ゼカリヤ書 資料(9)

 

『ゼカリヤ書(9)断食と社会正義 ―その行いは神のためか』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、断食についての問答

Ⅲ、社会正義と神の審判

Ⅳ、断食について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    (左図:ベテル  右図:バビロン捕囚)

 

・前回までのまとめ:ゼカリヤ書=捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言。第六章までに八つの幻を通じて神の愛や働きが告げられ、そのうえでメシア(若枝)と祭司の意志が一致し平和となり、祭司(ヨシュア。新約から見れば万人祭司の予表)が戴冠させられることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は七章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ることおよび八つの幻 (第一章~第六章前半)

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)

☆真実と正義の勧め① 断食と社会正義(第七章) ⇒ ※ 今回

真実の正義の勧め② 神による救済 

 

□ 第七章の構成 

 

第一部 断食についての問答 (7:1~7:7)

第二部 社会正義と神の審判 (7:8~7:14)

 

 第七章では、断食が誰のために行うものであるか、さらには本当に神が喜ぶ宗教的行為とは何であるかが問われ、神から離れ社会正義に大きく背いていた南ユダ王国がそれゆえに滅亡したことが記される。

まず前半の第一部では、断食についてベテルからの使いが質問し、それに対してゼカリヤを通じて神が答えることが描かれる。

次に、後半の第二部では、多くの預言者を通じてかつて告げられた社会正義を、再度ゼカリヤを通じて神が告げる。この神の意志に背いていたために神の審判が行われユダヤが滅亡し離散したことが告げられる。

 

Ⅱ、断食についての問答 (7:1~7:7) (旧約1462頁)

 

◇ 7:1  預言の日時

 

ダレイオス王の治世第四年:紀元前518年。第一章の預言から二年が経過。

第九の月、キスレウの月の四日:現暦では12月7日。キスレウの月は太陽暦の11月―12月に相当し、ハヌカ祭が行われる月。

主の言葉がゼカリヤに臨んだ:聖書は神の言葉。無限に深い。

 

◇ 7:2 ベテルからの問い

 

ベテル:エルサレムの北16キロの場所(聖書巻末地図③参照)。「神の家」という意味の地名。ヤコブエサウを逃れていく時に天に達する階段の夢を見た場所(創世記28:10-22)、のちに神の命により祭壇を築いた(創世記35:1-15)。預言者サムエルが巡回する地の一つでもあった(サムエル記上7:16)。のちに北イスラエル王国のヤラベアム王が黄金の子牛を置き、偶像崇拝の中心地となった。アモスと対立した祭司アマツヤの拠点でもあり、アモス・ホセア・エレミヤらからベテルを中心とする誤った信仰や祭儀のあり方は批判された。捕囚解放後も重要な宗教的拠点として存在していたようである。

 

サル・エツェル:サルは「将軍」、エツェルは「宝物」の意味。人名。将軍エツェルという意味か。

レゲム・メレク:人名。レゲムは「友人」という意味。「王の友人」という称号だという説もある。

 

※ ベテルからサル・エツェルとレゲム・メレクとその従者が派遣された。七十人訳は、ダレイオス王がこれらの人々をベテルに派遣した、となっている。

⇒ ベテルの祭司たちがエレサレム神殿にいるゼカリヤたちに神の意向を尋ねるために使者を派遣したという意味か。(七十人訳であれば、ダレイオス王あるいはペルシア帝国の行政官が、エルサレムにいるゼカリヤたちに神の意向を尋ねるためにこれらの人々を派遣したということになる)。

 

◇ 7:3 第五の月の断食を継続すべきかについての問い

 

祭司たちと預言者たち:大勢、複数の人々が再建中のエレサレム神殿におり、その人々に使者は尋ねた。が、答えたのはゼカリヤ。常に神の言葉を預かるのは一人ないし極めて少数の人々。

 

第五の月:アブの月。太陽暦7-8月。紀元前586年の第五の月の7日に、バビロンの軍勢によってエルサレムが陥落した(列王記下25:8)。

 

※ 長年行ってきたようにこれからも断食すべきか?

