ゼカリヤ書 資料(10)

 

『ゼカリヤ書(10) 神の祝福と平和の種』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神の一方的救済の宣言

Ⅲ、祝福と信仰  

Ⅳ、福音と異邦人の救い

Ⅴ、平和の種について

Ⅵ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

 

   

 

・前回までのまとめ:

ゼカリヤ書=捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言。第六章までに八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、そのうえで祭司(ヨシュア。新約から見れば万人祭司の予表)の戴冠が告げられた。さらに、断食を神のために行っているかが問われ、かつてユダヤの民が神から離れ社会正義を行わず神の裁きの対象となったことが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は八章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ることおよび八つの幻 (第一章~第六章前半)

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)

真実と正義の勧め① 断食と社会正義(第七章)

☆真実の正義の勧め② 神による救済  ⇒   ※ 今回

 

□ 第八章の構成 

 

第一部 神の一方的救済の宣言 (8:1~8:8)

第二部 祝福と信仰   (8:9~8:17)

第三部 福音と異邦人の救い (8:18~8:23)

 

 第八章では、神の側からの一方的な救済が告げられる。さらに、神から祝福が与えられ、異邦人にも神への信仰が広がることが記される。

まず第一部では、神がエルサレムを回復し、平和が訪れることが告げられる。

第二部では、平和の種が蒔かれ、ぶどうのように実り、何も恐れる必要はなく、神の祝福にふさわしく生きるべきことが告げられる。

第三部では、断食の日が喜びの日に変わり、異邦人も神の民となりたいと思う様子が描かれる。

 

Ⅱ、神の一方的救済の宣言 (8:1~8:8) (旧約1463-1464頁)

 

◇ 8:1  万軍の主の言葉が臨んだ:聖書は神の言葉。無限に深い。

7章からのつながりではあるが、一方的に神が以下の内容を告げる。

 

◇ 8:2 神の熱情

 

シオン:エルサレムの神殿の丘一帯の呼称。転じてエルサレム全体、さらにはイスラエル全体を指す。

 

妬み:別訳「熱情」。原語はカンナー。妬みとも熱情とも訳され、他との関係を排する熱情的な愛を指す。

憤り:ケマー。激怒とも「熱」とも訳される。

岩波訳「わたしは大いなる情愛をもってシオンに激しく愛を注いだ。/また大いなる怒りをもってシオンに激しく愛を注いだ。」

新共同訳「わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。」

cf.新改訳2017「ねたむほど激しく愛し」

 

⇒ 2節は、妬みや憤りというよりも、ユダヤの民の苦境に対して神が悶えるような熱い愛情を持っている様子を示している。

cf.アモス11:8d「私の心は激しく揺さぶられ/憐みで胸が熱くなる。」

 

◇ 8:3 主の一方的な帰還とエルサレムの回復

神の側の一方的な民への愛による帰還と回復が告げられる。

ここでの「エルサレム」は、字義通りにも解されるし、新約の光に照らするならば神の民=エクレシアを指すとも考えられる。

 

◇ 8:4-5 お年寄りと子ども

神の祝福と平和の象徴。戦争などにおいて最も犠牲となるのは両者で、お年寄りと子どもが幸せに暮らせる世の中は平和である証拠。

 

◇ 8:6  一方的な神の救済は、人の目には不思議と見えても、神にとっては不可能なことではない。神の全知全能により、最も困難な人の魂の導きや救済も可能となる。

 

◇ 8:7-8  全地の民が救われ、神の民となる

捕囚や離散の民が救われること。新約の光に照らせば、全世界の異邦人も神の民となること。

cf.ホセア2:1 ロ・アンミ(わが民ではない者)⇒「生ける神の子ら」

 

真実と正義 ⇒ 信仰と義 によって神が人々を救う。

 

 

Ⅲ、祝福と信仰   (8:9~8:17) (旧約1464-1465頁)

 

◇ 8:9-11  神殿再建以前は報いがなかったこと

cf.ハガイ1:4-11、同2:15-17 

 

・ハガイ書には神殿再建前は収穫が僅かだったことが記されている。9節の「預言者たち」は、ハガイのことを念頭に置いていると思われる(およびゼカリヤ自身)。

・神殿再建前は、収穫や報酬が乏しく、安全もなかった。

・しかし、神殿再建の基が定まった今、報いがない時代は終わった。

☆「神殿を再建するための基」とは

⇒ ゼカリヤの時代においては、再建中のエルサレム神殿の基礎工事のことであるが、新約の光に照らせば「隅の親石」であるキリストのこと。

⇒ キリストに出会う前は、人生に甲斐がなく、報いや手ごたえが感じられないむなしかった人生や、安心が持てなかった人生が、キリストに根差す時に、甲斐があり大きな報いがあり、安心できるものになること。

