルコ12:29-31 神を愛し、隣人を愛することが第一の戒め。他。

 

◇ 7:10 寡婦、孤児、寄留者、貧しい人々の保護

 

寡婦と孤児:古代世界では男性の働き手がいなくなると、生活が困窮し大変だったため、寡婦や孤児の保護が重視された。古代メソポタミアのシュメルの王ウルカギナの文書およびハムラビ法典において「寡婦と孤児」の保護が明記。

 

寄留者:一時滞在の外国人のこと。律法には、寡婦と孤児とともに、寄留者の権利の保護も繰り返し命じられている。寄留者の権利に対する深い関心と注意が、古代メソポタミア世界におけるイスラエルの独自性と特徴であり、背後に出エジプトの歴史的体験の真実性が想定される(参照:月本昭男先生の研究)。

 

出エジプト記22:20「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。」

出エジプト22:21「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。」

申命記24:17「あなたは、寄留者や孤児の権利を侵してはならない。寡婦の衣服を質に取ってはならない。」

申命記27:19「「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。」

・落穂ひろい:レビ記19:9-10、同23:22、申命記24:19-22

 

貧しい者:律法においては、貧しい者に対するさまざまな配慮がなされており、高利をとってはならないことや訴訟における公平な扱いや一定期間ごとの負債免除や、寛大な対応が命じられている(申命記15:7-11、出エジプト記23章他)。イザヤ、アモスらの預言者も、貧しい者への配慮を繰り返し伝えている。

 

※ お互い同士、心に悪を企んではならない

 

⇒ 弱い立場の人を搾取してはならない。騙してはならない。善意をもって、お互い助け合って生きることを神は人々に望んでいる。

 

cf.「母子及び父子並びに寡婦福祉法」(1964年制定(当時は母子福祉法)。寡婦支援や税額控除について定める。片山哲社会党、クリスチャン)らが中心となって法案作成)。

 ただし、欧米諸国に比べて、日本はシングルマザーに対する偏見が未だに存在し、働くための制度的支えや環境も整備されておらず、欧米諸国の方が補助金や支援金が充実しているという現状もしばしば指摘される。

 

cf.外国人について言えば、日本は近年大幅に外国人就労者・留学生の数が増えているものの、人権や受け入れ態勢が整わず、劣悪な環境で働いている人々もいる。日本における若い年齢の結核感染者は外国出身者がほとんどで、狭い部屋に大人数で劣悪な環境で住んでいることにより感染する場合も多い。

 

◇ 7:11-14 ユダ王国滅亡の原因と神の審判

 

・7:12 「心をダイヤモンドのように固くして」⇒岩波訳「彼らはその心を火打ち石のように頑なにして」

 

・上記の神のメッセージに聞き従わなかったことが、南ユダ王国滅亡とバビロン捕囚の原因だったことが語られる。

 

※ 参照:列王記では南ユダ王国滅亡の原因は、以下のように語られている。

列王記下24:2-3「ユダでこうしたことが起こったのは、まさに主の命令によるものであり、ご自分の前からユダを取り去るためであった。それはマナセの罪のためであり、彼の行ったすべてのことのためである。また無実の者の血を流し、エルサレムを無実の者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。」 

⇒ マナセの罪 列王記下21章 他の神々、偶像の崇拝。

⇒ 真実の神を信じず、偶像を崇拝し、隣人を虐げることは、一国の滅亡につながる。

 

※ 神の審判と、「国々に追い散らし」=離散(ディアスポラ)ということは、バビロンによる滅亡とバビロン捕囚の時にも実現した預言だったが、その後、イエスの死後間もない時に、再びユダヤ戦争においてローマ帝国の攻撃によってユダヤが滅亡し離散することによっても実現した。ゼカリヤのこの箇所は、ゼカリヤの時代においてすでに過去だったバビロン捕囚について述べているのと同時に、五百年後のユダヤ戦争における滅亡とディアスポラを預言している。

 

⇒ 日本は離散はないものの、かつて第二次大戦の敗戦を経験した(参照:秀村選三先生「私たちはかつて裁かれた、神の審判を受けた民だということを忘れてはならない」)。真の神を知らず、隣人を虐げた(寄留者の抑圧や虐殺など)。