⇒ この問いの背後には、もう十分に断食による悔い改めや償いは行ったという気持ちや、すでに紀元前538年にバビロン捕囚から解放されて二十年が経過し、エルサレム神殿も順調に再建され(この二年後に完成)、もはや断食は不要ではないかという考えがあったと思われる。しかし、なお神の怒りへの恐怖や危惧があり、神の意向を預言者に問おうとしたということと思われる。

 

◇ 7:4 主の言葉が臨んだ

 

ゼカリヤに神の言葉が臨んだ。聖書は神の言葉。神は問えば、なんらかの形で(預言者を通じて、聖書を通じてetc.)必ず答えてくださる。

 

◇ 7:5  七十年の断食とその内実についての問い

 

第七の月:ティシュリーの月。太陽暦だと9-10月。ユダヤ暦だと、この第七の月の最初の日が新年となり、ロシュハシャナーという正月が祝われる。また、この月の10日がヨム・キプール(大贖罪日)であり、一日間断食をする日となっている(レビ記16:29、同23:26-32)。15-21日は仮庵の祭りが行われる。

また、同月3日はバビロン陥落直後に総督ゲダルヤが暗殺されたことを記念し断食する日となっている(エレミヤ41:18、列王記下25:25)。

 

※ つまり、エルサレムがバビロンによって陥落した歴史を嘆く断食と、ゲダルヤの断食あるいはヨム・キプールの断食を5月と7月に行い、七十年間嘆いてきたが、の意味。

 

七十年間:エレミヤが預言したバビロン捕囚の期間(エレミヤ25:11-12、同29:10、歴代誌下36:21)。ゼカリヤ書1:12にもミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使いが、もう七十年も憤っておられます、と神に言っている。

 

バビロン捕囚(第二次)=紀元前587年。神殿再建の完成=紀元前516年。

(第一次バビロン捕囚=紀元前597年。ハガイやゼカリヤに預言が臨んで神殿再建に再び立ち上がった年=紀元前520年。)

 

※ 本当に神のために断食したのか? ⇒ 断食については第三節で考察

 

⇒ 神を思わず、ただ形式的に断食をしても、意味がないのではないか?

 

◇ 7:6  断食や飲食が神のためか自分のためか

 

岩波訳:「まことにあなたがたは食べて飲むが、あなたがたが食べて、飲んでいるだけではないか」。

 

⇒ 主のために断食したり飲食すること、主のために生きることが重要なのに、そうではなく、自分のために断食などの宗教的行事を行ったり、飲食したり、自分のために生きても、それは本当の宗教とは無関係。(参照ロマ14:6)。

 

※ もともと、ヨム・キプールの断食や、安息日の仕事の禁止も、神に心を向け、神との対話の時間を過ごすためだった。形式的に断食や宗教的行為を行ったり、自分のためにそれらを行っても、神は少しも評価しない。

 

⇒ 神のためか?自分のためか?

⇒ あらゆる宗教的行為や、もっと言えば人生の生き方や行いのひとつひとつが、神を向いているのか、神のためか、それとも自分を向いていて、自分の利益や欲望のためか。

(c.f. 日本の民間信仰の「断ち物」。願掛けのための酒断ち、タバコ断ちなど。)(c.f. ルター『キリスト者の自由について』26節、自分自身のための行いは信仰で十分、その他の行いは自由な愛をもって隣人に仕えるためにある。)

 

◇ 7:7 平穏な時にすでに呼びかけられていた神の言葉

 

ネゲブ:「南」という意味。南のユダの荒野地帯の呼称。(c.f.詩編126:4)

シェフェラ:「低地」。中央山地と対比し、山のすそ野から海岸平野にかけての地域の呼称(参照:オバデヤ19。⇒ネゲブはエドムと隣接地域、シェフェラはペリシテと隣接地域)。