 

「勇気を出せ」 ⇒ キリストに出会えば、恐れを克服でき、勇気が出る。

 

◇ 8:12   平和の種、ぶどうの木とその実り、天の露

 

※ 平和と実りがもたらされるようになるという意味だが、新約の光に照らした場合、メシア預言であり、深い意味のある個所。本資料Ⅴ節にて検討。

 

◇ 8:13 祝福となる

・かつては呪いの対象だった者が、救われ、祝福の対象となる。キリストを信じれば、律法の呪いから贖われ、神の祝福の対象となる。

 

「恐れてはならない。勇気を出せ」:キリストを信じる者には、絶望はない。必ず全知全能の神の導きと支えがある。

 

「勇気を出せ」⇒ バルバロ訳「手を強くせよ」、関根訳「しっかりせよ」

 

◇ 8:14-15 災いから幸いを下すことに神が転じる

 

「幸い」⇒ バルバロ訳「良いことをくだそうと決めた」 

原語「ヤタブ」=良い、喜び、喜ばせる

 

cf.創世記のヨセフの言葉「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)

⇒ 神は悪いことを良いことに変え、災いを幸いに変える。(ex.コロナも)

 

内村鑑三「患難の配布」:

「…各自に臨む患難は、その人にとり必要欠くべからざる患難である。彼を潔め、彼を錬(きた)え、彼をして神の前に立ちて完全なる者と成らしむるために、ぜひとも臨まねばならぬ患難である。(略)各自の欠点を補うために、特殊の患難を要するのである。患難は前世の報ではない。来世の準備である。刑罰ではない。恩恵である。我は我に臨む特殊の患難によりて楽しき神の国に入るべく磨かれ、また飾られ、完成(まっと)うせらるるのである。しかれば、人は何人も彼に臨みし患難を感謝して受くべきである。」

 

⇒ 災いを通して神に立ち帰り、神に出会う。その時、神は再び幸いを下してくださる。患難や試練も、喜びや平和も、どちらも神の恵みであり、感謝して受けるべきというのが聖書の教え。

ユダヤ教はバビロン捕囚を経たからこそ成立し、キリスト教ローマ帝国の迫害を経たからこそ成立した。無教会主義も、内村鑑三や塚本虎二らをはじめ、各自の人生における患難を経て成立してきた。)

 

「恐れてはならない」:試練を通じて神に立ち帰り、神とつながった以上は、無用に恐れる必要はなく、神に力づけられ勇気づけられ歩んでいくべき。

 

◇ 8:16-17  なすべきこと

 

真実を語り、真実を行う。 ⇒ 「エメット」=「ピスティス」 神の真実を知り、信じること、つまり「信仰」を語り、「信仰」を行うこと。

平和の裁き = 平和をもたらす正義を行うこと。神との間にキリストの信仰によって平和を得、キリストの平和を得たら、地の塩・世の光となって、この世の平和と正義に努める。正義に基づく平和。

 

8:16b フランシスコ会訳:「互いに真実を語り、城門では真実と平和をもたらす正しい裁きを行え。」

 

人に対して悪をたくらんではならない:搾取、抑圧、不当な攻撃などを他人にしない。これらを心でも言葉でも行為でも行わない。他人にして欲しくないことはせず(トビト4:15)、人にして欲しいことを行う(マタイ7:12)。

 

・偽りの誓いを求めてはならない

8:17c岩波訳「あなたがたは偽りの誓いを愛してはならない。」

 

⇒ 偽りの誓いを自分がしない、という意味にも受けとめることができるが、偽預言者や誤った宗教の振りまく偽りの約束や偽りの誓いにだまされないようにすることを指しているとも考えられる。 (聖書の真実の約束を信じる)

 

Ⅳ、福音と異邦人の救い (8:18~8:23) (旧約1465頁)

 

 

◇ 8:18 神の言葉:ゆえに聖書の言葉はどこでも無限に深い。

 

◇ 8:19 以下の歴史にちなんだ断食 

 

第四の月:タムーズの月。太陽暦6-7月。紀元前586年のこの月の9日にバビロニアの軍隊がエルサレムの城壁を突破した。(列王記下25:3-4)。

 

第五の月:アブの月。太陽暦7-8月。紀元前586年のこの月の7日に、バビロンの軍勢によって神殿と王宮が焼き払われ、城壁破壊。(列王記下25:8)。

 