 

c.f.太宰治パンドラの匣』:「わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。(略)日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ(略)日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」

 

 

Ⅳ、断食について 

 

「断食」:原語「ツム」。士師記20:26、サムエル記下12:16、エズラ8:21、ダニエル9:3、ヨナ書3:5、ヨエル書2:12などに神の前にへりくだるときに断食を行う記述あり。

レビ記16:29、同16:31にヨム・キプールに身をつつしむ記述があり、これは断食と理解されている。

 

一方、単なる形式的な断食を、神は喜ばないという記述もある。

 

エレミヤ14:12「彼らが断食しても、私は彼らの叫びを聞かない。焼き尽くすいけにえや穀物の供え物を献げても、私はそれらを受け入れない。私は剣と飢饉と疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」 (cf.アモス5:21-24)

 

イザヤ書58:6「私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。」 

⇒ 神が望む本当の宗教的行為(断食)は、隣人への正義・愛の実践。

 

エスも断食について、見せかけでは意味がないことを教えている。

マタイ6:16-18:「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。

あなたは、断食するとき、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 

cf.「微笑もて正義を為なせ!」(太宰治『正義と微笑』)

※ 神は形式的な断食や深刻な顔をした断食を喜ばない。隣人への正義や愛の実践と、明るく楽しく生きることをこそ望んでいる。

 

☆ ただし、ゼカリヤ書7章においては、神が問題にしているのは社会正義の行いの実践だけではない。一見そのようにも読めるが、すでに見たようにそもそも断食についての質問に対し、神のためにその行いをなしているかを問われている。これは何を意味しているのか? 

 

□ そもそも、ゼカリヤ書7:5-6では、断食の行為そのものよりも、その行為が神を向いているかどうかを問題としている。

⇒ 断食についての問答と社会正義についてのメッセージはどう結びついているか? (もし律法を守れというこであれば、単純に断食し、そして社会正義を守りなさい、と言うはず)。

 

⇒ 神への愛や神との結びつきを喪失した結果が、隣人との愛や社会正義の喪失だったことを指摘していると受けとめるべきではないか?

 

☆ 参照:塚本虎二『キリスト教十講』第十講「信仰と愛」

⇒ 道徳的手段をもって道徳的完成をめざしたユダヤ教は失敗した。キリスト教は信仰教である。しかし、まことの生きた信仰は必ず愛の実を結ぶ。

・「全身全霊を神にゆだねてその御心のままに生きるものが、神の愛の流れとともにながれて愛に生きることは当然の自明の理」。

・信仰なくして愛はない。愛の実を結ばぬ信仰はありえない。

・神への絶対信頼 ⇒ 隣人愛 (← これが南ユダ王国になかった。捕囚後もない。)

 

※ マナセや南ユダ王国は神への絶対信頼がなかった。その結果、偶像崇拝に走り、隣人への正義や愛を喪失した。根本的には信仰の喪失が問題であり、社会正義の喪失はその結果である。捕囚期間後の宗教も結局形式的で、根本は変っていない。そのことへの批判が、ゼカリヤ七章のメッセージ。

 

☆ 参照:塚本虎二「聖書の要約」

⇒ アダムの堕罪以来、人間が神との全き関係を喪失しているため、律法を守れず、隣人への愛や社会正義も失われていった。

⇒ バビロン捕囚は、ユダヤ人(および人類)は道徳的努力によっては律法を守れないということの歴史上の証明。

⇒ この律法と罪の問題は、キリストの十字架よる解決しかない。

⇒ キリストの十字架によって神との関係を回復し、神への絶対信頼(信仰)を持った時に、はじめて隣人への愛や社会正義もおのずと行われる。(ゼカリヤ書7章の真意はそこにある。ゼカリヤ書にはメシア預言も多く含まれる。)

⇒ 第八章では神の側からの一方的な救済が説かれる。(行いではなく信仰のみ)

 

Ⅴ、おわりに  

ゼカリヤ書七章から考えたこと

 

・自分の思いや行いが、神に向かっているかどうかが重要であること。もし神に向かっていないのであれば、立派な行いをしていても神の目からは無意味。

 