⇒ エルサレムの首都周辺も、そこから遠い国境地帯も、どちらにも人が多く住んでいたかつての平穏な時に、神が預言者を通して呼びかけた言葉が、以下の言葉。

 

:断食という宗教的行為も、形式だけでは意味をなさず、動機が自分のためであれば神は喜ばない。断食・宗教的行為が神のため、神に向かうものであるかどうかが重要であり、神が人に問う最も肝要なポイントである。

 

 

Ⅲ、神が告げる義と審判 (7:8~7:14) (旧約1463頁)

 

◇ 7:8   神の言葉がゼカリヤに臨んだ

 

⇒ かつての預言者たちを通じて伝えられた内容と同様の神の言葉が、あらためてゼカリヤにも臨んだ。以下は神の言葉であり、無限に深い意味がある。

 

◇ 7:9   真実と慈しみ、公正と憐れみ

 

岩波訳:「万軍のヤハウェはこう言われた、/「公義と真実とをもって裁け、/お互いに相手に、慈しみと憐れみによって、/業をなせ。」

 

公正:「ミシュパト」(正義)

真実:「エメット」(誠実、忠実)

慈しみ:「ヘセッド」(恵み、愛情、誠実)

憐れみ:「ラハム」(ラハミーム) 「ラヘム」(子宮)と同じ語源で、母親が胎内の子どもを慈しみ憐れむように神が人を憐れむ気持ち。転じて人と人との間にも期待されている心。

 

※ 神は真実と慈しみの方。参照:詩篇117:2

 

※ 繰り返し、預言者を通じて語られた神のメッセージ。

 

アモス書5章 貧しい人々を踏みつけにすることを批判し、「善を求めよ、悪を求めるな」と告げ、宗教的儀式ではなく、社会正義を求めている。

アモス5:24「公正を水のように/正義を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」

 

・ミカ書3章、6章 公正を強調し、貧しい人々を抑圧する支配者たちを批判。

ミカ6:8「人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」

 

・ホセア6:6「私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。/神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない。」

 

イザヤ1:17「善を行うことを学べ。/公正を追い求め、虐げられた者を救い/孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ。」

 

エレミヤ22:3「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。」

 

※ 新約聖書でも慈しみ(ヘセッド)と真実(エメット)は、神の愛と信仰(アガペーとピスティス)として、繰り返し根幹をなすものとして語られる。

参照 ルカ3:11 ヨハネ、下着や食べ物を分かち合う勧め。

マルコ12:29-31 神を愛し、隣人を愛することが第一の戒め。他。

 

◇ 7:10 寡婦、孤児、寄留者、貧しい人々の保護

 

寡婦と孤児:古代世界では男性の働き手がいなくなると、生活が困窮し大変だったため、寡婦や孤児の保護が重視された。古代メソポタミアのシュメルの王ウルカギナの文書およびハムラビ法典において「寡婦と孤児」の保護が明記。

 

寄留者:一時滞在の外国人のこと。律法には、寡婦と孤児とともに、寄留者の権利の保護も繰り返し命じられている。寄留者の権利に対する深い関心と注意が、古代メソポタミア世界におけるイスラエルの独自性と特徴であり、背後に出エジプトの歴史的体験の真実性が想定される(参照:月本昭男先生の研究)。

 

出エジプト記22:20「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。」

出エジプト22:21「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。」

申命記24:17「あなたは、寄留者や孤児の権利を侵してはならない。寡婦の衣服を質に取ってはならない。」

申命記27:19「「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。」

・落穂ひろい:レビ記19:9-10、同23:22、申命記24:19-22

 

貧しい者:律法においては、貧しい者に対するさまざまな配慮がなされており、高利をとってはならないことや訴訟における公平な扱いや一定期間ごとの負債免除や、寛大な対応が命じられている(申命記15:7-11、出エジプト記23章他)。イザヤ、アモスらの預言者も、貧しい者への配慮を繰り返し伝えている。

 

※ お互い同士、心に悪を企んではならない

 