第七の月:ティシュリーの月。太陽暦9-10月。10日がヨム・キプール(大贖罪日)。また、同月3日はバビロン陥落直後に総督ゲダルヤが暗殺された(エレミヤ41:18、列王記下25:25)。

 

第十の月:テベットの月。太陽暦12月―1月。紀元前588年のこの月の10日にバビロニア軍のエルサレム包囲が開始(列王記下25:1)。

 

※ これらの断食が「歓喜と喜び」に変わり、「恵み溢れる定めの祭り」となる。

 

⇒ ゼカリヤの時代においては、バビロン捕囚の苦難の歴史が終わり、神殿再建と復興が進み、人々が平和に喜んで暮らせるようになること。

 

⇒ 新約の光に照らせば、律法から福音の時代になること。喜びのない形式的な宗教から、永遠のいのちを得た喜びに満ちた宗教に変わること。

 

⇒ 新約における「宴会」、祝祭。明るく楽しく生きること。

 

「真実と平和を愛せよ」:神を愛し、隣人を愛すること。神の真実の教えに聞き従い、平和をつくる。平和の種を自らの心に育て、他の人々にも平和の種を蒔く。神の救済と祝福を信じた人がなすべきこと、生き方。

 

※ この箇所は、ゼカリヤ7章における断食を続けるべきかとの問いに対する答え。つまり、断食の有無ではなく、「真実と平和」に生きること、つまり神と結びついた生きた信仰の喜びに満ち、神との平和さらには隣人との平和(社会正義)を実現することが告げられている。これらは神の一方的な救済と、それに対する信仰によって実現する。

 

◇ 8:20-23  異邦人が神の民となる

 

・「多くの民、強い諸国民」「あらゆる言語の諸国民」が主を尋ね求め、神の民と一緒に行きたい、と言う。

 

⇒ 異邦人に福音が伝わること。全世界に神の教えが伝わり、人々が神を信じるに至ること。

(ゼカリヤの時代ではほとんど考えられなかったこの預言は、今日はかなりの程度実現し、成就している。

cf.世界の宗教人口割合:キリスト教24億5千万(約33%)、イスラム17億5千万(23.6%)、ユダヤ教1千455万(0.2%)、ヒンズー教10億2千万(13.7%)、仏教5億2千万(7%)。一神教信仰の割合は世界人口の半数を超えている(ゼカリヤの時代には全世界のほとんどは多神教だった)。

 

⇒ ただし、「平和の種」が本当に世界に広がっているかは検討の余地がある。キリスト教一神教が世界に広がったとは言っても、形式的な生命のない信仰に堕してしまっている場合も多い。無教会主義こそ日本に芽生えた天来の「平和の種」であり芽であり、今後世界に育て、広げることが望まれる。

 

※ この第八章までで、ゼカリヤ書の前半部分は終わりである。第九章から第十四章は、ゼカリヤ本人の預言だとすれば、このあと四十年ほど経ってからなされた預言だと推測される(別人の預言だとする「第二ゼカリヤ」説もある)。

第九章から十四章は、非常に具体的なメシア預言がなされる。

 

Ⅴ、平和の種について (ゼカリヤ書8章12節)  

    

・ゼカリヤ書8章12節は一種のメシア預言と考えられる。

 

岩波訳:「平和の種〔が蒔かれ〕、/葡萄の木はその実を結ばせる。/大地はその作物をもたらし/天はその露を降らせる。/わたしは、この民の残りの者たちに、/これらすべてのものを、/受け継がせる。」

 

※「種」も「ぶどうの木」も、新約聖書において、イエスのたとえ話に登場。

 

◇ 平和の種:ゼラ・ハッシャローム。平和・平安の種・子孫。神と人との間の平和の種子(原因)と考えれば、神の言葉・神の国のこと、キリストのこと。

 

※ 平和ヘブライ語「シャローム」。単なる争いのない状態ではなく、完全、安全、幸福の充満の意味を含む(『聖書思想事典』)。

平和とは、ゼカリヤ書においても、正義に基づく(7章・8章)、城壁のない・非武装・非暴力のもの(2章)であり、罪が神の贖いによってなくなっている状態(3章)、神の意志と一致した平和(6章)。

新約聖書においてパウロは、キリストの贖いによって人は罪を処分し神との間に平和を得ることができると説いた。

 

※ 種新約聖書には、いくつかの種のたとえがある。

 

① 種まきのたとえ マルコ4:1-7、および同4:13-20 ルカ、マタイ

 

種=神の言葉。

 