・現代における新自由主義や弱肉強食は、根底には神を向かず、信仰を喪失したことの結果と考えられる。その行為や生き方が神を向いているかについて問い、悔い改めて神に向かう信仰を得ない限り、問題は根本的には解決しない。

 

・断食や苦行よりも、神への愛と隣人への愛が一番重要である。

 

・公正・真実・慈しみ・憐みが、はたして現代の社会にどこまで重視されているか。寡婦、孤児、寄留者、貧しい人々が、はたしてきちんと十分に大切にされているか、あらためて考えさせられた。

 

・おそらく、信仰のみと言って社会正義を重視しない宗教も、まず第一に信仰を重視せずに社会正義ばかりに走る宗教も、どちらも誤りではないか。

神の愛に絶対的に信頼する信仰が根本で、神の愛に繰り返し聖書の学びや祈りを通して触れることが大切であり、そうしていれば、おのずと公正や真実や慈しみや憐れみを生き方として求め、寡婦、孤児、寄留者、貧しい人々に配慮することにつながると思われる。聖書の学びと社会正義の実践とは、前者を順序として第一にするが、後者も車の両輪なのだと思われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)など。

・『塚本虎二著作集続 第二巻』

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数  

イマキュレー・イリバギザ『生かされて。』を読んで

ある人に勧められて、イマキュレー・イリバギザ『生かされて。』を読んだ。

1994年に起こったルワンダの大虐殺のさなかを奇跡的に生きのびた体験談である。

 

ルワンダにおけるフツ族ツチ族の抗争と、ツチ族に対する大虐殺は、少しだけ聞いたことがあったが、その詳しいことは全然知らなかったので、あらためてそのひどさに驚かされた。

 

つい最近まで、一緒に仲良く過ごしていた親友や隣人たちが、突如冷酷になる姿には、本当に驚かざるを得ないが、人間とはそのようなものなのだろうか。

 

大虐殺が起きる前の筆者の家族たちの幸せな様子と、おおむね平和だったルワンダの美しさと、大虐殺後の対照に胸が詰まった。

 

だが、大虐殺が起こる前から、根深い両部族間の偏見や確執や歴史的経緯があったことも、この本を読んでよくわかった。

憎悪の伝染や蓄積があると、ある時に爆発し、こういう悲惨な出来事を起こすのだろう。

なので、どの社会も、日ごろから憎悪やヘイトの芽を小さい時から除去していくことが、社会の健全さを保つためには不可欠なのだと思われた。

また、ルワンダにそのような部族対立の根を植え込んだ植民地時代の宗主国のベルギーの罪も重いと思われた。

 

そうした中にあって、部族間の敵意を持たぬように生き、子どもたちにそう教えていた敬虔なクリスチャンだった筆者の両親と、その両親が殺された後も、信仰を保ち続けた筆者の姿勢には胸打たれるものがあった。

この本のすばらしさは、自らの中の悲しみや憎しみを信仰によって乗り越え、相手を赦そうとし、また苦難な状況の中にあって祈りと信仰に生きる筆者の姿勢にあると思う。

 

特に心に残ったのは、以下の二箇所だった。

 

「父はいつも言っていました。祈り過ぎることは決してないと。この戦争を生き抜く戦いとは、内なる自分との戦いなのだと今、私は気づいたのです。」

(151頁)

 

「私は、自分を、祈りと肯定的な考え方の証だと思いました。

祈りと肯定的な考え方は、ほとんど同じことなのです。神様は肯定的な考え方の源です。そして、祈りは、それに触れる最良の方法です。」

(329頁)

 

もちろん、本全体を通じての、驚くような神の御手としか思われない大いなるはからいと、筆者のイリバギザさんの赦しへの決断に深く胸打たれた。

 

私は、筆者のイリバギザさんと比べたらどれだけ恵まれているかわからないのに、とかくネガティブに考えが傾きがちなので、内なる自分と戦い、祈りと肯定的思考を大切に生きていきたいと読みながら思った。

 

人間の業の深さと、人間のすばらしさと、両方をあらためて深く教えられる稀有な本だと思う。

 

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