⇒ 弱い立場の人を搾取してはならない。騙してはならない。善意をもって、お互い助け合って生きることを神は人々に望んでいる。

 

cf.「母子及び父子並びに寡婦福祉法」(1964年制定(当時は母子福祉法)。寡婦支援や税額控除について定める。片山哲社会党、クリスチャン)らが中心となって法案作成)。

 ただし、欧米諸国に比べて、日本はシングルマザーに対する偏見が未だに存在し、働くための制度的支えや環境も整備されておらず、欧米諸国の方が補助金や支援金が充実しているという現状もしばしば指摘される。

 

cf.外国人について言えば、日本は近年大幅に外国人就労者・留学生の数が増えているものの、人権や受け入れ態勢が整わず、劣悪な環境で働いている人々もいる。日本における若い年齢の結核感染者は外国出身者がほとんどで、狭い部屋に大人数で劣悪な環境で住んでいることにより感染する場合も多い。

 

◇ 7:11-14 ユダ王国滅亡の原因と神の審判

 

・7:12 「心をダイヤモンドのように固くして」⇒岩波訳「彼らはその心を火打ち石のように頑なにして」

 

・上記の神のメッセージに聞き従わなかったことが、南ユダ王国滅亡とバビロン捕囚の原因だったことが語られる。

 

※ 参照:列王記では南ユダ王国滅亡の原因は、以下のように語られている。

列王記下24:2-3「ユダでこうしたことが起こったのは、まさに主の命令によるものであり、ご自分の前からユダを取り去るためであった。それはマナセの罪のためであり、彼の行ったすべてのことのためである。また無実の者の血を流し、エルサレムを無実の者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。」 

⇒ マナセの罪 列王記下21章 他の神々、偶像の崇拝。

⇒ 真実の神を信じず、偶像を崇拝し、隣人を虐げることは、一国の滅亡につながる。

 

※ 神の審判と、「国々に追い散らし」=離散(ディアスポラ)ということは、バビロンによる滅亡とバビロン捕囚の時にも実現した預言だったが、その後、イエスの死後間もない時に、再びユダヤ戦争においてローマ帝国の攻撃によってユダヤが滅亡し離散することによっても実現した。ゼカリヤのこの箇所は、ゼカリヤの時代においてすでに過去だったバビロン捕囚について述べているのと同時に、五百年後のユダヤ戦争における滅亡とディアスポラを預言している。

 

⇒ 日本は離散はないものの、かつて第二次大戦の敗戦を経験した(参照:秀村選三先生「私たちはかつて裁かれた、神の審判を受けた民だということを忘れてはならない」)。真の神を知らず、隣人を虐げた(寄留者の抑圧や虐殺など)。

 

c.f.太宰治パンドラの匣』:「わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。(略)日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ(略)日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」

 

 

Ⅳ、断食について 

 

「断食」:原語「ツム」。士師記20:26、サムエル記下12:16、エズラ8:21、ダニエル9:3、ヨナ書3:5、ヨエル書2:12などに神の前にへりくだるときに断食を行う記述あり。

レビ記16:29、同16:31にヨム・キプールに身をつつしむ記述があり、これは断食と理解されている。

 

一方、単なる形式的な断食を、神は喜ばないという記述もある。

 

エレミヤ14:12「彼らが断食しても、私は彼らの叫びを聞かない。焼き尽くすいけにえや穀物の供え物を献げても、私はそれらを受け入れない。私は剣と飢饉と疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」 (cf.アモス5:21-24)

 

イザヤ書58:6「私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。」 

⇒ 神が望む本当の宗教的行為(断食)は、隣人への正義・愛の実践。

 

エスも断食について、見せかけでは意味がないことを教えている。

マタイ6:16-18:「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。

あなたは、断食するとき、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 

cf.「微笑もて正義を為なせ!」(太宰治『正義と微笑』)

※ 神は形式的な断食や深刻な顔をした断食を喜ばない。隣人への正義や愛の実践と、明るく楽しく生きることをこそ望んでいる。

 

☆ ただし、ゼカリヤ書7章においては、神が問題にしているのは社会正義の行いの実践だけではない。一見そのようにも読めるが、すでに見たようにそもそも断食についての質問に対し、神のためにその行いをなしているかを問われている。これは何を意味しているのか? 