四種類の人。聞くだけの人。聞いても一過性の熱で終わる人。この世の心配や富や快楽に妨げられる人。全身全霊をもって神の言葉を愛し、神の言葉をよく守る人。

② 成長する種のたとえ マルコ4:26-30

種がおのずと成長するように、神の国は成長する。神の力、神の育て。

 

③ からし種のたとえ マルコ4:30-32 マタイ、ルカ

神の国はとても小さなものから、大きく育つ。

 

⇒ 種は神の言葉・神の国、さらに言えばイエス・キリスト御自身であり、その生涯と死と復活。このキリストの種を心にいただくことで、私たちは永遠のいのちを得、復活の希望と喜びにあずかる。(Ⅰコリ15:36-44。種は死と復活のたとえでもある。ヨハネ12:24 一粒の麦の譬え)

 私たちは聖書の言葉=平和の種をよく学び、よく聞いて守る(種まきのたとえの第四番目の種類の人)時によく収穫を得ることができる。また、そこに神の力・神の育てが働き、小さな信仰や小さな存在も、おのずと大きなものへと育てられる。

 

・私たちは蒔いたものを刈り取る。

 

ガラテヤ6:7-9「思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。/自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。」

 

Ⅱコリ9:6「つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。」

 

⇒ ゆえに、聖書の言葉を自分の心に蒔く努力と、他の人々にも蒔く努力をすべき。ただし、それを育てるのは、②の成長する種のたとえにあるように、あくまで神の力・神の育て。

 

⇒ 神に信頼し、あまり結果を期待せず、せっせと種を蒔くことが重要。

 

コヘレト11:3「風を見守る人は種を蒔けない。/雲を見る人は刈り入れができない。」

 

コヘレト11:6「朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな。/うまくいくのはあれなのか、これなのか/あるいは、そのいずれもなのか/あなたは知らないからである。」 

 

⇒ キリストへの真実の信仰を持つ人は、キリストの贖いによって神との間に平和を得ている。そのような人は、他の人との関係にも平和をもたらす。

 

ヤコブ3:8「義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。」

 

◇ ぶどうの木:キリスト=ぶどうの木(ヨハネ15:1-17)。

 

キリストというぶどうの木につながって、はじめて枝である人は実を結ぶことができる。

大切なことは神の愛に「留まる」(メノー)こと。

人間の側がなすべき努力は、ただ神の愛に留まることのみ。

神の愛に留まり、神の命じるとおりに隣人を愛する時に、私の人生は実り豊かなものになる。

 

天の露:神の恵みのこと。神が与える命のこと。

 

cf.ホセア14:6「私はイスラエルにとって露のようになる。/彼は百合のように花を咲かせ/レバノン杉のようにその根を下ろす。」

cf.創世記27:28、申命記32:2、同33:28、イザヤ26:19

 

⇒ 平和の種を自分の心や人々に蒔き続け、神の愛に留まる人には、天の露・神の恵みがそそがれ続ける。

 

残りの者:平和の種・ぶどうの木に留まること・天の露は「残りの者」が受け継ぐ。

ゼカリヤの時代においては「残りの者」とはバビロン捕囚から生き残った者。

新約の光に照らせば、信仰を持つ者。

全ての人が神の愛の対象であるが、実際に救われるのは「残りの者」で相対的に少数者。

 

  1. ミカ5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ハガイ1:12、イザヤ28:5

 

ロマ11:5 塚本虎二訳「だから、同じように今の世にも、恩恵の選びによる残りの者がある。」

 

⇒ 残りの者は神の恩恵の選びによる。神の恩恵による選びのありがたさ。

 

※ 上記のことは全て神からの一方的な恵み。

 

Ⅵ、おわりに  

 

ゼカリヤ書八章から考えたこと

 

・神の一方的な恩恵のありがたさ。

 

・また、神の恩恵によって得た平和の種(平和の福音(塚本訳「使徒のはたらき」10:36))を、自分の心に蒔き続け、大切に守り、また他の人にも蒔き続けることの大切さ。

 

・あまり結果は期待せず、神の力と神の育てに信頼して、平和の種を蒔き続けると、天の露・恵みに遇うのではないかと思われる。

 

・イエスや、その周辺のほんの小さな最初の集いが、今や全世界にキリストを信じる人々に育っていることへの改めての驚き。

 

・平和の種とは、第一義的には福音のことであるが、日本に特殊な文脈でやや応用して言えば、戦後の平和主義や憲法九条とも受けとめることができると思う。いかに日本における平和の種を大事に守り、育み、伝えていくか。

 

 

「参考文献」

 

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)など。

・『塚本虎二著作集 第三巻』

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数