 

□ そもそも、ゼカリヤ書7:5-6では、断食の行為そのものよりも、その行為が神を向いているかどうかを問題としている。

⇒ 断食についての問答と社会正義についてのメッセージはどう結びついているか? (もし律法を守れというこであれば、単純に断食し、そして社会正義を守りなさい、と言うはず)。

 

⇒ 神への愛や神との結びつきを喪失した結果が、隣人との愛や社会正義の喪失だったことを指摘していると受けとめるべきではないか?

 

☆ 参照:塚本虎二『キリスト教十講』第十講「信仰と愛」

⇒ 道徳的手段をもって道徳的完成をめざしたユダヤ教は失敗した。キリスト教は信仰教である。しかし、まことの生きた信仰は必ず愛の実を結ぶ。

・「全身全霊を神にゆだねてその御心のままに生きるものが、神の愛の流れとともにながれて愛に生きることは当然の自明の理」。

・信仰なくして愛はない。愛の実を結ばぬ信仰はありえない。

・神への絶対信頼 ⇒ 隣人愛 (← これが南ユダ王国になかった。捕囚後もない。)

 

※ マナセや南ユダ王国は神への絶対信頼がなかった。その結果、偶像崇拝に走り、隣人への正義や愛を喪失した。根本的には信仰の喪失が問題であり、社会正義の喪失はその結果である。捕囚期間後の宗教も結局形式的で、根本は変っていない。そのことへの批判が、ゼカリヤ七章のメッセージ。

 

☆ 参照:塚本虎二「聖書の要約」

⇒ アダムの堕罪以来、人間が神との全き関係を喪失しているため、律法を守れず、隣人への愛や社会正義も失われていった。

⇒ バビロン捕囚は、ユダヤ人(および人類)は道徳的努力によっては律法を守れないということの歴史上の証明。

⇒ この律法と罪の問題は、キリストの十字架よる解決しかない。

⇒ キリストの十字架によって神との関係を回復し、神への絶対信頼(信仰)を持った時に、はじめて隣人への愛や社会正義もおのずと行われる。(ゼカリヤ書7章の真意はそこにある。ゼカリヤ書にはメシア預言も多く含まれる。)

⇒ 第八章では神の側からの一方的な救済が説かれる。(行いではなく信仰のみ)

 

Ⅴ、おわりに  

ゼカリヤ書七章から考えたこと

 

・自分の思いや行いが、神に向かっているかどうかが重要であること。もし神に向かっていないのであれば、立派な行いをしていても神の目からは無意味。

 

・現代における新自由主義や弱肉強食は、根底には神を向かず、信仰を喪失したことの結果と考えられる。その行為や生き方が神を向いているかについて問い、悔い改めて神に向かう信仰を得ない限り、問題は根本的には解決しない。

 

・断食や苦行よりも、神への愛と隣人への愛が一番重要である。

 

・公正・真実・慈しみ・憐みが、はたして現代の社会にどこまで重視されているか。寡婦、孤児、寄留者、貧しい人々が、はたしてきちんと十分に大切にされているか、あらためて考えさせられた。

 

・おそらく、信仰のみと言って社会正義を重視しない宗教も、まず第一に信仰を重視せずに社会正義ばかりに走る宗教も、どちらも誤りではないか。

神の愛に絶対的に信頼する信仰が根本で、神の愛に繰り返し聖書の学びや祈りを通して触れることが大切であり、そうしていれば、おのずと公正や真実や慈しみや憐れみを生き方として求め、寡婦、孤児、寄留者、貧しい人々に配慮することにつながると思われる。聖書の学びと社会正義の実践とは、前者を順序として第一にするが、後者も車の両輪なのだと思われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)など。

・『塚本虎二著作集続 第二巻』

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数